こんにちは。
大自然の摂理によって,もたらされることに不必要在庫の調整と云うものがあるのではないかと想像しております。
それはどういうことかと申しますと人は多くのものを持ち過ぎると一定のところで手放さなくてはならないものが出来てくると云うことであります。たとえばよく,運気の良い人が一転して置かれている状況が悪くなってしまった。こんな話を世間では聞くことがあります。実際に,私もそう云った御方が知り合いにおります。そのような状況に陥ってしまうと経済的にも精神的にも大変厳しい状態になってしまいます。しかしながら,そう言った厳しい不遇の時に去るものは,本来,その人にとって必要ではなかったものであり,又,与えられた役割を終えたが故に去るものであると云うことです。それは人でもモノでも言えるのかも知れません。
社会での成功者が一転して貧困になってしまうことがありますが,そのような不遇な状況に陥ったときに一番先に去るものはこれまで仲良く親しくしていた「人」であると聞くことがよくあります。それまで自分を慕ってくれていた人々が次から次へと自分のまわりから去って行ってしまったり,急に掌を返すような人も社会には現実に存在します。そう云った時の辛さや悔しさは言葉では言い表すことのできないことであると思います。金の切れ目が縁の切れ目と云う言葉も残っているくらいですから真理であります。
日本の言い伝えは本当に直球ど真ん中の言葉が多いですね。
そう云った厳しい環境に立たされた時にこそ自分自身を省みることが出来るように思います。これまでの自分の人生を振り返り,原点(中心)に回帰することで,さらなる飛躍が待っているのではないでしょうか?刀折れ矢も尽きた状態からの自分こそ本当の自分であると言い換えることもできるようです。何をやっても上手く行き,調子も良く絶好調のときに人は誰であっても傲慢になり過ぎてしまいます。これは人間の性(サガ)でもあるようです。そのような観点で観て見ると誰であっても例外なく同じであります。
人は多くのものを欲しがります。人よりも多くの財「お金やモノ」を持つことで安心すると錯覚を起こしてしまいます。しかしながら,本当に人よりも多くの財を得ることで安心することが出来るのか?と云うと決してそんなことはないようです。財を得れば,次は得た財を失うことへの恐怖心が芽生えてしまうからです。恐怖心は,さらに財を得ることへの執着心を産み出し,自分の我欲を強めて行きます。したがいまして,私たちが考えている財を得ると云う概念と安心感とは全く別なものであると云うことが言えます。
誰であってもそんなに大差はないのではないかと思いますが,やはり持ち過ぎると云うことには注意が必要な気もします。何かを得れば,何かを失うという言葉は個人的に好きな言葉ではありませんが,もしかすると,私自身がこの言葉に込められている奥を観れていないだけかもしれません。本当の幸福感や安心感は,手放すことからはじまり,手放す勇気と固執しない大切さを知ったときなのかも知れないと感じています。自我は真我に付き従うと云うことが大自然の摂理であるのです。摂理に反すれば滅びる訳です。
心柱(みはしら)神社を穢し,心神(しんしん)を傷つけることのないようにしましょう。
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太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。
私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。
又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。
それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。
菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。
わたし達の心の中には根源神の分魂が内在しています。高天原は,わたし達の心の中に存在します。
心柱神社 心神とともに。花咲あさひ 拝