こんにちは。上の写真は,静岡県の海岸で撮影させて頂いた早朝の太陽神で御座います。
昨日,無事に春の祖霊感謝祭を終えることが出来ました。今日,氏神さまへ無事に祭祀が終了したことを報告して来たいと思っています。やはり,氏神さまに始まり,氏神さまで終わるは祭祀の基本です。又,次の祖霊感謝祭は,一年の中でも最も大事な夏の祖霊大感謝祭「お盆」です。それまで通常の祭祀に戻ります。私たちの国「日本」には,祭祀文化と言っても良いくらいの古来より脈々と続けられて来た独特な祭祀形態が存在します。しかも,その祭祀形態は,年万年と云う途方もない年月を経て脈々と継承され続けて来ています。これは本当に凄いことだと思っています。絶えることのない祭祀が何故,何万年も継続されて来たのでしょうか。
一言で言えば,本当に大切なものは目には見えないからと言えます。しかし,ちょっと変な気もします。なぜならば,普段のわたし達は,目に見えるモノこそ信用し,何ら疑うことなく信頼して生活をしているのに,なぜ目には見えない,耳にも聞こえない存在に対し祈り,たとえば,祖霊祭祀がこれほど永く続いているのか?です。皆さま不思議に思いませんでしょうか?目に見えるから,耳で聞こえるから信用する。又は,信頼すると云うのは単なる幻想的なのかも知れません。そうでないと理屈で説明が付きません。
それもその筈なのであります。祭祀は理屈では説明が出来ないものですし,目には見えない,耳にも聞こえてこないからこそ大切であるからです。つまり,極端な言い方をあえてするならば,理屈は相手を説得する学問であります。相手を説得するとは,相手は説明があってはじめて理解することになります。相手の説明によって「説得される」訳です。まさに政治の世界や法律の世界はこれです。説明する内容「理屈」に説得力があればそれで良いのです。しかし,これが実はくせ者の正体でもあるのであります。
これは,私の個人的な考えと発想ですが,悪魔の正体とは理屈にあると私は感じています。だからこそ理屈を使いこなせつことが大事なんだと云う考えを持っています。要は,理屈に支配されてしまうと心身ともに穢れがついてしまいます。祭祀の中心に存在する天皇陛下が君臨すれども統治せずに徹しなければならない理由もここにあるのです。祭祀に穢れは厳禁であるからです。それを何を勘違いしてしまっているのか解かりませんが,祭祀を法や法律と云う理屈で縛り付けているのですから恐れ多いものです。
話しがいつもの様にそれてしまいましたが,目には見えない,耳にも聞こえない存在に祈りを奉げると云う行為そのものは理屈ではないのであります。極端ですが,いくら祈り続けても自分の願いが叶うなんて保障も約束もありません。それでも祈り続けると云うのは,人には心が存在するからこそなのです。自分自身の心に坐します神さまの大切な分け御魂が存在しているから,わたし達は先祖の御霊を供養したいと云う理屈を超えた慈悲の心の働きと祖先の遺伝子の働きがあるからこそ信用するとか,信頼するとかと云った屁理屈ではなく祈り続けて来たのではないでしょうか。しかも何万年もの長い永い歳月を経ていまも祈り続けているのです。
祈れば何か良いことがあるとか云うのは,祈りではなく単なる取引です。その取引心もちゃんと神さま,御先祖さまに届いてしまいます。それよりも自分の願い事があっても人の為に祈り続け,祖霊の御霊を供養し続ける人を神さまがほっておく筈がないのです。世間で言われる運の良い人とは,神さまに自分の願望を叶えて貰うと云う発想をしない人が多いのです。これマジ話です。素直な心で感謝を奉げることが出来れば,あとはカムナガラ「神人合一」であります。ただ大自然と自分自身が繋がるだけであるのです。
祭祀は理屈を超越しますので,理屈が祭祀の上位に位置することはあり得ません。
理屈に騙されないようにいたしましょう。拝
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太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。
私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。
又,人はそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。
それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。
そしてまた日本人の本当の性質を勇気を以て再び伝え広めて行きたいです。
そのことが日本を取り戻し,日本人としての誇りを取り戻す真の意味だと考えます。
観世音菩薩とともに。花咲あさひ 拝