「南至投馬国 水行二十日」「南至邪馬台国 女王之所都 水行十日 陸行一月」
この文章は大きな難関です。文章そのままに向かえば海のかなた、どこへも着きません。
この「水行二十日」「水行十日 陸行一月」は不彌国や伊都国からではなく、帯方郡からだという説をとったとしましょう。
帯方郡はソウル付近であったとする学者の方が多いようですが、比定地は確定はしていません。
まずは投馬国・・・
文面をそのまま考えるに投馬国は津に面していて、帯方郡から水行のみで行くことができる場所となります。
水行二十日のうち三日間は、狗邪韓国・対馬・壱岐・末慮国間の渡海に費やされたことでしょう。
帯方郡から狗邪韓国の「水行七〇〇〇余里」に7日間を使ったとしたら、投馬国は残りの水行10日で行くことができる場所のはずです。
このヒントだけでは「投馬国は内陸部ではなさそうだぞ」と思うだけで、どこかに特定するなんて私には無理というものです。
邪馬台国・・・
帯方郡から邪馬台国までは1万2000里で、帯方郡から不彌国までにすでに1万700里、費やしています。
単純計算で、不彌国から邪馬台国までは残り1300里となります。
前述のとおり水行十日は末慮国までに使い果たしてしまうのであれば、邪馬台国は倭国上陸後 一月で「陸行」できる場所、言い換えれば水行できない地にあることになります。
「水行二十日」「水行十日 陸行一月」を帯方郡からと捉えると、投馬国は海岸線にあり、邪馬台国は内陸部にあると考えられます。
かつ投馬国には水行、邪馬台国へは陸行なので、同じ南へ行くにしても別ルートのはずだと思います。
さて陸行の日数が大問題です。一月も歩くとなると邪馬台国は北部九州では有り得なくなります。
南九州でも日数が多すぎるように感じますが。
南へ1カ月陸行するとなると、宮崎でしょうか。西都原、いや、より古い生目古墳群あたりなのでしょうか。
宮崎南端の串間市からは、古代中国で王侯級の人物しか受領できない謎の「玉璧」が出土していますし。
あるいは鹿児島なのでしょうか。そういえば霧島市に全国唯一の卑弥呼神社がありましたね(この地区に卑弥呼が居城をもっていた説の人が建立したようです)。
どのルートをとるにしても陸行一月を文字通りに理解するなら、邪馬台国は宮崎か鹿児島だと思えます。
どちらかが邪馬台国で、もう一方が狗奴国…。
しかしここで「いや、それはないんじゃないか」と思ってしまうのです。
宮崎や鹿児島は、北部九州中心の青銅器文化圏には加わらなかったと考えられているではありませんか。
邪馬台国と北部九州の文化が一致している必要はないと思うのですが、少なくとも伊都国には邪馬台国の強い影響があって然りでは。
伊都国は代々女王国に属し、一大率が常駐しているのですから。
では邪馬台国よ、いずこに?