私は魏の使者は卑弥呼に会わなかったと考えています。
そして卑弥呼に会わなかった理由は「遠かったから」が一番しっくりくると感じています。
初夏に倭国にやって来て、遠い邪馬台国まで行っていたなら冬になってしまう。海が荒れて帰れなくなってしまうから行かなかったのだと言われるのが、私には一番納得がいくのです。
巫覡王たる卑弥呼はともかく政務を取り仕切ったであろう「男弟」、魏の使者双方とも、会えるものなら会いたかったのではないでしょうか。
初夏に来訪し、冬が来る前に帰ることができる距離に「私の」邪馬台国はありません。
奴国や不彌国の副官が卑奴母離(ひなもり)といい、一大率が中国の地方行政官である刺史に例えられることも気になるところです。
もちろん、ヒナが現在の雛=都から離れた土地を意味するとは限りません。
最近の考古学的見地から、当時、奈良は纏向に連合国家が生まれていたと考えられます。
「中央」「地方」の意識も生まれていたことでしょう。
どうも北部九州が邪馬台国から離れた「地方」にあるように思えてなりません。
邪馬台国は7万戸だと魏志倭人伝は記します。
戸数は誇張表現としても、魏志韓伝において馬韓は総計10万余戸、弁韓と辰韓合わせて4~5万戸と書かれています。
三韓の戸数と比べて、末慮国から邪馬台国までの合わせて14万6千戸超が、北部九州のみで収まるとも思えません。
南部九州も含め、九州全体でみると戸数的にはいい感じになるのでしょうか。
となると邪馬台国は南九州?
すると、纏向にできた連合国家から外された九州連合=邪馬台国連合が危機感を抱き、大国魏に助力を求めたというところなのでしょうか。
しかし周旋五千余里を「一周すると五千余里」と解釈し、短里を採るならば北部九州のみで邪馬台国連合全てがおさまるのが妥当ですよね。
それとも、周旋五千余里は「巡り歩くこと五千余里」と解釈すべきなのでしょうか。
北部九州に邪馬台国があったなら「旁国」とはどのあたりのことを言っているのでしょうか。
土器の動き一つをみても、当時の人々は相当離れた距離を当たり前に行き来していそうです。
「遠く離れていて詳らかにすることはできない」場所って、どれだけ離れた場所?
う~ん(((+_+))
解釈次第でどうとでも取れるから、邪馬台国の比定地は日本全国あちこちに(海外までも)あるんですね…。堂々巡りです。