古代四方山話

古代について日頃疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに綴ってみたいと思っています

邪馬台国を考える  纏向に向かってみる①

2020-09-08 11:13:39 | 歴史

邪馬台国の所在地は周知のとおり主に九州説と畿内説に分かれます。

中でも近年、畿内・纏向説はもうここで決まりかぐらいの勢いです。

しかし、魏志倭人伝の記述に沿うならば、纏向にたどり着くのはなかなか困難です。

当時の魏の人々は日本列島を南北に広がると認識していたとか、東と南の字は似ているので書き写し間違えたとかの説をとり、まずは「南」へ向かうと記された方向を「東」に変えないと始まりません。

 

さて北部九州を出発するにあたり、最終地の不彌国はどこにしましょうか。

ここは思い切って、福岡平野を無視してしまいましょう。

魏の使者の上陸地は神湊とします。

 ・北九州市に陸行し、名門大洋フェリーよろしく大阪南港方面へ向かってもらう

 ・直方、田川を抜け行橋方面に陸行し、瀬戸内海を進む

 ・高木彬光氏の「邪馬台国の秘密」の国々を行き、その先の国東半島から瀬戸内海へむかう

といった感じでしょうか。

 

不彌国の津で魏の使者が「ここから投馬国や邪馬台国へどうやって行くのか」と尋ねます。

「ここからは舟で陸地に沿って瀬戸内海を進んでいきます」と現地の人は答えます。

魏の使者の認識では日本列島は南北に連なっているものなので、ここから「南」へ舟で向かうのだと使者は理解した、

あるいは、不彌国の津で現地の人が「あっちへ進む」と「南」を指差しました。

不彌国からまずは一旦南に行ったことが、水行全てが南へ進むことに解釈されてしまった、

そのようなやり取りを想像して、瀬戸内海を「東」に向かって水行してみます。

 

瀬戸内海を水行二十日となると、どこまで行けるのでしょうね。

投馬国は吉備でしょうか。

国東半島から佐田岬経由で四国側を行くなら、投馬国は讃岐でしょうか。

邪馬台国までには投馬国一国だけしか記載されていませんので、どちらかを無視しなければならないのであれば、讃岐を無視して投馬国は吉備でしょうか。

だいたい何で一国しか書かれていないのでしょう。

いっそ、邪馬台国7万戸に次ぐ大国となれば瀬戸内海を挟んで両岸ともが投馬国にしてしまいましょうか。

桃太郎のモデルとされる吉備津彦の姉、倭迹迹日百襲姫は讃岐に足跡を残し、讃岐一宮田村神社に祀られていますし。

今でも同じ県内なのに、地域によって風習が異なっていくことなんてよくあることです。

投馬国の吉備地方、投馬国の讃岐地方。ダメですか?