仮に投馬国を吉備と比定して吉備から水行十日、陸行1月でたどり着く地はどこなのか、これがわかりません。
しかし奈良ではなかろうと思うのです。
水行十日で大阪湾まで行けたとしましょう。
そこから奈良へ陸行1カ月?
使節団は不彌国か伊都国かまでしか行っていないと考えますので、使節団はゆっくり進むから短い距離でも1カ月かかったのだ等の意見は受け入れられません。
北部九州の現地人が水行十日、陸行1月と説明したのでしょうから、現地倭人が行き来をする場合の日数だと考えます。
投馬国まで水行し、投馬国から水行十日した後にわざわざ舟をおりて陸行したのだとすると、邪馬台国は水行では近くまで行けない内陸部だと思われます。
当時の奈良を内陸部といえるかどうかは別としても、奈良では近すぎます。
因みに東大阪市の日下から奈良・纏向までを地図アプリで調べてみると、現在であれば徒歩10時間3分だそう。
そもそも日本列島の中でもよりの津から陸行1月かかる地って存在するのでしょうか。
水行十日、陸行1月を「水行するなら十日、陸行するなら1月」と読むべきなのでしょうか。
この説だと邪馬台国は、投馬国から水行だけでも到着できる地にあることになります。
当時の大阪は現在の平野部がほぼ湾だったようで、纏向遺跡の中の幅5メートル程の2本の水路は大和川を通じて大阪湾まで繋がっていたと考えられています。
よし、これだと水行だけで吉備から纏向に向かえそうです。この説のほうが自然です。
でもそうすると、吉備から歩くと1カ月と併記される理由が不明なんですよね。
古代日本の表玄関、日本海沿岸から纏向に向かってみるとどうなるでしょう。
出雲の投馬国から十日で丹後半島に舟を付け、陸行で纏向へ向かうルートでしょうか。
丹後半島ではなく敦賀まで舟で行きたいところですが、北部九州~出雲の距離感を考えると敦賀までもは遠すぎるように思います。
しかし、日本海ルートをとるとますます末慮国上陸の意図が不明ですね。
邪馬台国北部九州説であれば倭国は九州のみ。纏向連合は日本(ひのもと)でしょうか。
邪馬台国畿内・纏向説では西は九州から、東は少なくとも東海・北陸までの広範囲が倭国になることでしょう。
北部九州説と畿内・纏向説では「倭国」のスケール感が全然違ってくることに今更ながらに驚きます。