魏志倭人伝には「男子無大小皆黥面文身」という一文があります。
この大小については大人も子供もと訳されることもありますが、通過儀礼として入れ墨が施されることを考えると「身分の差なく男は皆、顔と体に入れ墨をしている」と訳すほうが自然かと考えます。
この描写が魏志倭人伝にあるということは、北部九州において当時、黥面文身の習慣があったことは間違いありません。
北部九州の宗像は「胸形」や「胸肩」と表記されることもあり、胸などに特徴的な入れ墨を入れていたから宗像という名となったと言われます。
(私は宗像はヌナカタだと思っていますが)
対して畿内からは黥面絵画を施された土偶がほぼ出土しないことから、2~4世紀の近畿では黥面の習慣はなかったと考えられています。
日本書記においても、初代神武天皇の皇后となる畿内出身と思われる伊須気余理比売が、天皇の家来である大久米命の入れ墨をした鋭い目を不思議に思うシーンが描かれています。
黥面絵画は、2~4世紀の岡山県の平野部・香川県海岸部・愛知県と岐阜県の境目あたりと安城市付近の濃尾平野から集中して出土しています。
東海は纏向遺跡の外来土器の半数近くを占める地域です。
また吉備は特殊器台の存在などから纏向を主導したと考えられている地域です。
外来のメインであったと考えられる東海や吉備は黥面の習慣があったにもかかわらず、纏向では黥面の習慣が引き継がれなかったのは何故なのでしょうか。
黥面文身は氏族によって模様が異なっていたようです。
連合国家であるなら、むしろ出身地を表す黥面は重要なように思えるのですが。
黥面なんて一度施すと取ることができず、纏向に集まった一世たちの顔には黥面が施されていたはずです。
かと言って黥面の習慣を持たなかった近畿のクニが発展して、纏向を主導・建設したとも考えにくいところです。
畿内の弥生時代にそれだけの権力があったとは、今のところ考えられていません。
個人的には唐古・鍵遺跡などは、立派な集落だったように思いますが。
畿内は鉄を入手できていない後進地域といわれており、そんな地域が連合国家をつくろうと音頭をとったとて、他のクニが企画にのってくれるでしょうか。
纏向を主導したクニはどこなのでしょうか。
纏向には渡来人もいたようですし国際的に蛮族とみなされないように、皆で相談して2世からは黥面文身の慣習を止めた?
前方後円墳などという、大陸にはない墓制を考えだす人たちが??