もし邪馬台国が纏向にあったとするなら、狗奴国は東海だとは考えられません。
纏向遺跡から出土する外来土器の半数弱を東海の土器が占めています。
東海は纏向遺跡誕生に深く関わっていたことでしょう。敵対勢力ではあり得ません。
すると纏向が邪馬台国なら狗奴国は関東でしょうか。
纏向を邪馬台国と考えると、九州から東海までの広域での連合国家が卑弥呼の時代に既に誕生していたことになります。
国内だけではありません。
纏向遺跡からは、ベニバナやバジルの花粉が出土しています。
日本には自生しない植物なので、染織など当時の最新技術を持つ渡来人とともに伝来したと見られています。
正史たる日本書紀に邪馬台国や卑弥呼のことは書かれていません。
これはヤマト政権の系譜に邪馬台国や卑弥呼は存在しないということなのでしょうか。
倭の五王のことも日本書紀には書かれていませんが。
いや卑弥呼は天照大神として登場している、倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)こそが卑弥呼である、神功皇后が卑弥呼である等の説もあります。
数ある「卑弥呼候補」の中で、倭迹迹日百襲姫は纏向の箸墓古墳に眠っておいでだと考えらえています。宮内庁により箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫の大市墓に治定されています。
倭迹迹日百襲姫は第7代孝霊天皇の一皇女に過ぎません。
大物主との神婚譚などの話が載っているものの、特別な功績が記されているわけでもありません。
ところが倭迹迹日百襲姫の墓とされる古墳は,ずば抜けて特殊です。
全国に広がる定型化した出現期古墳の先駆けであり、出現期の古墳としては巨大です。
箸墓古墳は埴輪の形式や放射性炭素年代測定により、3世紀半ばの240年~260年頃に造られた可能性がでてきました。
夜は神が造ったという箸墓古墳、ますます卑弥呼の墓っぽくなってきました。
纏向は邪馬台国、倭迹迹日百襲姫が卑弥呼なのでしょうか。
それならなぜ記紀はそう書かなかったのでしょうか。
倭迹迹日百襲姫が卑弥呼ならば、崇神朝に狗奴国との抗争の様子も書かれていません。
また、箸墓古墳には今のところ殉葬の様子はうかがえません。
何より纏向を邪馬台国とするには「女王国の東、海を渡ること千余里、復た国有り、皆倭種なり」の部分が致命的に無理ですよね…。
列島内きっての都市であろう纏向遺跡が卑弥呼の都か否か、生きているうちに決着をみるのかなぁ。
長生きしないといけません。