古代四方山話

古代について日頃疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに綴ってみたいと思っています

信越を邪馬台国に比定してみる②

2020-09-18 10:17:09 | 歴史

どうも日本書紀は(というか 藤原氏は でしょうか)蘇我氏や尾張氏の実績を消してしまいたかったようです。

となると日本書紀に邪馬台国が記されていないのも、蘇我氏や尾張氏の関係かと勘繰りたくなります。

 

蘇我氏は曽我遺跡において玉造りを一手に担っていたと考えられています。

曽我遺跡に埋蔵されている石の数は億、勾玉・管玉完成品は1300万個という膨大な量です。玉素材には翡翠もたくさん含まれています。

蘇我氏の出自は確として判明していませんが、玉造りを一手に握り、継体天皇を支えた一族ですので越の国と関係がある氏族に違いありません。

日本書紀が消したかった蘇我氏も尾張氏も、越の国の関係者だと思われます。

越の邪馬台国が蘇我氏や尾張氏と関係してくるから、邪馬台国を日本書紀に載せなかったのでは。

八幡平のインパクトには負けますが、新潟には「胎内」という意味深な地名もあります。(胎内川は①鯛の川、②体の無い川、③アイヌ語からの地名だという説があるようです)

 

長野県にもヤマタノオロチ伝説があります。

長野県佐久市にある山田神社に蛇石さんと呼ばれる石が鎮祭されています。

昔スサノオがヤマタノオロチを退治したとき、大蛇の魂が鳥となって飛んできて大きな石に魂が宿ったという話が語り継がれてきたそうです。

越と信濃は土器の行き来をみても繋がりが深く、越のみならず縄文時代の首都たる信濃も含めた信越一帯が邪馬台国だと考えてみたいと思います。

 

 縄文の先進地 信濃を母体として、越・出雲・北部九州は日本海ネットワークを通じて邪馬台国連合を築いていた。

 卑弥呼が居城を構えたのは、どこかの津から陸行しないと行くことができない内陸部=信濃だった。

 陸行に一カ月もかけさせたのは、後の千国街道「塩の道」を通らせたくなかったから。つまりヌナカワ、翡翠の産地を守るため。

 鏡の出土数が少ないのは、卑弥呼は別に鏡なんて好きでもなんでもなかった、

 「好き物をあげるから配って魏の国が卑弥呼を慈しんでいることを国中の人に示せ」と言われたから、そのとおり鏡はみな、くれてやった。

 方角の違いや距離等については畿内説をそのまま使用する・・・

 

そういえば卑弥呼が亡くなった248年の日蝕は、北関東から能登半島において観測されたという説がありますね。

私は生粋の科学音痴のため、真偽はわかりかねますが。

 

伊都国に信越の影響を見出したいと思って探してみたら、ありました。

糸島市のホームページには

「平原1号墓の東側には直径70センチメートルの大柱が立てられていました。この柱は長さが20メートルにも及ぶと推定される巨大なものです。

この柱は長野県の諏訪大社の御柱と同じ方法で立てられてたことがわかっています」

と記載されています。

信仰という重大な面でも、北部九州と諏訪の繋がりを見いだせそうです。

敗者がやたらと諏訪に逃げ込むのは、かつての宗主国を頼りにしたからなのでしょうか。

 

高田崇史氏の小説の愛読者として、ここはQEDと言いたいところですか、残念ながら証明できてませんね(^_^;)

「私の邪馬台国」が信越で決まったわけではありません。

これからもずっと、きっと生涯、邪馬台国探しは続きます。。。

 

 

 


邪馬台国はどこですか?  信越を邪馬台国に比定してみる①

2020-09-16 18:38:56 | 歴史

「邪馬台国はどこですか?」鯨統一郎氏の小説を読んだときは、正に目から鱗が落ちました。

それまで邪馬台国は九州か、大和なのか一体どちらなのだろうと考えていました。

そのどちらでもない選択肢があるなんて!

私は日本書紀に邪馬台国や卑弥呼の記載がないのは、邪馬台国たる証拠の品「親魏倭王」の印をヤマト政権が手に入れられなかったからではないかと疑っています。

証拠の印が手元にありさえすれば、たとえヤマトが邪馬台国でなかろうとも邪馬台国だと主張しそうです、ヤマト政権は。

邪馬台国が九州からヤマトへ東遷していたり、ヤマト政権が邪馬台国を侵略支配するにいたっていたりすると、印はヤマト政権が所持していたはず。

となると、ヤマト政権の支配下になかった地方に邪馬台国はあったのかも、と思うのです。

邪馬台国東北説、非常に魅力的です。

 

邪馬台国は解釈次第でどこへでも比定できてしまいます。

九州なのか、大和なのか、はたまた違う地にあるのか、今のところ私には全くわかりません。

そこで今回はいっそ、自分が今、邪馬台国とは全く関係なく気になっている地域を邪馬台国に仕立て上げることができるのか、挑戦してみようかと思います。

 

突然ながら、ヤマタノオロチは邪馬台国とは関係しないでしょうか。

ヤマタノオロチ=邪馬台の大蛇では?

 

古事記においてヤマタノオロチは「高志」だとはっきり書かれています。

ヤマタノオロチの体内から出た剣は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)です。三種の神器の一つで草薙剣とも呼ばれます。

尾張氏によって熱田神宮で祀られてきた剣ですが、この尾張氏の系譜に「天村雲命」(あめのむらくものみこと)なる人物が存在します。

越国の開拓神として越後国一宮彌彦神社に祀られる尾張氏の始祖神・天香語山命の子神が天村雲命です。

天村雲命が使っていた剣なのか、霊剣に因んで付けられた名前なのか、いずれにせよきっと天叢雲剣と関連がある人物だと思われます。

天村雲命は越後と関係する人物です。

ヤマタノオロチの高志とは現出雲市の古志のことだとする説もありますが、私は「越」の国だと思っています。

きっと、ヤマタノオロチは越の国の大蛇です。

ヤマタノオロチの尾から出た天叢雲剣が三種神器の一つとなったのは、邪馬台国の神宝だったから?

 

日本書記は神功紀に「魏志倭人伝」からの引用をして、神功皇后が邪馬台国の卑弥呼であるような、ほのめかしをしています。

また神功皇后が越(敦賀)に滞在中に九州で熊襲が背き、皇后は日本海を、夫である仲哀天皇は瀬戸内海を西へ進み関門海峡の手前で落ち合ったという記述があります。

卑弥呼であるような、そうではないような神功皇后を「越」から出発させたのは、卑弥呼であるなら邪馬台国たる越にいるべきだったからではないでしょうか。

また後の世に王統が途切れかけた際「越」で育った継体天皇が担ぎ出されたのも、王たるものはかつての宗主国「越」から出すのが多くの人の理解を得る方法だったのではないかと考えます。

神功皇后で言えば、子の応神天皇の「八幡」も「やまた」の訛りでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 


邪馬台国を考える  邪馬台国は纏向ですか②

2020-09-14 10:45:47 | 歴史

もし邪馬台国が纏向にあったとするなら、狗奴国は東海だとは考えられません。

纏向遺跡から出土する外来土器の半数弱を東海の土器が占めています。

東海は纏向遺跡誕生に深く関わっていたことでしょう。敵対勢力ではあり得ません。

すると纏向が邪馬台国なら狗奴国は関東でしょうか。

纏向を邪馬台国と考えると、九州から東海までの広域での連合国家が卑弥呼の時代に既に誕生していたことになります。

 

国内だけではありません。

纏向遺跡からは、ベニバナやバジルの花粉が出土しています。

日本には自生しない植物なので、染織など当時の最新技術を持つ渡来人とともに伝来したと見られています。

 

正史たる日本書紀に邪馬台国や卑弥呼のことは書かれていません。

これはヤマト政権の系譜に邪馬台国や卑弥呼は存在しないということなのでしょうか。

倭の五王のことも日本書紀には書かれていませんが。

いや卑弥呼は天照大神として登場している、倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)こそが卑弥呼である、神功皇后が卑弥呼である等の説もあります。

 

数ある「卑弥呼候補」の中で、倭迹迹日百襲姫は纏向の箸墓古墳に眠っておいでだと考えらえています。宮内庁により箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫の大市墓に治定されています。

倭迹迹日百襲姫は第7代孝霊天皇の一皇女に過ぎません。

大物主との神婚譚などの話が載っているものの、特別な功績が記されているわけでもありません。

ところが倭迹迹日百襲姫の墓とされる古墳は,ずば抜けて特殊です。

全国に広がる定型化した出現期古墳の先駆けであり、出現期の古墳としては巨大です。

箸墓古墳は埴輪の形式や放射性炭素年代測定により、3世紀半ばの240年~260年頃に造られた可能性がでてきました。

夜は神が造ったという箸墓古墳、ますます卑弥呼の墓っぽくなってきました。

纏向は邪馬台国、倭迹迹日百襲姫が卑弥呼なのでしょうか。

それならなぜ記紀はそう書かなかったのでしょうか。

倭迹迹日百襲姫が卑弥呼ならば、崇神朝に狗奴国との抗争の様子も書かれていません。

また、箸墓古墳には今のところ殉葬の様子はうかがえません。

何より纏向を邪馬台国とするには「女王国の東、海を渡ること千余里、復た国有り、皆倭種なり」の部分が致命的に無理ですよね…。

 

列島内きっての都市であろう纏向遺跡が卑弥呼の都か否か、生きているうちに決着をみるのかなぁ。

長生きしないといけません。

 

 

 

 

 


邪馬台国を考える  邪馬台国は纏向ですか①

2020-09-12 10:32:41 | 歴史

2世紀の終わりなのか、はたまた3世紀の初め頃なのか、奈良の三輪山の麓に纏向遺跡が突然誕生します。

最大をとれば東西2キロ、南北2キロと後の時代の藤原宮や平城京と遜色ない規模です。

他地域からの搬入土器の出土比率が15%前後あり、その範囲は九州から関東まで広範囲にわたります。

農耕具がほとんど出土せず、土木工事用の工具が圧倒的に多いなど、他の遺跡とは様子が異なっており、政治・宗教に特化された列島最初の「都市」を作ったのが纏向遺跡だと言われています。

 

纏向遺跡のもっとも重要な要素は、前方後円墳が全国に先駆けて造られたことでしょう。

各地の墓制を取り入れ発展させたのが前方後円墳だとされ「ヤマト王権」のシンボルとなっています。

一番古い、いわゆる纏向型前方後円墳でさえ北部九州から東京湾岸まで伝わっていると言われます。

纏向のものがもっとも巨大であり、他地域のものはその2分の1や3分の1のサイズとなっており「ヤマト」という「中央」とそれ以外の「地方」という関係性ができていると考えられます。

纏向遺跡の大型建物跡の土坑から出土した桃の種を放射性炭素年代測定したところ、135年から230年という結果が出ており、纏向遺跡は邪馬台国・卑弥呼の時代から存在した可能性が高くなりました。

しかし放射性炭素年代測定を疑問視する向きもあり、4世紀中ごろの遺跡とみる意見もあります。

 

纏向遺跡が卑弥呼の時代に存在していたからといって、それがイコール纏向遺跡が邪馬台国だとはなりません。

邪馬台国が国内で一番の国だったとは限らないのです。

 

纏向=「ヤマト」の誕生に北部九州が参画していたか否かは重要な問題です。

ほとんどの人は不彌国までは北部九州に比定していますから、その北部九州が纏向に参画していたか否かは邪馬台国問題を左右します。

しかし「関わっていた」「関わっていなかった」いずれの意見もあります。

搬入土器から関係性を見ると

 纏向に北部九州の影響は「ほとんどない」

古墳に鏡・玉類・武器がセットとして副葬され、水銀朱を棺に大量に布く方法が採用されていることから関係性を見ると

 纏向に北九州の影響は「色濃くある」

さて私はどちらの意見をとればいいのでしょう?

 

前原市の御道山古墳は箸墓より古いらしいですし、ホケノ山などの人によっては古墳と認めない初期古墳からすでに鏡などが副葬されており、北部九州も纏向に加わっていたと考えるほうが無理がないような。

でも博多の那珂八幡古墳は以前は纏向型だと思われていたのに「北部九州独自」の形状って言われているし、どうなんでしょう。

古墳に北部九州の影響があるのに、纏向遺跡には参画していないなんてあります?

「鏡等の副葬って格好いいな」と勝手に真似したことになるのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 


邪馬台国を考える  纏向に向かってみる②

2020-09-10 11:37:47 | 歴史

仮に投馬国を吉備と比定して吉備から水行十日、陸行1月でたどり着く地はどこなのか、これがわかりません。

しかし奈良ではなかろうと思うのです。

水行十日で大阪湾まで行けたとしましょう。

そこから奈良へ陸行1カ月?

使節団は不彌国か伊都国かまでしか行っていないと考えますので、使節団はゆっくり進むから短い距離でも1カ月かかったのだ等の意見は受け入れられません。

北部九州の現地人が水行十日、陸行1月と説明したのでしょうから、現地倭人が行き来をする場合の日数だと考えます。

 

投馬国まで水行し、投馬国から水行十日した後にわざわざ舟をおりて陸行したのだとすると、邪馬台国は水行では近くまで行けない内陸部だと思われます。

当時の奈良を内陸部といえるかどうかは別としても、奈良では近すぎます。

因みに東大阪市の日下から奈良・纏向までを地図アプリで調べてみると、現在であれば徒歩10時間3分だそう。

そもそも日本列島の中でもよりの津から陸行1月かかる地って存在するのでしょうか。

 

水行十日、陸行1月を「水行するなら十日、陸行するなら1月」と読むべきなのでしょうか。

この説だと邪馬台国は、投馬国から水行だけでも到着できる地にあることになります。

当時の大阪は現在の平野部がほぼ湾だったようで、纏向遺跡の中の幅5メートル程の2本の水路は大和川を通じて大阪湾まで繋がっていたと考えられています。

よし、これだと水行だけで吉備から纏向に向かえそうです。この説のほうが自然です。

でもそうすると、吉備から歩くと1カ月と併記される理由が不明なんですよね。

 

古代日本の表玄関、日本海沿岸から纏向に向かってみるとどうなるでしょう。

出雲の投馬国から十日で丹後半島に舟を付け、陸行で纏向へ向かうルートでしょうか。

丹後半島ではなく敦賀まで舟で行きたいところですが、北部九州~出雲の距離感を考えると敦賀までもは遠すぎるように思います。

しかし、日本海ルートをとるとますます末慮国上陸の意図が不明ですね。

 

邪馬台国北部九州説であれば倭国は九州のみ。纏向連合は日本(ひのもと)でしょうか。

邪馬台国畿内・纏向説では西は九州から、東は少なくとも東海・北陸までの広範囲が倭国になることでしょう。

北部九州説と畿内・纏向説では「倭国」のスケール感が全然違ってくることに今更ながらに驚きます。