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芥川龍之介「運命は、その人の性格の中にある」

2014年04月27日 | おせわがかり日誌


運命は、その人の性格の中にある 芥川龍之介

人は性格に合ったような事件にしか出くわさない 小林秀雄





もう20年近く前に読んだに違いない、

吉本ばななさんの小説集「とかげ」の中で、

どの小説だったか忘れてしまったが、こどものころ、

両親が離婚の危機にあり、その危機の原因というのが、

父にほかに好きな女性ができてしまって、

その女性をあきらめるために、父はその後、骨董に没頭した、

というくだりがあって、ああ、誰かそんな人いたな、誰だっけ?

という謎が時々よみがえってループするのだけど、思い出した思い出した。

小林秀雄さんだった。



あれは白洲正子さんの随筆に、

むーちゃんという女性に夢中になった男性たちの話があり、

小林さんも夢中になりかけたのを骨董に没頭することで、回避した。

それはどうやら家庭を守るという意味のほかに、

より夢中になっていた親友に女を譲る、という意味があったようだ。

ああそうだ。

小林秀雄といえば、中原中也とも女を取り合い、そして捨てた。

その小林の娘を息子の嫁に迎えた白洲正子が、

自らの随筆の中で、内輪の人間の色恋沙汰を書き連ねるのだから不思議だが、

これはおそらく、ほかの人間の(悪意に染まった)手によって、

面白おかしく書かれることで、小林の仕事やら業績やら何やらが、

すべてひっくるめて水泡に帰すのを惜しんでのこと、と勝手に理解している。

なぜなら、正子の夫、風の男白洲次郎は小林の親友であったし、

正子自身も小林の友人青山二郎の門下生であり、仲間であった。





なんていうあやふやな思い出話を言うつもりは毛頭なくて、そうそう。

生きた時代は少し違うが、私の好きな作家である芥川龍之介と、

彼自身のことは好きではないが、何かしら、好きな作家のそばをうろうろしている小林秀雄、

この二人の天才と秀才が、そろって言う言葉が、同じようなことを指していて、面白い。





運命は偶然よりも必然である。
「運命は性格の中にある」といふ言葉は
けっして等閑(なおざり)に生まれたものではない

芥川龍之介





芥川の言葉のそれは誰のことをさしているのか。

今となっては茫漠としていて謎である。

彼が刺激を受けた人物、あるいは、敵対していた森鴎外か。

誰なのかはっきりしない。

小林のそれはもしかすると青山二郎のことかしれないし、

中原のことかもしれないし、むうちゃんのことかもしれない。

ああ白洲次郎という線もある。正子も同様。





「会いたい人は誰ですか?」という質問をあちこちで見かける。

私の場合、もっとも会いたい人は、生きている人ではなく、

芥川龍之介であったり、鹿島屋清兵衛であったり、もっと古いと、

織田信長であったり、額田王であったり、聖徳太子であったり、

卑弥呼であったり、鬼籍も鬼籍、とうに砂になっている人たちばかりだ。

生きている人を馬鹿にしているのではないが、

この世にいない人にはどうしても解けない謎がある。

それらを聞いてみたい。




ちなみに織田信長に聞いてみたいのは、

今の日本を見ていてどう思うか、もしあの時死ななければ、

日本をどのように作っていったのか、で、ある。

聖徳太子も同様だ。




芥川龍之介には、あのあとも長く生きていたら、

何を書きたかったのか、それを聞いてみたい。