古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

古事記の用字、「中」と「内」をめぐって

2018年08月01日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 記の「中」・「内」の用字法において、固有名詞では「中」と「内」は明らかに峻別されている。

 「中」…天御中主神、中津綿津見神、中筒之男命(中筒男)、胸形之中津宮、倭田中直、葦原中国、中臣連、田中臣、剣池之中岡、大中津日子命、須売伊呂大中日子王、帯中津日子命、息長真若中比売、大中比売命(大中津比売命)、中日売命、額田大中日子命、忍坂大中比売、田井之中比売、田宮之中比売、中日子王、忍坂之大中津比売命、墨江之中津王、墨江中王、田井中比売、橘之中比売命、春日中若子、中津王、科長中陵
 「内」…凡川内国造、内色許男命、内色許売命、河内青玉、味師内宿禰、建内宿禰(建内宿禰命)、河内(川内)、川内之若子比売

 「中」はナカ、「内」はウチ、チと訓む。両者の間で言葉が交わることはない。太安万侶はそういう文字意識を持っている。ヤマトコトバでナカとウチとは類似しているかもしれないが別の言葉として確立していた。
 岩波古語辞典に次のようにある。上代の例の載る意のみ抜き書きする。

なか【中】《古くはナだけで中の意。カはアリカ・スミカのカと同じで、地点、所の意。原義は層をなすもの、並立するもの、長さのあるものなどを三つに分け、その両端ではない中間にあたる所の意。空間的には上下、左右、または前後の中間。時間的な経過についてはその途中、最中。さらに使い方が平面的なとらえ方にも広まり、一定の区域や範囲の内側、物の内部の意をも表わすに至って、ウチと意味が接近してくる》❶《空間的に》①(上中下の)中。「上()つ枝は天を覆()へり。中つ枝は東(あづま)を覆へり。下()づ枝は鄙(ひな)を覆へり」〈記歌謡一〇〇〉……②両端でない所。真中。「三枝(さきくさ)の中にを寝むと」〈万九〇四〉③物と物との間。中間。「海神(わたつみ)は奇(くす)しきものか、淡路島中に立て置きて、白波を伊予に廻らし」〈万三八八〉。「安の河中に隔てて」〈万四一二五〉……⑤半分。「其の〔墓ノ〕外の域(めぐり)は方五尋(いつひろ)高さ二尋半(ふたひろなか)」〈紀孝徳、大化二年〉❷《時間的に》①はじめと終りとの中間。「さ夜深けて夜中の方(かた)におぼぼしく呼びし舟人泊()てにけむかも」〈万一二二五〉……②途中。中途。「言(こと)出しは誰が言なるか小山田の苗代水の〔ヨウニ〕中淀にして」〈万七七六〉……❹《抽象的に》①多くの同類のうちの一つ。「わご大君の敷きませる国の中には都し思ほゆ」〈万三二九〉……③(二人の)間。「わが中の生れ出でたる白玉の吾が子古日(ふるひ)は」〈万九〇四〉(966~967頁、「─」部には相当する「中」字を当てはめた)(注1)
うち【内】《古形ウツ(内)の転。自分を中心にして、自分に親近な区域として、十分から或る距離のところを心理的に仕切った線の手前。また、囲って覆いをした部分。そこは、人に見せず立ち入らせず、その人が自由に動ける領域で、その線の向うの、疎遠と認める区域とは全然別の取り扱いをする。はじめ場所についていい、後に時間や数量についても使うように広まった。ウチは、中心となる人の力で包み込んでいる範囲、という気持が強く、類義語ナカ(中)が、単に上中下の中を意味して、物と物とに挟まれている間のところを指したのと相違していた。古くは「と(外)」と対して使い、中世以後「そと」また「ほか」と対する》①《空間・平面について》㋑仕切った線の手前。囲いをした中。「大宮の内にも外()にも光るまで降れる白雪見れどあかぬかも〈万三九二六〉。「内はほらほら、外はすぶすぶ」〈記神代〉……②……㋺範囲内。以内。「遠くあらば七日の内は過ぎめやも」〈万四〇一一〉(166頁、「─」部には相当する「内」字を当てはめた)

 上代において、ウチは境界のに対して内側のことをいい、ナカは二つのものの間にあることをいう。仮に、「川中」と「川内」という語を想定すれば、川の水のなかは「川中かはのなか・かはなか」であり、川を境界として仕切られた内側の土地のことは「川内かはのうち・かふち」ということになるだろう。太安万侶の言葉の感覚と文字意識において、固有名詞にはっきりとナカとウチとを区別しているのだから、普通名詞に使う際にも、「中」はナカ、「内」はウチと区別しているという仮説が立てられる。以下検証するにあたり、新編全集本古事記で用例を拾うと次のようなものがある。「中」をナカ、「内」をウチと訓むことが多く、「中」をウチ、アタルと訓む例も散見される。

 「中」の例
或一句之中交用音訓或一事之内全以訓録 るは一句ひとことばうちに、こゑよみとをまじもちゐつ。るは一事ひとことうちに、またよみもちしるしつ(序)
中巻 なかまき(序)
其石置中 いはなかき(上)
中瀬 なか(上)
於中滌時 なかすすぎし時に(上)
各随依賜之命所知看之中 おのおのたまひしみことまにまに知らしせるなかに(上)
各中置天安河而 おのおのあめやすかはなかに置きて(上)
此後所生五柱子之中 の、のちに生める五柱いつはしらなかに(上)
中枝 なか(上)
童女置中而泣 童女をとめなかに置きて泣けり(上)
切其中尾時 其のなかを切りし時に(上)
切伏大樹茹矢打立其木令入其中即打離其氷目矢而拷殺也 おほせ、めての木に打ち立て、其のうちに入らしめて、すなはち其の氷目矢ひめやを打ちはなちて、ち殺しき(上)
鳴鏑射入大野之中 鳴鏑かぶらおほなか射入いいれて(上)
於子之中 子のなかに(上)
不中天若日子 天若日子あめわかひこあたらずあれ(上)
皆仕奉白之中海鼠不白 皆「仕へ奉らむ」とまをなかに、海鼠まをさず(上)
限日而白之中一尋和邇白 日を限りてまをなかに、一尋ひとひろわにまをししく(上)
若度海中時 海中うみなかわたらむ時には(上)
伊須気余理比売在其中 伊須気余理比売いすけよりひめなかり(神武記)
三柱之中大倭日子鉏友命者治天下也 三柱のなかに、大倭日子鉏友命おほやまとひこすきとものみことは、あめしたをさめき(安寧記)
各中挟河而 おのおのなかかははさみて(崇神記)
雖射不得中 れども、つること得ず(崇神記)
選聚軍士中力士軽捷而 軍士いくさなか力士ちからひとかるはやきをあつめて(垂仁記)
火中所生故 火中ほなかめるがゆゑに(垂仁記)
肥河之中作黒樔橋 肥河ひのかはなかに、くろ樔橋すばしを作り(垂仁記)
同兄弟之中 おな兄弟はらからなかに(垂仁記)
在菅原之御立野中也 菅原すがはら御立野みたちのなかに在り(垂仁記)
并八十王之中 あはせて八十やそはしらみこなかに(景行記)
交立女人之中入坐其室内 女人をみななかまじちて、其のむろうちしき(景行記)
坐於己中而 おのなかいませて(景行記)
於此野中有大沼住是沼中之神甚道速振神也 の野のなかおほぬま有り。の沼のうちに住める神は、はなは道早振ちはやぶる神ぞ(景行記)
入海中 うみなからむ(景行記)
中其目乃打殺也 其のてて、すなはころしき(景行記)
是以知坐腹中国也(仲哀記) (新編では原文を意改しているため記さない)
坐其河中之礒 其の河中かはなかいそいまして(仲哀記)
自頂髪中採出設弦 頂髪たきふさなかよりまうけたるつるいだし(仲哀記)
此中大雀命者治天下也 此のなかに、大雀命おほさざきのみことは、あめしたをさめき(応神記)
打大坂道中之大石者 大坂おほさか道中みちなかおほいはを打てば(応神記)
塗其船中之簀椅設蹈応仆而 其の船のうち簀椅すばしり、むにたふるべくまうけて(応神記)
衣中服鎧 きぬうちよろひて(応神記)
渡到河中之時……墮入水中 河中かはなかに渡り到りし時に、……みづなかおとれき(応神記)
繋其衣中甲而訶和羅鳴 其のきぬうちよろひかかりて、かわらとりき(応神記)
入山谷之中 山谷たになかるに(応神記)
天皇登高山見四方之国詔之於国中烟不発国皆貧窮 天皇すめらみこと、高き山に登りて、四方よもくにを見て、のりたまひしく、「くにうちに、けぶりたず、くにみな貧窮まづし……」(仁徳記)
後見国中於国満烟 のちに、国のうちを見るに、国にけぶりちき(仁徳記)
天皇所使之妾者不得臨宮中 天皇すめらみことの使へるみめは、みやうちのぞむこと得ず(仁徳記)
跪于庭中時 庭中にはなかひざまづきし時に(仁徳記)
此九王之中穴穂命者治天下也 此の九はしらのみこなかに、穴穂命あなほのみことは天の下を治めき(允恭記)
衣中服甲 きぬうちよろひ(安康記)
此之中小長谷若雀命者治天下也 此のなかに、小長谷若雀命をはつせのわかさざきのみことは天の下を治めき(仁賢記)
此之中天国押波流岐広庭命者治天下 此のなかに、天国押波流岐広庭命あめくにおしはるきひろにはのみことは天の下を治めき(継体記)
此之中沼名倉太玉敷命者治天下 此のなか沼名倉太玉敷命ぬなくらおほたましきのみことは天の下を治めき(欽明記)

 「内」の例
或一句之中交用音訓或一事之内全以訓録 るは一句ひとことばうちに、こゑよみとをまじもちゐつ。るは一事ひとことうちに、またよみもちしるしつ(序)
還入其殿内之間 殿とのうちかへあひだ(上)
内抜天香山之真男鹿之肩抜而 あめ香山かぐやま真男鹿まをしかかたうつきにきて(上)
細開天石屋戸而内告者 あめ石屋いはやの戸をほそひらきて、うちらししく(上)
従此以内不得還入 これより以内うちかへり入ること得じ(上)
内者富良々々 うちはほらほら(上)
未開戸自内歌曰 いまだ戸をひらかずして、うちより歌ひてはく(上)
内剥鵝皮剥為衣服 かりかはうつぎにぎて衣服ころもて(上)
入其殿内 殿とのうちり(上)
即於内率入而 すなはうちりて(上)
一日之内送奉也 一日ひとひうちおくまつりき(上)
作大殿於其殿内作押機……作殿其内張押機 おほ殿とのを作り、其の殿のうち押機おしを作りて、……殿を作り、其のうち押機おしを張りて(神武記)
伊賀所作仕奉於大殿内者意礼先入 いが作りつかまつれる大殿おほとのうちには、おれ、づ入りて(神武記)
其伊須気余理比売参入宮内之時 其の伊須気余理比売いすけよりひめ、宮のうちりし時に(神武記)
交立女人之中入坐其室内 女人をみななかまじちて、其のむろうちしき(景行記)
銅其箭之内 うちあかがねにせり(允恭記)
以矛為杖臨其内詔 ほこもちつゑて、うちのぞみてのりたまひしく(安康記)
幸行河内爾登山上望国内者 河内かふち幸行いでましき。しかくして、やまうへに登りて国のうちのぞめば(雄略記)
仍召入宮内敦広慈賜 すなはち、宮のうちれて、あつく広くうつくしび賜ひき(顕宗記)

 「内」は必ずウチと訓んでいる。反対に、「中」を動詞のアタル(当)意以外に、ナカと訓まないでウチとする例が見られる。はなはだ疑わしい。以下それぞれ検討する。

 ○或一句之中交用音訓或一事之内全以訓録(序)
 「或一句」では「交用音訓」であり、「或一事」では「全以訓録」であるという。「音」と「訓」とが交じり合っているというのは、複数の記し方で記されていることを示している。これは、ナカという語の複数あるもののことを示していると考えられる。岩波古語辞典の「④《抽象的に》①多くの同類のうちの一つ。」の意である。「五柱子之中(五柱いつはしらなかに)」(上)と同種の用法であろう。したがって、「るは一句ひとつらなかに、こゑよみとをまじもちゐつ」と訓むのがふさわしいといえる。

 ○切伏大樹茹矢打立其木令入其中即打離其氷目矢而拷殺也(上)
 「氷目矢」ともいわれる楔を打ち込んで隙間を作り、「令入其中」ておいて楔を外してぺっしゃんこにして殺した、という記事である。木の洞のように穴になっていて側があるところは、「内者富良富良」(上)のようにウチであるが、楔を打ち込んだ木の隙間のところは半円と半円の木の間に当たる個所である。ナカと訓むほうがふさわしいと考える。万葉集に例を見る。

 遠近をちこちの 磯のなかなる〔礒中在〕 白玉を 人に知らえず 見むよしもがも(万1300)

 磯の大きな巌の間に白玉があると言っている。応神記に連続する例として、「山谷之中」、「山谷之間」という表記がなされており、同じ意味であると考えられる。すなわち、ウチなるところではなくて、アヒダ(間)に挟まって存在している。ナカに入れられていて、楔を外されたからアヒダがなくなり、ナカにあるものが潰されて殺されている。

 ○住是沼中之神(景行記)
 新編全集本古事記では、「この「中」は、内部の意でウチと訓む。」(225頁)とある。けれども、ヌマとは、沼の周囲に湿地性植物が生えていたり、ぬかるんだ泥質の土壌が広がっていて、どこからが沼なのかよくわからないものである。堤防が築かれて水が満ちているところはイケ(池)である。境目がはっきりしていないと内部か外部かわからない。それをあえてト(外)の対義語のウチと訓む理由はない。沼のなかに住んでいて、時には沼から出てきて悪さをする神をチハヤブルカミと言っているのであろう。ヌマノナカと訓むべきである。

 ○塗其船中之簀椅設蹈応仆而(応神記)
 船の内部に備え付けられた簀椅と考えてウチと訓むとするのであろうが、簀椅は取り外せるに違いない。「設蹈応仆而」と続くから、「簀椅」に安定性がなくてひっくり返るのであり、「なめ」ですべって転びそうになってバランスを回復しようと踏ん張ったときに、「簀椅」が外れて仆れる仕組みにしていたということである。船のなかに「簀椅」を持ち込んでいるのだから、ナカと訓むのがふさわしい。

 ○衣中服鎧(応神記)・繋其衣中甲而訶和羅鳴(応神記)・衣中服甲(安康記)
 これらはそれぞれ、防弾チョッキを内装している意ととって、「中」をウチと読んでいるようである。内側に隠してという印象をつけたいためであろう。しかし、「衣」とは身を包むもの全般をいう(注2)。肌着を着用したうえに甲(鎧)を着け、その上から上着を着て無防備を装ったと解するのが妥当であろう。上着と下着の間に着る、また、いろいろな衣のなかの一つとして甲(鎧)を着るということに当たり、その言い方としてはナカ(中)に着ていると示したいと考えられる。それは、「頂髪中」(仲哀記)とある個所を、「頂髪たきふさなか」と読んで違和感のないことに同じである。ナカに紛らせてという意味である。応神記の「繋其衣中甲而」で「中」をウチと訓んでしまうと、文章を次に続けていくことが難しい。状況は、水中に沈んだ死体を鉤で引っかけたときにカワラという音がしたという話である。衣の内側に着ている甲にかかる音がカワラというのだすると、とても理屈っぽい言い方である。溺死して流されて岩肌にこすれれば、甲を隠していた衣も破れることがあるだろう。川の中で水に揉まれ、甲の小札をつなぐ縅の紐と着衣とが一緒くたになっていたと見るのがふさわしい。複数のものの意でもあるから、ナカと訓むべきと考える。
鎧下着(茶麻地縞雲模様、江戸時代、19世紀、東博展示品)
 ○天皇登高山見四方之国詔之於国中烟不発国皆貧窮・後見国中於国満烟(仁徳記)
 これらを国のウチと訓むことに抵抗があるのは、「幸行河内爾登山上望国内者」(雄略記)を「河内に幸行しき。爾くして、山の上に登りて国のうちを望めば」と訓むことと背反するからである。幸行して峠に至って河内国の内側を望んでいる。今来た大和国のほうは見ていない。雄略記では、「国」が行政単位を指すクニのこととなっている(注3)。仁徳記で、「国中」をクニのウチとしてしまうと国の境の内側という意味になりかねない。その場合、仁徳朝は河内王朝だから河内国のことを指すことになってしまう。「天皇登高山見四方之国」の「四方よもの国」とは、多くの国々の意である。また、「国皆貧窮」とは、多くの国々がどこもかしこも皆貧しいということである。河内国でも大和国でも摂津国でも播磨国でも淡路国でも、いろいろなクニが見渡せるところすべてにおいて、烟が発っていなかったと言っている。「国中」はさまざまな国々のなかにという意味合いで、ナカと訓むべきと考える。「海中うみなか・わたなか」(上)、「火中ほなか」(垂仁記)、「野中ののなか」(景行記)、「庭中にはなか」(仁徳記)の「中」もナカと訓んでいる。「五柱子之中(五柱いつはしらなかに)」(上)と同じ発想でよいのであろう。

 ○天皇所使之妾者不得臨宮中(仁徳記)
 類似の例として、「宮の内に参ゐ入りし時」(神武記)、「仍りて宮の内に召し入れて」(顕宗記)がある。これらの「内」はウチと訓んで正しい。「宮内」は、その内部に入ることを言っており、囲いの内側へ入ることを指す。それは、「殿内」(記上、神武記)という記し方と同じである。神武記の例では、「殿内」に押機が設営されているのがバレて、自分で先に入ってみろという問答になっている。対して、「不得臨宮中」は内部に入ることがないばかりか見ることもできないという意である。戸を立てているわけではなく、いつでも入れるし見ることもできる状態なのであるが、大后おほきさき石之日売命いはのひめのみことの嫉妬が嫌だから臨むことができないでいる。新編全集本古事記に、「「臨」はここでは、様子をうかがう意。要するに、宮の中に近づくことができないということ。」(288頁)とあるが、説明に「宮の中」とする「中」は何と訓むのか示されていない。戸が開いていることは、次の文に、「言立者足母阿賀迦邇嫉妬(言立ことだつれば、足もあがかに嫉妬うはなりねたみしき。)」とあることから、戸を立てていないことがわかる。実際に内側に侵入することができないという単調な表現ではなく、ナカに視線を向けることさえ忌み憚られる事態になっていることの謂いである。

 ○是以知坐腹中国也(仲哀記)
 この文は古来、難訓とされる。稿を改めて論ずる(注4)

 以上から、記の「中」・「内」の用字法において、固有名詞ばかりでなく普通名詞においても、太安万侶は「中」と「内」を峻別して使っており、「中」はナカの意、「内」はウチの意で、そのように訓むべきことが解明された。

(注)
(注1)ナカ(中)はナ+カ(処)の意であるとされている。仮名遣いとして「中」をナと訓む例が日本書紀に見られる。

 大津おほつ渟中ぬなくら長峡ながを(神功紀元年二月)
 三国のさか中井なゐ 中、ここにはと云ふ。むかへて、……(継体前紀)
 渟中ぬな倉太珠敷尊くらのふとたましきのみこと(欽明紀十五年正月)
 あまの渟中ぬな 渟中、此には農難ぬなと云ふ。原瀛真人天皇はらおきのまひとのすめらみこと(天武前紀)

(注2)「衣」をキヌと訓むか、コロモと訓むか。岩波古語辞典に、「きぬ【衣】《絹の意。それゆえ、衣服の意の場合も、布地としての柔らかい感触、すれあう音などを、感覚的に賞美する気持で使われる傾向がある。類義語コロモは、モ(裳)が原義で、身をつつみまとうことに重点があり、衣服としての意味に重きを置いて使われる》」(376頁)とある。ここでは、キヌズレの音に関心があるのではなく、身をつつみまとうことに重点が置かれ、甲(鎧)を隠すことができている。したがって、コロモと訓むべきである。
(注3)成務紀五年九月条に、「則ち山河やまかはさかひて国県くにあがたを分ち、」とある。
(注4)拙稿「仲哀記の「是以知坐腹中国也」について」。

(引用文献)
岩波古語辞典 佐竹昭宏・前田金五郎・大野晋編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
新編全集本古事記 神野志隆光・山口佳紀校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。

※本稿は、2018年8月稿を、2024年2月に整理し、ルビ形式にしたものである。

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