古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

履中記、墨江中王の反乱譚における「当岐麻道」と記77歌謡について

2020年07月29日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 履中記の墨江中王の反乱譚における天皇の逃亡劇の後半に、倭への行路を迂回する話になっている。紀にも歌謡を伴って話が載るが、簡潔なる完成度は記に及ばない。

 故、大坂の山口に到り幸しし時に、一(ひとり)の女人(をみな)に遇ひき。其の女人の白(まを)ししく、「兵(つはもの)を持てる人等(ひとども)、多た玆の山を塞(ふさ)げり。当岐麻道(たぎまち)より廻(めぐ)りて越え幸すべし」とまをしき。爾に、天皇、歌ひて曰はく、
  大坂に 遇ふや娘子(をとめ)を 道問へば 直(ただ)には告(の)らず 当芸麻道(たぎまち)を告る(記77)
故、上り幸して、石上神宮(いそのかみのかみのみや)に坐しき。(履中記)
 爰(ここ)に仲皇子(なかつみこ)、事有らむことを畏(おそ)りて、太子(ひつぎのみこ)を殺(し)せむとす。密(ひそか)に兵(いくさ)を興して太子の宮を囲(かく)む。時に平群木菟宿祢(へぐりのつくのすくね)・物部大前宿祢(もののべのおほまへのすくね)・漢直(あやのあたひ)の祖(おや)阿知使主(あちのおみ)、三人(みたり)、太子に啓(まを)す。太子、信(う)けたまはず。一に云はく、太子酔(ゑ)ひて以ちて起きずといふ。故(かれ)、三人、太子を扶(たす)け、馬(みうま)に乗せて逃げぬ。一に云はく、大前宿祢、太子を抱(いだ)きて馬に乗すといふ。仲皇子、太子の在(ま)す所を知らずして、太子の宮を焚(や)く。通夜(よもすがら)、火滅(き)えず。 太子、河内国(かふちのくに)の埴生坂(はにふのさか)に到りて醒(さ)めぬ。難波(なには)を顧(かへり)み望(おせ)る。火の光を見(みそなは)して大(おほ)きに驚く。則ち急(すみやか)に馳せて、大坂(おほさか)より倭(やまと)に向(むか)ふ。飛鳥山(あすかのやま)に至りて、少女(をとめ)に山口(やまぐち)に遇ふ。問ひて曰(のたま)はく、「此の山に人有りや」とのたまふ。対(こた)へて曰(まを)さく、「兵(つはもの)を執(と)れる者(もの)多(さは)に山中(やまなか)に満(いは)めり。廻(めぐりかへ)りて当摩径(たぎまのみち)より踰(こ)えたまへ」とまをす。太子、是に以為(おもほ)さく、少女の言(こと)を聆(き)きて、難(わざはひ)に免(まぬか)るることを得とおもほす。則ち歌(みうたよみ)して曰はく、
  大坂に 遇ふや少女(をとめ)を 道問へば 直(ただ)には告(の)らず 当摩径(たぎまち)を告る(紀64)
則ち更に還(かへ)りて、当県(そのあがた)の兵(いくさ)を発(おこ)して、従身(みともにつか)へまつらしめて、龍田山(たつたのやま)より踰ゆ。……太子、便(すで)に石上(いそのかみ)の振神宮(ふるのかみのみや)に居(ま)します。(履中前紀)

 急いで逃げているのだから最短ルートで進もうとしていたところ、女人(少女)が現われて敵兵が潜んでいるから当岐麻道(当摩径)へ回るといいと教えてくれている。それを受けて、天皇は、歌を歌っている。「直(ただ)には告らず」とある点、新編全集本古事記に、「真っ直ぐに行く大坂越えの道は言わないで。」(309頁頭注)と解している(注1)。タダニという副詞は、時代別国語大辞典に、「①直接に。まっすぐに。……②直接に面と向かって。……③ただ。~ばかり。助詞ノミとの間に被修飾語をはさんで、前後から限定する。……④単に。下に否定の表現が続く。……」(420頁)とあり、本例は①の用例としてあげられている。下に否定のズがつづくから、④の意と解した方がわかりやすい。「直(ただ)には告らず」は、ただ単に告げるわけではない、というのが直叙的解釈である。そのうえで、まっすぐではない、の意を兼ねていると考えるべきであろう。結果、ほかでもない当岐麻道(当摩径)が宣告されている。タギマチとは、タギタギシという語が道が曲がりくねり、でこぼこして歩きにくいという意から、足がよくきかないという意まで含んでいる。曲がりくねっている点が、まっすぐではないの意を生かしている。当岐麻道(当摩径)は、悪路で疲れる道である。そこを行けと女人(少女)は言った。それに従ってあえて当岐麻道(当摩径)を行き、倭に入って石上神宮に御座している。
 接続詞に、「故」とある。上述の事柄ゆえ、以下のことと相成った、という接続を示していると考えられる(注2)。「当岐麻道」を進んだから、「石上神宮」におさまっている、と理解される。タギという語は、タギシ(激)、タギリ(滖)と同根の語で、水がわき立って激しく流れるところ、激流のことをいう(注3)

 石走(いはばし)る 滝(たぎ)もとどろに 鳴く蝉の 声をし聞けば 都し思ほゆ(万3617)
古(いにしへ)ゆ 人の言ひ来る 老人(おいひと)の 変若(を)つといふ水そ 名に負ふ滝の瀬(万1034)
…… 峯(を)の上の 桜の花は 滝の瀬ゆ 激(たぎ)ちて流る ……(万1751)
滝の上の 三船の山に 居(を)る雲の 常にあらむと 我が思はなくに(万242)
上代の「滝」((一社)長瀞町観光協会様「長瀞 舟下り」https://www.nagatoro.gr.jp/shisetsu/%E9%95%B7%E7%80%9E-%E8%88%9F%E4%B8%8B%E3%82%8A/)
 万1034番歌は、タギの瀬が早瀬であること、万1751番歌は、花筏の流れることを歌い、万242番歌は、タギが川のなかの激流であって、御船(みふね、または三つの船)が進みゆくことから形容されている。滝壺に船を浮かべる観光遊覧船が上代にあったことは知られない。
 そんな激流のタギが生まれるためには、雨がたくさん降らなければならない。タギになるのをマチ(待)なのは、雨の降ることを冀うしかないのである。神さまにお願いするためには神社へ行きたい。そして、フルとイソノカミの両語は縁が深い。枕詞になっている。
 「石上(いそのかみ、ソ・ミは甲類、ノは乙類) 振(ふる)」と続く例は次のとおりである。

 石上 振の山なる 杉群(すぎむら)の 思ひ過ぐべき 君にあらなくに(万422)
 石上 振の神杉 神びにし 吾や更々(さらさら) 恋にあひにける(万1927)
 石上 振の神杉 神さびて 恋をも我は 更にするかも(万2417)
 …… 磯城島(しきしま)の 日本(やまと)の国の 石上 振(ふる)の里に ……(万1787)
 石上 振の早稲田(わさだ)を 秀(ひ)でずとも 縄だに延(は)へよ 守(も)りつつ居(を)らむ(万1353)
 石上 振の早稲田(わさだ)の 穂には出でず 心の中(うち)に 恋ふるこのごろ(万1768)
 石上 振の高橋 高々に 妹が待つらむ 夜そ深けにける(万2997)
 石上 振の尊(みこと)[石上乙麿(いそのかみのおとまろ)]は ……(万1019)
 石上 零(ふ)るとも雨に さはらやめ 妹に逢はむと 言ひてしものを(万664)
 吾妹子(わぎもこ)や 吾(あ)を忘らすな 石上 袖振る川の 絶えむと念(おも)へや(万3013)
 石上 振の神椙(かむすぎ) 本(もと)伐(き)り 末(すゑ)截(おしはら)ひ 市辺宮(いちのへのみや)に 天下(あめのした)治(し)らしし 天萬(あめよろづ)国萬(くによろづ) 押磐尊(おしはのみこと)の 御裔(みあなすゑ) 僕(やつこ)らま(顕宗前紀)
 石上(いすのかみ) 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ 物多(さは)に 大宅(おほやけ)過ぎ 春日(はるひ)の 春日(かすが)を過ぎ 妻隠(こも)る 小佐保(をさほ)を過ぎ ……(紀94)

 一般に、地名「石上」は地名「振(布留)(ふる)」を導く枕詞とされている。しかし、無文字時代のヤマトコトバにとって、言葉は音であるから、イソノカミという言葉(音)とフルという言葉(音)との間に紐帯があると感じられて枕詞と認められていたとするのが本筋であろう。
 紀94の原文に、「伊須能箇瀰」とあり、イノカミである。音に揺れがある。音転の可能性があるとすると、イソ(ス)ノカミは、イシノカメ、すなわち、「石の甕(瓶、メは乙類)」のことを言い含めているもののようである(注4)。素材があたかも石のように見える甕とは、灰黒色が特徴的な須恵器の甕である。土師器と違い焼成温度が高く、肌が陶質化して水が浸み出さない。水がめにふさわしい。バケツである。バケツをひっくり返したように雨が降れば、一気呵成にタギになる。
 記でとりあげた本文にはもうひとつ、冒頭に「故」がある。その前の文は次のとおりである。

 波邇賦坂(はにふざか)に到りて難波宮を望み見るに、其の火は猶(なほ)炳(しる)し。爾に、天皇、亦(また)歌ひて曰く、
  波邇布坂(はにふざか) 我が立ち見れば かぎろひの 燃ゆる家群(いへむら) 妻が家の辺(あたり)(記76)(注5)

 「波邇賦坂」の次が「大坂」という順になっている。上述のとおり、最終的に石上神宮に御座している。そのイソノカミが石の甕、須恵器の大甕に当たっていると解した。波邇賦坂という名のハニ(埴)からは、弥生土器、土師器など野焼きして作ることが連想される。だからこそ、振り返って見れば「其火猶炳。」と見えていて言葉に正直である。対して、須恵器を焼くには窖窯を作ってそこに入れて還元焼成する。大きな坂のような傾斜をつけた窯である。だから、「大坂」であり、「山口」という窯の入り口が示唆されている。口は塞いでしまうから火は見えなくなる。波邇賦坂で見えていた「炳(も)」えている炎の「かぎろひ」はもはや見えない。そこを進めば須恵器の甕たるイシノカメ、イソノカミに至ると思って履中天皇一行は進んできている。
土師器と須恵器の焼き方(㈶広島市文化財団文化科学部文化財課「歴史の扉」第6号、1999年3月。http://www.mogurin.or.jp/museum/library/tobira/6st.pdf(2/3))
陶邑窯跡群の窖窯(TG61号窯移築復元、清水健一様「日本の窯の歴史」http://museum.starfree.jp/201_kama/30100main.html)
 その時、「遇一女人。」している。記76歌謡に、「妻」と言っているのだから、代わりとなる「一女人」が登場して代弁している(注6)
 現状説明は単純である。「持兵人等、多塞玆山。」である。「兵(つはもの)」とは何か。盾である。この「大坂山口」たる窖窯の口は、盾状のもので塞がれてしまうと言っている。それが窯内を高温に保ちながら還元焼成する秘訣だからである。だから、塞がれて進めない坂は迂回して、須恵器の大甕にさらにふさわしい名の「当岐麻道」へ、ちょっと疲れるかもしれないけれど進みなさいと勧めている。そう言い切れるのは、大坂は窖窯の謂いだから、実は見えていないだけで「其火猶炳。」状態にあり、とても危険なのである。だから急がば回れをして時間をかけていけば、焼けた須恵器は冷めて無事、石上神宮へ届けることができていましょう、ということになるのである。
 この説話は、現在の羽曳野市のこととして語られている。多遅比野(丹比野)、波邇賦坂(埴生岡)、大坂(穴虫峠)である(注7)。土地にまつわる話が創られていたからには、焼き物の焼成にかかわる地としてそれなりの理解もあったのであろう。むろん、一対一対応的に地場産業としてあったのではなく、地名から聞こえるニュアンスからそう感じられたというのが妥当である。そうやって理解して伝承すれば、そのつど頓智話として解かれているから、伝えたいことは正確に伝えることができた。話は説かれるものではなく、解かれるから伝わるものであり、伝わるものが話なのである(注8)

(注)
(注1)思想大系本古事記に、「そのまま真直ぐ行く道を教えず、(遠廻りの)当麻路を教えてくれた。」(247頁)、次田1984.に、「まっすぐ行く近道を告げず、遠まわりの当麻道(たぎまじ)を教えてくれた。」(67頁)、中村2009.に、「まっすぐにとは告げないで当麻へ行く道を告げた」(412頁)とある。
(注2)「故(かれ)」という語に、原因・結果を示さずに、言葉を起すときに用いられるとする用例があるとされている。時代別国語大辞典では、記の用例をとっているが、「爾」をカレと訓む例ばかりである。「「爾」は中国文献にみえる接続詞「爾即」「爾則」などの省略形か。」(234頁)としている。筆者は、カレというヤマトコトバに、「ここに」「そこで」「すなわち」の意はないと考えている。記の「爾」字は、シカクシテ、ココニ、と訓まれているのだからそれで完結する。
「故(かれ)」という語は、カ(彼)+アレ(有リの已然形)→カアレ→カレという語の成立過程から考えて、前文を承けて、だから、それゆえ、の意である。平安時代になって仏典の訳に、前文の「……て」「……に」「……を」を承けて「そこで」の意にカレを用いるようになったのは、仏典の理屈っぽさからして流用されているものと考えられる。
ただし、このことを検証するには悉皆調査の必要がある。筆者は、それぞれの論考に、「故」字が現われたらひとつひとつ解釈に当たり、克服する作業を進めている。拙稿「垂仁記の沙本毘売命物語の抜本的読み替え―「愛」字の訓を中心に―」参照。
(注3)今日いう滝(たき)のことは上代に垂水(たるみ)と言っていた。なお、平安時代にはすでに fountain のことを滝(たき)と言っている。和名抄に、「瀧 唐韻に云はく、南人、湍を名けて瀧〈呂江反、和名は太岐(たき)。〉と曰ふといふ。兼名苑に云はく、飛泉は一名に飛湍〈曝布也〉といふ。遊名山志に云はく、城門山は両巌の間に水有り、形は曝布の如しといふ。」とある。
(注4)拙稿「「石上(いそのかみ) 布留(ふる)」の修飾と「墫(もたひ)」のこと」参照。
(注5)原文の「炳」字を何と訓むべきか解釈はわかれている。西郷2006.に、「歌の前のことばは、古事記ではたいてい歌詞をそのままとってくる場合が多い」(139頁)として、古典集成本にならい「炳(モ)えたり」としている。新校古事記も、「炳(も)ゆ」と訓んでいる。記の用字にモユと常訓されるであろう「燃」字が見られないから、一定の説得力はある。
 新撰字鏡に「炳 彼永彼平二反、著明也、明之㒵」、名義抄に「炳 丙音、トテシリ、テル、テラス、トホル、又昞、アキラカニ、アラハル、トモス、和平」とあり、アカシ(例えば、思想大系本古事記)、シルシ(例えば、岩波文庫本古事記)とも訓まれている。野焼きと窯焼きの対比が述べられていることを考えると、シルシという訓み方に惹かれる。白川1995.に、「しるし〔著( 著)・灼〕 他ときわ立ってよく目につくこと、また原因と結果との関係などが明白であることをいう。「いち」という接頭語をつけて「いちじるし」「いちじろし」ともいう。「白し」と同根の語である。」(406頁)とある。
 履中記のこの個所は、「到於波邇賦坂、望-見難波宮、其火猶炳。」で一文である。筆者が考える上代の言霊信仰は、言=事という言行一致運動であったとくりかえし述べてきている。言うことと行うこととが一致しなければ、無文字時代に言葉は担保を失うからであった。ここで、この一文が一文として正確に規定されるためには、他のどこの見晴らしのいい坂から「望見」したのでもなく、まさに「波邇賦坂」からにおいてのみ「其火猶炳」ということを物語っている。ハニフザカという名からは、弥生土器の野焼きの火を連想させている。土器を焼いている火はハニフザカと呼ばれる地にいる限りにおいて、まだ明らかに燃えているはずである。後文の「大坂」を須恵器焼成の窖窯として対比させている。窖窯は土で覆われた窯になっていて、煙が出ていればわかりはするが、夜間に「望見」することでは火がついているかどうか見定めることはできない。その対比を言葉で言い表そうとしているのだから、夜目につくほどに著しく、ハニフザカにしてもっともであり、その名に負うことの甲斐があれこそ、シルシという訓みが正解ということがわかる。
(注6)紀に「少女」とあるところから、中西1977.は、「神の資格をもった少女と見え、このような少女が託宣を下すということになる」(164頁)と捉えている。崇神記に、山代(やましろ)の幣邏坂(へらさか)に現れた「腰裳(こしも)を服(き)たる少女(をとめ)」や、応神記に、木幡村(こはたむら)に遇った「麗美(うるは)しき嬢子(をとめ)」と同等であるとするのである。歌に「告る」とあるのがその証拠のように言われている。しかし、これでは古事記ならではの冗談が通じない。仮に啓示的な内容なら、他の例のように話されているのが話(咄・噺・譚)である。大人になってしまった「一(ひとり)の女人(をみな)」、どこにでもいるような大阪のおばちゃんは神意を告げたりはしない。歌中に「告る」と歌われているのは、神の言葉を伝えるかのように機知に溢れることを一介の女人が言っているからである。「女人」を“真”意を伝えているとして、歌のなかでは年齢を巻き戻して「娘子(をとめ、袁登売)」と擬したのである。
(注7)名実ともに須恵器製造の拠点とされるのは、陶邑と呼ばれた泉北丘陵窯跡であるが、この話に設定されている場所からは少し離れている。
(注8)文字時代の到来によって、ヤマトコトバに深く根差していた頓智の才は失われた。もはやお「話」にならない始末となった。たまたま記紀に書き残されているが、文字時代の言語の才に頓智の才は不在なため、解かれることはなく、説かれることばかりになってしまっている。ナゾトキ、ナゾトレのような一回きりの認知機能向上ではなく、常識としてのなぞなぞが問題だと自覚しなければ始まらない。神話学や国家の正統性の思想など、当初にあるものではない。

(引用・参考文献)
岩波文庫本古事記 倉野憲司校注『古事記』岩波書店(岩波文庫)、1963年。
思想大系本古事記 青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
次田1984. 次田真幸『古事記(下)全訳注』講談社(講談社学術文庫)、1984年。
中西1977. 中西進「古事記抄―仁徳記・履中記―」『成城国文学論集』第九輯、1977年1月。https://www.seijo.ac.jp/graduate/gslit/orig/journal/japanese/pdf/sbun-09-04.pdf(『古事記をよむ4―河内王家の伝承―』角川書店、昭和61年、『中西進著作集―古事記をよむ2―』四季社、2007年所収。)
中村2009. 中村啓信訳注『新版 古事記 現代語訳付き』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。

この記事についてブログを書く
« 履中記、墨江中王の反乱譚に... | トップ | ヤマトタケルの野火の難─「焼... »