古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

犬の遠吠え

2017年09月15日 | 上古・中古・中世・近世
 人間の言葉に、擬態語、擬音語、擬声語と呼ばれる分野がある。オノマトペとして一括されることもある。
 人が人の声を写すことは、それほど難しくないかもしれないが、動物の鳴き声を言葉に写すことは、文化的な恣意性をかなり有していると思われる。ニワトリの鳴き声が、現在の日本人は「コケコッコー」と表現することが多いが、江戸時代では「トウテンコウ(東天紅)」と表していた。英語では「クックドゥードゥルドゥー(Cock-a-doodle-doo)」、フランスでは「ココリコ(cocorico)」、ドイツでは「キケリキー(kickeriki)」、イタリアでは「キッキリキー(chicchirichí)」、中国では「コッコッ(咯咯)」や「オーオーオー(喔喔喔)」等と表している。全然違うではないかと思うが、音韻体系の枠組みに囚われているからそう思うだけで、先入観を持って聞けばそう聞こえる。ここでは、イヌの鳴き声について、古く日本でどのように表していたか考える。
 イヌについて、現在の日本人は「ワンワン」と鳴くものだと疑わないが、英語に「バウワウ(bow-wow)」と似て非なる音に写している。歴史的な文献では、イヌの鳴き声、吠え声を文字表記した例として、ギャウ、ヒヨというものがある。

 ……此ノ鬼ノカシラカタヲハタトクヱタリケレバ、頭ノ方ノ黒キ物ヲ蹴抜キツ。其ノ時ニ見レバ、白キイヌノ行トナキテ立リ。(今昔物語・巻第二十八・第二十九、平安時代後期)
 また、清範せいはん律師りしの、犬のために法事ほふじしける人の講師こうじしやうぜられていくを、清照せいせう法橋ほつけう、同じほどの説法者せほふざなれば、いかがすると聞きに、かしらつつみて誰ともなくて聴聞ちやうもんしければ、「ただ今や、過去くわこ聖霊しやうりやうは蓮台の上にてひよとえ給ふらむ」とのたまひければ、「さればよ。異人ことひと、かく思ひよりなましや。なほ、斯様かやうたましひあることは、すぐれたる御房ごばうぞかし」とこそほめ給ひけれ。誠にうけたまはりしに、をかしうこそさぶらひしか。これはまた、聴聞衆ちやうもんしゆうども、さざと笑ひてまかりにき。いと軽々きやうきやうなる往生人わうじやうにんなりや。また、無下むげのよしなしごとに侍れど、人のかどかどしく、魂あることのきようありて、いうにおぼえ侍りしかばなり。(大鏡・道長・雑々物語、平安時代後期)
 吽〈牛喉反、ホユル、クム〉声(ムモ)也 咩〈羊、ヒツシ、ヌイ〉声也 吠〈犬之音也、ヘイ、ヒヨ〉(悉曇要集記、1075年)

 第一例については、「行」はギャン、またはキャンに当たるとされている。松尾2007.は、「ギャン」に近い音を表すために濁点を強調しようとして、わざわざ漢字表記した可能性があることを、他の例から推し量り指摘している。蹴られてギャンだかグウだかなんだか唸ったうめき声であるといえる。
 第二・三例については、山口2002.に詳しい。これらの例と、時代の下る狂言記(1660年)の「びよびよ」、近松門左衛門・用明天王職人鑑(1705年)の「別府べう」という表記から、昔の犬の声を、濁点をつけた「びよ」「びょう」と写していたと推定している。そして、それにつらなる「べうべう」といった書記は、単なる犬の吠え声ではなく、遠吠えの声であると考えている。さらに、犬の吠え声が、「びよ」「びょう」から「わん」へと変化していった点について、「環境の変化による犬の鳴き声自体の方に、質的変化があったと考えても不自然ではありません。」とし、「江戸時代以前では、……野犬が横行し、捨て子を襲って食べたり、人間の死肉を食べたりしています。だいたい昔の犬は、放し飼いでした。……放し飼いの犬はすぐに野犬になります。平安末期の『今昔物語集』にも、夜の間に女が野犬に食い殺された話が出て来ます。……総じて江戸時代以後の落ちついた環境で飼われる犬よりも、野性味をおびていたことだけは確かです。そうした時の犬の声は、闘争的で濁ってドスの効いた吠え声であったと想像されます。「わん」と写すより、「びよ」「びょう」と濁音で写すのがより適切と思われるような声であったのではないでしょうか。「びよ」「びょう」から「わん」への言葉の推移は、犬自体の吠え声の変化を写し出していると、私は推測しています。」(134~135頁)としている。
 筆者は、この説に異を唱えたい。大鏡や悉曇要集記に見られる「ひよ」という形は、犬の遠吠えの声であると考える。11世紀の「ひよ」と江戸時代の「びよびよ」「べう」「びょう」とを一括りにしてはいけない。「びよびよ」「べう」「びょう」が遠吠えの声を写したものなのかについても確信が持てない。
 イヌの声については、平岩1991.が次のように整理している。

 犬の声の種類
 私は、犬の声は、だいたい次の六種に分けるのが、一番わかり易いと思う。これは昭和七年(一九三二年)以来、私のいつも慣用してきた分類である。
(1)え声 (ワンワン)家畜となってから発達・・した特有の犬の声で、これが警戒の時、用いられることは誰でもよく知っているが、嬉しい時も同様である。声の調子と全身の表現で簡単に区別できる。
(2)鼻 声 (クンクンまたはヒンヒン)どちらも何かうったえる声で、外出、空腹、退屈などすべてこれだから、その時の状態で判断するほかはない。クンクンよりヒンヒンの方が意味が強い。
(3)のど 声 (アーアー)機嫌のよい時の声。たとえは草地などにころがっていて出す……。
(4)うなり声 (ウーッ)威嚇の声で、これには必ず、鼻の上にしわをよせ、上唇を引きあげて牙をあらわすという特別の顔がつきものである。その目的は、大きな牙を見せて相手をおどす点にあるのだが、鼻の上に皺をよせなければ、唇が上にあがらず、唇を上にあげなければ、きばが出ないのである。また、この唸り声をたてる時は、たいていあしを強く踏みはり、背中の毛を逆立てて、できるだけ自分の体を大きく見せようとする。
(5)たかき (キャンキャン)痛みをあらわす悲鳴。
(6)遠吠え (オーオー)遠くにいる友を呼ぶ声。これを聞いたものも、同じように遠吠えでそれに応答するのが普通で、静かな夜などに、付近の犬が皆いっしょに遠吠えをするのは、一般の方もご存じの通り。そしてハーモニカやサイレンのような遠吠えによく似た音を聞いても、犬はやはり、それに誘われて遠吠えをする。もともと遠吠えは、野生の時代に、狼と同様獲物を追う時、仲間を呼び集めた声なのだが、家犬となった現在でも、この本能はすぐ呼び覚まされるとみえる……。(115頁)

 残念ながら、「ひよ」も「びよびよ」「べう」「びょう」も出て来ない。イヌの遠吠えは、動物園に聞くことのできるオオカミの遠吠えに近いものと推測される(注1)。イヌにとって、吠える目的のようなものが、遠吠えと近吠え(?)では違う。これはきちんと区別して考えなければならない(注2)。イヌやオオカミの身になって考えることが必要である。「ひよ」は人間が活写したものに過ぎないが、古く、人は、動物との距離が今とは比べ物にならないほど近かった。一般論であるが、昔の人と今の人よりも、昔の人とイヌの方が気持ちは近いのではないか。昨今のペット溺愛は、イヌがヒト化していて(あるいはヒトがイヌ化していて)事情が異なる。
黒い犬の遠吠え(?)(板橋貫雄模、春日権現験記第八軸、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287493/7をトリミング。黒い犬は遠吠えをし、家の内にいる白い犬は吐瀉物を食べている。つながれない家犬だが、野犬化しそうに見えない。)
「柴犬タローの遠吠え」(毎日のんびーブログhttp://mainichi-38.net/?p=5185)
 大鏡の文脈は、清範律師という人を引き付ける説教をするお坊さんがいて、犬の法事の依頼があったときのお話である。当日、この世を去った犬の聖霊は、いまごろ極楽浄土の蓮台の上で、「ひよ」と吠えていらっしゃることでしょうとお話をされた。聴衆は愉快に笑って、才気ある説教ぶりがなおのこと有名になったという。清範律師の講話のうまさを述べ伝える話の要に、犬の吠え声の「ひよ」が出てくる。犬は死んであの世へ旅立ち、向こうで蓮台の上に座って「ひよ」とお吠えになっているであろうというのである。お犬様に転じている。「お犬」という言葉は、三峯神社で神の使いとされるオオカミ(大神)のことである。大神のことと直接の関係はないであろうが、ついこの間まで家のあたりで飼われていた犬が、亡くなって成仏して聖霊として蓮台に鎮座ましましているように語っている。お座りの姿勢をとっている。そして、上を向いて遠吠えをしているようである。姿を彷彿させてとてもおもしろい。
 注意点がある。律師は、「ただ今や、過去聖霊は蓮台の上にてひよと吠え給ふらむ」と宣っている。あの世へ行っているというのだから、七七日の法要か何かであろう。そして、「ひよ」という遠吠えと思われる声は、さて、何のための声と思っているのであろうか。第一に考えられるのは、あの世から、この世のご主人様へ、遠く吠えて寂しがっているということである。ご主人様が近くにいるならワンと吠えるが、遠いあの世の蓮台の上からご主人様を呼ぶために、遠吠えの声となっている。憂いを帯びた声である。

 ここよろづへる白犬しらいぬ有り。俯しあふぎて其のかばねほとりめぐり吠ゆ。(崇峻前紀)

 第二に、犬があの世で蓮台の上で遠吠えしているのは、読経のためであると捉えた可能性もある。平岩1991.に、近世の文献に、経を読む犬としておもしろがられた例が記されている。菊岡米山・諸国里人談、伴蒿蹊・閑田耕筆、暁鐘成・犬の草紙などに、僧侶の読経や声明の声につれて吠えることが記されている。イヌとしては遠吠えをしているだけなのであるが、朗々と歌うような読経に呼応して続くから、一緒になってお経を唱えているものと思われたというのである。このような状況が、清範律師の日常にもあったとすれば、律師が講話に浄土の犬の吠えていることを伝えたのは、とても身近な事柄であったからということになる。だから、犬畜生のことを「聖霊」と呼んでいる。律師は、つい先ほどまで、犬の法事でお経を唱えていた。亡くなった犬が浄土でもそれに答えるかのように遠吠えをする様子が目に浮かんできた。もちろん、読経に合わせて遠吠えしている犬は、お経を読んでいるわけではないことは11~12世紀の人も知っていたであろうけれど、不思議で興味深い様子であると観察していたに相違あるまい。お経を読むぐらいだから、犬だって極楽往生できるのは当たり前のことだと解釈し、さらに、それがあの世でも、「ひよ」とお経を読んでいると聴衆に想像させている。まったく信仰心が篤い犬だなあ、だから極楽へ行けたのだなあと、ほのぼのさせてくれている。
光背および蓮華座(康円(1207~?)、鎌倉時代、文永10年(1273)、興福寺伝来、東博展示品に「柴犬タローの遠吠え」を合成)
 遠吠えについては、ホユ、咆哮、howl という動詞自体、オノマトペ的に表わした言葉である。頭子音が〔h〕、〔Φ〕、〔f〕系の音である。時代的、地域的なばらつきを加味した上でも、頭子音に格別濁音が現れていない。濁音という概念のあいまいさを含み措いても、これは明らかな兆候ではないかと思われる。その理由として考えられるのは遠吠えという事象にある。イヌの声には、人間の耳には聞こえない高い周波数の音声があって、それは犬笛の存在によってよく知られている。可聴域と不可聴域との境界の高い声について、それを人間の言葉の濁音として転写することはあまりないであろう。再発声が難しくなる。ドスの効いたというドスを、とても高く発音すると意味は通じにくくなる。オリンピックの金メダルと銀メダルが聞き取りにくいのは、日本語の抑揚が同じである点を放置し、アナウンサーが高低によって隔てようとする意識を持ちたがらないからである。清濁発声の口の使い方に、濁音に低音を求める傾向は必然的に備わっている。
 犬の遠吠えが、どれぐらい先まで届くかは知れないが、オオカミの遠吠えは何キロも離れたところまで届く。その昔は山にオオカミがいて、オオカミ同士が遠吠えして仲間を呼び合うことがあり、それにつられて家のイヌも遠吠えに加わっていたようである。2~4万年前に、東アジアの南部でオオカミから家畜化されてイヌへと分化して以降も、ご先祖様の性質を受け継いで遠吠えをした。耳にすると遠い記憶がよみがえるらしい。本能なのだから自然とそうなる。今日、山にオオカミはいない。それでも時に飼い犬の遠吠えを聞くことができる。例えば、オペラ歌手の歌声や、救急車のサイレンに反応して遠吠えを始める。おそらくイヌにしてみれば、呼ばれているから答えているに過ぎないのであろう。家の中にいて、それが救急車であるという知覚、認識は持っていない。勝手に反応して、遠吠えを始めてしまう。救急車の音は、擬音語として表すと、日本語を母語とする人なら誰しも、ピーポーピーポーと表すであろう。周波数が整っているわけではないから、別にビーボービーボーでも構わないのに、高い音ということでそう写している。そしてまた、イヌは口笛にも反応して遠吠えをすることがある。口笛の擬音語は、ピイーであろう。
 筆者は、ここに、大鏡や悉曇要集記に記載の「ひよ」という音写の正当性をみてとる。イヌの遠吠えが遠く呼び掛け合う声であってみれば、それを写した「ヒヨ」が、ビヨやビョウなどといったドスの効いた低い声とすることはできない。人間の聞こえない高音域を含めて高く通る声を求め、オオカミもイヌも上を向いて喉をすぼめて息を吐いている。低く沈んだ声では、山の向こうまでは届かないとわかる。大鏡や悉曇要集記のヒヨは、清音であったほうがよりわかりやすいといえる。そしてまた、犬のために法事をしたとあるからには、飼い犬の愛犬であって野犬化したものではない。イヌが飼われて生活が安定したことと、遠吠えをしないこととはあまり関係がない。まわりの山からオオカミが姿を消すなどして、遠吠えを呼び起こさない音環境にありつづけて、イヌの声はワンワンに代表される鳴き方へ収斂していったものと思われる。時に救急車のピーポーピーポー(〔piːpoːpiːpoː〕や〔ΦiːΦoːΦiːΦoː〕)に反応するのだから、オオカミの声、すなわち、イヌの遠吠えの声は、11~12世紀にヒヨと記されて何の不思議もない。実際の発音としては、〔Φiyo〕や〔Φyoː〕といった音と捉えられたのであろう。発声の意識が唇に始まり喉へと奥まっていく遠吠えらしい音である。ピヨピヨと短く繰り返されるのはヒヨコの鳴き声だが、長く引き伸ばされてオオカミ並みに頑張れば20秒ほどにもなる一声がイヌの遠吠えである。
 大鏡の、「いと軽々なる往生人なりや」について、一般に、剽軽な、と訳している。少しく不親切である。源氏物語・若菜上に、蹴鞠に関して、「軽々なり」とする個所がある。軽やかな、軽率な、騒々しい、といった訳語が当てられている。空中に挙げることと「軽々」とは意味連関が働いており、意識の底で結びついている。大鏡において、律師の話のツボは犬の吠え声にある。具体的に「ひよ」とまで表している。参列者にはよく知られたイヌであり、その声も聞き知っていたことと思われる。往生を遂げて極楽浄土の蓮台の上で遠吠えしている犬の情景として想像するなら、特に事故死したという記述は見られないから、カエルでもないのにハスの上に乗っているところが軽いと思う心と、律師の読経に追随した遠吠えが騒がしく、また、厳粛な読経に軽く高い大きな声で参加している点が軽はずみであるとする感覚があって、「軽々なる往生人」という形容が試みられているのであろう。「軽々なる」のかろがろしい様は、音声にも当て嵌まるところからしても、イヌの遠吠えの声「ひよ」は清音であろう。カエルの合唱とイヌ遠吠えの読経合唱とが連想されていて、カエルのガアガアやお経の観自在菩薩……の濁音ばかりつづく唱え言葉との対比に、まったくもって愉快滑稽でおもしろく、そして妙にして心温まる、罪のない楽しい法話であると評価された話としてまとまっている(注3)

※文中に「イヌ」、「犬」と表記が混在しているが、一応の目安として自然の文脈に「イヌ」、文化の文脈に「犬」とした。むろん、境界をきわめられるものではない。

(注)
(注1)オオカミの遠吠えの特徴については、ツィーメン2007.に次のようにある。イヌにも同じ傾向が受け継がれていると思われるので参考とした。

 オオカミのおそらくもっとも独特な声は遠吠えである。長く引きのばされたメロディカルなウーという声で、唇を前方に伸ばし、口を軽く開けて息を吹き出すことで出る。このとき、たいていオオカミは頭を上方に向け、耳をうしろにねかせる。一回の遠状えはしばしば二十秒もの間つづく。新たに息をついだあと、さらにもう一回の遠吠えがつづくこともあるから、全部で数分つづくこともある。ときには個々のオオカミが何時間も遠吠えをつづけることすらある。そのときには、ふつう、一回一回の遠吠えの間の休止はいくらか長くなる。群れのオオカミの遠吠えはそれぞれ非常に独特である。私は、自分のオオカミたちの区別するのをとくに難しいと感じたことはなかったし、オオカミたち自身も個々の遠吠えを聞き分けることができる。これはとりわけ、群れのオオカミがコーラスに加わる順番についての記録から明らかである。オオカミは他のオオカミの遠吠えを聞くと、大変強い刺激を受け、自分も遠吠えをはじめるので、最初一頭のオオカミではじまった遠吠えが、まもなく群れ全体の遠吠えのコーラスになることがよくある。それでも、単発の遠吠えがかならず遠吠えのコーラスをもたらすとは限らない。たとえば地位の低いオオカミの最初の遠吠えが、地位の高いオオカミの遠吠えのきっかけになることはまれである。明らかにオオカミは、仲間のそれぞれの遠吠えを区別するだけでなく、それぞれの遠吠えを特定の個体と結びつけることもできるらしい。またオオカミは、未知のオオカミ(またはイヌ)の遠吠えを自分の知っているオオカミのそれから区別することもできる。子オオカミや若いオオカミの遠吠えは、おとなのオオカミのそれよりも高い音域にある。かれらが群れの中で遠吠えをはじめるのはまれであるが、老オオカミの遠吠えにはとてもはやく反応する。……飼育下の一つの群れのオオカミたちが別々に隔離されたとき、囲い地に一緒に飼われていたときよりもはるかに頻繁に遠吠えをした……。……人馴れしたオオカミたちとともに営林署員官舎を離れると残されたオオカミたちは決まって遠吠えをした。……遠吠えをするのは主として残された地位の高いオオカミで、しかも、そのオオカミのパートナーや、他の優位の個体、そして囲い地から離された子オオカミがとくに遠吠えをすることがわかった。逆に優位の一頭のオオカミ、あるいは最高地位のオオカミが囲い地から出されると、残された群れは、劣位のオオカミが出されたときよりも頻繁に遠吠えをした。(106~108頁)

(注2)secretaryvideo様「2種類の吠え方の巻」https://www.youtube.com/watch?v=FpD2kFM0t5E参照。
(注3)蓮台は、蓮の葉のことではないかとも考える。カエル(古語でカヘル(ヘは甲類))のいる光景にあわせて見ている。法要されている犬は、飼い犬であった。亡くなっているので、飼っていた犬である。完了の助動詞リがついて、カヘルイヌ(ヘは甲類)である。上に崇峻前紀の用例を見た。

(引用・参考文献)
ツィーメン2007. エリック・ツィーメン著、今泉みね子訳『オオカミ─その行動・生態・神話─』(新装版)白水社、2007年。
平岩1991. 平岩米吉『犬の行動と心理』築地書館、1991年。
松尾2007. 松尾樹里「『今昔物語集』における漢字表記の擬声語について」『国語学攷』第194号、広島大学国語国文学会、平成19年6月。
山口2002. 山口仲美『犬は「びよ」と鳴いていた─日本語は擬音語・擬態語が面白い─』光文社(光文社新書)、2002年。

※本稿は、2017年9月稿を2020年9月に整理し、さらに2024年8月にルビ形式にしたものである。

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