古事記におけるヤマトタケルの伊吹山の難については、これまでの議論に要領を得たものはない。
故、爾くして御合(みあひ)して、其の御刀(みはかし)の草那芸剣(くさなぎのつるぎ)以て、其の美夜受比売(みやずひめ)の許(もと)に置きて、伊服岐能山(いふきのやま)の神を取りに幸行(いでま)しき。是に、詔(のりたま)はく、「玆(こ)の山の神は徒手(むなで)に直(ただ)に取らむ」とのりたまひて、其の山に騰(のぼ)りし時に、白き猪(ゐ)、山の辺(へ)に逢ひき。其の大きさ、牛の如し。爾くして、言挙(ことあげ)為(し)て詔はく、「是の白き猪と化(な)れるは、其の神の使者(つかひ)そ。今殺さずとも、還らむ時に殺さむ」とのりたまひて騰り坐しき。是に、大氷雨(ひさめ)を零(ふら)して、倭建命を打ち或(まど)はしき。是の白き猪と化れるは、其の神の使者には非ずして、其の神の正身(むざね)に当れり。言挙せしに因りて惑はさえしそ。故、還り下り坐して、玉倉部(たまくらべ)の清泉(しみづ)に到りて息(いこ)ひ坐(ま)しし時に、御心、稍(やをや)く寤(さ)めき。故、其の清泉を号けて居寤清泉(ゐさめのしみづ)と謂ふそ。(景行記)
故爾御合而以二其御刀之草那芸剣一、置二其美夜受比売之許一而、取二伊服岐能山之神一幸行。於是、詔、玆山神者徒手直取而、騰二其山一之時、白猪、逢二于山辺一。其大如レ牛。爾、為二言挙一而詔、是化二白猪一者、其神之使者。雖二今不一レ殺、還時将レ殺而騰坐。於是、零二大氷雨一、打二‐或倭建命一。此化二白猪一者、非二其神之使者一、当二其神之正身一。因二言挙一見レ惑也。故、還下坐之、到二玉倉部之清泉一、以息坐之時、御心、稍寤。故号二其清泉一謂二居寤清泉一也。
この話が何の話か、深く考えられたことはない。新編全集本古事記には、「伊吹山の神を、神の使者と見誤って言挙げしたために、倭建命は打ち惑わされる。戦って敗れるのではなく、自分自身から死を招く。英雄の運命の悲劇である。」、「言挙げの内容に誤りが含まれている時、言葉の力は逆に働いて、神を撃つはずの倭建命の力を無効にしてしまう。」(231頁)などと解されている(注1)。
白い猪(注2)と山麓で遭遇したが、きっと神の使者に違いないから後で退治することにしようと言って無視して登ったところ、雹が降ってきてヤマトタケルは苦しめられ錯乱してしまった。だから降りてきて玉倉部の清泉にたどり着いてやっと正気に返った。それでそこを居寤清泉(ゐさめのしみづ)というのだという地名譚に落ち着いている。細注に、白い猪の姿に顕現したのは神の使者ではなくて神の正体そのものであり、ヤマトタケルがこれは使者だと言い立てたために前後不覚に陥ったのであると注されている。
わかったようなわからない話であるのに、誰も本当のところを探ろうとしていない。
どうしてヤマトタケルは素晴らしい武器である草那芸剣を置いたまま丸腰で伊吹山の神を取りに行ったのか。ヤマトタケルは伊吹山の神をどのようなものと考えていたのか。大したことはないと思っていたのに実態は違ったから「或(惑)」わされることになったと思われるが、ではいったい何だと思っていたのか。
現れた白い猪が「正身」だとあるからその猪が伊吹山の神であるとばかり考えていたのでは埒が開かない。話としての埒である。ヤマトタケルの想定との違いが感じられるから、この話はおもしろいものとして受け入れられたのであろう。受け入れられてはじめて話として体を成す。そうでなければ忘れ去られる。
そのことは、実は、細注ではなく本文に明確に記載されている。「白猪、逢二于山辺一。其大如レ牛。」とある。牛のような大きさの白い猪に出逢ったというのである(注3)。細注にあるのは、それが神の正身であるというくだくだしい解説である。山のウシ(主人)だから「如レ牛」なのであった(注4)。つまり、本当のところは白い牛に出会っているのに、ヤマトタケルはそれを猪だと言い張ったということである。イフキという名の山においてである。イフキとは、息吹(いふき)の意が思い浮かぶ。息を吹く、呼吸することをいうが、牛の息のそれらしさとは、温室効果ガスとして問題となっているゲップを指すことは、機転の利く人にとっては特有の笑いをもって想起されることである。名義抄に、「上気 アクヒ、オクヒ」とある。
ここに、ヤマトタケルが言挙(ことあげ)(注5)した理由も自ずと理解されよう。ゲップは挙がってくるものである。それと知らずに飲み込んでいたものが集まって一気に息として吹くことになる。イフキ(息吹)に対するために言挙している。もちろん、人がどんなに大きな声を出しても、牛のゲップに対抗できるものではない。あまりの臭いに一撃のもと気分が悪くなる。
ヤマトタケルの言挙は、白い牛を白い猪であると言いくるめて誤魔化そうとするものであった。しかし、それがイフキ(伊服岐)の山の力を削ぐことにつながることはなかった。わざわざ「白猪」と断ってある。すなわち、正体は白い牛であったろう。牛のなかで、眼球が青白く、毛なみが白いものを「さめ」と呼んでいる。「名おそろしきもの。……狼、牛はさめ。……」(枕草子(能因本)・157段)とある。清少納言がおそろしがっているのは、「さめ」が鮫を思わせるからであろう。色が褪め落ちているところからそう呼ばれたものとも思われる。つまり、話はサメの話に転じている。巨大な猪を見てもそ知らぬふりをすることは容易なことではないと思うが、ヤマトタケルは感興を抑え、気持ちの高まりを冷めさせて登頂へと向かっている。もちろん、相手は神である。別の方策をとってくる。サメはサメでもオホヒサメ(大氷雨)(注6)で攻撃してきた。覚めていられなくなり、前後不覚状態に陥っている。這う這うの体で下山して「清泉」にたどり着いて一息ついた。おそらく、牛の「さめ」に出会ってからずっと息をしておらず酸素飽和度が低下していたのであろう。正気に戻って醒めることができている。これらのサメのメはいずれも乙類である。
ヤマトタケルの失敗は、油断して草那芸剣を置いてきたことにある。剣として草を薙ぎ倒す必要はないと考えて置いてきてしまったのであるが、持って来ていたらこのような苦難には会わなかったであろう。なぜなら、草那芸剣ほどの名刀であれば、柄に鮫皮が巻かれていたであろうから、それを「以」て対抗できたはずだからである。記の文でも不思議な言い回しが行われている。
……以二其御刀之草那芸剣一、置二其美夜受比売之許一而、取二伊服岐能山之神一幸行。
……其の御刀(みはかし)の草那芸剣(くさなぎのつるぎ)以て、其の美夜受比売(みやずひめ)の許(もと)に置きて、伊服岐能山(いふきのやま)の神を取りに幸行(いでま)しき。
ただ置いてきただけなのなら、例えば次のように記せばよい。
……置三其御刀之草那芸剣於二其美夜受比売之許一而、取二伊服岐能山之神一幸行。
其の御刀(みはかし)の草那芸剣(くさなぎのつるぎ)を持って来ていたなら、それを以て伊服岐能山(いふきのやま)の神を取ることができたのに、という含意が先行して述べられている。聞いている人は、モチテ……オキテと耳にすれば、あれ? モチテ……ユキテでないんだ、と気がつく仕掛けになっている。名刀、草那芸剣の全体像、ことにその持ち手(把)のところを思い描いている人々にわかりやすい話になっている。
把は鮫皮巻(金銀鈿荘唐大刀、唐時代、正倉院蔵、宮内庁ホームページhttps://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010088&index=0をトリミング)
ヤマトタケルは伊服岐の山のことを何だと思ってその「神」を取りに行ったのであろうか。草那芸剣は焼遺(焼津)の野火の難において草を薙ぎ倒すのに役に立っている。伊服岐の山では野火に巻かれることはないと思って出かけている。実際、そういうこともなかった。彼は「取」ることを目指している。草を薙ぎ倒してはいけないと思ったのであろう。薙ぎ倒すことなく取るものとして伊服岐の山で取りたかったのは何であろうか。
古来、薬草のゆたかな伊吹山で採取されていたとされる草にヨモギ(注7)がある。もぐさの原料である。花の咲く前にヨモギを刈り取り、乾燥して臼でくだいて入念に葉や茎を取り去って、葉の裏側に生えている綿毛だけを集めてお灸に使うもぐさができあがる。乾燥したヨモギの重さの200分の1程度であるとされている。野火の難のように薙ぎ倒してそのまま全部に火をつけるのではなく、採取→乾燥→綿毛収集の工程の後、それを固めてようやく火をつける。だから、草那芸剣は不要と判断したのであろう。「徒手直取」ことを目指した。そこにはちょっとした誤解があった。ムナデ(空手)は手に何も持たないこと、それは無防備なことと無収穫なことの両義がある。ヨモギを取りたいのであれば、鎌を持って行かなければならなかったのにそれがわからなかったということである。実際、その後のヤマトタケルの行程はご難続きである(注8)。もっぱら足の進まないことが問題となっている。「吾が足歩むこと得ずして、たぎたぎしく成りぬ」、「吾が足は三重に勾(まが)れるが如くして甚だ疲れたり」などと嘆息している。伊吹山でうまくヨモギを採取して足三里に灸(やいと)ができたならそのような顛末にはならなかったであろう。草那芸剣の話のヤキツ(焼遺・焼津)から、それに代わる鎌を持たないことによるヤキト(灸)(注9)の話へと転回している。
ヤマトタケルは、雹に降られて前後不覚に陥って下山している。「玉倉部之清泉」にたどり着いて休息し、正気に返っている。「玉倉部之清泉」については米原市の醒井ではないかとされているが詳細は不詳である。これまでのところ、玉倉部について検討されたことがない。錦織部(にしごりべ)・土師部(はじべ)・須恵部(すえべ)・弓削部(ゆげべ)といった部民制のように、玉倉部という部があったか不明である。しかし、あたかも玉倉部は実在したかに表記されている。徒手で来ていて手のことが気になっている。すると、タマクラベとは、タマクラ(手枕)のことを言っているのではないかと考えられる。腕枕である。いい人のため、美夜受比売のために腕を貸して枕にしてあげていたのであろう。腕をあげている姿勢を取るのであるが、伊服岐能山では上から大氷雨、雹が降ってきていたからそれを避けるために同じように手枕の姿勢に腕を上げていた。下山して逃れ、ようやく腕を下ろすことができた。腕を下ろして憩(息)(いこ)うところに清泉はあるか。湧き水として考えられるのは腕の腋(わき)である。腋汗をかく。憩うのに使うのは、腕を乗せる脇息(きょうそく)、挟軾(きょうしょく)、脇几(わきづき)、夾膝(案机、おしまづき)である。
やすみしし 我が大君の 朝とには い寄り立(だ)たし 夕とには い寄り立たす 脇几(わきづき)が下の 板にもが あせを(雄略記、記103)
この歌謡のアセは、囃子詞、吾背(あせ)、汗を掛けた使い方であろうと解されよう。
頭を載せたり雹を防ぐために用いていたタマクラ(手枕)を、今度は逆に休ませようとして脇息に置かれている。脇息は手を休める枕に当たっている。腋汗のことを清泉とし、居寤清泉としているのは、冷や汗をかいたということの謂いであろう。記ではその水を飲むことも浴びることもしていない。あげていた手を下ろしてリラックスして覚醒している。それをサメと言っていて、手枕して寝ていた自分の悪い夢から覚めたことが語られている。
脇息(一遍聖絵模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591576/15をトリミング)(注10)
以上、ヤマトタケルの伊服岐の山での難について縷述してきた。記の話は稗田阿礼が完全に記憶していたことを太安万侶が文章に書き起こしたものである。稗田阿礼は天武天皇の話していたのを丸暗記したわけであるが、天武天皇とて文字に書かれたものを覚えていたわけではなく、諳んじられていたものをまるごと自身の記憶に残して諳んじていたものであった。稗田阿礼は聡明であったが、それは話を納得したうえで細大漏らさず一言半句違えることなく口にすることができたということに他ならない(注11)。話を納得するとはどういうことか。話をしている人の話しっぷりを総合的に判断して、ヤマトコトバのうちに意味のすべてをきちんと理解するということである。その理解のためには、口頭での言語に裏付けとなる意味合いを認めて納得するということである。言語に重層性があってはじめてそれはそうだ、そのとおりだと納得がいく。今日の人が言葉について声になっている言葉と文字に書かれたものとを照らし合わせて確認することと実は類似する作業である。文字に慣れてしまった人にとって、無文字時代の言語活動の重層性のありようについていけず、一切顧みることがなくなって、別次元の事項を介入させて何ごとかわかった気になる向きがある(注1)が、的外れであろう。記紀に残されているのは話(咄・噺・譚)(story)であり、神話(myth)でも気象学の知識(meteorology)(注12)でも歴史(history)でもない。歴史叙述に欠かせないのは書記言語であるが、稗田阿礼の語り口を書き留めるのに一生懸命になっている太安万侶のどこに書記言語を自在にする姿が見えるのだろうか。
この伊服岐能山の難の話について、皇統を継がないことを申し述べたいがために都に帰還する前に皇子将軍の終焉を迎えさせようとしているとか、伊勢神宮の加護となる草那芸剣を持たずには地方神にも敗れるとか、それが熱田神宮に伝来する所以を示すための方便として構想されているといった後講釈はナンセンスの一言に尽きる。もしそのような思惑があったとして、なにゆえ設定が伊服岐能山でなければならないのか、説明のないままの議論は憶説以上に値しない。無文字の時代の人の思惟はそのようなものとは無縁であった。なぜなら、まるごと覚えなければ次の人に伝えることはできなかったからである。なぜまるごと覚えられるのか。なるほどと納得できるから覚え、一言半句でも過てばその話は話として通じなくなるから、その話のおもしろさをきちんと伝えるためにそのまま伝えたのであった。説明や理屈を言っても誰も聞きはしない。洒落を言い、頓智に頭を働かせ、耳にした人はおもしろいから瞬時に覚え、そして今度は伝える側に回った。それがたまたま無文字文化と文字文化のはざまに記し残されたために、上代の人々の思惟に近づく余地が文字どおり今に残されているのである。個々の話が何を言っているのかを探ること、そのことばかりに、上代人のものの考え方と一つになれる可能性は残されている。形而上学は不要である。
(注)
(注1)話の本質ではなく、外観を検討した議論は行われてきた。伊吹山の神を「賊徒」とする説(次田1924.)、「山の神」(上田1960.)、「気候」の問題(尾崎1966.)、「息長氏の祭る神」(吉井1977.)、「天武天皇の帝紀・旧辞の削偽定実」にも関わるとする説(寺川2012.)などが見える。数が少ない理由は、古事記に書いてあるわけではなく推測にすぎないからである。本居宣長・古事記伝をはじめ各解説に、なぜ伊吹山へ行ったのか問わない。テキストをそのままに読む姿勢として一応肯定されるべき態度である。けれども、なぜ伊吹山へ行ったのかがテキストに含み記されているとしたら話は別である。本稿は、そのことを論じている。
(注2)紀の該当記事は、牛のような猪ではなく大蛇(をろち)になっている。それでもそれを神の使いだとしている点は等しい。記では「大氷雨(おほひさめ)」が降ってきているが、紀では「氷(ひ)」が降ってきている。
是に、近江(あふみ)の五十葺山(いぶきやま)に荒ぶる神有ることを聞きたまひて、即ち剣を解(ぬ)きて宮簀媛(みやすひめ)の家に置きて、徒(たむなで)に行(い)でます。胆吹山(いぶきのやま)に至るに、山の神、大蛇(をろち)に化(な)りて道に当れり。爰(ここ)に日本武尊(やまとたけるのみこと)、主神(かむざね)の蛇(をろち)と化れるを知らずして謂(のたま)はく、「是の大蛇は、必(ふつく)に荒ぶる神の使(つかひ)ならむ。既に主神を殺すこと得てば、其の使者(つかひ)は豈(あに)求むるに足らむや」とのたまふ。因りて蛇を跨(またこ)えて猶(なほ)行でます。時に山の神、雲を興して氷(ひ)を零(ふ)らしむ。峯(みね)霧(き)り谷曀(くら)くして、復(また)行(ゆ)くべき路(ところ)無し。乃ち捿遑(さまよ)ひて其の跋渉(ふ)まむ所を知(おぼ)えず。然るに霧を凌(しの)ぎて強(あながち)に行く。行(まさ)に僅(わづか)に出づることを得つ。猶失意(こころまどひ)せること酔(ゑ)へるが如し。因りて山の下の泉の側(ほとり)に居(ま)して、乃ち其の水を飲(を)して醒(さ)めぬ。故、其の泉を号けて居醒泉(ゐさめがゐ)と曰ふ。日本武尊、是に始めて痛身(なやみますこと)有り。然(しかう)して稍(やくやく)に起きて、尾張に還ります。(景行紀四十年是歳)
於是、聞三近江五十葺山有二荒神一、即解レ剣置於二宮簀媛家一、而徒行之。至二膽吹山一、山神化二大蛇二当レ道。爰日本武尊、不レ知二主神化一レ蛇之謂、是大蛇必荒神之使也。既得レ殺二主神一、其使者豈足レ求乎。因跨レ蛇猶行。時山神之興レ雲零レ氷。峯霧谷曀、無二復可レ行之路一。乃捷遑不レ知三其所二跋渉一。然凌レ霧強行。方僅得レ出。猶失意如レ酔。因居二山下之泉側一、乃飲二其水一而醒之。故号二其泉一、曰二居醒泉一也。日本武尊、於是、始有二痛身一。然稍起之、還二於尾張一。
細部の違いは小咄の作り方の違いである。イブキヤマを「五十葺山」、「胆吹山」と両用に書いている。「五十葺山」という表記をあえてしているのは、山の特徴として連峰的な印象を与えるためであろう。そんな山の神は、ヲ(嶺)+ロ(助詞)+チ(霊)がふさわしいということになる。そのヲロチはまた、ヲ(嶺)+ロ(助詞)+チ(路)とも解されるから、ヤマトタケルはイブキヤマの神を取りたいのであれば、そのチ(路)、ルートをたどるべきであった。直線状に登っていく路ではなく、日光いろは坂のように蛇行しながら登っていく路ということである。彼は大蛇を「神之使」だと思っている。使者が来ているなら使者に従うのが見知らぬところへ赴く際の一番の拠りどころである。紀には、朝鮮半島からの使者を帰還させるのに「送使(おくるつかひ)」を派遣していたと記されている。地理に不案内な人を無事に届けようとする計らいである。それだのに無視して、「跨」して行ったのだから遭難するに決まっている。
そして、「氷(ひ、ヒは甲類)」を受けている。剣は宮簀媛のところに置いたまま「徒」に来ている。以前、焼津の野火の難の時、「火(ひ、ヒは乙類)」に対して剣で草を薙ぎ倒して難を逃れる術があったが、今度は上から降ってきていて仮に剣を持って行っていても対処できなかったであろう。「氷」は雹のことをいうのであるが、洒落を言っている。寒くて凍傷などになったわけではなく、「猶失意如レ酔。」とある。それは「日(ひ、ヒは甲類)」に当てられた熱中症に近い。そして、「因居二山下之泉側一、乃飲二其水一而醒之。」ことになっている。伊吹山の神を取りに行くのに「徒」に行ったら大蛇がいて、それは鎌首をもたげていたのに無視してしまった。ヨモギを大量収穫するためには鎌が必要だと教えてくれていたのだった。
「徒」の古訓タムナデは北野本等に見える。タ(手)+ムナ(空)+デ(手)と畳みかけている。手に何も持っていないということばかりか、記の話とは異なり、手は問題ではないということを示していると考えられる。注意を足三里の灸へ向けている。また、タム(廻)+ナデ(撫)の意も含んでいよう。「撫づ」には臼に搗いて粉にする意がある。日葡辞書に、「Comeuo nazzuru.(米を撫づる)米を搗く.」(439頁)とある。ヨモギからもぐさを得るには、何度も撫づる工程をふむ。大変な作業で、軸に廻旋させる踏臼(唐臼)を用いたと考えられる。下記の日本山海名物図会のような技術は古墳時代には伝来していたと考えられる。手で杵を搗く竪臼ではない。足が疲れるから出来上がったもぐさを使ってそのまま足三里に灸をすえるということであろう。「因居二山下之泉側一、乃飲二其水一而醒之。」とあるのは、水力を利用した添水唐臼(そうずからうす)を使えばいいのだと悟ったということかもしれないが、「飲」と書いてあって足に浸からせるとはないので違うようである。
左:唐臼(川崎市立日本民家園展示品)、右:添水唐臼(ウィキペディア、Andrevruas様「水力を使用した碓。「添水唐臼」(そうずからうす)、「バッタリ」などと呼ばれる。」https://ja.wikipedia.org/wiki/臼)
(注3)拙稿「古事記における動詞アフ(遇・逢)の表現について」参照。
(注4)主人のことをウシというのは、「大人(うし)、何ぞ憂へますこと甚(はなはだ)しき。」(履中前紀)といった例がある。そのことを基にした話として、垂仁紀にツヌガアラシトの説話がある。拙稿「古事記の天之日矛の説話について─牛を中心に─」参照。
(注5)言挙げについてはこれまでもたびたび論じられてきた。本居宣長・古事記伝に、「○言挙、……さて許登は、言か、又事の意にてもあるべし、阿宜は、論などの阿宜にて、事のさまあるべきさまを、云々と挙て言立るを、言挙と云なり、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/147、漢字の旧字体は改めた。)とある。古典基礎語辞典の「ことあげ【言挙げ】」の解説に、「言葉にして声高く言い立てること。」(499頁)、語釈に「自分の思うことを言葉に出してはっきり言うこと。言葉にしたことは現実になるという言霊だま信仰から、うかつに口に出すことは禁忌として避けた。」(500頁、この項、石井千鶴子)と簡潔に記されている。
これに対して、神の概念を持ち出して説明する向きがある。次田1924.に、「是は神の意志に反して、自己の意志を揚言する事を云つたものらしい。」(403頁。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918074/228、漢字の旧字体は改めた。)とあるのが早く、青木1989.では、日本書紀のコトアゲの用例について禁忌性を図示するに至っている。
「コトアゲ」の図(青木1989.125頁を一部改変)
このような考えは疑問である。「神の言という意識があるゆえに、人が発した場合、霊威がある言として禁忌性、反王権性が生じる」(同124頁)とするが、言葉を高らかに言うことは、それが事と等しいことなら咎め立てられることはなかろう。それを殊更に言い立てるのは、事と必ずしも一致しないことをあげつらうからに他ならず、だから宜しいことではないことになる。しばしば誤解されているが、言霊信仰とは言=事とすることをモットーにするという意味であり、そうしなければ無文字時代にファクトに対する信頼性は失われ、秩序が崩壊するからであった。人間が発する言葉に神性を認める必要はない。人々が言葉を交わすなかでその関係性のなかに導き出されるのが神の観念であり、それは言葉を交わした結果である。前提に据えることは本末転倒といえる。図に「神」、「神と人」、「人」と領域を設けながら隔てなく「コトアゲ」されていることについて何ら説明できていない。
言挙げは、わざわざ大声を出して言い放ってそれと規定してかかることが要点である。ありきたりの、当たり前のことについて、大声を出して言う必要はない。対してどう判断したらいいか迷うようなときに決めてかかろうとするとき、事態は声の大きなものの言うように動く。ヤマトタケルが伊吹山の山麓で言挙げしたのは、牛のような大きさの動物を猪だと決めてかかったのである。それがこの言挙げの主眼である。神の使いか正身(むざね)かは、実は話のうえでのトリックということになる。猪だと見てとればそれは神の使いになり、牛だと見てとればウシ(主人)のことだからそれは神の正身になる。ヤマトタケルがそうであったばかりでなく、この話を聞いている上代の聴衆にとってそういうことになっていた。彼らは皆、ヤマトコトバに生きていた人たちだからである。
(注6)「火雨」(天智紀九年四月、内閣文庫本)は諸本により「大雨」に校訂されているが、「火雨」という用字に誤りがあったと一概には言えない。本居宣長・古事記伝に、「大冰雨、遠飛鳥ノ宮ノ段にも、零二大氷雨一、とあり、和名抄に、文字集略ニ云ク、霈ハ大雨也、日本紀ノ私記ニ云ク、火雨ト、和名比左女、雨水同ジレ上ニ、今按俗ニ云比布留と見え、書紀に大雨甚雨淫雨など、みなひさめと訓り、【推古紀、天智紀などに、火雨とあるは、もと大雨とありけむを、後ノ人ヒサメとある訓を心得誤りて、大ノ字をさかしらに火に改めつるなるべし、和名抄に引る私記なるも同じ、又今ノ世俗に火の雨と云ことのあるも、氷の雨なり、】」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/147、漢字の旧字体は改めた。)とあるのは、さかしらごとである。「失火」(天智紀六年三月)、「出火」(斉明紀五年七月)をミヅナガレと訓んでいるのは一種の忌詞である。同様の発想で、雹の降ることをすぐに融けて蒸発することを願って記せば、「火雨」と書いて忌んでいたと考えられるのである。安藤1974.参照。なお、「火(ひ、ヒは乙類)」、「氷(ひ、ヒは甲類)」で別音である。
(注7)養老令・軍防令にある「熟艾」は、着火補助剤なのかお灸用のモグサなのか不明であるが、延喜式・典薬寮・中宮の臘月の御薬にも「熟艾四両」とある。百人一首にとられている「かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを」(藤原実方、後拾遺集、11世紀後半)とあるのはお灸用のものであろう。この歌の舞台を下野国とする説もあり、枕草子の「「まことにや、やがては下(くだ)る」と言ひたる人に、思ひだにかからぬ山のさせも草(ぐさ)誰(たれ)か伊吹(いぶき)の里は告げしぞ」(318段、柳原紀光筆本)の「やがては」を「下野に」とする本によっている。「かうやへ(高野へ)」(能因本、慶安本)、「かゝへ(加賀へ)」(前田本)とするものもある。ただし、下野国の伊吹山にてヨモギが名産であったとする記録はない。どこにでも生える草であり、和歌文学にばかり根拠を求めるのには無理がある。
さしぶの新芽(鳥取県ホームページ「むきばんだ花だより 11月」https://www.pref.tottori.lg.jp/secure/1152067/H30hanadayori11.pdf)
「伊服岐能山」のイブキは芽吹きのことを思わせる語である。サシモグサという言い方は、サシブ、今日のシャシャンボのことをいう語に連想が働く。サシブという名はその芽吹きの赤いことに因む語に見受けられる。火をさすように見立てたのだろう。同様に、モグサにも火をさすから、サシモグサと呼んだのではないかと類推される。掛詞や縁語を多用する和歌世界や中古文学において、イブキという音がサシモグサを呼んでいるだけとみるべきである。そんなイブキと呼ばれる山が近江と美濃の国境に位置するなら、口頭語に伝承された結果残っている古事記のなかに説話が展開されていて十分ということになる。なお、平野必大・本朝食鑑に「今、江州膽吹山の艾を以て上と為(す)。」とあり、江戸時代には盛んな産業となっていた。いつ頃からなのかは不明ながら、そこに生えていたヨモギがモグサにするのに適した品種であったとしている。
左:ヨモギ、中:伊吹艾草(平瀬徹斎 ・日本山海名物図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2555439/14をトリミング合成)、右:木曾街道六拾九次 柏原(歌川広重画、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/柏原宿からトリミング)
(注8)伊吹山の難によってヤマトタケルは死へと向かっているとする解説が多い。小野2019.に、「強い聖性をもつ伊服岐能山の白猪神に一貫して殺意を向け、言挙することで倭建命は白猪神との対峙に失敗し、死に至る。……天皇に忠実でありながらも「言」を誤認する人物である……倭建命は……、天皇の「東の方の十二の道の荒ぶる神とまつろはぬ人等とを言向け和し平げよ」という詔と「死ねと思ふ」心との二つの意思を完遂するために、東征からも言向からも外れた伊服岐能山の神討伐に赴き、神の聖性を侵犯する「言挙」によって命を落としたと考えられる。」(156頁)などとある。このような論理的思考は古事記の語りにそぐわない。くり返し読み直すことが可能な書記文ではないからである。稗田阿礼をはじめ言い伝えを話すとき、一回しか言わずに一回しか聞かない。その一回性のうちに前段のことなど思い出す暇もなく逐次合点が行かなければならない。それが話の“場”である。他ではなく「伊服岐能山」でなければならない必然性がなければ、伝承され続ける「話」にならない。
道行きがうまくいかなくなったことが述べられている。「当芸野(たぎの)」、「杖衝坂(つゑつきさか)」、「三重村(みへむら)」を過ぎ、「能煩野(のぼの)」で歌を3首歌った時に、「此時、御病、甚急。」となっている。何の病気だったかわからない。「取二伊服岐能山之神一幸行」ことに失敗して「零二大氷雨一、打二‐或倭建命一」たから病を得たと考えることを否定はしないが、その程度の粗筋の捉え方に満足していては話(咄・噺・譚)としてのおもしろみにたどり着くことはできない。粗筋だけで良いのなら、話は要らない。
(注9)イ音便化する前のヤキトと記される資料は管見に入らないが、焼津がヤイヅとなったように、ヤイトの古形はヤキトであったと考えられる。
(注10)脇息には、図のような湾曲したもののほかに直線状のものもある。この話で語られているのは手枕にしていたものを下ろして憩わせることだから、娶(ま)く腕の形に対応した湾曲状のものがふさわしい。現品としては平安時代の刻文脇息が東寺に伝えられている。
(注11)拙稿「稗田阿礼の人物評「度目誦口拂耳勒心」の訓みについて─「諳誦説」の立場から─」参照。
(注12)よく知られるように、「神話」という語は明治時代中期になってはじめて使われるようになった語である。地域の気象を語る風土記的記述をした理由も見つからない。
(引用・参考文献)
青木1989. 青木周平「倭建命東征伝承と「言擧」」『古事記年報』第31号、古事記学会、平成元年。(『青木周平著作集 上巻 古事記の文学研究』おうふう、2015年所収)
安藤1974. 安藤正次『安藤正次著作集 第五巻 日本文化史論考』雄山閣、昭和47年。
上田1960. 上田昭『日本武尊』吉川弘文館、昭和35年。
尾崎1966. 尾崎暢殃『古事記全講』加藤中道館、昭和41年。
織田1998. 織田隆三「モグサの研究(10)─産地について(1)─」『全日本鍼灸学会雑誌』第48巻第4号、1998年4月。科学技術情報発信・流通総合システムhttps://doi.org/10.3777/jjsam.48.371
小野2019. 小野諒巳『倭建命物語論─古事記の抒情表現─』花鳥社、2019年。
烏谷2011. 烏谷知子「古事記の言─「言向」「言挙」への展開─」『学苑』第843号、2011年1月。昭和女子大学学術機関リポジトリ http://id.nii.ac.jp/1203/00004921/
岸根2017. 岸根敏幸「古事記神話と言霊信仰(後編) 他者に幸禍をもたらす発言、および、「言挙げ」」『福岡大學人文論叢』第49巻第3号、2017年12月。福岡大学機関リポジトリhttp://id.nii.ac.jp/1316/00004245/
次田1924. 次田潤『古事記新講』明治書院、大正13年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918074
寺川2012. 寺川真知夫「伊服岐能山の神と倭建命」『万葉古代学研究年報』第10号、2012年3月。奈良県立万葉文学館http://www.manyo.jp/ancient/report/
吉井1977. 吉井巌『ヤマトタケル』学生社、昭和52年。
(English Summary)
Kojiki has a story about YAMATOTAKERU taking refuge inside Mt. Ibuki. In this paper, We will clarify the reason that he could not gather mugwort, which were the raw material of moxibustion, with his bare hands. Since ancient Japanese have recited the story of Kojiki, it must have been formed so that the content in it could be understood just by listening to the words. They used some Yamato kotoba of the same sound at the same time under various meanings, as a wisdom of the no-letter era and constructed one tale. Only by doing so, it was adjusted as a tale that could be completely convinced by each other.
故、爾くして御合(みあひ)して、其の御刀(みはかし)の草那芸剣(くさなぎのつるぎ)以て、其の美夜受比売(みやずひめ)の許(もと)に置きて、伊服岐能山(いふきのやま)の神を取りに幸行(いでま)しき。是に、詔(のりたま)はく、「玆(こ)の山の神は徒手(むなで)に直(ただ)に取らむ」とのりたまひて、其の山に騰(のぼ)りし時に、白き猪(ゐ)、山の辺(へ)に逢ひき。其の大きさ、牛の如し。爾くして、言挙(ことあげ)為(し)て詔はく、「是の白き猪と化(な)れるは、其の神の使者(つかひ)そ。今殺さずとも、還らむ時に殺さむ」とのりたまひて騰り坐しき。是に、大氷雨(ひさめ)を零(ふら)して、倭建命を打ち或(まど)はしき。是の白き猪と化れるは、其の神の使者には非ずして、其の神の正身(むざね)に当れり。言挙せしに因りて惑はさえしそ。故、還り下り坐して、玉倉部(たまくらべ)の清泉(しみづ)に到りて息(いこ)ひ坐(ま)しし時に、御心、稍(やをや)く寤(さ)めき。故、其の清泉を号けて居寤清泉(ゐさめのしみづ)と謂ふそ。(景行記)
故爾御合而以二其御刀之草那芸剣一、置二其美夜受比売之許一而、取二伊服岐能山之神一幸行。於是、詔、玆山神者徒手直取而、騰二其山一之時、白猪、逢二于山辺一。其大如レ牛。爾、為二言挙一而詔、是化二白猪一者、其神之使者。雖二今不一レ殺、還時将レ殺而騰坐。於是、零二大氷雨一、打二‐或倭建命一。此化二白猪一者、非二其神之使者一、当二其神之正身一。因二言挙一見レ惑也。故、還下坐之、到二玉倉部之清泉一、以息坐之時、御心、稍寤。故号二其清泉一謂二居寤清泉一也。
この話が何の話か、深く考えられたことはない。新編全集本古事記には、「伊吹山の神を、神の使者と見誤って言挙げしたために、倭建命は打ち惑わされる。戦って敗れるのではなく、自分自身から死を招く。英雄の運命の悲劇である。」、「言挙げの内容に誤りが含まれている時、言葉の力は逆に働いて、神を撃つはずの倭建命の力を無効にしてしまう。」(231頁)などと解されている(注1)。
白い猪(注2)と山麓で遭遇したが、きっと神の使者に違いないから後で退治することにしようと言って無視して登ったところ、雹が降ってきてヤマトタケルは苦しめられ錯乱してしまった。だから降りてきて玉倉部の清泉にたどり着いてやっと正気に返った。それでそこを居寤清泉(ゐさめのしみづ)というのだという地名譚に落ち着いている。細注に、白い猪の姿に顕現したのは神の使者ではなくて神の正体そのものであり、ヤマトタケルがこれは使者だと言い立てたために前後不覚に陥ったのであると注されている。
わかったようなわからない話であるのに、誰も本当のところを探ろうとしていない。
どうしてヤマトタケルは素晴らしい武器である草那芸剣を置いたまま丸腰で伊吹山の神を取りに行ったのか。ヤマトタケルは伊吹山の神をどのようなものと考えていたのか。大したことはないと思っていたのに実態は違ったから「或(惑)」わされることになったと思われるが、ではいったい何だと思っていたのか。
現れた白い猪が「正身」だとあるからその猪が伊吹山の神であるとばかり考えていたのでは埒が開かない。話としての埒である。ヤマトタケルの想定との違いが感じられるから、この話はおもしろいものとして受け入れられたのであろう。受け入れられてはじめて話として体を成す。そうでなければ忘れ去られる。
そのことは、実は、細注ではなく本文に明確に記載されている。「白猪、逢二于山辺一。其大如レ牛。」とある。牛のような大きさの白い猪に出逢ったというのである(注3)。細注にあるのは、それが神の正身であるというくだくだしい解説である。山のウシ(主人)だから「如レ牛」なのであった(注4)。つまり、本当のところは白い牛に出会っているのに、ヤマトタケルはそれを猪だと言い張ったということである。イフキという名の山においてである。イフキとは、息吹(いふき)の意が思い浮かぶ。息を吹く、呼吸することをいうが、牛の息のそれらしさとは、温室効果ガスとして問題となっているゲップを指すことは、機転の利く人にとっては特有の笑いをもって想起されることである。名義抄に、「上気 アクヒ、オクヒ」とある。
ここに、ヤマトタケルが言挙(ことあげ)(注5)した理由も自ずと理解されよう。ゲップは挙がってくるものである。それと知らずに飲み込んでいたものが集まって一気に息として吹くことになる。イフキ(息吹)に対するために言挙している。もちろん、人がどんなに大きな声を出しても、牛のゲップに対抗できるものではない。あまりの臭いに一撃のもと気分が悪くなる。
ヤマトタケルの言挙は、白い牛を白い猪であると言いくるめて誤魔化そうとするものであった。しかし、それがイフキ(伊服岐)の山の力を削ぐことにつながることはなかった。わざわざ「白猪」と断ってある。すなわち、正体は白い牛であったろう。牛のなかで、眼球が青白く、毛なみが白いものを「さめ」と呼んでいる。「名おそろしきもの。……狼、牛はさめ。……」(枕草子(能因本)・157段)とある。清少納言がおそろしがっているのは、「さめ」が鮫を思わせるからであろう。色が褪め落ちているところからそう呼ばれたものとも思われる。つまり、話はサメの話に転じている。巨大な猪を見てもそ知らぬふりをすることは容易なことではないと思うが、ヤマトタケルは感興を抑え、気持ちの高まりを冷めさせて登頂へと向かっている。もちろん、相手は神である。別の方策をとってくる。サメはサメでもオホヒサメ(大氷雨)(注6)で攻撃してきた。覚めていられなくなり、前後不覚状態に陥っている。這う這うの体で下山して「清泉」にたどり着いて一息ついた。おそらく、牛の「さめ」に出会ってからずっと息をしておらず酸素飽和度が低下していたのであろう。正気に戻って醒めることができている。これらのサメのメはいずれも乙類である。
ヤマトタケルの失敗は、油断して草那芸剣を置いてきたことにある。剣として草を薙ぎ倒す必要はないと考えて置いてきてしまったのであるが、持って来ていたらこのような苦難には会わなかったであろう。なぜなら、草那芸剣ほどの名刀であれば、柄に鮫皮が巻かれていたであろうから、それを「以」て対抗できたはずだからである。記の文でも不思議な言い回しが行われている。
……以二其御刀之草那芸剣一、置二其美夜受比売之許一而、取二伊服岐能山之神一幸行。
……其の御刀(みはかし)の草那芸剣(くさなぎのつるぎ)以て、其の美夜受比売(みやずひめ)の許(もと)に置きて、伊服岐能山(いふきのやま)の神を取りに幸行(いでま)しき。
ただ置いてきただけなのなら、例えば次のように記せばよい。
……置三其御刀之草那芸剣於二其美夜受比売之許一而、取二伊服岐能山之神一幸行。
其の御刀(みはかし)の草那芸剣(くさなぎのつるぎ)を持って来ていたなら、それを以て伊服岐能山(いふきのやま)の神を取ることができたのに、という含意が先行して述べられている。聞いている人は、モチテ……オキテと耳にすれば、あれ? モチテ……ユキテでないんだ、と気がつく仕掛けになっている。名刀、草那芸剣の全体像、ことにその持ち手(把)のところを思い描いている人々にわかりやすい話になっている。
把は鮫皮巻(金銀鈿荘唐大刀、唐時代、正倉院蔵、宮内庁ホームページhttps://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010088&index=0をトリミング)
ヤマトタケルは伊服岐の山のことを何だと思ってその「神」を取りに行ったのであろうか。草那芸剣は焼遺(焼津)の野火の難において草を薙ぎ倒すのに役に立っている。伊服岐の山では野火に巻かれることはないと思って出かけている。実際、そういうこともなかった。彼は「取」ることを目指している。草を薙ぎ倒してはいけないと思ったのであろう。薙ぎ倒すことなく取るものとして伊服岐の山で取りたかったのは何であろうか。
古来、薬草のゆたかな伊吹山で採取されていたとされる草にヨモギ(注7)がある。もぐさの原料である。花の咲く前にヨモギを刈り取り、乾燥して臼でくだいて入念に葉や茎を取り去って、葉の裏側に生えている綿毛だけを集めてお灸に使うもぐさができあがる。乾燥したヨモギの重さの200分の1程度であるとされている。野火の難のように薙ぎ倒してそのまま全部に火をつけるのではなく、採取→乾燥→綿毛収集の工程の後、それを固めてようやく火をつける。だから、草那芸剣は不要と判断したのであろう。「徒手直取」ことを目指した。そこにはちょっとした誤解があった。ムナデ(空手)は手に何も持たないこと、それは無防備なことと無収穫なことの両義がある。ヨモギを取りたいのであれば、鎌を持って行かなければならなかったのにそれがわからなかったということである。実際、その後のヤマトタケルの行程はご難続きである(注8)。もっぱら足の進まないことが問題となっている。「吾が足歩むこと得ずして、たぎたぎしく成りぬ」、「吾が足は三重に勾(まが)れるが如くして甚だ疲れたり」などと嘆息している。伊吹山でうまくヨモギを採取して足三里に灸(やいと)ができたならそのような顛末にはならなかったであろう。草那芸剣の話のヤキツ(焼遺・焼津)から、それに代わる鎌を持たないことによるヤキト(灸)(注9)の話へと転回している。
ヤマトタケルは、雹に降られて前後不覚に陥って下山している。「玉倉部之清泉」にたどり着いて休息し、正気に返っている。「玉倉部之清泉」については米原市の醒井ではないかとされているが詳細は不詳である。これまでのところ、玉倉部について検討されたことがない。錦織部(にしごりべ)・土師部(はじべ)・須恵部(すえべ)・弓削部(ゆげべ)といった部民制のように、玉倉部という部があったか不明である。しかし、あたかも玉倉部は実在したかに表記されている。徒手で来ていて手のことが気になっている。すると、タマクラベとは、タマクラ(手枕)のことを言っているのではないかと考えられる。腕枕である。いい人のため、美夜受比売のために腕を貸して枕にしてあげていたのであろう。腕をあげている姿勢を取るのであるが、伊服岐能山では上から大氷雨、雹が降ってきていたからそれを避けるために同じように手枕の姿勢に腕を上げていた。下山して逃れ、ようやく腕を下ろすことができた。腕を下ろして憩(息)(いこ)うところに清泉はあるか。湧き水として考えられるのは腕の腋(わき)である。腋汗をかく。憩うのに使うのは、腕を乗せる脇息(きょうそく)、挟軾(きょうしょく)、脇几(わきづき)、夾膝(案机、おしまづき)である。
やすみしし 我が大君の 朝とには い寄り立(だ)たし 夕とには い寄り立たす 脇几(わきづき)が下の 板にもが あせを(雄略記、記103)
この歌謡のアセは、囃子詞、吾背(あせ)、汗を掛けた使い方であろうと解されよう。
頭を載せたり雹を防ぐために用いていたタマクラ(手枕)を、今度は逆に休ませようとして脇息に置かれている。脇息は手を休める枕に当たっている。腋汗のことを清泉とし、居寤清泉としているのは、冷や汗をかいたということの謂いであろう。記ではその水を飲むことも浴びることもしていない。あげていた手を下ろしてリラックスして覚醒している。それをサメと言っていて、手枕して寝ていた自分の悪い夢から覚めたことが語られている。
脇息(一遍聖絵模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591576/15をトリミング)(注10)
以上、ヤマトタケルの伊服岐の山での難について縷述してきた。記の話は稗田阿礼が完全に記憶していたことを太安万侶が文章に書き起こしたものである。稗田阿礼は天武天皇の話していたのを丸暗記したわけであるが、天武天皇とて文字に書かれたものを覚えていたわけではなく、諳んじられていたものをまるごと自身の記憶に残して諳んじていたものであった。稗田阿礼は聡明であったが、それは話を納得したうえで細大漏らさず一言半句違えることなく口にすることができたということに他ならない(注11)。話を納得するとはどういうことか。話をしている人の話しっぷりを総合的に判断して、ヤマトコトバのうちに意味のすべてをきちんと理解するということである。その理解のためには、口頭での言語に裏付けとなる意味合いを認めて納得するということである。言語に重層性があってはじめてそれはそうだ、そのとおりだと納得がいく。今日の人が言葉について声になっている言葉と文字に書かれたものとを照らし合わせて確認することと実は類似する作業である。文字に慣れてしまった人にとって、無文字時代の言語活動の重層性のありようについていけず、一切顧みることがなくなって、別次元の事項を介入させて何ごとかわかった気になる向きがある(注1)が、的外れであろう。記紀に残されているのは話(咄・噺・譚)(story)であり、神話(myth)でも気象学の知識(meteorology)(注12)でも歴史(history)でもない。歴史叙述に欠かせないのは書記言語であるが、稗田阿礼の語り口を書き留めるのに一生懸命になっている太安万侶のどこに書記言語を自在にする姿が見えるのだろうか。
この伊服岐能山の難の話について、皇統を継がないことを申し述べたいがために都に帰還する前に皇子将軍の終焉を迎えさせようとしているとか、伊勢神宮の加護となる草那芸剣を持たずには地方神にも敗れるとか、それが熱田神宮に伝来する所以を示すための方便として構想されているといった後講釈はナンセンスの一言に尽きる。もしそのような思惑があったとして、なにゆえ設定が伊服岐能山でなければならないのか、説明のないままの議論は憶説以上に値しない。無文字の時代の人の思惟はそのようなものとは無縁であった。なぜなら、まるごと覚えなければ次の人に伝えることはできなかったからである。なぜまるごと覚えられるのか。なるほどと納得できるから覚え、一言半句でも過てばその話は話として通じなくなるから、その話のおもしろさをきちんと伝えるためにそのまま伝えたのであった。説明や理屈を言っても誰も聞きはしない。洒落を言い、頓智に頭を働かせ、耳にした人はおもしろいから瞬時に覚え、そして今度は伝える側に回った。それがたまたま無文字文化と文字文化のはざまに記し残されたために、上代の人々の思惟に近づく余地が文字どおり今に残されているのである。個々の話が何を言っているのかを探ること、そのことばかりに、上代人のものの考え方と一つになれる可能性は残されている。形而上学は不要である。
(注)
(注1)話の本質ではなく、外観を検討した議論は行われてきた。伊吹山の神を「賊徒」とする説(次田1924.)、「山の神」(上田1960.)、「気候」の問題(尾崎1966.)、「息長氏の祭る神」(吉井1977.)、「天武天皇の帝紀・旧辞の削偽定実」にも関わるとする説(寺川2012.)などが見える。数が少ない理由は、古事記に書いてあるわけではなく推測にすぎないからである。本居宣長・古事記伝をはじめ各解説に、なぜ伊吹山へ行ったのか問わない。テキストをそのままに読む姿勢として一応肯定されるべき態度である。けれども、なぜ伊吹山へ行ったのかがテキストに含み記されているとしたら話は別である。本稿は、そのことを論じている。
(注2)紀の該当記事は、牛のような猪ではなく大蛇(をろち)になっている。それでもそれを神の使いだとしている点は等しい。記では「大氷雨(おほひさめ)」が降ってきているが、紀では「氷(ひ)」が降ってきている。
是に、近江(あふみ)の五十葺山(いぶきやま)に荒ぶる神有ることを聞きたまひて、即ち剣を解(ぬ)きて宮簀媛(みやすひめ)の家に置きて、徒(たむなで)に行(い)でます。胆吹山(いぶきのやま)に至るに、山の神、大蛇(をろち)に化(な)りて道に当れり。爰(ここ)に日本武尊(やまとたけるのみこと)、主神(かむざね)の蛇(をろち)と化れるを知らずして謂(のたま)はく、「是の大蛇は、必(ふつく)に荒ぶる神の使(つかひ)ならむ。既に主神を殺すこと得てば、其の使者(つかひ)は豈(あに)求むるに足らむや」とのたまふ。因りて蛇を跨(またこ)えて猶(なほ)行でます。時に山の神、雲を興して氷(ひ)を零(ふ)らしむ。峯(みね)霧(き)り谷曀(くら)くして、復(また)行(ゆ)くべき路(ところ)無し。乃ち捿遑(さまよ)ひて其の跋渉(ふ)まむ所を知(おぼ)えず。然るに霧を凌(しの)ぎて強(あながち)に行く。行(まさ)に僅(わづか)に出づることを得つ。猶失意(こころまどひ)せること酔(ゑ)へるが如し。因りて山の下の泉の側(ほとり)に居(ま)して、乃ち其の水を飲(を)して醒(さ)めぬ。故、其の泉を号けて居醒泉(ゐさめがゐ)と曰ふ。日本武尊、是に始めて痛身(なやみますこと)有り。然(しかう)して稍(やくやく)に起きて、尾張に還ります。(景行紀四十年是歳)
於是、聞三近江五十葺山有二荒神一、即解レ剣置於二宮簀媛家一、而徒行之。至二膽吹山一、山神化二大蛇二当レ道。爰日本武尊、不レ知二主神化一レ蛇之謂、是大蛇必荒神之使也。既得レ殺二主神一、其使者豈足レ求乎。因跨レ蛇猶行。時山神之興レ雲零レ氷。峯霧谷曀、無二復可レ行之路一。乃捷遑不レ知三其所二跋渉一。然凌レ霧強行。方僅得レ出。猶失意如レ酔。因居二山下之泉側一、乃飲二其水一而醒之。故号二其泉一、曰二居醒泉一也。日本武尊、於是、始有二痛身一。然稍起之、還二於尾張一。
細部の違いは小咄の作り方の違いである。イブキヤマを「五十葺山」、「胆吹山」と両用に書いている。「五十葺山」という表記をあえてしているのは、山の特徴として連峰的な印象を与えるためであろう。そんな山の神は、ヲ(嶺)+ロ(助詞)+チ(霊)がふさわしいということになる。そのヲロチはまた、ヲ(嶺)+ロ(助詞)+チ(路)とも解されるから、ヤマトタケルはイブキヤマの神を取りたいのであれば、そのチ(路)、ルートをたどるべきであった。直線状に登っていく路ではなく、日光いろは坂のように蛇行しながら登っていく路ということである。彼は大蛇を「神之使」だと思っている。使者が来ているなら使者に従うのが見知らぬところへ赴く際の一番の拠りどころである。紀には、朝鮮半島からの使者を帰還させるのに「送使(おくるつかひ)」を派遣していたと記されている。地理に不案内な人を無事に届けようとする計らいである。それだのに無視して、「跨」して行ったのだから遭難するに決まっている。
そして、「氷(ひ、ヒは甲類)」を受けている。剣は宮簀媛のところに置いたまま「徒」に来ている。以前、焼津の野火の難の時、「火(ひ、ヒは乙類)」に対して剣で草を薙ぎ倒して難を逃れる術があったが、今度は上から降ってきていて仮に剣を持って行っていても対処できなかったであろう。「氷」は雹のことをいうのであるが、洒落を言っている。寒くて凍傷などになったわけではなく、「猶失意如レ酔。」とある。それは「日(ひ、ヒは甲類)」に当てられた熱中症に近い。そして、「因居二山下之泉側一、乃飲二其水一而醒之。」ことになっている。伊吹山の神を取りに行くのに「徒」に行ったら大蛇がいて、それは鎌首をもたげていたのに無視してしまった。ヨモギを大量収穫するためには鎌が必要だと教えてくれていたのだった。
「徒」の古訓タムナデは北野本等に見える。タ(手)+ムナ(空)+デ(手)と畳みかけている。手に何も持っていないということばかりか、記の話とは異なり、手は問題ではないということを示していると考えられる。注意を足三里の灸へ向けている。また、タム(廻)+ナデ(撫)の意も含んでいよう。「撫づ」には臼に搗いて粉にする意がある。日葡辞書に、「Comeuo nazzuru.(米を撫づる)米を搗く.」(439頁)とある。ヨモギからもぐさを得るには、何度も撫づる工程をふむ。大変な作業で、軸に廻旋させる踏臼(唐臼)を用いたと考えられる。下記の日本山海名物図会のような技術は古墳時代には伝来していたと考えられる。手で杵を搗く竪臼ではない。足が疲れるから出来上がったもぐさを使ってそのまま足三里に灸をすえるということであろう。「因居二山下之泉側一、乃飲二其水一而醒之。」とあるのは、水力を利用した添水唐臼(そうずからうす)を使えばいいのだと悟ったということかもしれないが、「飲」と書いてあって足に浸からせるとはないので違うようである。
左:唐臼(川崎市立日本民家園展示品)、右:添水唐臼(ウィキペディア、Andrevruas様「水力を使用した碓。「添水唐臼」(そうずからうす)、「バッタリ」などと呼ばれる。」https://ja.wikipedia.org/wiki/臼)
(注3)拙稿「古事記における動詞アフ(遇・逢)の表現について」参照。
(注4)主人のことをウシというのは、「大人(うし)、何ぞ憂へますこと甚(はなはだ)しき。」(履中前紀)といった例がある。そのことを基にした話として、垂仁紀にツヌガアラシトの説話がある。拙稿「古事記の天之日矛の説話について─牛を中心に─」参照。
(注5)言挙げについてはこれまでもたびたび論じられてきた。本居宣長・古事記伝に、「○言挙、……さて許登は、言か、又事の意にてもあるべし、阿宜は、論などの阿宜にて、事のさまあるべきさまを、云々と挙て言立るを、言挙と云なり、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/147、漢字の旧字体は改めた。)とある。古典基礎語辞典の「ことあげ【言挙げ】」の解説に、「言葉にして声高く言い立てること。」(499頁)、語釈に「自分の思うことを言葉に出してはっきり言うこと。言葉にしたことは現実になるという言霊だま信仰から、うかつに口に出すことは禁忌として避けた。」(500頁、この項、石井千鶴子)と簡潔に記されている。
これに対して、神の概念を持ち出して説明する向きがある。次田1924.に、「是は神の意志に反して、自己の意志を揚言する事を云つたものらしい。」(403頁。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918074/228、漢字の旧字体は改めた。)とあるのが早く、青木1989.では、日本書紀のコトアゲの用例について禁忌性を図示するに至っている。
「コトアゲ」の図(青木1989.125頁を一部改変)
このような考えは疑問である。「神の言という意識があるゆえに、人が発した場合、霊威がある言として禁忌性、反王権性が生じる」(同124頁)とするが、言葉を高らかに言うことは、それが事と等しいことなら咎め立てられることはなかろう。それを殊更に言い立てるのは、事と必ずしも一致しないことをあげつらうからに他ならず、だから宜しいことではないことになる。しばしば誤解されているが、言霊信仰とは言=事とすることをモットーにするという意味であり、そうしなければ無文字時代にファクトに対する信頼性は失われ、秩序が崩壊するからであった。人間が発する言葉に神性を認める必要はない。人々が言葉を交わすなかでその関係性のなかに導き出されるのが神の観念であり、それは言葉を交わした結果である。前提に据えることは本末転倒といえる。図に「神」、「神と人」、「人」と領域を設けながら隔てなく「コトアゲ」されていることについて何ら説明できていない。
言挙げは、わざわざ大声を出して言い放ってそれと規定してかかることが要点である。ありきたりの、当たり前のことについて、大声を出して言う必要はない。対してどう判断したらいいか迷うようなときに決めてかかろうとするとき、事態は声の大きなものの言うように動く。ヤマトタケルが伊吹山の山麓で言挙げしたのは、牛のような大きさの動物を猪だと決めてかかったのである。それがこの言挙げの主眼である。神の使いか正身(むざね)かは、実は話のうえでのトリックということになる。猪だと見てとればそれは神の使いになり、牛だと見てとればウシ(主人)のことだからそれは神の正身になる。ヤマトタケルがそうであったばかりでなく、この話を聞いている上代の聴衆にとってそういうことになっていた。彼らは皆、ヤマトコトバに生きていた人たちだからである。
(注6)「火雨」(天智紀九年四月、内閣文庫本)は諸本により「大雨」に校訂されているが、「火雨」という用字に誤りがあったと一概には言えない。本居宣長・古事記伝に、「大冰雨、遠飛鳥ノ宮ノ段にも、零二大氷雨一、とあり、和名抄に、文字集略ニ云ク、霈ハ大雨也、日本紀ノ私記ニ云ク、火雨ト、和名比左女、雨水同ジレ上ニ、今按俗ニ云比布留と見え、書紀に大雨甚雨淫雨など、みなひさめと訓り、【推古紀、天智紀などに、火雨とあるは、もと大雨とありけむを、後ノ人ヒサメとある訓を心得誤りて、大ノ字をさかしらに火に改めつるなるべし、和名抄に引る私記なるも同じ、又今ノ世俗に火の雨と云ことのあるも、氷の雨なり、】」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/147、漢字の旧字体は改めた。)とあるのは、さかしらごとである。「失火」(天智紀六年三月)、「出火」(斉明紀五年七月)をミヅナガレと訓んでいるのは一種の忌詞である。同様の発想で、雹の降ることをすぐに融けて蒸発することを願って記せば、「火雨」と書いて忌んでいたと考えられるのである。安藤1974.参照。なお、「火(ひ、ヒは乙類)」、「氷(ひ、ヒは甲類)」で別音である。
(注7)養老令・軍防令にある「熟艾」は、着火補助剤なのかお灸用のモグサなのか不明であるが、延喜式・典薬寮・中宮の臘月の御薬にも「熟艾四両」とある。百人一首にとられている「かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを」(藤原実方、後拾遺集、11世紀後半)とあるのはお灸用のものであろう。この歌の舞台を下野国とする説もあり、枕草子の「「まことにや、やがては下(くだ)る」と言ひたる人に、思ひだにかからぬ山のさせも草(ぐさ)誰(たれ)か伊吹(いぶき)の里は告げしぞ」(318段、柳原紀光筆本)の「やがては」を「下野に」とする本によっている。「かうやへ(高野へ)」(能因本、慶安本)、「かゝへ(加賀へ)」(前田本)とするものもある。ただし、下野国の伊吹山にてヨモギが名産であったとする記録はない。どこにでも生える草であり、和歌文学にばかり根拠を求めるのには無理がある。
さしぶの新芽(鳥取県ホームページ「むきばんだ花だより 11月」https://www.pref.tottori.lg.jp/secure/1152067/H30hanadayori11.pdf)
「伊服岐能山」のイブキは芽吹きのことを思わせる語である。サシモグサという言い方は、サシブ、今日のシャシャンボのことをいう語に連想が働く。サシブという名はその芽吹きの赤いことに因む語に見受けられる。火をさすように見立てたのだろう。同様に、モグサにも火をさすから、サシモグサと呼んだのではないかと類推される。掛詞や縁語を多用する和歌世界や中古文学において、イブキという音がサシモグサを呼んでいるだけとみるべきである。そんなイブキと呼ばれる山が近江と美濃の国境に位置するなら、口頭語に伝承された結果残っている古事記のなかに説話が展開されていて十分ということになる。なお、平野必大・本朝食鑑に「今、江州膽吹山の艾を以て上と為(す)。」とあり、江戸時代には盛んな産業となっていた。いつ頃からなのかは不明ながら、そこに生えていたヨモギがモグサにするのに適した品種であったとしている。
左:ヨモギ、中:伊吹艾草(平瀬徹斎 ・日本山海名物図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2555439/14をトリミング合成)、右:木曾街道六拾九次 柏原(歌川広重画、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/柏原宿からトリミング)
(注8)伊吹山の難によってヤマトタケルは死へと向かっているとする解説が多い。小野2019.に、「強い聖性をもつ伊服岐能山の白猪神に一貫して殺意を向け、言挙することで倭建命は白猪神との対峙に失敗し、死に至る。……天皇に忠実でありながらも「言」を誤認する人物である……倭建命は……、天皇の「東の方の十二の道の荒ぶる神とまつろはぬ人等とを言向け和し平げよ」という詔と「死ねと思ふ」心との二つの意思を完遂するために、東征からも言向からも外れた伊服岐能山の神討伐に赴き、神の聖性を侵犯する「言挙」によって命を落としたと考えられる。」(156頁)などとある。このような論理的思考は古事記の語りにそぐわない。くり返し読み直すことが可能な書記文ではないからである。稗田阿礼をはじめ言い伝えを話すとき、一回しか言わずに一回しか聞かない。その一回性のうちに前段のことなど思い出す暇もなく逐次合点が行かなければならない。それが話の“場”である。他ではなく「伊服岐能山」でなければならない必然性がなければ、伝承され続ける「話」にならない。
道行きがうまくいかなくなったことが述べられている。「当芸野(たぎの)」、「杖衝坂(つゑつきさか)」、「三重村(みへむら)」を過ぎ、「能煩野(のぼの)」で歌を3首歌った時に、「此時、御病、甚急。」となっている。何の病気だったかわからない。「取二伊服岐能山之神一幸行」ことに失敗して「零二大氷雨一、打二‐或倭建命一」たから病を得たと考えることを否定はしないが、その程度の粗筋の捉え方に満足していては話(咄・噺・譚)としてのおもしろみにたどり着くことはできない。粗筋だけで良いのなら、話は要らない。
(注9)イ音便化する前のヤキトと記される資料は管見に入らないが、焼津がヤイヅとなったように、ヤイトの古形はヤキトであったと考えられる。
(注10)脇息には、図のような湾曲したもののほかに直線状のものもある。この話で語られているのは手枕にしていたものを下ろして憩わせることだから、娶(ま)く腕の形に対応した湾曲状のものがふさわしい。現品としては平安時代の刻文脇息が東寺に伝えられている。
(注11)拙稿「稗田阿礼の人物評「度目誦口拂耳勒心」の訓みについて─「諳誦説」の立場から─」参照。
(注12)よく知られるように、「神話」という語は明治時代中期になってはじめて使われるようになった語である。地域の気象を語る風土記的記述をした理由も見つからない。
(引用・参考文献)
青木1989. 青木周平「倭建命東征伝承と「言擧」」『古事記年報』第31号、古事記学会、平成元年。(『青木周平著作集 上巻 古事記の文学研究』おうふう、2015年所収)
安藤1974. 安藤正次『安藤正次著作集 第五巻 日本文化史論考』雄山閣、昭和47年。
上田1960. 上田昭『日本武尊』吉川弘文館、昭和35年。
尾崎1966. 尾崎暢殃『古事記全講』加藤中道館、昭和41年。
織田1998. 織田隆三「モグサの研究(10)─産地について(1)─」『全日本鍼灸学会雑誌』第48巻第4号、1998年4月。科学技術情報発信・流通総合システムhttps://doi.org/10.3777/jjsam.48.371
小野2019. 小野諒巳『倭建命物語論─古事記の抒情表現─』花鳥社、2019年。
烏谷2011. 烏谷知子「古事記の言─「言向」「言挙」への展開─」『学苑』第843号、2011年1月。昭和女子大学学術機関リポジトリ http://id.nii.ac.jp/1203/00004921/
岸根2017. 岸根敏幸「古事記神話と言霊信仰(後編) 他者に幸禍をもたらす発言、および、「言挙げ」」『福岡大學人文論叢』第49巻第3号、2017年12月。福岡大学機関リポジトリhttp://id.nii.ac.jp/1316/00004245/
次田1924. 次田潤『古事記新講』明治書院、大正13年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918074
寺川2012. 寺川真知夫「伊服岐能山の神と倭建命」『万葉古代学研究年報』第10号、2012年3月。奈良県立万葉文学館http://www.manyo.jp/ancient/report/
吉井1977. 吉井巌『ヤマトタケル』学生社、昭和52年。
(English Summary)
Kojiki has a story about YAMATOTAKERU taking refuge inside Mt. Ibuki. In this paper, We will clarify the reason that he could not gather mugwort, which were the raw material of moxibustion, with his bare hands. Since ancient Japanese have recited the story of Kojiki, it must have been formed so that the content in it could be understood just by listening to the words. They used some Yamato kotoba of the same sound at the same time under various meanings, as a wisdom of the no-letter era and constructed one tale. Only by doing so, it was adjusted as a tale that could be completely convinced by each other.