古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

法興寺蹴鞠 其の一

2012年01月26日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 皇極紀にある「打毱」は、中臣鎌足と中大兄とが厚誼を通ずるきっかけとなった出来事として有名である。脱げた靴を拾ってあげたことが感動的な出来事として扱われてきた。二人は出会い、後に大化改新へとつながった。藤氏家伝には「蹴鞠」とある。

 中臣鎌子連(なかとみのかまこのむらじ)を以て神祇伯(かむのつかさのかみ)に拝(め)す。再三(しきり)に固辞(いな)びて就(つかへまつ)らず。疾(やまひ)を称(まを)して退(まかりい)でて三嶋に居(はべ)り。……中臣鎌子連、人と為(な)り忠正(ただ)しくして、匡(ただ)し済(すく)ふ有り。乃ち、蘇我臣入鹿(そがのおみいるか)が、君臣(きみやつこらま)長幼(このかみおとと)の序(ついで)を失ひ、社稷(くに)を▲(門構えに視の旧字)△(門構えに兪)(うかが)ふ権(はかりこと)を挟(わきばさむ)ことを憤(いく)み、歴試(つた)ひて王宗(きみたち)の中(みなか)に接(まじは)りて、功名(いたはり)を立つべき哲主(さかしききみ)を求む。便ち、心を中大兄に附くれども、▼(足偏に流の旁部)然(さかり)」て未だ其の幽抱(ふかきおもひ)を展(の)ぶること獲ず。偶(たまたま)中大兄の法興寺(ほふこうじ)の槻(つき)の樹の下(もと)に打毱(まりく)うる侶(ともがら)に預(くはは)りて、皮鞋(みくつ)の毱の隨(まにま)に脱け落つるを候(まも)りて、掌中(たなうら)に取り置(も)ちて、前(すす)みて跪(ひざまづ)きて恭みて奉る。 中大兄、対(むか)ひ跪きて敬(ゐや)びて執りたまふ。▽(玄偏に玄)(これ)より、相(むつ)び善(よ)みして、倶に懐(おも)ふ所を述ぶ。既に匿(かく)るる所無し。後に他(ひと)の頻に接(まじ)はることを嫌(うたが)はむことを恐りて、倶に手に黄巻(ふみまき)を把りて、自ら周孔(しうこう)の教(のり)を南淵先生(みなぶちのせんじやう)の所(もと)に学ぶ。遂に路上(みちのあひだ)、往還(かよ)ふ間(ころほひ)に、肩を並べて潜(ひそか)に図る。相協(かな)はずといふことなし。(皇極紀三年正月条)

 岩波書店の大系本日本書紀頭注に、「毱は鞠に同じで、まり。打毱は打毬をもいう。打毬には二義があり、一に騎馬で曲杖をもって毬をうつポーロ風の遊戯をいい、荊楚歳時記や史記正義では、蹴鞠(けまり)をいうという。蹴鞠は数人が一団となり、両団が相対して、まりを蹴る競技。競馬の打毬は平安朝に行われたが、ここのは蹴鞠のこと。家伝に『儻遇于蹴鞠之庭』とある。クウルの訓、岩崎本の古い朱の傍訓による。蹴の古い活用は、奈良時代の蹴散、クヱハララカスに見られるように、ワ行下二段活用。ここは、その連体形でクウルの実例とみるべきもの」(ワイド版岩波文庫、217頁)と適切な解説が付されている。一方、小学館の新全集本日本書紀頭注には、「『打毱』は『和名抄』にマリウチの訓がある。蹴鞠(けまり)とは異なり、打杖で毱を打って勝負を争う、今日のポロまたはホッケー風の競技。本条もこれであろう」(86頁)とある。新全集本が引くのは、二十巻本の和名抄である。「打毬 唐韻に云はく、毬〈音求、打毬。内典に或は之を謂ひて、拍毬といふ。師説に云はく、萬利宇知(まりうち)といふ〉は、毛丸打つ者也といふ。劉向別録に云はく、打毬は昔黄帝の造る所なり、本兵勢に因りて之れを為(す)といふ」とある。これを引きずっての解釈である。十巻本にはその記述はなく、「蹴鞠 伝玄弾棊賦序に云はく、漢の成帝之れを好む也といふ〈世間に云はく、末利古由(まりこゆ)といふ。蹴字千陸反、字亦◇(就冠に足)に作る。公羊伝注に云はく、蹴鞠は足を以て逆に蹈む也といふ〉」とある。大系本頭注にあるとおり、漢語の「打毬」には二義あって、後にダキュウと呼ばれるポロ風の競技と、今日まで伝わる蹴鞠とが、同じ漢語で表されていた、混同して用いられると考えるのが妥当であろう。そう考えた人は、狩谷棭斎である。
 箋注倭名抄の二十巻本和名抄の「打毬」の注に、「……七略別録二十巻、漢劉向撰、隋書・唐書に見ゆ。今伝本無し。荊楚歳時記に、打毬・鞦韆・施鈎之戯、注に劉向別録を引きて云はく、蹴鞠は黄帝の造る所、兵勢の本也といふ。或に云はく、戦国に起るといふ。初学記に打毬と題し、別録を引く。歳時記と同じ。後漢書梁冀伝注を引きて、蹴鞠は伝言に黄帝の作る所、或に曰く、戦国の時に起るといふ、蹴鞠は兵勢也とす。太平御覧に同じ。按ずるに歳時記・初学記、打毬の注に別録を引く。其の文、蹴鞠に作る。則ち二書に、所謂、打毬は、即ち蹴鞠なり。拍鞠に非ざる也。而して拍鞠は亦、打毬と名づく。唐に打毬楽有り。其の伎、曲杖を執りて毬子を打つの勢と為す。又、馬に乗りて毬子を打つ者有り。封氏聞見記に載す、景雲中に吐蕃……。源君、其の名の同じなるを見、歳時記・初学記に打毬を以て誤りて拍鞠とす。遂に別録して蹴鞠の字に改む。打毬と作るは是に非ず。又、諸書に引く所、皆昔の字無く、疑ふらくは是は字の譌り、或は黄字と形似て誤衍する也。……」とあって、「蹴鞠」の項を後で付けたように書いてある。(筆者の訓読は怪しいので原文(96~99/116)にて確かめられたい。なお、文中の「源君」とは、和名抄を編んだ源順である。)ここに和名抄は、十巻本、二十巻本のどちらが先なのかという問題が生じるところであるが、ここでは等閑視する。狩谷棭斎は、「蹴鞠」の項では、動詞「蹴う」の活用について論じており、さすが碩学と頭が下がる。さらに、「拍毱は涅槃経・梵網経・喩伽論に見ゆ。按するに、毬毱は一声の転、蓋し同字也。然も二字皆、説文に載せず。即ち、鞠の俗字なり。慧琳音義に、毱は亦、毬に作る。並びに俗字也。今俗に呼ぶ求と音する者は、諸字書に竝び無く、毬字は正しくは鞠に作る」などとも説明してある。(筆者は、棭斎の記述する漢籍原典に当たってはいない。詳細は確認されたい。)いずれにせよ、「打毬」なる字が書いてあるから、それはダキュウ(ポロやホッケー)であると単純化して考えるのは、本邦でも今日の人に限られることかもしれないと警戒が必要であると思われる。ダキュウか、蹴鞠か、いずれであるかを冷静に考えたい。
蹴鞠図(小松茂美編『年中行事絵巻 日本の絵巻8』中央公論社、昭和62年、18頁)
小学館本に載る「打毱(正倉院宝物)」図(花氈より)
 ダキュウは、西宮記に、「雅楽幡を挙げて楽を奏す」などと記されるとおり、左右楽を伴って華やかに賑やかに騒々しく行われる宮中行事として伝わっている。その最初の記事は、万葉集の948・949番歌の左注にみえる。

 四年丁卯の春正月、諸(もろもろ)の王(おほきみ)・諸の臣子(おみのこ)等に勅して、授刀寮(じゆたうれう)に散禁(さんきん)せしめし時に、作れる歌一首并せて短歌
 真葛(まくず)延(は)ふ 春日の山は うち靡く 春さりゆくと 山の上(うへ)に 霞た靡き 高円(たかまと)に 鴬鳴きぬ 物部(もののふ)の 八十伴(やそとも)の壮(を)は 雁が音の 来継ぐこの頃 かく継ぎて 常にありせば 友並(な)めて 遊ばむものを 馬並めて 往(ゆ)かまし里を 待ちかてに 吾がせし春を かけまくも あやに恐(かしこ)く 言はまくも ゆゆしく有らむと 予め 兼ねて知りせば 千鳥鳴く 其の佐保川に 石(いは)に生(お)ふる 菅(すが)の根採りて しのふ草 はらへてましを 往(ゆ)く水に 禊(みそき)てましを 天皇(おほきみ)の 御命(みこと)恐(かしこ)み ももしきの 大宮人の 玉桙の 道にも出でず 恋ふるこの頃(万948)
 反謌一首
 梅柳 過ぐらく惜しも 佐保の内に 遊ばむことを 宮もとどろに(万949)
 右は、神亀四年の正月に数(あまた)の王子(おほきみ)、及び諸の臣子等の春日野に集ひて、打毬(うちまり)の楽(たのしび)を作(な)す。其の日、忽(たちまち)に天は陰り雨ふり雷なり電(いなびかり)す。この時に、宮中に侍従(じじゆ)、及び侍衛(じゑい)無し。勅して刑罰(つみ)に行ひ、皆授刀寮に散禁して、妄(みだ)りに道路(みち)に出づることを得ずあらしむ。時に悒憤(おぼほ)しく、即ちこの歌を作れり。作者は未だ詳らかならず。
打毬(宮内庁様HP「打毬」記事(http://www.kunaicho.go.jp/culture/bajutsu/dakyu.html)
 宮中から人々がいなくなるほどの大スポーツ大会を勝手に催したらしい。職務をさぼって大騒ぎ、大はしゃぎをし、大目玉を食らってしょんぼりおとなしくしている風情を歌っている。喧噪と静寂が対比されている点が、歌の眼目になっている。ポロとしての打毬の様子は、2015年5月30日、天皇皇后両陛下のご傘寿の賀の記念として、安倍晋三首相ら現職と歴代の三権の長、閣僚約160名を皇居に招いて、母衣引ともども古式馬術を披露、観覧あそばされたことで記憶に新しい。古式打毬については、「青森の魅力 騎馬打毬―紅白舞いて、ちはやぶる(八戸市)―」も参照されたい。
 他方、蹴鞠は、懸りと呼ばれる木の下で、丸く円を描くように並び立って鞠を蹴り合う遊戯で、私語が禁じられている。現在の蹴鞠儀式(「京都のITベンチャーで働く女の写真日記」様サイト)でも、観衆がいるから声が上がっているに過ぎない。蹴る人が合図に発するアリ(また、ヤクワ、ヲウとも)という言葉以外、無言のゲームである。平安末期の蹴鞠故実書、藤原成通(承徳元年(1097)~ 応保2年(1162)の成通卿口伝日記に、「一鞠に立てしげく物いふべからず。いたり様にものをしへすべからず。たかくわらふべからず。さりとてにがりたるけしきにみゆまじ。心におもしろくおもへ。」(90~91/130)(塙保己一編『群書類従第十九輯』続群書類従完成会発行、昭和7年、397頁)、作者不詳の蹴鞠百五十箇条に、「百三十八 まりの場に出ては。こひごゑの外。うむの事いわぬものなり。」(塙保己一編・太田藤四郎補『続群書類従第十九輯中』同完成会発行、大正14年、76頁)、室町時代の飛鳥井雅康(二楽軒宋世)(永享8年(1436)~永正6年(1509))の蹴鞠百首和歌には、「ありといふ 声より外に いふ事は 鞠のかかりに せぬとこそ聞け」(同じく上書に編まれる)とある。次に蹴る合図にアリという掛け声をかけることだけが許されていた。他に、ヲウ、ヤクワといった掛け声のあったことは、古今著聞集・巻十一に、「毱を受くるにはヤクワといひ、アリといひ、ヲウと云ふ」とあって知られる。
 皇極紀の記事には、鎌足が中大兄の「皮鞋の毱の随に脱け落つるを候ひ、掌中に取り置ち、前みて跪き恭みて奉る」に対し、中大兄は「対ひて跪き、敬びて執りたまふ」とある。終始、無言である。すなわち、パントマイムである。そんな無言劇が演じられた背景を想定するとすれば、舞台設定として、おしゃべりが禁じられている蹴鞠だからであろう。そして、「皮鞋の毱の随に脱け落つる」とあるのだから、皮鞋と毱とが当初から密接な関係になければならない。蹴ったから一緒に飛んで行ったのである。ポロやホッケーの場合、「杖の毱の随に[手カラ]抜け落つる」ということになるのではないか。さらに、その杖は箸よりも格段に長いから、「掌中に取り置ちて」という訳にはいかないであろう。
 鎌足は、天皇家に蘇我氏が並び立っている政治体制を打破したいと考えている。それは、冠位十二階の制定以来、蘇我氏も位を授ける側にあるという通念を打破しなければならない。当たり前だと思われていることを覆すには、たくさんのことを語らなければならない。しかし、世は蘇我氏が牛耳っており、妙な動きが知れれば中大兄ともども身の危険にさらされる。神祇伯を固辞して出仕しなかったり、南淵請安先生のところへ勉強に行くふりをして道々二人だけで語らう時間を作るなど、蘇我氏側、すなわち、時の政権側に悟られないように腐心している。皇極紀の「打毱」の記事は、たくさん話したい→無言劇→たくさん話す、という流れの結節点になっているといえる。きわめてわかりやすい。
 紀の執筆者は、「打毱」という語の、喧騒と静寂、饒舌と沈黙の両者がまとめられている点に興味をもち、わざわざ「打毱」と記したものと考えられる。もし、皇極紀の「打毱」がポロ風の競技とすると次のような矛盾にも陥る。鎌足と中大兄はポロの最中にふつうに会話を交わすことができる。そのようにして意気投合したと仮定すると、話が蘇我氏側に聞こえてしまって直ちに拘禁されることになる。戦前の日本や、スターリン時代のソ連をイメージしてみればわかるように、恐怖政治時代なのである。(後の天武天皇時代も十分に恐怖政治時代であると筆者は考えている。)すなわち、話をしているという形式だけで、クーデターを計画しているという内容まで表すという意味合いを込め、紀の記述は行われている。逆に、ポロ競技の大騒ぎの最中にパントマイムを演じているとすると、あまりにも場違いで不自然であり、それこそ蘇我氏側に怪しまれるだろう。偶然にも、中大兄は、ことばを交わすことが禁じられている蹴鞠をしていた。皇極紀にはきちんと、「偶に」と記されている。話をせずに好を交わす千載一遇のチャンスであったことが明示されている。「随」や「偶」など、語一語に意味を込めながら録していく史(ふひと)の姿勢は、司馬遷を髣髴とさせるものがあるのである。(2015年6月23日、7月1日加筆、つづく)

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