古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

乙巳の変の三者問答について 其の一

2020年03月26日 | 古事記・日本書紀・万葉集
(趣旨)
 大化改新の発端となった乙巳の変、蘇我入鹿を暗殺するシーンにおいて、入鹿、皇極天皇、中大兄の間で交わされた問答について、これまで十分な検討は行われず等閑視されてきた。本稿では、その三者問答の内容について吟味し、飛鳥時代の人々において対話が納得されるものであったことを明らかにする。

一、乙巳の変の三者問答

 大化改新の発端となった乙巳の変と呼ばれるクーデターは、日本書紀に次のように記されている。

 戊申に、天皇、大極殿(おほあむどの)に御(おは)します。古人大兄、侍り。中臣鎌子連、蘇我入鹿臣の、人と為り疑(うたがひ)多くして、昼夜剣(たち)持(は)けることを知りて、俳優(わざひと)に教へて方便(たばか)りて解かしむ。入鹿臣、咲(わら)ひて剣を解(ぬ)く。入りて座(しきゐ)に侍り。倉山田麻呂臣、進みて三韓(みつのからひと)の表文(ふみ)を読み唱(あ)ぐ。是に、中大兄、衛門府(ゆけひのつかさ)に戒めて、一時(もろとも)に倶(とも)に十二(よも)の通門(みかど)を鏁(さしかた)めて、往来(かよ)はしめず。衛門府を一所(ひとところ)に召し聚めて給禄(ものさづ)けむとす。時に、中大兄、即ち自ら長き槍(ほこ)を執りて、殿の側(かたはら)に隠れたり。中臣鎌子連等、弓矢を持ちて為助衛(ゐまも)る。海犬養連勝麻呂をして、箱の中(うち)の両(ふた)つの剣を佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田とに授けしめて曰く、「努力々々(ゆめゆめ)、急須(あからさま)に斬るべし」といふ。子麻呂等、水を以て送飯(いひす)く。恐りて反吐(たま)ふ。中臣鎌子連、嘖めて励しむ。倉山田麻呂臣、表文を唱(よみあ)ぐること将に尽きなむとすれども、子麻呂等の来ざることを恐りて、流(い)づる汗身に浹(あまね)くして、声乱れ手動(わなな)く。鞍作臣、怪びて問ひて曰く、「何故か掉(ふる)ひ戦く」といふ。山田麻呂、対へて曰く、「天皇に近つける恐(かしこ)みに、不覚(おろか)にして汗流づる」といふ。中大兄、子麻呂等の、入鹿の威(いきほひ)に畏(おそ)りて、便旋(めぐら)ひて進まざるを見て曰はく、「咄嗟(やあ)」とのたまふ。即ち子麻呂等と共に、出其不意(ゆくりもな)く、剣(たち)を以て入鹿が頭肩を傷(やぶ)り割(そこな)ふ。入鹿、驚きて起つ。子麻呂、手を運(めぐら)し剣を揮(ふ)きて、其の一つの脚を傷りつ。入鹿、御座(みもと)に転(まろ)び就(つ)きて、叩頭(の)みて曰さく、「当(まさ)に嗣位(ひつぎのくらゐ)に居(ましま)すべきは天の子(みこ)なり。臣(やつこ)罪を知らず。乞ふ、垂審察(あきらめたま)へ」とまをす。天皇、大きに驚きて、中大兄に詔して曰はく、「作(せ)む所(すべ)知らず。何事か有りつるや」とのたまふ。中大兄、地(つち)に伏して奏(まを)して曰さく、「鞍作、天宗(きむたち)を尽し滅して、日位(ひつぎのくらゐ)を傾むけむとす。豈(あに)天孫(あめみま)を以て鞍作に代へむや」とまをす。蘇我臣入鹿、更(また)の名は鞍作。天皇、即ち起ちて殿の中に入りたまふ。佐伯連子麻呂・稚犬養連網田、入鹿臣を斬る。是の日に、雨下(ふ)りて潦水(いさらみづ)庭(おほば)に溢(いは)めり。席障子(むしろしとみ)を以て、鞍作が屍(かばね)を覆ふ。古人大兄、見て私(わたくし)の宮に走り入りて、人に謂ひて曰く、「韓人(からひと)、鞍作臣を殺しつ。韓の政に因りて誅(つみ)せらるるを謂ふ。吾が心痛し」といふ。即ち臥内(ねやのうち)に入りて、門(かど)を杜(さ)して出でず。(戊申、天皇御大極殿、古人大兄侍焉。中臣鎌子連、知蘓我入𢉖臣、為人多疑、晝夜持劔。而教俳優、方便令解、入𢉖臣、咲而解劔、入侍于𫝶。倉山田麻呂臣、進而讀唱三韓表文。於是、中大兄、戒衞門府一時倶鏁十二通門、勿使往来、召聚衞門府於一所、将給禄。時中大兄、即自執長槍、隱於殿側。中臣鎌子連䒭、持弓矢而為助衛。使海犬養連勝麻呂、授箱中兩劔於佐伯連子麻呂与葛城稚犬養連䋄田、曰、努〻力〻、急湏應斬。子麻呂䒭、以水送飯、𢙢而反吐、中臣鎌子連、嘖而使勵。倉山田麻呂臣、𢙢唱表文将盡而子麻呂䒭不来、流汗浃身、乱聲動手。鞍作臣、𢘪而問曰、何故掉戰。山田麻呂對曰、𢙢近天皇、不覺流汗。中大兄、見子麻呂䒭畏入𢉖威便旋不進、曰、咄嗟。即共子麻呂䒭出其不意、以劔傷割入𢉖頭肩。入𢉖驚起。子麻呂、運手揮劔、傷其一脚。入𢉖、轉就御𫝶、叩頭曰、當居嗣位天之子也、臣不知罪、乞𡸁審察。天皇大驚、詔中大兄曰、不知所作、有何事耶。中大兄、伏地奏曰、鞍作盡滅天宗将傾日位、豈以天孫代鞍作乎。蘇我臣入鹿、更名鞍作。天皇即起、入於殿中。佐伯連子麻呂・稚犬養連䋄田、斬入𢉖臣。是日、雨下潦水溢𨓍、以席障子䨱鞍作屍。古人大兄、見走入私宮、謂於人曰、韓人煞鞍作臣、謂因韓政而誅。吾心痛矣。即入臥内、杜門不出。)(皇極紀四年六月)

 蘇我入鹿暗殺の記事としてよく知られているものの、はたして本当に理解されてきているのであろうか。すべては三者の問答、蘇我入鹿の訴え、皇極天皇の問い、中大兄の答えに収斂している。そこが問題である。

鞍作(入鹿):「当(まさ)に嗣位(ひつぎのくらゐ)に居(ましま)すべきは天の子(みこ)なり。臣(やつこ)罪を知らず。乞ふ、垂審察(あきらめたま)へ」(当居嗣位天之子也、臣不罪、乞垂審察。)
皇極天皇:「作(せ)む所(すべ)知らず。何事か有りつるや」(不作、有何事耶。)
中大兄:「鞍作、天宗(きむたち)を尽し滅して、日位(ひつぎのくらゐ)を傾むけむとす。豈(あに)天孫(あめみま)を以て鞍作に代へむや」(鞍作尽滅天宗、将日位、豈以天孫鞍作乎。)

 蘇我入鹿の訴えかけは、皇位にあるべきなのは天の子であって、私のような下僕には関係ないこと、私にどんな罪があるのか知りません、明らかにしてください、というものである。「当居嗣位天之子也」と言及しているところから、そもそもが内心に含むところがあったとも考えられるが、それが入鹿、天皇、中大兄の3者面談のなかで、つつきほじくり返されるような話ではないように感じられる。つづく天皇の言は、まず、どうしたらいいのか、式次第にない事態が出来して自分はどうしたらいいのかわからない、という発言になっている。そして次に、何があったのか、と状況を確認しようと問うている。この切傷計画について、皇極天皇は知らされていなかったとともに、切傷現場にあってもすぐには適切な判断を行おうとして聞き取り調査をしているとわかる。それに対して中大兄は答え、即座に問答は終了、完結して天皇は引き籠ってしまっている。天皇は中大兄の返事を聞いただけで事態を瞬時に理解、掌握し、“正しく”実行して引きこもった。わずかな回答ばかりで、完全に納得がしたということである。

二、「不知所○」における場所を表わす「所」

 皇極天皇は、中大兄に言っている。「不知所作、有何事耶」。これは会話文である。「所」という字が入っている。この字をトコロと訓むことについては熟考されなければならない。漢文の訓読に助字の「所」をトコロと訓む習慣が生まれて以降、何の不思議もなくトコロと訓んでいるが、もともとのヤマトコトバにトコロとは、場所を表す言葉であった。この個所でも、大極殿の場所について皇極天皇は何か言いたいことがあって発言している可能性がないわけではない。この発語の意味を確定させるために、発語されたままの唯一絶対の言葉の復元が求められる。
 日本書紀中に、「不知所○」とある「所」を場所の意とする例はいくつか見られる。その場合、飛鳥時代においてもトコロと訓む。

 於是、彦火火出見尊、不知所求。(神代紀第十段一書第一)
 是に、彦火火出見尊、求むる所を知らず。

 この例は、彦火火出見尊が「横刀(たち)を以て鉤(ち)を作りて、一箕(ひとみ)に盛りて兄(このかみ)に与ふ」ことまでしても受け取らないで、もと自分が持っていた鉤を返せと責めたてたときのことである。もとの鉤はどこにあるのか、見当がつかなくて途方に暮れている。「所」は場所を表している。釣り糸を垂れた場所は潜って探したのであろう。そこにはなかった。魚がくわえて持って行ってしまった。どの魚かわからないし、その魚がどこへ泳いで行ったかもわからない。だから、この例では、「所」をトコロと訓んで正しい。それでもどこかと探している光景として、「但(ただ)憂へ吟(さまよ)ふことのみ有(ま)す。」と続けられている。

 爰王忽失道、不知所出。(景行紀四十年是歳)
 爰(ここ)に王(みこ)、忽(たちまち)に道を失(まど)ひて、出づる所(ところ)を知らず。

 日本武尊が、信濃の山中で、白い鹿を蒜を眼にあてて殺した時、道がわからなくなって「出づる所を知らず」こととなっている。出口の場所がわからないのだから、トコロと訓むことが正当である。

 仍遁山壑、不知所詣。(継体前紀)
 仍りて山壑(やまたに)に遁(にげほどはし)りて、詣(いま)せむ所(ところ)を知らず。

 皇統が絶えたので、遠い親戚筋に当たる倭彦王(やまとひこのおほきみ)に継嗣してもらおうと、礼を尽くしてたくさんの兵隊で迎えようとしたところ、かえって怖がられ遁走された。どこへ逃げ隠れたのかその場所がわからないことを言っていて、トコロと訓んで正しい。

 其南加羅、蕞爾狭小、不能卒備、不知所託。(欽明紀二年四月)
 其の南加羅(ありひしのから)は、蕞爾(ちひさ)く狭小(すこ)しきにして、卒(にはか)に備ふること能はずして、託(つ)く所を知らざりき。

 新羅に滅ぼされた理由は、新羅がただ強かったからではなく、南加羅は小国だったため、すぐに防御態勢をとることも、他に同盟したり合従することもできなかったためであるという。仮に新羅に対抗するために他国と同盟するにしても、その寄託先と不平等条約を結ぶことになり、併呑されてしまうということである。国の存亡にかかわる重大事をどこに託せばいいかわからないという意味だから、場所をいうトコロという訓で正解である。

 小児忽亡、不知所之。(欽明紀六年十一月)
 小児(わらは)忽に亡(う)せて、之(ゆ)ける所を知らず。

 子どもがすぐにいなくなって、どこへ行ったかわからなかったという意味である。場所のことだからトコロと訓んで正しい。

 或有逃亡不知所向者。(崇峻前紀用明二年七月)
 或いは逃げ亡(う)せて向(い)にけむ所を知らざる者有り。

 ある人は、逃亡してどこへ行ったかわからない者もあったという意味である。在所知れずになっていて、場所のことだからトコロと訓むのがふさわしい。

 以消勿等皆散之、不知所如。(天武紀七年是年)
 以(ここをも)て消勿(せうもつ)等、皆散(あか)れて、如(い)にけむ所を知らず。(天武紀七年是年)

 上の例に同じである。ここで用いられている「如」字は、往(ゆ)くの意である。

三、「不知所○」における場所以外を表わす「所」

 一方、「所」が漢文の助字で、場所を示さない例も多くみられる。場所を表わす以外の「不知所〇」の例を見る。

 於是、皇后不知所問之意趣、輙対曰、(垂仁紀四年九月)
 是に、皇后(きさき)問ふ意趣(こころ)を知ろしめずして、輙(すなは)ち対へて曰く、

 「所問」には助動詞ル・ラルのニュアンスを含んでおり、「問はせる意趣を知ろしめずして、」と訓んでも良いであろう。以下の例を見ると、そのほうが適訓かもしれない。

 聞きつやと 妹が問はせる 雁(かり)が音(ね)は まことも遠く 雲隠るなり(万1563)
 聞きつやと 君が問はせる 霍公鳥(ほととぎす) しののに濡れて 此(ここ)ゆ鳴き渡る(万1977)

 是阿賢移那斯・佐魯麻都……姧佞之所作也。(欽明紀五年三月)
 是(これ)阿賢移那斯(あけえなし)・佐魯麻都(さろまつ)の、姧佞(かだみいつはれる)が作(す)る所なり。

 同様に助字「所」をトコロと訓んでいる。意味としては、これはアケエナシ・サロマツ2人の、姧佞の心がために生じたことである、という意味である。その意味をこのように訓ずることはいただけない。無文字時代の口頭言語を基礎にして出来上がっているヤマトコトバにおいて、抽象的な言葉を主語に据えて文章とすることには違和感がある。そして、「姧佞」は、カダミイツハルことであって、カダミイツハルことではない。カダミイツハルについては、ほかに以下のようなものがあり、目的語で使われている。

 倶懐姧偽誘説。(欽明紀五年二月)
 倶(とも)に姧偽(かだみいつはり)を懐きて誘(わかつ)り説く。
 多行姧佞、任那難建、海西諸国必不獲事。(同三月)
 多く姧佞(かだみいつはれること)を行はば、任那も建つこと難く、海西(わたのにし)の諸国(くにぐに)は、必ず事(つかへまつ)ること獲じ。
 是上欺天朝、転成姧佞也。(同三月)
 是(これ)上(かみ)は天朝(みかど)を欺きまつりて、転(いよいよ)姧佞(かだみいつはれること)を成すなり。

 「所作」は、神代紀第七段一書第三に、「石凝戸辺所作八咫鏡、……天明玉所作八坂瓊之曲玉、……天日鷲所作木綿」とあって、「石凝戸辺が作(す)れる八咫鏡、……天明玉が作(す)れる八坂瓊之曲玉、……天日鷲が作(は)れる木綿」と訓んでいる。助動詞ル・ラルを表わすために「所」字を使っている。万葉集に題詞を含めて多用されている。それを参考に検討すると、欽明紀五年三月条の「作」は、実際に何かを作っていることとは考えにくいから、スル(為)、ナス(為)の意であると考えられる(注1)
 訓み方の例としては、「姧佞(かだみいつはれる)所作(しわざ)なり。」、「姧佞(かだみいつはれる)所作(すべ)なり。」、「姧佞(かだみいつはれる)とすらくなり。」といった言い方が想起される。ク語法のスラクという言い方には、次のような用例が見られる。

 大き戸より 窺(うかか)ひて 殺さむと すらくを知らに(須羅句塢志羅珥) 姫遊(ひめなそ)びすも(紀18)
 この岳(をか)に 小牡鹿(をしか)履(ふ)み起(おこ)し うかねらひ かもかもすらく(可聞可聞為良久) 君故にこそ(万1576)
 若し見若し聞きては是の思惟を作(す)らく、……(若見若聞作是思惟、……)(金光明最勝王経・巻五)(注2)

四、「不知所作」……せむすべしらず

 「不知所○」には、セムスベヲシラズ、セムスベシラズと訓む慣用表現がある。どうしたらよいかわからない、の意である。スベというヤマトコトバを「所」という字が担っている。用例はとても多い。

 不知所如(垂仁紀四年九月・神功前紀仲哀九年十二月一云・仁徳前紀応神四十一年二月・推古紀三十二年四月・舒明前紀・舒明紀九年是歳)
 不知所為(景行紀十八年四月・允恭紀元年十二月・皇極紀三年正月・天智紀二年六月・天武紀元年七月)
 不知所由(推古紀十二年四月)
 不知所図(欽明紀十五年十二月)
 不知所計(敏達紀元年六月・孝徳紀白雉四年七月)

 さて、それでは、皇極紀の「不知所作有何事耶」は、どう訓んだら良いのであろうか。「所」を場所の意味と考える場合、大極殿が建てられている場所がわからないという意味になる。天皇の知らぬ間に突然出現した建物ではなかろうから、作る場所を知らないという考え方は似つかわしくない。それでも大極殿という建物は初見だから、これは一体全体何をするための建物なのか、といった意味合いから、「作(す)る所(ところ)を知らず。」と口走っている可能性は皆無ではない。その場合、「作」字はスル(為)の意であるが、「作」の主語は天皇自身である。いま、ここはどこなのか、虚無に陥っているという設定である。しかし、ふつうに考えるなら、「作」字が用いられているのだから、作為として、行為として、自覚的に三韓の調の儀式を行っている。場所の話ではない。「所」はトコロとは訓まない。
 しかし、一般的には、大系本にあるように、「知らず、作(す)る所(ところ)」((四)230頁)などと訓まれている(注3)。お前は何をやっているんだ、の意であるとすると、「爾(なむぢ)」の一語は欠かせないのではないか。「不爾所一レ作」、「爾、不作」などとあって良いと思われる。
 新編全集本では、「「作(す)る」の主語は中大兄、「知らず」の主語は天皇。」(③101頁)と解説されている。中大兄の作為を天皇は知らないという意味として解釈している。紀18歌謡の例、「殺さむと すらくを知らに」は、スラクの主語は反乱を起こそうとしている武埴安彦(たけはにやすびこ)、知ラニの主語は御間城入彦(みまきいりびこ)(崇神天皇)である。することを知らないのは、する人と知る人とが別だからである。皇極紀の「不知所作有何事耶」も同様に捉えられている。しかし、紀18歌謡、万1576、金光明最勝王経のいずれの例も、何をすることなのか明示されている。殺そうとしようとすること、あれこれとすること、思惟することである。することを知らない、という言い方はもやもやしている。何か訳のわからないことをしているぞ = I don’t understand what you are doing. という意味に解釈できないことはないが、そうなると次の文の「何事有りつるや(有何事耶)。」=What happened? というきっぱりとした言が宙に浮いてしまう。温度差のある二文が会話文で連続しているとは考えにくい。
 もっとシンプルに考えるべきであろう。「不知所○」という常套句があった。セムスベヲシラズ、セムスベシラズである。どうしたらよいかわからない、の意である。ここもそのように訓まれてしかるべきである。

 不知所作、有何事耶。
 所作(せむすべ)知らず、何事有りつるや。

 この場合、「作」と「知」の主語はともに天皇である。行なわれているのは、実態としてどうであれ、三韓の調を貢進する儀式である。大極殿という仰々しい舞台で正式に挙行されている。式次第に従って滞りなく進行されなければならない。一同が座について、倉山田麻呂が奏上して進行していた。ところが、入鹿が脚を斬られ、天皇の座している近くのおばしまにすがりついて訴えかけてきた。三韓の調の儀式は台無しである。主催者は天皇である。式典の挙行の次第がわからなくなった。そういう発言として最初の文はある。すなわち、天皇は大極殿内の玉座にあって、当初は翳(さしば)などで顔を隠されていて、音ばかりで状況を認識していたのではないか。大きな声しか耳に入らない。最初、倉山田麻呂臣が表文を唱える声が聞こえていた。次になぜか、中大兄の「咄嗟(やあ)」という声が聞こえて、つづけて入鹿の、「当(まさ)に嗣位(ひつぎのくらゐ)に居(ましま)すべきは天の子(みこ)なり。臣(やつこ)罪を知らず。乞ふ、垂審察(あきらめたま)へ」という声がしてきた。執り行われているのは三韓の調の儀式ではないのか。どうしたらいいのかわからないことになっている。翳をあけさせて、何事があったのかと、庭という現場の責任者、中大兄に問うた。皇族である古人大兄は、殿中の、天皇の近くに侍っていた。

五、中大兄の返事

 中大兄の説明は次の2センテンスである。

A 鞍作(入鹿の別名)は天宗を尽く滅ぼして日位を傾けようとしている。(鞍作、天宗(きむたち)を尽し滅して、日位(ひつぎのくらゐ)を傾むけむとす。豈(あに)天孫(あめみま)を以て鞍作に代へむや。(鞍作尽滅天宗、将日位。))
B どうして天孫をもって鞍作に代えるなどということがあろうか。(豈(あに)天孫(あめみま)を以て鞍作に代へむや。(豈以天孫鞍作乎。))

 Bの文章について、管見にしてこれまでどれほど議論されてきたのかわからない。新編全集本に、「どうして天孫を鞍作に代えられましょうか」(③101頁)と誤訳されている(注4)。どうして天孫でもって鞍作に代えるのでしょうか、の意である。主客を取り違えてはならない。天皇位を天孫ではなく鞍作(蘇我入鹿)に代えることはできないというのではなく、鞍作を天孫が代わりとなって行うことなどできないという言い方である。文字通りに解釈するとそういうことになり、そういう発言を中大兄はしている。そして、天皇はその言葉を聞いて、すぐに起ち上がって殿中に入ってしまっている。中大兄の考えをたちどころに理解したのである。ヤマトコトバに理解したと認められる。
 Aの文章は一見わかりやすい。鞍作(蘇我入鹿)は天皇家の人をことごとく滅ぼして、皇位を傾けようとしている。その事実は、山背大兄王一族を滅ぼしたことに明らかである。皇位が傾いたらどうなるか。傾いたら滑り落ちる。いま、天皇は、大極殿にいる。大極殿は、基壇の上に建物が建っている。それを大極殿(おほあむどの)と言っている。後には屋根に瓦が載り、床も瓦敷きになったところである。瓦ばかりあるところとは、川原によく似ているということを意味したのであろう。瓦(かはら)という語は、いわゆる和訓として作られた言葉と思われる。屋根を瓦葺きにする目的は、何よりも防火対策である。それは、消火用水が手に入りやすいことに類似している。川原にあることと瓦葺きであることとは等価である。瓦の色や質感は、川原の石によく似ている。斉明紀元年条の飛鳥川原宮への遷都は、飛鳥板蓋宮火災のためである(注5)
 つまり、オホアムドノに出座することとは、川原に来ていることによく似ているのである。天皇が川原に赴くことは、大嘗祭や新嘗祭のための斎戒沐浴の儀式に象徴的である。そこできれいな水を使って身を清める。「浴(あ)む」のである。天皇がアム(浴)のによく似たところで儀式、この時は三韓の調を受ける儀式であるが、その厳かさを演出する舞台装置としてオホアムドノは機能している。屋根のあるところだから、トノ(殿)である。殿のような大きな建物は、建物として大きいばかりで、今日の10LDKのように部屋が壁で仕切られていたわけではなく、一部屋の大広間に間仕切りを仮設して利用していた。その間仕切りに、几帳や屏風を用いた。今回使われていたのは、アム(編)ことによって作られた「席障子(むしろしとみ)」である(注6)。儀式が終わったら片づけられるものであり、それを入鹿の屍を覆うのに使っている。大系本に、「屍体の扱いが丁重でなかったことを示すものである。」((四)231頁)と注されているが、それよりも、宮廷のオホアムドノ(大極殿)前での事件であったことをよく物語る逸話である(注7)
 中大兄の言っていた、「豈天孫を以て鞍作に代へむや」とは、謎めいた言葉である。蘇我入鹿は、別名を鞍作と言った。この事件で記される以前にも、「大臣児入鹿更名鞍作。」(皇極紀元年正月)、「此是、経歴数年、上宮王等、為蘇我鞍作、囲於膽駒山之兆也。」(同三年六月)とある。何度も重ねて注されているのは、その言葉に意味するところがあるからであろう。どうして入鹿のことを鞍作と言ったのか(注8)。鞍作りとは、人が乗るための馬の鞍を製作する人のことである。馬の鞍は、木製の場合、鞍橋(くらぼね)と呼ばれる。鞍橋は、前輪(まへわ)と後輪(しづわ)、ならびにそれをつなぐ居木(ゐぎ)で構成され、居木は鞍壺(くらつぼ)、鞍笠(くらがさ)とも呼ばれる。クラボネを鞍橋と書くのは、馬の背を越えていく橋の欄干のように見て取れるからである。体操競技のあん馬は、馬の背を越える時に欄干を握って体を持ち上げることをよく表している。鞍橋をクラボネと訓むのは、木製で骨のように硬いものだからであり、死んで土葬して何かの拍子に掘り起こしたとき、白骨化していて、どこの馬の骨だ? と疑問に思われるような代物になっているからである。
(つづく)

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