言い伝えのなかで、出雲は、記紀のうちでもはじめのほうに多く登場している。記の上巻、神代紀、また、崇神・垂仁・景行天皇時代に「出雲」と記された事象は次のとおりである。
(1)「出雲国と伯伎国(ははきのくに)との堺の比婆之山(ひばのやま)」に、亡くなった伊耶那美神(いざなみのかみ)は葬られる(記)。
(2)「出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)」と今謂われるところが、いわゆる黄泉比良坂(よもつひらさか)である(記)。
(3)「出雲国の肥(ひ)の河上、名は鳥髪といふ地(ところ)」に降り立って、須佐之男命(すさのおのみこと)は八俣遠呂知(やまたのおろち)を退治する(記)。同じく「簸(ひ)の川上」に降り到って、素戔嗚尊(すさのおのみこと)は八岐大蛇(やまたのおろち)を退治する(紀第八段本文・一書第一)。(一書第二は奇稲田媛(くしいなだひめ)の養育の場所、一書第三に「出雲の簸の川上の山」、第四に「出雲国の簸の川上に所在(あ)る鳥上峰(とりかみのたけ)」)
(4)「出雲国」の「須賀(すが)といふ地(ところ)」に宮を作り、「八雲立つ 出雲八重垣」の歌を歌い、大穴牟遅神(おおあなむじのかみ)が生まれる(記)。(紀第八段本文に、「清地(すが)」)
(5)「出雲の御大之御前(みほのみさき)」で大国主神は少名毘古那神(すくなびこなのかみ)と出会い、ともに国作りをする(記)。同じく「出雲国の五十狭狭(いささ)の小汀(をはま)」で大己貴神(おおあなむちのかみ)は少彦名命(すくなびこなのみこと)と出会う(紀第八段一書第六)。
(6)「出雲国」で大己貴神は困っていると、幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)がやって来たので三輪山に祭る(紀第八段一書第六)。
(7)「出雲国の伊耶佐(いざさ)の小浜」に降り到った建御雷神(たけみかづちのかみ)と天鳥船神(あめのとりふねのかみ)は、大国主神に国を譲るか問う(記)。同じく「出雲国の五十田狭(いたさ)の小汀」に降りた経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)に、「出雲国の三穂の碕」で釣りをしていた大己貴神は、天神に国を奉るか迫られる(紀第九段本文・一書第二)。(一書第一に「出雲」)
(8)「出雲国の多芸志(たぎし)の小浜」に、大国主神(おおくにぬしのかみ)は御殿を造る(記)。
(9)出雲の神宝の朝廷へ献上した弟の飯入根(いいいりね)を恨んで、出雲臣の祖先の出雲振根はだまし討ちにしようと誘い出し、水浴びから先に上がって弟の真剣を佩き、自分の木刀を取らせて立ちあい殺した。それを知った朝廷は出雲振根を誅殺した(崇神紀六十年)。このだまし討ちの主題は、倭建命(やまとたけるのみこと)の出雲建(いずもたける)の征討の話になっている(景行記)。
(10)都怒賀阿蘿斯等(つぬがあらしと)の経由地(垂仁紀二年是歳条分注)。
(11)野見宿禰の故郷。野見宿禰は、当麻蹴速と相撲で勝負して勝つ(垂仁紀七年条)。また、埴輪を発案した(垂仁紀三十二年)。
(12)口のきけない誉津別王が発した「是何物ぞ」の一言のために、鵠(くぐい)を追って出雲に至って捕獲した。それを見せて話せるようになった(垂仁紀二十三年)。記では、鵠に反応せず、出雲大神が宮を修理していないことの祟りと垂仁天皇の夢に出たので、本牟智和気御子(ほむちわけのみこ)に従者をつけて大神に参拝させたら、物が言えるようになった(垂仁記)。
(13)出雲の神宝の検校(垂仁紀二十六年)。
(9)は、「頃者(このごろ)、止屋(やむや)の淵に多(さは)に◆(草冠に妾)(も)生ひたり。願はくは共に行きて見むと欲ふ」と誘い出している。内紛の後、出雲臣等は畏れて、出雲大神を祭らないことがあり、皇太子の活目尊(いくめのみこと=垂仁天皇)に童子の言葉を借りて諭した。「玉◆(たまも)鎮石(しづし)。出雲人の祭る、真種の甘美(うまし)鏡。押し羽振る、甘美御神、底宝御宝主。山河の水泳(くく)る御魂、静(しづ)挂かる甘美御神、底宝御宝主。◆、此には毛(も)と云ふ」とある。イヅモだから◆=藻が登場しているように思われる。◆は、説文に、「◆餘なり」とあり、アサザ(「野生植物研究所」様サイト)のこと、古語に「あざさ」(万3295)である。
アサザ(井の頭公園、2016年6月)
水野祐『古代の出雲と大和 新装版』(大和書房、1994年)に、出雲厳藻説が提唱されている。水野先生によると、
やつめさす 出雲建が 佩ける大刀(たち) 黒葛(つづら)多(さは)まき さ身無しにあはれ(記23)
八雲さす 出雲の子等が 黒髪は 吉野の川の 奥になづさふ(万430)
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を(記1)
の枕詞の偏差について、「八雲立つ」と「やつめさす」の混合形として「八雲さす」があるとする。そして、ヤツメ(メは乙類)は「弥津米(やつめ)」、すなわち、たくさんの海藻の義で、藻は古代人にとって神聖で呪的なものであり、出雲の国名の原義は「厳藻(いつも)」に由来するとする。この説は、上田正昭『上田正昭著作集4』(角川書店、1999年)に正当に評価されている。
出雲がメインテーマで出てくる最初の話は、「出雲国の肥(ひ)(簸)の河(川)上」である。「河(川)上」については、カハノヘ(ヘは乙類)とも訓む。
河上(かはのへ)の ゆつ磐群に 草生さず 常丹毛冀名 常處女煮手(万22、下の句の定訓に疑問あり)
河上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かぬ 巨勢の春野は(万56)
河上の いつ藻の花の いつもいつも 来ませわが背子 時じけめやも(万491、同様に1931)
……迦波能倍(かはのへ)に 生ひ立てる 烏草樹(さしぶ)を 烏草樹の木……(記57)
可波加美(かはかみ)の 根白高萱 あやにあやに さ寝てさ寝てこそ 言に出にしか(万3497)
繰り返しことばの多い歌が頻出する。川岸には、左岸、右岸の両岸がある。二例目の椿は、木を木刀のように使う武器とされた。手で握るところは鍔(つば)であるし、先の方もつばきである。両端ともツバである。それが、両岸に連なっているから、「つらつら椿」と洒落ている。面(つら)も顔の両側にあるから、「つらつら椿」は「つらつら」を導いている。三例目のイツモは、何時も、常に、という意味と、水野説にある「厳(斎)藻(いつも)」の意、すなわち、河の水のなかで神威を受けたかのごとくとても盛んに茂っている藻のことを掛けている。四例目は、「烏草樹」、「生ひ立てる」を繰り返している。烏草樹(さしぶ)はシャシャンボのことであるが、サシブの音が、シブクサを思わせ、その別名、ギシギシ(ギの甲乙不明)、すなわち、岸岸(キは乙類)を連想させるのであろう。五例目は、もと「河上」とあったものを仮名表記して誤ったのではなかろうか。
藻が川床に繁茂していれば、「藻床(もとこ)」であろう。床(とこ)は常(とこ)の意味を強く持つ。(万22歌の下句の原文にある対には暗示があるように感じられる。)安康紀元年二月条に、「◇(草冠に行)菜(をみなめ)」とある。詩経・周南・関雎の「参差(しんし)たる◇菜は 左右之を流(もと)む 窈窕たる淑女は 寤寐之を求む」から、宮中に働く女性のことを表している。◇菜は、和名抄に、「爾雅注に云ふ ◇菜〈上音杏、字亦□(草冠に杏)に作る、阿佐々(あざさ)〉水中に叢生し、葉は円く、端に長短在り、水の深浅に随ふ者なり」、崇神紀にあった◆に同じくアサザのことである。◆は■(羽冠に妾)に通じ、棺の羽飾りをもいう。左右のことは、垂仁紀ほかに、「左右(もとこ)」とあり、モトコヒトとも訓んでいる。本処、許処の意で、もと、かたわら、側近くのことをいう。左右両側に控えているのは、左右両岸があるのに似ており、三例目の「いつ藻」の花は、「いつもいつも」と重なることばを導く。
モトコは、喪床、つまり、亡くなった後に、亡骸を収める寝床である棺(柩)のこととも考えられる。永遠の眠りについているから、棺ほど常(とこ)なる床(とこ)はない。ヒツキ(ヒは甲類、キは乙類)は、日月と同音である。伊耶那岐命は黄泉国から還ってきて禊ぎをする。左の眼から天照大御神(日神(ひのかみ))、右の眼から月読命(月神(つきのかみ))が生まれている。左右(もとこ)の目は日月である。仏教では、日光・月光菩薩を脇侍とするのは薬師如来である。薬師はクスシと訓まれ、大国主神(大己貴神)とともに国作りをした少名毘古那神(少彦名命)が薬の神として崇められている。その後の話に登場する幸魂・奇魂の「奇し」も、クスシと訓む。
薬師寺薬師三尊像(清水眞澄『仏像』平凡社、1982年より)
したがって、出雲という地名の音は、喪の風景、および一対の事柄をイメージさせる。病気、医薬、葬送のこと、また、日月、陰陽、男女、閨房のための宮殿の話に出雲の地が設定されている。国生みの話において、伊耶那岐命と伊耶那美命の交合の場面で、どちらが先に相手を素敵だと言うか、また、紀第四段一書第一では、左右のどちらから国の柱を回るかも重要な要素に挙げられている。陰神が左から、陽神が右から回ったら蛭子や淡洲が生まれて失敗したため、天上に占いの教えを請い、逆に回ったらうまくいって国生みが成功したことになっている。
また、出雲の地は、国を譲るか否か、否諾(いなさ)を答えさせる場所になっている。記に「伊耶佐(いざさ)」、紀に「五十田狭(いたさ)」とある。万葉集には、「左右」(1343)でカモカモと訓み、ああでもこうでも、あれこれ、の意の語がある。あれかこれかの二者択一を迫る場所として設定されているわけである。
須佐之男命の話では、箸が上流から流れてきている。二本揃って流れて来なければ、箸とは確かめられないであろう。上流には、足名椎・手名椎という老夫・老女の二人がいた。二本ずつあることを強調する名前である。また、櫛名田比売を神聖な爪櫛に見立て、みずらに刺したともある。当時の髪型として知られる角髪(あげまき)(角子)は、左右二つに分けて両耳のあたりにわがねたものであった。
新谷尚紀『伊勢神宮と出雲大社』(講談社、2009年)に、記紀に記す出雲神話を歴史上の出雲世界の実体の反映として、考古学的な発掘情報に求めるには方法論的に困難であると常識的な見解が示されている。また、記紀の出雲神話は、あくまでも大和の王権内部の人によって編纂された物語であることも述べられている。出雲風土記にほとんど載っていない話だからである。大和の人にとって、出雲とは、イヅモ、イツモなる音がもとで繰り広げられるイメージの世界であり、はじめにことばありきなのである。
(1)「出雲国と伯伎国(ははきのくに)との堺の比婆之山(ひばのやま)」に、亡くなった伊耶那美神(いざなみのかみ)は葬られる(記)。
(2)「出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)」と今謂われるところが、いわゆる黄泉比良坂(よもつひらさか)である(記)。
(3)「出雲国の肥(ひ)の河上、名は鳥髪といふ地(ところ)」に降り立って、須佐之男命(すさのおのみこと)は八俣遠呂知(やまたのおろち)を退治する(記)。同じく「簸(ひ)の川上」に降り到って、素戔嗚尊(すさのおのみこと)は八岐大蛇(やまたのおろち)を退治する(紀第八段本文・一書第一)。(一書第二は奇稲田媛(くしいなだひめ)の養育の場所、一書第三に「出雲の簸の川上の山」、第四に「出雲国の簸の川上に所在(あ)る鳥上峰(とりかみのたけ)」)
(4)「出雲国」の「須賀(すが)といふ地(ところ)」に宮を作り、「八雲立つ 出雲八重垣」の歌を歌い、大穴牟遅神(おおあなむじのかみ)が生まれる(記)。(紀第八段本文に、「清地(すが)」)
(5)「出雲の御大之御前(みほのみさき)」で大国主神は少名毘古那神(すくなびこなのかみ)と出会い、ともに国作りをする(記)。同じく「出雲国の五十狭狭(いささ)の小汀(をはま)」で大己貴神(おおあなむちのかみ)は少彦名命(すくなびこなのみこと)と出会う(紀第八段一書第六)。
(6)「出雲国」で大己貴神は困っていると、幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)がやって来たので三輪山に祭る(紀第八段一書第六)。
(7)「出雲国の伊耶佐(いざさ)の小浜」に降り到った建御雷神(たけみかづちのかみ)と天鳥船神(あめのとりふねのかみ)は、大国主神に国を譲るか問う(記)。同じく「出雲国の五十田狭(いたさ)の小汀」に降りた経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)に、「出雲国の三穂の碕」で釣りをしていた大己貴神は、天神に国を奉るか迫られる(紀第九段本文・一書第二)。(一書第一に「出雲」)
(8)「出雲国の多芸志(たぎし)の小浜」に、大国主神(おおくにぬしのかみ)は御殿を造る(記)。
(9)出雲の神宝の朝廷へ献上した弟の飯入根(いいいりね)を恨んで、出雲臣の祖先の出雲振根はだまし討ちにしようと誘い出し、水浴びから先に上がって弟の真剣を佩き、自分の木刀を取らせて立ちあい殺した。それを知った朝廷は出雲振根を誅殺した(崇神紀六十年)。このだまし討ちの主題は、倭建命(やまとたけるのみこと)の出雲建(いずもたける)の征討の話になっている(景行記)。
(10)都怒賀阿蘿斯等(つぬがあらしと)の経由地(垂仁紀二年是歳条分注)。
(11)野見宿禰の故郷。野見宿禰は、当麻蹴速と相撲で勝負して勝つ(垂仁紀七年条)。また、埴輪を発案した(垂仁紀三十二年)。
(12)口のきけない誉津別王が発した「是何物ぞ」の一言のために、鵠(くぐい)を追って出雲に至って捕獲した。それを見せて話せるようになった(垂仁紀二十三年)。記では、鵠に反応せず、出雲大神が宮を修理していないことの祟りと垂仁天皇の夢に出たので、本牟智和気御子(ほむちわけのみこ)に従者をつけて大神に参拝させたら、物が言えるようになった(垂仁記)。
(13)出雲の神宝の検校(垂仁紀二十六年)。
(9)は、「頃者(このごろ)、止屋(やむや)の淵に多(さは)に◆(草冠に妾)(も)生ひたり。願はくは共に行きて見むと欲ふ」と誘い出している。内紛の後、出雲臣等は畏れて、出雲大神を祭らないことがあり、皇太子の活目尊(いくめのみこと=垂仁天皇)に童子の言葉を借りて諭した。「玉◆(たまも)鎮石(しづし)。出雲人の祭る、真種の甘美(うまし)鏡。押し羽振る、甘美御神、底宝御宝主。山河の水泳(くく)る御魂、静(しづ)挂かる甘美御神、底宝御宝主。◆、此には毛(も)と云ふ」とある。イヅモだから◆=藻が登場しているように思われる。◆は、説文に、「◆餘なり」とあり、アサザ(「野生植物研究所」様サイト)のこと、古語に「あざさ」(万3295)である。
アサザ(井の頭公園、2016年6月)
水野祐『古代の出雲と大和 新装版』(大和書房、1994年)に、出雲厳藻説が提唱されている。水野先生によると、
やつめさす 出雲建が 佩ける大刀(たち) 黒葛(つづら)多(さは)まき さ身無しにあはれ(記23)
八雲さす 出雲の子等が 黒髪は 吉野の川の 奥になづさふ(万430)
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を(記1)
の枕詞の偏差について、「八雲立つ」と「やつめさす」の混合形として「八雲さす」があるとする。そして、ヤツメ(メは乙類)は「弥津米(やつめ)」、すなわち、たくさんの海藻の義で、藻は古代人にとって神聖で呪的なものであり、出雲の国名の原義は「厳藻(いつも)」に由来するとする。この説は、上田正昭『上田正昭著作集4』(角川書店、1999年)に正当に評価されている。
出雲がメインテーマで出てくる最初の話は、「出雲国の肥(ひ)(簸)の河(川)上」である。「河(川)上」については、カハノヘ(ヘは乙類)とも訓む。
河上(かはのへ)の ゆつ磐群に 草生さず 常丹毛冀名 常處女煮手(万22、下の句の定訓に疑問あり)
河上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かぬ 巨勢の春野は(万56)
河上の いつ藻の花の いつもいつも 来ませわが背子 時じけめやも(万491、同様に1931)
……迦波能倍(かはのへ)に 生ひ立てる 烏草樹(さしぶ)を 烏草樹の木……(記57)
可波加美(かはかみ)の 根白高萱 あやにあやに さ寝てさ寝てこそ 言に出にしか(万3497)
繰り返しことばの多い歌が頻出する。川岸には、左岸、右岸の両岸がある。二例目の椿は、木を木刀のように使う武器とされた。手で握るところは鍔(つば)であるし、先の方もつばきである。両端ともツバである。それが、両岸に連なっているから、「つらつら椿」と洒落ている。面(つら)も顔の両側にあるから、「つらつら椿」は「つらつら」を導いている。三例目のイツモは、何時も、常に、という意味と、水野説にある「厳(斎)藻(いつも)」の意、すなわち、河の水のなかで神威を受けたかのごとくとても盛んに茂っている藻のことを掛けている。四例目は、「烏草樹」、「生ひ立てる」を繰り返している。烏草樹(さしぶ)はシャシャンボのことであるが、サシブの音が、シブクサを思わせ、その別名、ギシギシ(ギの甲乙不明)、すなわち、岸岸(キは乙類)を連想させるのであろう。五例目は、もと「河上」とあったものを仮名表記して誤ったのではなかろうか。
藻が川床に繁茂していれば、「藻床(もとこ)」であろう。床(とこ)は常(とこ)の意味を強く持つ。(万22歌の下句の原文にある対には暗示があるように感じられる。)安康紀元年二月条に、「◇(草冠に行)菜(をみなめ)」とある。詩経・周南・関雎の「参差(しんし)たる◇菜は 左右之を流(もと)む 窈窕たる淑女は 寤寐之を求む」から、宮中に働く女性のことを表している。◇菜は、和名抄に、「爾雅注に云ふ ◇菜〈上音杏、字亦□(草冠に杏)に作る、阿佐々(あざさ)〉水中に叢生し、葉は円く、端に長短在り、水の深浅に随ふ者なり」、崇神紀にあった◆に同じくアサザのことである。◆は■(羽冠に妾)に通じ、棺の羽飾りをもいう。左右のことは、垂仁紀ほかに、「左右(もとこ)」とあり、モトコヒトとも訓んでいる。本処、許処の意で、もと、かたわら、側近くのことをいう。左右両側に控えているのは、左右両岸があるのに似ており、三例目の「いつ藻」の花は、「いつもいつも」と重なることばを導く。
モトコは、喪床、つまり、亡くなった後に、亡骸を収める寝床である棺(柩)のこととも考えられる。永遠の眠りについているから、棺ほど常(とこ)なる床(とこ)はない。ヒツキ(ヒは甲類、キは乙類)は、日月と同音である。伊耶那岐命は黄泉国から還ってきて禊ぎをする。左の眼から天照大御神(日神(ひのかみ))、右の眼から月読命(月神(つきのかみ))が生まれている。左右(もとこ)の目は日月である。仏教では、日光・月光菩薩を脇侍とするのは薬師如来である。薬師はクスシと訓まれ、大国主神(大己貴神)とともに国作りをした少名毘古那神(少彦名命)が薬の神として崇められている。その後の話に登場する幸魂・奇魂の「奇し」も、クスシと訓む。
薬師寺薬師三尊像(清水眞澄『仏像』平凡社、1982年より)
したがって、出雲という地名の音は、喪の風景、および一対の事柄をイメージさせる。病気、医薬、葬送のこと、また、日月、陰陽、男女、閨房のための宮殿の話に出雲の地が設定されている。国生みの話において、伊耶那岐命と伊耶那美命の交合の場面で、どちらが先に相手を素敵だと言うか、また、紀第四段一書第一では、左右のどちらから国の柱を回るかも重要な要素に挙げられている。陰神が左から、陽神が右から回ったら蛭子や淡洲が生まれて失敗したため、天上に占いの教えを請い、逆に回ったらうまくいって国生みが成功したことになっている。
また、出雲の地は、国を譲るか否か、否諾(いなさ)を答えさせる場所になっている。記に「伊耶佐(いざさ)」、紀に「五十田狭(いたさ)」とある。万葉集には、「左右」(1343)でカモカモと訓み、ああでもこうでも、あれこれ、の意の語がある。あれかこれかの二者択一を迫る場所として設定されているわけである。
須佐之男命の話では、箸が上流から流れてきている。二本揃って流れて来なければ、箸とは確かめられないであろう。上流には、足名椎・手名椎という老夫・老女の二人がいた。二本ずつあることを強調する名前である。また、櫛名田比売を神聖な爪櫛に見立て、みずらに刺したともある。当時の髪型として知られる角髪(あげまき)(角子)は、左右二つに分けて両耳のあたりにわがねたものであった。
新谷尚紀『伊勢神宮と出雲大社』(講談社、2009年)に、記紀に記す出雲神話を歴史上の出雲世界の実体の反映として、考古学的な発掘情報に求めるには方法論的に困難であると常識的な見解が示されている。また、記紀の出雲神話は、あくまでも大和の王権内部の人によって編纂された物語であることも述べられている。出雲風土記にほとんど載っていない話だからである。大和の人にとって、出雲とは、イヅモ、イツモなる音がもとで繰り広げられるイメージの世界であり、はじめにことばありきなのである。