古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

有間皇子謀反事件に斬首の塩屋鯯魚(しおやのこのしろ)について

2012年08月22日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 有間皇子の謀反事件は、蘇我赤兄の裏切りによって未然に露見し、首謀者たちは行幸先へ護送され、皇太子(中大兄)の尋問の後、処罰されている。

 戊子に、有間皇子と、守君大石もりのきみおほいは坂合部連薬さかひべのむらじくすり塩屋連鯯魚しほやのむらじこのしろとを捉へて、紀温泉きのゆに送りたてまつりき。舎人の新田部米麻呂にひたべのこめまろみともなり。是に皇太子[中大兄]、みづから有間皇子に問ひて曰はく、「何の故にか謀反みかどかたぶけむとする」とのたまふ。答へて曰さく、「天と赤兄と知らむ。おのれもはらず」とまをす。庚寅に、丹比小沢連国襲たぢひのをざはのむらじくにそを遣して、有間皇子を藤白坂にくびらしむ。是の日に、塩屋連鯯魚・舎人新田部連米麻呂を藤白坂に斬る。塩屋連鯯魚、誅されむとして言はく、「願はくは右手をして、国の宝器たからもの作らしめよ」といふ。守君大石を上毛野国に、坂合部薬を尾張国に流す。或本に云はく、有間皇子、蘇我臣赤兄・塩屋連小戈しほやのむらじをほこ・守君大石・坂合部連薬と短籍ひねりぶみを取りて、謀反みかどかたぶけむ事をうらなふといふ。……(斉明紀四年十一月)

 首謀者の有間皇子は絞首、塩屋鯯魚と新田部米麻呂が斬首、守君大石と坂合部薬が流罪になっている。流罪の二人は後に許されている。刑の重さに差がある理由は何か、特に、塩屋鯯魚と新田部米麻呂の処遇が不審である。有間皇子よりも重い斬首になっている(注1)。舎人に過ぎない新田部米麻呂も斬首で、「連」の姓を追贈しているようにも解せられる。なぜ刑場は藤白坂なのか。また、塩屋鯯魚は右手で宝器を作るからと助命嘆願している。大系本日本書紀に、「通証に「蓋善機巧者也」とあるが未詳。」(345頁)、新編全集本日本書紀に、「何を言おうとしたか未詳。左手に対して右手を浄とみなしたものか。」(③218頁)などとある。孝徳紀大化二年三月条に、「塩屋鯯魚鯯魚、此には挙能之慮このしろと曰ふ。」という訓注が付いている人物である。
 不思議な助命嘆願は、当時誰もが知っていた伝承になぞらえて命乞いをしたものであろう。

 是歳、百済国より化来おのづからにまゐくる者有り。其の面身おもてむくろ、皆斑白まだらなり。若しくは白癩しらはた有る者か。其の人になることをにくみて、海中わたなかの嶋に棄てむとす。然るに其の人の曰く、「若しやつかれ斑皮まだらはだを悪みたまはば、白斑しろまだらなる牛馬をば、国の中にふべからず。亦臣、いささかなるかど有り。能く山丘やまかたく。其れ臣を留めて用ゐたまはば、国の為にくほさ有らむ。何ぞ空しく海の嶋に棄つるや」といふ。是に其のことばを聴きて棄てず。仍りて須弥山すみのやまの形及び呉橋くれはし南庭おほばに構かしむ。時の人、其の人を号けて、路子工みちこのたくみと曰ふ。亦の名は芝耆摩呂しきまろ。(推古紀二十年是歳)

 新編全集本日本書紀に、「芝耆摩呂」を「磯城しき(石で作った城)麻呂」の意か。」(②568頁)とするが、城のキは乙類、耆は甲類である。おそらく、石畳を敷くことと関係させた名で、「路子工」は道路舗装職人の謂いであろう。この渡来人は、近世に城造りにたけた穴太衆のように、石材の加工に優れた石垣職人であったろう。
コノシロ
 塩屋鯯魚は、その名から「斑白」のイメージが結びついており、あるいは「斑白」と渾名されていたのであろう。コノシロ(コは乙類)という魚は、ひとつひとつの鱗のなかに黒班があり、全体に斑点に見える魚である。小さめをコハダというのも、膚の特徴を言い当てたものかもしれない。和名抄に、「鯯 四声字苑に云はく、鰶〈子例反、字は亦、鯯に作る。和名は古乃之侶このしろ〉は魚の名、𩺀に似て薄く細き鱗なりといふ。」、新撰字鏡に、「鮥 盧各反、己乃志呂このしろ」、「鯯・䱥・鰶 己乃志呂このしろ」、「鮗 上同」とある。ニシン科の硬骨魚で、体長は25cmほどになる。背びれのいちばん後ろは糸状に長く伸びる。脊部は青黒く、腹部は銀白色、濃褐色の斑点列がある。日本各地の沿岸生息する。寿司の材料になるコハダ・ツナシはこの中等大のものである。この城を食べるなどといった連想があったり、あぶると屍臭に似た悪臭を発して屍を焼くことを思わせるなど、切腹魚といって武士の間では忌まれたこともある(注2)
 そんな塩屋鯯魚は、誅殺されるに当たって、推古期の謂れを語って命乞いをした。「斑白」な人を助けると、須弥山をかたどったものや呉橋のような芸術的ともいえる石造工芸品を作るというのである(注3)。別名に、小戈をほことあるのは、小さな戈のようなたがねで石を切って加工し、「山丘やま」を作るからである。人工的なヤマの意に、祭礼山車の山の形状に作った飾り物がある。祇園祭の山鉾にあるように、祭礼の山車は山であり、鉾である。そのホコ(鉾)を作るのにより小さなホコを使うから、「小戈」なのだと言っている。山の形の飾り物の例としては記に例が見える。

 是の河下にして、青葉の山の如きは、山と見えて山に非ず。若し出雲の石𥑎いはくま曾宮そのみやに坐す葦原色許男大神あしはらしこをのおほかみを以ちいつくはふり大庭おほにはか。(垂仁記)

 お祭りをする場である庭の構造物が山だといっている。推古紀の南庭の須弥山の形や呉橋に意味が重なってくる。山にはまた、植林地、採木地としての山林の意味もある。「山に至りてつむぐ。」(推古紀二十六年是年)とある。すなわち、コノシロを、コ(木、コは乙類)+ノ(助詞)+シロ(代、ロはもと乙類)と捉え直したのであろう。シロには、「苗代」のように、~を作るための地、~を採るための地の意がある(注4)。つまり、コノシロとは山なのである。
 塩屋鯯魚は、右手を主張している。右(ミ・ギの甲乙は不明)には、左に形を合わせたミギリという言い方がある。あるいは、みぎり(ミ・ギは甲類)と関係させたものかもしれない。古語では、軒下の石畳や敷瓦を敷いたところ、また、水限みぎりの意もあって、境界にあたるところをいう。もとの中国では、説文に「砌 階甃也、石に从ひ切声、千計切」とある。和名抄には、「堦 考声切韻に云はく、堦〈音は皆、俗に階の字を波之はし、一訓に之奈しな〉は堂に登る級なりといふ。兼名苑に云はく、砌は一名に階〈砌の音は細、訓は美岐利みぎり〉といふ。」とある。境のところにある瓦や石の端を切りそろえて重ねた階段のこと、推古紀にある「呉橋」はそれに相当するものではないか。また、須弥山は、仏教の世界観において世界の中心にそびえる高い山のことをいう。それを形象化して像として飛鳥の地に置いていた。

 辛丑に、須弥山すみのやまかたを飛鳥寺の西に作る。また盂蘭瓫会うらんぼんのをがみまうく。暮に覩貨邏人とくわらのひとに饗へたまふ。(斉明紀三年七月)
 甲午に、甘檮丘あまかしのをかの東の川上かはらに、須弥山を造りて、陸奥と越との蝦夷えみしに饗へたまふ。(斉明紀五年三月)
 是の月に、……又、石上池いそのかみのいけほとりに須弥山を作る。高さ廟塔めうたふの如し。以て粛慎みしはせ四十七人に饗へたまふ。(斉明紀六年五月是月)
左:須弥山石(明日香村石神出土、7世紀、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024153をトリミング)、右:須弥山図(玉蟲厨子密陀絵模写 須弥山図、明治時代模、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0016059をトリミング)
 辺境の征服した異民族に威信財として見せて脅かしている。明日香村の石神遺跡から発掘された石造品、須弥山石として伝わっている。有間皇子の謀反の話は、斉明紀の「興事おこしつくることを好む」についての時の人の謗りを伏線として描かれており、そこに、石を使った土木工事の話が載っている。

 廼ち水工みづたくみをしてみぞ穿らしめ、香山かぐやまの西より石上山いそのかみのやまに至る。舟二百隻を以て、石上山の石をみてみづまにまに宮の東の山に控引き、石をかさねて垣とす。時の人そしりて曰はく、「狂心たぶれこころみぞ功夫ひとちからおとつひやすこと、三万余。垣造る功夫を費し損すこと、七万余。宮材みやのき爛れ、山椒やまのすゑうづもれたり」といふ。又謗りて曰はく、「石の山丘を作る。作るまにまに自づからにこぼれなむ」といふ。しは未だ成らざる時に拠りて、此の謗りをせるか。(斉明紀二年是歳)

 「石の山丘」とある石を使った大土木工事が批判されている。「若しは……」の割注は本当に崩れたことをカモフラージュしたもの言いであろう。二年にすぐに崩れてしまった石の山丘を再度完成させる技術を五年三月には獲得し、六年五月にはタワーにしても大丈夫なほどになっていた。その始まりは、路子工(芝耆摩呂)によるもの、塩屋鯯魚の助命嘆願した四年十一月時点では、山のように石を積み上げる土木工事の技術開発に躍起になっていたと知れる。
 処刑の場は藤白坂である。有間皇子の絞殺につづき、塩屋鯯魚・新田部米麻呂の斬殺についてもわざわざ「藤白坂」と断っている。塩屋鯯魚は、「自分の名のとおり造垣功夫として石切りをさせてくれれば、うまくいかない須弥山を作り上げてご覧にいれましょう」などと余計な洒落を言った。それは皮肉にも嫌味にも聞こえ、黙っていれば流罪で済んだところ、意趣返しに首を斬られることになったらしい。後の職制律に、「凡そ乗輿を指斥するに情理切害あらば斬。政事の乗る乖失を言議して、乗輿に渉れらば上請せよ。」とある不敬罪である。石切りから首切りが連想された。「ふぢ」は「ぶち」と音が似通っており、推古紀の「斑白まだら」とはフチシロと訓めるほどに同じものである。「さか」は「さかふ」、「さかしら」と音が通じている。有間皇子の場合、目につく嶺のことを「あり」、「あり」というように、アリマが目立つ馬のことを指していると思われたらしい。藤白は「斑馬ふちこま」を連想させる。推古紀に、「白斑なる牛馬」とあった。
 上代に人の名は、名に負う存在だからその体現に努めたとされるが、名とは呼ばれるものであった。戸籍があって誕生と同時に命名されるものではなく、人にそう呼ばれることで名を体した。今でいう綽名に近いものがそれである。そういうことだからそういうことにし、そういうことだからそういうこととして暮らしていた。言事一致、言行一致が求められたのは、文字を持たない文化において最も確からしい状況に落ち着くものだったからである。それが上代に用いられていた「言霊ことだま」という言葉の本来の意味である。

(注)
(注1)賊盗律に、「凡そ謀反及び大逆せらば皆斬。……其れ謀大逆は絞。」、「凡そ叛謀れらば絞。已に上道せらば皆斬。」などとある。
(注2)慈元抄の「昔有馬の王子零れ給ひて、……」の話に、コノシロの歌(「東路の 室のやしまに 立つ煙 誰が子の代に つなし焼くらん」)が詠まれている。
(注3)宇佐八幡宮に呉橋があり、銘菓にも形がとられている。屋根つきの木造橋で、廻廊のようである。これと推古紀のそれとがどうかかわるのか確かではないが、アーチ橋の製作を指すものかもしれない。
呉橋(宇佐八幡宮内、Sanjo氏「呉橋」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/呉橋)
(注4)西宮1990.に、「しろ〔代〕シル(領知)が原義。㊀占有する、特別な場所。①~となるための特別地。「苗代」「山代」。②~するための特別地。「矢代」「糊代」「城」。③秘密の占有地。④助数詞。土地の広さの単位。㊁領知する人・所・物・事。①代りの人・物・所。「親代」「御名代」「網代」「咲かぬが代も」。②代りのものが本物と同じ機能をもつもの。「物実」。」(361頁)と辞書的記述が行われている。

(引用・参考文献)
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。『同4 同③』、1998年。 
大系本日本書紀 大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(四)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
西宮1990. 西宮一民『上代祭祀と言語』桜楓社、平成2年。

※本稿は、2012年8月稿を2021年8月に整理し、2023年6月にルビ形式にしたものである。

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