古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

万葉集巻七の「臨時」歌について

2023年11月02日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻七に、「臨時」の標題の歌十二首が収められている。
 さほど議論されてきた歌群ではない。そもそも「臨時」、すなわち、「臨時」とはどういうことか。そのことはそれぞれの歌の理解と深くかかわることであるが、これまでの解釈では究められていない。それぞれの歌が男の詠作なのか女の詠作なのかも意見が分かれている。最初に、すべての歌について多田2009.の訳を付して掲げ、現時点での一般的な解釈を示す。

  時にのぞめる〔臨時〕
  その時々に臨んだ歌

 月草つきくさに ころもむる 君がため まだらの衣 らむとおもひて〔月草尓衣曽染流君之為綵色衣将摺跡念而〕(万1255)
 月草の色に衣を染める。あなたのために、色模様の衣を摺り染めにしようと思って。

 春霞はるかすみ ただに 道はあれど 君にはむと たもとほりも〔春霞井上従直尓道者雖有君尓将相登他廻来毛〕(万1256)
 春霞がかかる井のほとりを通ってまっすぐに道はあるが、あなたに逢おうと回り道をしてやって来ることだ。

 道のの 草深くさふか百合ゆりの 花みに みしがからに つまと言ふべしや〔道邊之草深由利乃花咲尓咲之柄二妻常可云也〕(万1257)
 道のほとりの草深い中に咲く百合の花のように、私が微笑みかけたからといって、もう妻などと呼んでよいものだろうか。

 もだあらじと ことなぐさに 言ふことを 聞き知れらくは しくはありけり〔黙然不有跡事之名種尓云言乎聞知良久波少可者有来〕(万1258)
 黙ってもいられまいと言葉だけの慰めとして言うことを、聞いてその心がわかってしまっているというのは、何とも不愉快な気分がしたことだった。

 佐伯山さへきやま の花持ちし かなしきが 手をし取りてば 花は散るとも〔佐伯山于花以之哀我子鴛取而者花散鞆〕(万1259)
 佐伯山の卯の花を持っていたいとしい人の手を取ることができたなら、花は散ってしまっても構わない。

 時ならぬ まだらころも しきか 島の榛原はりはら 時にあらねども〔不時斑衣服欲香嶋針原時二不有鞆〕(万1260)
 時節はずれの斑に摺り染めにした衣が着たいことよ。島の榛原は、まだ実をつける時期ではないが。

 山守やまもりの 里辺さとへに通ふ 山道やまみちそ しげくなりける 忘れけらしも〔山守之里邊通山道曽茂成来忘来下〕(万1261)
 山の番人が里へと通う山道に、草がすっかり生い繁ってしまった。通うのを忘れてしまったらしいことよ。

 あしひきの 山椿やまつばき咲く 八峰やつを越え 鹿猪しし待つ君が いはづまかも〔足病之山海石榴開八峯越鹿待君之伊波比嬬可聞〕(万1262)
 あしひきの山の椿の咲く峰々を越えて鹿や猪を迎え待つ、あなたが大切にする妻よ。ああ。

 あかときと 夜烏よがらす鳴けど この山の 木末こぬれの上は いまだ静けし〔暁跡夜烏雖鳴此山上之木末之於者未静之〕(万1263)
 もう暁だと夜烏は鳴くが、この山の梢の上はまだ鳥たちも鳴かずひっそりとしている。

 西にしいちに ただひとでて ならべず 買ひてしきぬの あきじこりかも〔西市尓但獨出而眼不並買師絹之商自許里鴨〕(万1264)
 西の市に一人で出かけて行って、自分の目だけで見て買ってしまった絹の、買い損ないであったことよ。

 今年ことしく 新島守にひしまもりが 麻衣あさごろも かたのまよひは たれか取り見む〔今年去新嶋守之麻衣肩乃間乱者誰取見〕(万1265)
 今年新たに出かけて行く島守の麻衣の肩のほつれは、いったい誰がつくろってやるのだろう。

 大船おほぶねを 荒海あるみ やふねたけ が見し子らが 目見まみはしるしも〔大舟乎荒海尓榜出八船多氣吾見之兒等之目見者知之母〕(万1266)
 大船を荒海に漕ぎ出して、ますます船を漕ぎに漕いで行くと、私の逢ったあの子の眼差しがありありと面影に立つことよ。

 巻七は、「雑歌」、「譬喩歌」、「挽歌」の三部立構成で、「雑歌」の前半は、「詠天」「詠月」「詠雲」「詠雨」「詠山」「詠岳」「詠河」「詠露」「詠花」「詠葉」「詠蘿」「詠草」「詠鳥」「思故郷」「詠井」「詠倭琴」「吉野作歌」「山背作歌」「摂津作歌」「羇旅作歌」と具体性のある標題が並ぶ。後半は、「問答」(万1251〜1254)、「臨時」(万1255〜1266)、「就所発思」(万1267~1269)、「寄物発思」(万1270)、「行路」(万1271)、「旋頭歌」(万1272~1295)という標題でまとめている。最後の「旋頭歌」は歌の形式による区分である。「就所発思」の万1267番歌の左注に、「右の十七首は、古歌集に出づ。〔右十七首古謌集出〕」と記され、「問答」「臨時」の歌はみな古歌集由来のものであるとしている。そのため、「臨時」という標題も古歌集にあったものをそのままに録しているとする見解も見られる(注1)
 その「臨時」は、「時に臨めり」「時に臨む」「時に臨みき」などと訓み、その時々にのぞんで歌った歌のこと、暮らしの折々の歌のことであるとされている(注2)
 ノゾム(望・臨)という言葉は、ノゾク(覗・覘)と同根とされ、のぞきこむように見ることをいうという。それに従えば、「時に臨む」は、ある特筆すべき時があり、その時のことを深く思惟して作られた歌であるということになる。特別な時のことを、まるで穴の中をのぞきこむように歌にしている。遠くから表面だけ見ていたのでは気づかない穴を見つけ、その中をよくよく覗いてみれば、それぞれ特別な「時」がどんなときであったかに理解が及ぶ。折にふれて片手間に思いを綴ったものではない。これまでの解釈は不十分であった。

 月草つきくさに ころもむる 君がため まだらの衣 らむとおもひて〔月草尓衣曽染流君之為綵色衣将摺跡念而〕(万1255)

 二句目の「染流」をシムルと訓む説もある。四句目は原文に「綵色衣」とあり、イロドリコロモ(西本願寺本など)、マダラノコロモ(萬葉集古義)、シミイロゴロモ(定本萬葉集)、シミノコロモヲ(古典大系本)、また、元暦校本の本文などには「深色衣」ともあり、フカイロコロモとも訓まれている。
 二句目は、「」が係助詞で「染流」は下二段動詞の連体形である。ソムとシムは母音交替形で、意味の上で明瞭な違いがあるものかわからない。
 おおよその見当として、男女間の歌であろうことは相違あるまい。女が染色に携わっていて男のために仕事しているとする見解が有力視されている。ツユクサ(「月草つきくさ」)は着色しても水で洗えば流れてしまうから、わざわざ染料として摺り染めることがあったか詳らかではない。下絵描きに使われたとも考えられるが、方法として摺り染めはそぐわない。いずれにせよ意中の人のために摺り染めをしているようである。最終的に染めた品を相手にプレゼントするつもりなのか、現状の解釈ではそれもよくわからない。「綵色衣」=「まだらの衣」とする説は、ツユクサで淡く青く染め、その後にさらに他の色を摺り染めするとするということだろう。しかし、多色の上等な染め物を作る場合、容易に脱色、変色してしまうツユクサを使うとは思われない。
 この歌の肝となる点は、それが淡青色に摺り染めにすること、ならびに、相手のことを「君」と言っていることである。「君」という語は相手のことを指すばかりでなく、主君、特に天子、天皇のことを指す。すなわち、相手のことを天皇扱いして持ち上げている。
小忌衣図(貞享四年大嘗会調度図、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0032753をトリミング)
 青い摺り染めの衣には小忌衣をみごろもがある。大嘗会だいじやうゑの大祀の時に、厳重な斎戒ものいみが執り行われた。その役を勤めるのが小忌人をみびとで、その時身にまとうのが小忌衣をみごろもである。白い麻の衣に花鳥草木の模様を山藍などで青く摺り染めにした。つまり、この歌では、相手のことを、これからは私の主君ですと宣誓しているのである。その条件設定として大嘗会を捩り、新たに「君」に就任する人のための潔斎用の衣のことを歌っている。「綵色衣」をマダラノコロモと訓むのは不適当である。「君」が天皇の位に就くと喩えているのだから、プロポーズの歌といって間違いないであろう。一世一代の時に臨もうというのである。
 そのように読み解くなら、「衣曽染流」は、具体的に衣を染色することをもって潔斎した状態に入り、穢れを寄せ付けないしめの域内であることを表すととれる。そして、相手のことを自分専用にして他者が触れることができないようにして独占する、しめのものとすることでもある。しめしめしめ)(メはともに乙類)の二義は無関係の語かもしれない(注3)が、口頭言語では、同じ音の言葉が同時に表されて包括的に意味を伝えることが、技巧的であれ無意識的であれ尊重されるものであった(注4)。言語とは使用されるものであり、使用されたときにその含みを受け手に通じさせることができれば使用として成功と言える。相手を自分の「君」に仕立てようと潔斎になぞらえているのだから、次のように訓むのが正しい。

 月草つきくさに ころもめる 君がため 綵色衣しめいろころも らむとおもひて〔月草尓衣曽染流君之為綵色衣将摺跡念而〕(万1255)

 この歌は二句切れである。道を外れてツユクサが生えているところへ踏み込んだら自然と衣が染まった。「る」は自発を表している。お転婆なことをことをしておいて、自然と衣が染まったのは、あなたが主君となる儀式のための小忌衣を摺り染めにしようと思っていたからそうなったのでしょう、とおどけているのである。

 春霞はるかすみ ただに 道はあれど 君にはむと たもとほりも〔春霞井上従直尓道者雖有君尓将相登他廻来毛〕(万1256)

 井戸のあるところからまっすぐに道はあるけれど、あなたに逢おうとまわり道をして来たと言っている。「春霞」はなかなか消えないで居続けるから同音のヰ(井)にかかる枕詞である。通説では、水汲みに来た女が家へ通じる直線道路を外れ、男のところへ寄って来たものとされている(注5)。しかし、水の入った桶を頭にのせたまままわり道をしたとは考えにくい。重いし、目立つ。歌なのだから架空の話なのかもしれないが、設定として無理がある。
 男の歌とみることができる。男は井の近くから彼女に逢いに来た。彼女の家がまわり道をしなければ来られないところに位置していたということではない。彼女の家までまっすぐに道は延びている。なのにタモトホリしていると言っている。タモトホリはタ(接頭語)+モトホリ(廻、連用形)である。パロディとして作られている。

 見渡せば 近き渡りを たもとほり 今か来ますと 恋ひつつそる(万2379)

 この歌では、人目につくのを避けるためにまわり道して通ってくることを言っていて、相手の訪れを今か今かと待つ心を歌っている。待っている女が、男のなかなか来てくれないことを軽くなじり、早く来て欲しいと懇願しているようにも聞える。人目につかないようにしてプライベートな時間を大切にして共有して楽しみたく、人言ひとごとが繁くなるのを嫌がるから遅くなっている。
 万1256番歌では、この「たもとほり」を洒落として捉え返している。男が「井の上」から直線道路を「たもとほり」して来ているというのは、タモト(手本)+ホリ(掘)、つまり、手ずから掘ったら水が出た井戸から来ているということである。井戸掘りがうまくいき、今溢れ出てきたきれいでおいしい飲み水を一番に彼女にプレゼントしようと訪れている。以前から好意を寄せてはいたが、なかなかきっかけがつかめずに近づけずにいた。そんなある日、ある時、彼は井戸を掘りあてた。だいぶ遠回りになったが絶好の機会が訪れた。なかなか求愛できなかったという事情を道に譬え、井戸掘りに成功したことを千載一遇のチャンスと捉えて歌った歌である。

 道のの 草深くさふか百合ゆりの 花みに みしがからに つまと言ふべしや〔道邊之草深由利乃花咲尓咲之柄二妻常可云也〕(万1257)

 女の歌とする説と男の歌とする説がある(注6)。筆者は、男の歌であると考える。
 ヱミ(咲)という言葉が、花が咲くことと笑顔になることと、二つの意味で使われて歌が作られている。ただし、咲いている花はユリに限定されている。しかも、そのユリは「草深」なところに咲いている。「草深」なところとは山のことであろう。ヤマユリのことはサヰと呼ばれていた。

 たまきはる 宇智うちの大野に 馬めて 朝踏ますらむ そのくさふか(万4)
 其の河を佐韋河さゐがはと謂ふゆゑは、其の河のに山ゆり草あまた在り。故、其の山ゆり草の名を取りて佐韋河となづけき。山ゆり草のもとの名は佐韋さゐと云ふ。(神武記)
 …… 倭文纒しつまきの 胡床あごらに立たし 猪鹿しし待つと がいませば さ待つと〔佐謂麻都登〕 我が立たせば ……(紀75)

 サヰはまた、イノシシのことも指す。サ(接頭語)+ヰ(猪)の意である。「草深」いところに棲息している。イノシシに牙のあるのを、まるでほほえんでいるかに見て取れるというのである。雌のイノシシの牙は短いが、八重歯がちらりとのぞくのをチャーミングな笑顔だと思う心理である。意図的か、無意識的か、偶然かといったことにかかわりなく、ヤマトコトバはそのように体系的な構成となっている。つまり、ユリのような女の笑顔はひょっとするとイノシシかも知れず、野生のイノシシを「妻」と言うことができるかと言えば、暴れて手なずけられそうにないからそうは言えないということになる。最後の「や」は反語である。
 このように「さゐ」の両義性を捉え、「笑み」に見えるものが猪の牙を八重歯に見立てて歌っていることを念頭に置けば、三句目までは序詞で、素敵な笑顔を見せられたからといってそう簡単に妻として認めたら大変なことになるかもしれない、ということを歌っている。草刈りの現場で笑顔を見せられたことによって惹起された恋愛模様を歌うものではない。バイト先で即席的な男女の出会いがあっての歌とするのは臨時的な嬥歌かがひに当たるかもしれないが、「臨時」ではない。魅力的な女性がこちらの目を見て微笑んだその一瞬をとらえている。「草深」なところにはどんな魔物がひそんでいるか知れない。とはいえ、その「笑み」が真正面から自分に向けられると、体が火照るほどに悩殺されるのも事実である。そのドキッとした一瞬を捉えることで、人間に深く根差す動物的感覚のあり様を歌にしている。
 では、この歌が歌われた「臨時」と呼べる「時」とはいつのことだろうか。
 「草深」なところでイノシシに遭うことを詠んでいる。万3番歌の例にあるとおり狩りに出たときである。それも、宮廷の儀礼としての狩りである。五月五日に恒例の行事として行われている。

 十九年の夏五月の五日に、菟田野うだのの薬猟くすりがりす。鶏鳴時あかときを取りて、藤原池のほとりに集ふ。会明あけぼのを以て乃ちく。(推古紀十九年五月)

 万1257番歌では、特別な時、五月五日の行事にまつわるものとして歌が作られている。だから、「臨時」歌としてまとめられている。

 もだあらじと ことなぐさに 言ふことを 聞き知れらくは しくはありけり〔黙然不有跡事之名種尓云言乎聞知良久波少可者有来〕(万1258)

 五句目の原文に「少可者有来」とある。アシクハアリケリ(武田1956.、「小可者在来」(万2584)参照)のほか、「少可」を「苛」、「奇」、「劣」の誤字と見る説もあり、誤写か否かはさておき、「からくはありけり」(土屋1951.)、「つらくはありけり」(中西1980.)と訓む説もある。
 この歌は、女が男から慰めだけの言葉をかけられて、うわべの言葉にすぎないのだと思って女が嫌な気持ちになることを歌っているものと考えられている(注7)
 しかし、そうではない。問題は、二・四句目である。「聞き知れらくは」とあるのは、聞いて知ったことは、の意である。「知り聞けらくは」、そうと知りながら聞くのは、ということではない。黙ってはいられないと言葉をつなぎ発していると聞いて知ったその内容は、というのが直訳である。聞いて知ったその言葉がひどく悪いものである、と言っている。ということは、あの人は私にお慰みを言っていると知ったということではなく、黙っていては気まずいからと言葉を発してみたら本心が露呈してしまって聞くに堪えないと言っている。「ことなぐさ」であって「なぐさこと」ではない。慰めの言葉ではなく、事実を言葉にして自慰すること、いい気になることを指している(注8)。黙っていてくれたらまだ救いがあったろうものを、と女は思ったということである。
 男が黙っていられなくなって発してしまった言葉に女がたいそう傷ついたのである。君は醜くて勃起しないよ、などといったことである。そんな言葉で追い打ちをかけられたら、ひどい、あんまりだ、と思うことであろう。何もわざわざ追い打ちのようなことを言わなくても、別れようというならただ別れればいい。なのに、自分の気持ちを押し殺していられなくなったからといって、相手の人権まで踏みにじる言葉を言い継ぐ必要などないではないか、と憤慨している。
 この解釈は、コトという言葉が言葉でもあり事柄でもあるという上代の考え方によって支えられている。言葉と事柄とが相即であるとする考え方からすると、ブスだったらブスと言わなければ気が済まないということになる。
 では、このような歌がどうして「臨時」の歌なのか。男女の別れの時、今日と同様に、泥仕合をするのが常だったからであろう。
 離別に関して、当時の人たちにとって共通認識となっていた百科事典的知識に基づき、歌として作られている。彼らが互いに共有していたヤマトコトバのバックボーンは、記紀に記された範囲を出るものではない。語り継がれて伝えられてきた話を聞いて育っている。母語を身につけるうえで必須条件であり、それが彼らの素養となっていた。ヤマトコトバを知るテキストとして、記紀に載ることとなった話はそれ以前から語られ続けられ、聞かれ続けている。無文字時代に世代を超えて一つの言葉が体系的に使われていた所以である。
 万1258番歌のように、別れの際に黙っていられなくなって悪口を並べて相手を傷つけたであろう例は、イザナキとイザナミの別れの時のこととして知られる。

 一書あるふみはく、伊奘諾尊いざなきのみこと、追ひて伊奘冉尊いざなみのみこと所在す処に至りまして、便ち語りてのたまはく、「いましを悲しとおもふがゆゑつ」とのたまふ。答へて曰はく、「うがら、吾をなましそ」とのたまふ。伊奘諾尊 、従ひたまはずしてなほみそなはす。かれ、伊奘冉尊、恥ぢ恨みて曰はく、「汝すでに我があるかたちを見つ。我、また汝が情を見む」とのたまふ。時に、伊奘諾尊またぢたまふ。因りて、出で返りなむとす。時に、ただもだして帰りたまはずして、ちかひ曰はく、「うがらはなれなむ」とのたまふ。又曰はく、「うがらけじ」とのたまふ。乃ちつはく神をなづけて速玉之男はやたまのをまをす。次にはらふ神を泉津よもつ事解之男ことさかのをなづく。すべふたはしらの神ます。其のいろも泉平坂よもつひらさかに相あらそふにいたりて、伊奘諾尊の曰はく、「始めうがらの為にかなしび、思哀しのびけることは、是吾がつたなきなりけり」とのたまふ。時に泉守道者よもつちもりびとまをしてまをさく、「のたまふこと有り。曰はく、『吾、汝と已に国をみてき。奈何いかにぞ更にかむことを求めむ。吾は此の国に留りて、共にぬべからず』とのたまふ」とまをす。是の時に、菊理媛神くくりひめのかみ、亦白す事有り。伊奘諾尊きこしめしてめたまふ。乃ち散去あらけぬ。(神代紀第五段一書第十)

 イザナキがどんどん心情を吐露していくところの言い方にはひどいものがある。「うがらはなれなむ」、「うがらけじ」、「始めうがらの為にかなしび、思哀しのびけることは、是吾がつたなきなりけり」。「族離。」は離婚しよう、「不於族。」はもはやかたき同士だ、負けないぞ、「始為族悲、及思哀者、是吾之怯矣。」は、一緒になったことは一生の不覚、汚点だと気がついた、という意味である。だんだんエスカレートして行っている。「不直黙帰、而盟之曰、」とあり、「もだあらじと」自分の言いたいことを野放図に言い放っている。そんなことを聞き知ることになったらたまらない。「しくはありけり」なのであった。

 佐伯山さへきやま の花持ちし かなしきが 手をし取りてば 花は散るとも〔佐伯山于花以之哀我子鴛取而者花散鞆〕(万1259)

 四句目は原文に「鴛取而者」とあるものを「鴛取而者」と意改している。卯の花を持っているのは手だからという理屈であろう。小さな花だから持っているのは花のついた枝ということになる。ここは「子」で正しい(注9)
 「卯の花」にコ(子)がつくことがある。ヒメヤママユガの幼虫、天蚕の一種がウツギの葉を食べる。「」が取れたら花などどうでもかまわない。古代の人は圧倒的に実用を重んじた。ましてや高級衣料品の材料、絹のうち、軽くてやわらかい最高級の繊維がとれるのである。
 歌の冒頭は「佐伯山」である。どこのことか未詳とされているが場所を伝えたいわけではない。歌の言葉としてその音から、さえぎって障害となり、邪魔をする山のことを表したいから使われている。行く手をさえぎるその山を越えて先へ進みたい、あるいはその山の神がもたらす障りが気になって行動を起こせないでいた。そんな山に分け入ってみると「卯の花」をゲットすることができた。ウ(卯)という言葉(音)は、ウ(諾)という言葉(音)を示そうとしている。今回はさえぎりません、越えて行って、あるいは、新しいことを始めてもOKですよと「佐伯山」が認めている。これ幸いに進もうと思ったが、せつなくいとしいことに卯の花は散りやすく、雨が当たって駄目になることも多かった。つまり、行動を起こす前にみるみる散ってしまった。だから越えて行くのはNGということになったが、そんなウツギの枝に天蚕がついていた。そうなると話は変わってくる。出掛けている場合ではない。うまく育てて繭を作らせ上等な絹糸に仕上げたい、という歌である。機を見て敏なことを詠んでいる。

 時ならぬ まだらころも しきか 島の榛原はりはら 時にあらねども〔不時斑衣服欲香嶋針原時二不有鞆〕(万1260)

 五句目は原文に「時二不有鞆」とあり、「時にあらずとも」とも訓まれる。
 「斑の衣」は多色に染められた衣服のことである。手間をかけた高価な服を着てみたいと思っている。いろいろな色で染めるはずなのに、「はり」、つまり、ハンノキの実で染める黄茶色のことしか言っていない(注10)。万葉集に「榛原はりはら」の歌は十首を数え、「蓁揩はりすり御衣おほみそ三具みよそひ」(天武紀朱鳥元年正月)とも見える。そのハンノキが、「島」に「榛原はりはら」として群生しているとしている。「島」は飛鳥の島の庄のことと目されている。しかし、島の庄にハンノキばかり繁茂しているところがあったとは知られていない。前歌同様、地理的な関心があるのではない。「島」は島流しの島、つまり、流刑地のことを指しているのだろう。罪を得て流罪になっている人は、当然ながら贅沢な衣服を身につけることは禁じられている。「斑の衣」は着たいと思っても許されることではない。だから、「時ならぬ」ことであり、「時にあらず」なのである。何時ということなく、罪が許されない限りずっと、「時ならぬ」時であり、「時にあらず」な時であることが続く。その「時」という言葉の重みを歌うのがこの歌ということになる。
 この歌のおもしろさは、流刑地の島のハンノキが実を落として拾える時ではなくても、多色に染められた衣服を着てみたいものだとはぐらかしたもの言いをしている点にある。罪人には、何の色にも染められていない生成りの衣しか支給されていなかったのだろう。一気にカラフルに染められた衣を身にまとうことはできなくても、汚れが目立つからそうはならないようにまずはきれいな茶色に染めてみたいのだが、実が落ちる時期にも合わない。つまりは、罪をせいぜい一等程度は減じてもらえたらいいのにと思うが、それさえ許されない状況に置かれていることを暗示している。「斑の衣」を着ることははるか遠い夢物語、到底かなわぬことなのである。
 どうしてこのような歌が歌われているのか。「斑」と「島(嶋)」とが類語的な語、連想語であると考えられていたからであろう。

 是歳ことし、百済国より化来おのづからにまうくる者有り。其の面身おもてむくろ、皆斑白まだらなり。しくは白癩しらはた有る者か。其の人になることをにくみて、海中わたなかの嶋にてむとす。然るに其の人の曰はく、「若しやつかれ斑皮まだらはだを悪みたまはば、白斑しろまだらなる牛馬をば、国の中にふべからず。亦臣、いささかなるかど有り。能く山丘やまかたく。其れ臣を留めて用ゐたまはば、国の為にくほさ有らむ。何ぞむなしく海の嶋に棄つるや」といふ。是に其のことばを聴きて棄てず。仍りて須弥山すみのやまの形及び呉橋くれはし南庭おほばに構かしむ。時の人、其の人を号けて、路子工みちこのたくみと曰ふ。亦の名は芝耆摩呂しきまろ。(推古紀二十年是歳)

 斑白まだらな人は白癩しらはたある感染症患者ではないかとして、島に棄てようと思いつかれている。そのことは、シラハタ(白旗)を掲げたのは敗者、戦いに敗れた人を流罪にして島流しするのと同等である。だから、百済からの来訪者をいきなり島流しにしようとしている。このような言葉の感覚が通念とされており、したがって、戦いに敗れて白旗を掲げて投降した人には、その身体を「斑」にすべく、刑として入れ墨が施されて是とされたのだろう。ヤマトコトバとして辻褄が合う。次の記事は参考になる。

 夏四月の辛巳の朔にして丁酉に、阿曇連浜子あづみのむらじはまこを召してみことのりしてのたまはく、「いまし仲皇子なかつみこと共にさかふることをはかりて、国家くにかたぶけむとす。罪、しぬるに当れり。然るに大きなるめぐみを垂れたまひて、ころすつみゆるしてひたひきざむつみおほす」とのたまひて、即日そのひめさききざむ。此に因りて、時人ときのひと阿曇目あづみめと曰ふ。亦、浜子に従へる野嶋のしま海人あまが罪を免して、やまと蒋代屯倉こもしろのみやけつかふ。(履中紀元年四月)

 ここで、死罪の罪一等を減じて入れ墨にするだけでなく、野嶋にいた海人たちを屯倉で使役することにしている。海人たちは島流しされていたのだと認知され、解放してやったというのが言い分なのであろう。隷属させられた海人にとってはいい迷惑である。

 山守やまもりの 里辺さとへに通ふ 山道やまみちそ しげくなりける 忘れけらしも〔山守之里邊通山道曽茂成来忘来下〕(万1261)

 「山守」を山の番人、例えば林業関係者だと考えるのは誤りである。
 ここでいう「山」はみさざきのこと、「山守」は古墳警備員のことである。地形を利用して造られた古墳もある。天皇陵や大豪族の古墳の場合、氏族の先祖の墓として大切にされたことであろう。しかし、律令制の導入によって門閥の勢力がそがれると、徐々に管理が行き届かなくなっていった。近代まで古墳は放置されたままとなり、うっそうとした森に変化しているところが多い。造営当初の姿は、草木が生えているわけではなく、葺石が敷かれて日に輝いていたり、埴輪が植えられて目につくところもあった。
 そんな「山」から村へ通じる道も、はじめのうちは草が覆っていたりはしなかった。でも、ご先祖様も、その墓のことも、かつての栄華についても、忘れられて打ち棄てられたらしいのである。歌い手にとっては、自分の家柄は門閥とは関係ないから実情がどうなのかは推測といえば推測なのであるが、時が経って忘れられるということの象徴であると十分に理解できたのである。「時」ということをよく解いた歌である。

 あしひきの 山椿やまつばき咲く 八峰やつを越え 鹿猪しし待つ君が いはづまかも〔足病之山海石榴開八峯越鹿待君之伊波比嬬可聞〕(万1262)

 「鹿猪しし」を待つ君の妻なのだから、猟師の奥さんのことである。そんな彼女が「いは」ふとは、猟の成功を祈念することである。
 どうして「山椿やまつばき咲く八峰やつを越え」て猟に出向いているのか。実際にそうであったということではなく、彼女が旦那の猟の成功を願うこと自体が、「山椿やまつばき咲く八峰やつを越え」と歌うことそのものなのではないか。
 狩猟で獲物を得る方法としては、山に入って獣道などを見つけ、そこで待ち伏せして矢を射たり、罠を仕掛けておいたりしていた。もちろん、猟銃と違い、矢を的中させたからといって即死することは少ない。出血して弱りながらも逃げて行く。その血の跡をたどって行って見つけ、あるいは罠のなかでもがいているところを棍棒で殴打して絶命させていた。大型獣を叩くための棍棒の材料としてツバキは適していた。硬くて比較的まっすぐに、細まることなく伸びている。2メートルぐらいとれないと猛獣を相手にするのは危険である。叩いてもどこも折れることがなく、また、追いかけて走りながらの作業となるなど、すぐ手に取って打撃を加えられるものでなくてはならない。持ち手か叩きどころかを区別することなく、上下逆さまになっても威力を発揮できるものが望まれる。ツバキ製の棍棒はその用途によくかなった。ツバキを詠む歌に「つらつら椿」とあるのは、川の両岸に生えているところを詠じているわけだが、上下を逆さにしても使用可能なことを弁えての言葉づかいである。ツバキは、ツバ(鍔)+キ(木)、どちらでも鍔の木と受けとめられていたと考えられる。
 狩猟では複数人で獣を追い詰める作戦をとっていた。勢子せこが円を描くようにして中心へと追い込んでいく巻狩りが知られている。山間部の場合、両側の尾根から谷へと追い込むこともあった。追い込まれて出て来た獣を待ち構えていた猟師が弓矢で射たのである。すなわち、「八峰やつを越え」とは、八つの尾根から谷へと追い込んでいくこと、逆に谷から尾根へ追い上げていくことの両方を指すのであろう。八つ尾根があるとは、尾根から谷へ八体、谷から尾根へ八体、計十六体の獣が得られるという計算になる。奇妙な捕らぬ狸の皮算用であるが、その数字合わせが祈願する時に求められている。九九くくの導入によって知られた数字の読み上げ方のシシになるからである。8×2=16=4×4、掛け算でシシ(四四)、すなわち、シシ(鹿猪)が獲れるということである。そう歌に歌うことが「いは」ふということである。旦那が狩猟に出掛けた時におまじないに歌を作るなら、こういう歌を作るといいね、ということを言っているのであった。
八峰やつを越え」(肥前州産物図考・肥前国唐津馬渡島鹿狩并鷹巣等記、国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/img.L/708704をトリミング)

 あかときと 夜烏よがらす鳴けど この山の 木末こぬれの上は いまだ静けし〔暁跡夜烏雖鳴此山上之木末之於者未静之〕(万1263)

 原文の「山上」は、ヤマノウヘ、ヤマノヘ、ミネ、ヲカ、モリといった訓が試みられている。筆者は、タケ(岳、嶽)と訓むと考える。次の歌にあるとおり「たけばぬれ」の意を含んでいると考えられる。だからヌレの音の一致する「木末こぬれ」という語も使われている。

  三方沙弥みかたのさみ園臣生羽そののおみいくはむすめを娶りて、未だいくばくの時をずして病に臥して作る歌三首
 たけばぬれ たかねば長き 妹が髪 このころ見ぬに 掻き入れつらむか〔多氣婆奴礼多香根者長寸妹之髪此来不見尓掻入津良武香〕〈三方沙弥〉(万123)

 この歌の「たく」は髪を束ねることをいい、今でも、たくし上げる、という。手を使ってうまいことすることをいい、船で櫂を使うこともタクという。また、「ぬる」という言葉は、「自然にほどける。結んであった髪が解けて垂れたり、蔓草つるくさが引かれてぬけてきたり、人の心がうちとけてきたりすることをいう。」(時代別国語大辞典558頁)とあるように、上代に特殊な語である。「たけばぬれ」という言い方は、たくし上げればまた自然とほどけて垂れてしまうやわらかい髪のことを指してのもの言いである。それは、船を漕ぐのに櫂を使ったら自ずと櫂は濡れるものだということと同じだということで、同じ言葉に作られておさまっている。「たく」時には必ず「ぬれ」る、世の中そう決まっているというわけである。その「たく」は四段動詞で、已然形の「たけ」のケは乙類、タケ(岳、嶽)と同音である。

 あかときと 夜烏よがらす鳴けど このたけの 木末こぬれの上は いまだ静けし〔暁跡夜烏雖鳴此山上之木末之於者未静之〕(万1263)
 東の空が白み始めたと夜烏が鳴くけれど、まるで高い山に生える木の梢、あなたがたくし上げた私の髪の髻の結い上げたところは、そのままになっていて静かなままですよ。

 「たけばぬれ」でなければならないはずである。美容院ではないのだから、ただ髪をたくし上げて整髪料を塗って整えただけというのでは仕方あるまい。髪をタクことをしたら必ずヌレてほどけることに相成らねばならない。つまり、タクのは次にムダク(抱)、ウダク(抱)、イダク(抱)ためであり、自然と髪はヌレることになる。それは髪が解けることであり、同時に帯も解ける。そのトキ(解、トは乙類、キは甲類)のトキ(時、トは乙類、キは甲類)を今か今かと待つ、そのためにタクことをした。一夜を共にし、女の髪を整えてきれいだなあと褒めて写真を撮るだけで、肝心の情事に進まないというのはおかしなことである。「思ひ乱れて」にかかる枕詞「朝髪あさかみの」(万724)も作られている。早くしてほしいと思う時を詠んだ歌である。「臨時」の歌である。

 西にしいちに ただひとでて ならべず 買ひてしきぬの あきじこりかも〔西市尓但獨出而眼不並買師絹之商自許里鴨〕(万1264)

 よくよく見定めもしないで買い物をして失敗したと言っている。それがどうして歌になるのか。つまりは、言葉の使い方がおもしろいと聞いた人の興趣を誘う要点は何か、今日まで理解されていない。
 難しいことではない。買い物をしたのは平城京の西の市である。絹製品を買うのに間違いをおかしてしまった。ヤマトの国の西にあるカラ(唐)の国からの舶来品だと一人早合点していたからである。キヌ(絹、キは甲類)と言うから「ぬ(キは甲類)」、つまり舶来したのだと聞き違えたのである。そして、舶来の絹製品として上等なのはにしき(キは甲類)だから、きっとそれだと思って誰にも相談せずに買ったら、西にしの市というだけでキが欠けていた。だから「あきじこり(キは甲類)」だというのである。市の立つ日は月の何日と決まっていた。常設ではない。その時が勝負で、次の日行っても誰もいない。フリーマーケットの出店のように二度と現れない相手との取引も多かったであろう。返品がきかないことは、取引自体あったかどうかさえ証明することが困難だからである。文字を使わない時代に領収書、レシートの類は存在しない。

 今年ことしく 新島守にひしまもりが 麻衣あさごろも かたのまよひは たれか取り見む〔今年去新嶋守之麻衣肩乃間乱者誰取見〕(万1265)

 「島守」は防人と同じこととされ、「新防人にひさきもり」と訓まれることもある。それでは意味が通じない。「島」に派遣される者として捉えられていたからそう言葉にされ、そう書いてある。半島を含めた辺境の島は、唐や新羅などから侵略されないように防衛に当たるわけだが、島にはもう一つの役割がある。流刑地である。中央から罪人が送られてくる。ヤマトの、とりわけ政権の中枢にいたような人である。ついこの間まで偉い人として遇されていたのに、罪を得て流されてくる。そうなると、中央から島に来た人は、派遣された役人なのか、それとも罪人なのか、簡単には判別がつかない。どちら方なのか迷うことを、着物の肩の部分のほつれ、偏りを表す「まよひ」に喩えて言っている。

 こもりくの 泊瀬はつせの川の 彼方をちかたに〔乎知可多尓〕 妹らは立たし この方に〔己乃加多尓〕 我は立ちて(万3299或本歌頭句云)
 此の時、忍熊王おしくまのみこ難波なには吉師部きしべおや伊佐比宿禰いさひのすくねを以て将軍いくさのきみ太子おほみこ御方みかたは、丸邇臣わにのおみが祖、難波根子なにはねこ建振熊命たけふるくまのみことを以て将軍と。(仲哀記)
 絁〈紕字附〉 唐韻に云はく、……紕〈匹毗反、漢語抄に万与布まよふと云ふ。一に与流よると云ふ〉は繒の壊れむとるなりといふ。(和名抄)

 新任の島守には区別がつかない。偉そうな態度をとっているのは味方なのか、ヤマトに歯向かう敵方なのか、それとも罪人なのか、迷ひが生じる。麻の衣の肩のところに「まよひ」があるといい、誰がほころびを取り繕うのか、誰がきちんと指導してくれるのかと言っている。流罪には「隠び流し」というような左遷のケースもあり、新人にはその対処法もわからない。赦免になれば自分よりもはるかに高位高官に座ることもあるから、どう立ち回ったらよいか迷うところである。
 「新島守」として派遣されるその時に歌われている。前任者が船で帰還し、引き継ぎもないままその船に乗って交替ということだったと思われる。なにしろ顔写真の付いた書類などないのである。着任してみたら、島では、せいぜいが牢名主であろう人が役人面していたということも無きにしも非ずなのである。

 大船おほぶねを 荒海あるみ やふねたけ が見し子らが 目見まみはしるしも〔大舟乎荒海尓榜出八船多氣吾見之兒等之目見者知之母〕(万1266)

 大船の航海でいちばん苦労するのは漕ぎ出すときである。岩礁にぶつかって転覆、沈没する危険性が高い。慎重に水路を見極めて、水夫が檝や櫂を操って沖まで漕いでいく。腕を使ってたくし上げるような動作を取ることが「たく」という言葉である。いったん沖合に出れば、後は帆を張って帆走すればよくなり、水夫が緊張を強いられる場面は少なくなる。
 安全な水路のことを「水脈みを」といい、その標識のことを「澪標みをつくし」という。ミヲ(水脈)+ツ(助詞)+クシ(串)の意である。大きな河川の河口部に津、湊は設けられていたから、その河川の主要流路こそ、水深が確保されていて大船の運航に支障がないところとなっている。少しでも外れると土砂の堆積物が多く、見た目は大きな河川でもそこは水深が浅くて大きな船が進むことはできない。それを知らせるための目印として澪標は立てられていた。

 澪標みをつくし〔水咫衝石〕 心尽して 思へかも 此間ここにももとな いめにし見ゆる(万3162)
 遠江とほとあふみ 引佐細江いなさほそえの 澪標みをつくし〔水乎都久思〕 あれを頼めて あさましものを(万3429)

 三句目の「やふねたけ」は一般に、已然形が逆接の前提条件を表す珍しい語法であるととられているが、順接と受けとることができる。「や船」はたくさんの船のこと、航海の経験回数が非常に多いことを言っている。
 つまり、この歌では、大船を荒海に漕ぎ出し、これまでもたくさんの船を漕ぎ出すのに檝や櫂を動かしているので、私が逢ったあの子の魅力的な視線がはっきりと思い出される、と言っている。櫂を振るう時、滅多やたらに漕いでいるのではなく、百回目の出航でも千回目の出航でも、出航の時であれば必ず澪標を目印にしながらふるっている。それはまるで好きになった子の目つきが魅力的で、吸い寄せられるようなもので、その子のために心を尽くしたのと同じことだなあと言っている。万3162番歌の例のように、澪標は必ず目にして外さないものであるとともに、心を尽くして思い続けることを印象づけるものである。
 出航の「臨時」の歌である。古代の大型船、準構造船の停泊形態の多くは潟に乗り上げる方式であった。満潮時にのみ船の周りに水が来て船は浮かぶ。多くて日に2回しかないチャンス、ひょっとすると大潮まで待たなければ訪れない時の歌であった。

(注)
(注1)例えば、澤瀉1960.197頁。
(注2)歌はすべて折々、時々に詠まれるものであろうとする正論が影山2022.68頁に述べられている。
(注3)「む」は「む」ことであり、その状態は「湿しめる」ことである。赤ん坊の小便を吸収させるあて布はおしめという。飼い犬は散歩の折にマーキングにつとめて自分のなわばりであることを確かめたがる。すなわち、しめしめ)を示そうとしている。シメの奥義である。
(注4)一つの音の言葉を二つの意味の交点として用いる掛詞が知られるが、同根の語が二つの意味に分岐したのであれ、もとは別々の語であったものが邂逅したのであれ、一つの音のもとでいわば金環蝕を起こすような使用が行われたとき、人はそれをうまいと評する。言葉づかいの機知に魅了され、脱帽せざるを得ない。
(注5)次の歌は似た歌としてあげられることがある。

 青柳あをやぎの 張らろ河門かはとに を待つと 清水せみどは汲まず 立処たちどならすも(万3546)

 澤瀉1960.は、海岸の井戸水がよくないために、村の女が山裾へ水汲みに来ているのを見たという。まわり道をしているというのは、万2379番歌の例にあるとおり、人目を忍んで逢いたいからまわり道をしているのだと解されている。
(注6)女の歌とする説に、「求婚を拒否する女の歌。」(大系本235頁)、男の歌とする説に、「路傍で女のほほ笑みをうけた男の自問自答」(伊藤1996.214頁)といった説がある。
(注7)男の歌とする見方もある。窪田1950.は、「男が女に求婚して、女から程よく婉曲に断られて、それと察して別れて来た後に、その時のことを思い出しての心である。」(156~157頁、漢字の旧字体は改めた)とする。
(注8)集中には、「ことなぐさ」の例がもう一首ある。

 われのみそ 君には恋ふる 背子せこが 恋ふといふことは ことなぐさそ〔言乃名具左曽〕(万656、大伴坂上郎女)

 通説では、あなたが恋していると仰るのは言葉だけの慰めですよ、と解されている。上二句は、私だけがあなたに恋している、と言っている。それは、他の誰もあなたに恋していない、私が独占的にあなたに恋している、つまりは、私はあなたしか目に入らない、神さま、助けてくださいと思うほどである、という意味である。それに対して、あなたが恋していると言っているのは、自分の気持ちを満足させているだけであって、恋の質が全然違う、と訴えている。このように捉えることができた時、はじめて大伴坂上郎女の情熱的な歌の本意が理解される。
 ほかに、「恋のなぐさ」という言い方もある。

 浅茅原あさじはら 小野をのしめふ 空言むなごとも 逢はむと聞こせ 恋のなぐさに〔戀之名種尓〕(万3063)

 両想いの恋ではなく、私の片思いであるが、その恋の自慰となるように大袈裟な言葉を掛けてください、と言っている。実際にはけっこう仲のいい間柄での恋の歌と目される。このように、「なぐさ」という言葉は、対象となる語がそれによって自ずと慰められることを指して使われている。
(注9)武田1956.は「子」を花の実のこととし、複雑な訓みを展開している(404頁)。
(注10)古代では、煎汁で染め重ねたか灰汁媒染したと考えられており、その時の色である。

(引用・参考文献)
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 四』集英社、1996年。
澤瀉1960. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 第七巻』中央公論社、昭和35年。
窪田1950. 窪田空穂『萬葉集評釈 第六巻』東京堂、昭和25年。
影山2022. 影山尚之『萬葉集の言語表現』和泉書院、2022年。(「暁と夜がらす鳴けど─萬葉集巻七「臨時」歌群への見通し─」『萬葉語文研究 第12集』和泉書院、2017年。)
大系本 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系5 萬葉集二』岩波書店、昭和34年。
武田1956. 武田祐吉『増訂 萬葉集全註釈 第六』角川書店、昭和31年。
多田2009. 多田一臣訳注『万葉集全解3』筑摩書房、2009年。
土屋1951. 土屋文明『萬葉集私注 第七巻』筑摩書房、昭和26年。
中西1980. 中西進『万葉集 全訳注原文付(二)』講談社(講談社文庫)、1980年。

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