古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

万葉集のウケヒと夢

2018年12月11日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集におけるウケヒの例は、次の4例である。

 都路(みやこぢ)を 遠みか妹が このころは 祈(うけ)ひて宿(ぬ)れど 夢(いめ)に見え来(こ)ぬ(万767)
 水の上に 数書く如き 吾が命 妹に逢はむと 祈(うけ)ひつるかも(万2433)
 さね葛(かづら) 後も逢はむと 夢のみに 祈(うけ)ひわたりて 年は経(へ)につつ(万2479)
 相思はず 君はあるらし ぬばたまの 夢にも見えず 祈(うけ)ひて寝れど(万2589)

 原文に、「得飼飯(うけひ)」(万767)、「受日(うけひ)」(万2433・2479)、「受旱(うけひ)」(万2589)とある。
 ウケヒは、古代の卜占の一種である。あらかじめAB二つの事態を予測し、眼前の事態でAが起れば問題としている事態はA´であり、Bが起ればB´であると、前以て定めて公表しておき、眼前の事態を見てどうなのかを判断することであった。言霊信仰が、言=事であるとする公理を用いている。前言しておいたとおりにならなければ、言≠事にならず世界の秩序は失われてしまう。
 万葉集の例では、夢との関係で歌われた例が3例ある。本稿ではそれらについて検討し、万2433番歌については別に論ずる。
 夢との関係で歌われた歌において、歌の作者は、寝る前に思い人に逢えるかどうかをウケヒをして占っている。夢の中に現れて見ることができるのであれば、現実にも本当に逢える、現れないのであれば、逢えることもない、と言葉にして前言してから寝ている。しかし、万767・2589番歌では、残念ながら夢に見ることはない。遠距離になって彼女の心も遠くなってしまったからだろうかとか、相思ではないらしいとか、失恋の情を歌っている。万2479番歌の場合、また逢おうねという気持ちは持ち続けているのだ、寝る前のウケヒの儀式は続けてきているが夢に見ることがないからそのままに年月が経ってしまったと、逢わなかったことを言い訳する気持ちが歌われていると解釈することができる。
 以上で結論は出てしまっているが、万2479番歌について、このような解釈は一般的ではない。ウケヒの意を単なるイノリ(祈)の意に使っていると捉える解説が多い。また、本心から逢いたいのに逢えないでいるように捉えられている。稲岡全注に、「「もし後に逢うことを許されるなら、今夜の夢の中でも逢わせ給え。もし後に逢うことが許されぬものなら、今夜の夢の中でも逢わぬようにさせ給え」というようなウケヒをしたものと思われる。……夢の中で逢えても現実に逢えるわけでもなく、いたずらにウケヒを繰り返すばかりでの意味。」(327頁)とする。この解釈は、たいへんな誤解をしている。ウケヒの前言誓約をしていたら、夢に逢ったら現実にも逢う、それがウケヒである。ウケヒの結果を真に受けずに反故にしたら、天罰が当たるであろう。ウケヒを吉凶の占いとばかり定めるのは間違いである。ウケヒの占いは、言=事とすることが基底に行われている。ウケヒの占いに夢に逢えば、現実にも雨が降ろうが槍が降ろうが、どんな支障も乗り越えて逢わなければならない。そうしないと、言=事とする言霊信仰に反し、神やらいにやらわれてしまうことであろう。
 第2句の「後も逢はむと」という言い回しには、また逢おうと思いながら、そう言っておきながら、実際には逢わずにいることの表現に使われている。言っていることとやっている事が異なるなら、言=事とする言霊信仰に反するのではないかと思われるであろう。天罰は当たらないかと心配されるかもしれない。そういう時、人はいろいろ言い訳をする。

 …… さね葛 後も逢はむと 大船の 思ひ憑(たの)みて 玉かぎる 磐垣淵(いはかきふち)の 隠(こも)りのみ 恋ひつつあるに ……(万207)
 言(こと)のみを 後も逢はむと 懃(ねもころ)に 吾れを頼めて 逢はざらむかも(万740)
 月草の 借れる命に ある人を いかに知りてか 後も逢はむと云ふ(万2756)
 恋ひつつも 後も逢はむと 思へこそ 己(おの)が命を 長く欲(ほ)りすれ(万2868)
 恋ひ恋ひて 後も逢はむと 慰(なぐさ)もる 心しなくは 生きてあらめや(万2904)
 ありありて 後も逢はむと 言(こと)のみを 堅(かた)め言ひつつ 逢ふとは無しに(万3113)
 …… さね葛 後も逢はむと 慰むる 心を持ちて ま袖持ち 床(とこ)うち払ひ 現(うつつ)には 君には逢はね 夢にだに 逢ふと見えこそ 天(あま)の足夜(たるよ)を(万3280)
 …… さね葛 後も逢はむと 大船の 思ひたのめど 現(うつつ)には 君には逢はず 夢にだに 逢ふと見えこそ 天の足夜に(万3281)
 ありさりて 後も逢はむと 思へこそ 露の命も 継ぎつつ渡れ(万3933)

 ウケヒをしたわけではなく、指切りげんまんをしたわけでもなければ、また逢おうねと言っておきながら逢わずにいても、針千本飲まなくてもいいのが大人の知恵である。時間を味方につけている。つまり、また逢う気ではいるけれど、今のところはまだ実際には逢っていないということである。上の万葉集のうち、例外のように見える万2868・2904・3933番歌も、逢う気でいながらまだ逢っていない。本心か否かは別にして、残念ながらまだ逢えていないと言っているのである。それは、言葉巧みなマニピュレーターということではなく、誰もが行っている言語活動である。
 以上、万葉集において、夢にウケヒする3例のウケヒの語義は、ウケヒ元来の意であると捉えることができ、単に祈ること、誓いを立てることではないとわかった。また、誤解された解釈を正すことができた。

(引用文献)
稲岡全注 稲岡耕二『萬葉集全注 巻第十一』有斐閣、平成10年。

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