スサノヲによるヤマタノヲロチ退治の説話は、イナバノシロウサギの説話とともに、いわゆる出雲神話のなかでもよく知られたものである。本稿では、ヤマタノヲロチの話が何をもって創話されたものであるかを探究する。まず初めに、スサノヲが出雲の地に降り立ち、クシ(イ)ナダヒメがヤマタノヲロチに食われる、まさにその運命にあるところに出くわすことから繙いていく。
スサノヲのヤマタノヲロチ退治説話の舞台設定=嘘を語るために
スサノヲノミコトのヤマタノヲロチ退治の話の設定は、次のようなものである。
故、[須佐之男命]避り追はえて、出雲国の肥の河上、名は鳥髪といふ地に降りき。此の時に箸、其の河より流れ下りき。是に須佐之男命、人、其の河上に有りと以為ひて、尋ね覓ぎ上り往けば、老夫と老女と二人在りて、童女を中に置きて泣けり。爾くして問ひ賜はく、「汝等は誰ぞ」ととひたまふ。故、其の老夫が答へて言はく、「僕は国つ神、大山津見神の子ぞ。僕が名は足名椎と謂ひ、妻が名は手名椎と謂ひ、女が名は櫛名田比売と謂ふ」といふ。亦、「汝が哭く由は何ぞ」と問へば、答へ白して言はく、「我が女は本より八の稚女在りしに、是を高志の八俣のをろち、年毎に来て喫へり。今其が来べき時ぞ。故泣く」といふ。(記)
是の時に、素戔嗚尊、天より出雲国の簸の川上に降到ります。時に川上に啼哭く声有るを聞く。故、声を尋ねて覓ぎ往ししかば、一の老公と老婆と有りて、中間に一の少女を置ゑて撫でつつ哭く。素戔嗚尊、問ひて曰はく、「汝等は誰ぞ。何為ぞ如此哭く」とのたまふ。対へ曰さく、「吾は是国神なり。号は脚摩乳。我が妻の号は手摩乳。此の童女は是吾が児なり。号は奇稲田姫。哭く所以は、往時に吾が児、八箇の少女有りき。年毎に八岐大蛇の為に呑まれき。今此の少童、且臨被呑むとす。脱免るる由無し。故、哀傷む」とまをす。(神代紀第八段本文)
一書に曰はく、素戔嗚尊、天より出雲の簸の川上に降到ります。(一書第一)
一書に曰はく、是の時に、素戔嗚尊、安芸国の可愛の川上に下り到ります。彼処に神有り。名は脚摩手摩と曰ふ。其の妻の名は稲田宮主簀狭之八箇耳と曰ふ。此の神正に姙身めり。夫妻共に愁へて、乃ち素戔嗚尊に告して曰さく、「我が生める児多にありと雖も、生むたび毎に輙ち八岐大蛇有りて来りて呑む。一も存きこと得ず。今吾産まむとす。恐るらくは亦呑まれむことを。是を以て哀傷む」とまをす。(一書第二)
是の時に、素戔鳴尊、其の子五十猛神を帥ゐて、新羅国に降到りまして、曾尸茂梨の処に居します。乃ち興言して曰はく、「此の地は吾居らまく欲せじ」とのたまひて、遂に埴土を以て舟を作りて、乗りて東に渡りて、出雲国の簸の川上に所在る鳥上の峯に到る。時に彼処に人を呑む大蛇有り。(一書第四)
「肥の河上」(記)は、紀に、「簸の川上」とあり、今日の斐伊川のこととされている。「肥(簸)」のヒは乙類で、火、樋、楲、干(乾)、嚏などと同音である。記の原文には、「出雲国之肥上河上」とあり、「大山上津見神」、「足上名椎」、「手上名椎」同様、声注がついている。小松2006.に、「肥上」という声注は、「肥河」という読み取り方をしないようにとの計らいではないかとする(342~347頁)。また、山口1995.では、「簸」の意であることを表示するためのものとする(91~92頁)。いずれも、神名同様に、地名を固有名詞とし、その語源を意識してのことと考えているように見受けられる。後者では、火のアクセントは平型、樋は去型だから当たらず、観智院本名義抄に「燬 ヒ〈平〉」とあるが、同本には「火 ヒ〈上〉」ともある。
その川上に「鳥髪」というところがあるという。一般的に考えて鳥に髪の毛というものはない。頭頂部が黒くてあたかも髪の毛のように見えるのはウソ(鷽)である。鷽は郷土玩具になっており、削り掛けの一種である。天満宮では毎年一月の初天神に鷽替神事が行われている。前年の不幸が嘘となって吉事に替えられるという信仰から生まれたとされている。すると、ヒ(乙類)の川とあるのは、どうも嘘くさいと知れる。川は水が流れるものである。その対とされる火の川というのは、嘘っぽい話として聞こえてくる。
左:鳥のウソ(「ハイマツの実を食べるウソ(オス)」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/ウソ(Alpsdake様))、中・右:玩具の鷽(横浜人形の家・東京おもちゃ博物館展示品)
記の「肥」の用字としては、「肥河」のほか、九州の「肥国」(記上)、人名の「肥長比売」(垂仁記)があり、また、歌謡のなかで火を表す「燃ゆる火〔毛由流肥〕」(記24)、「真火〔麻肥〕」(記42)、「かぎろひ〔迦芸漏肥〕」(記76)がある。上代に確認される「火」は、(a)一般的に燃えるもの、熱いものの意で「水」と対照される。例えば、「火にも水にも〔火尓毛水尓母〕」(万506)といった例がある。(b)火炎、ほのお。(c)火事、火災。(d)灯火、ともしび。(e)火打石の火、切り火、があげられ、ほかに、蛍や鬼火、火が燃えるような激しい心情などの譬えにも用いられる。火事、火災を表す語に、「失火」(天智紀六年三月等)、「出火」(斉明紀五年七月)という忌詞がある。延焼していく様を流れと見立てている。したがって、肥(簸)=火の川とは、ミズナガレのおかしな洒落、すなわち、嘘なのである。とってつけたように「出雲簸之川上山、是也。」(紀一書第三)などとあるのは、この話は嘘ですよという符牒であろう。また、一書第二に、「安芸国の可愛(ア行のエ)の川上」とある。榎(ア行のエ)はエノキのことである(注1)。エノキの皮は靭皮繊維を縄にしたことがあった。縄のことだというので、「名は脚摩手摩と曰ふ。」などと老公・老婆を兼ねた名にし、「其の妻の名は稲田宮主簀狭之八箇耳と曰ふ。」と別仕立てにしている。名前が合体するなど嘘っぽいことになっている。
「櫛名田比売」(記)は不思議な名前である。「一の老公[脚摩乳]と老婆[手摩乳]と有りて、中間に一の少女を置ゑて撫でつつ哭く。」(紀第八段本文)とある。ナダと名にあるのは撫でられるほどなだらかということであろう。しかし、名前の先頭は「櫛」とあり、櫛は串と同根で、先が尖っており、使い方としては撫でているように見えても実は髪を解いたり削ったりしている。終いには、「乃ち湯津爪櫛に其の童女を取り成して御みづらに刺して、」(記上)、「湯津爪櫛に化為して、御髻に挿したまふ。」(紀第八段本文)とあり、尖っていることがわかる。また、「奇稲田姫」(紀)も不思議である。奇しとは、霊妙な、の意味である。霊妙な稲田とは、収量の多い上田である。斐伊川の水源が鳥上山で、箸が流れて来なかったら人がいるとは思えない山奥である。山奥に水田が拓かれていたとの含みを示しているが、気温、水温が低くて稲の生育は悪いだろう。なのに奇稲田と言っている。そして、イナダはまだ小型のブリの名である。やはり名前の話にこだわっている。寒ブリは脂がのって美味であるが、イナダにその面影は乏しく旬も異なる(注2)。本当にこれがあのおいしいブリの幼魚なのか、そのふりをしているだけのぶりっ子なのではないか。何とも嘘っぽい。さらに、もともと八人の娘がいて、毎年、ヤマタノヲロチが現れて食べていったという。今年が八年目に当たるから最後の娘の危機なのか、その場合、ヤマタノヲロチのどの頭がまだ食べていないのか。たくさん頭があることをいうために大きな数を表すヤ(八)と形容しているとしているなら、娘の数もとても多かったことを言っていることになり、そんなに子だくさんだったのはなぜか。山間の寒冷地でも食料に困らなかったということか。謎が多い。どう考えても嘘話なのである。そして、その嘘を見破って解決に導くのはスサノヲである。スサノヲは嘘泣きをして「神やらひ」にあっている(注3)。嘘を知るものが嘘を絡めとることになっている。
ウソとは何か、ウソブクとは何か
嘘とは、本当でないことを、本当のことであるように相手が信じるように伝える言葉である。人と人とのコミュニケーションのなかで、虚偽性と意図性をもって語られるものである。「ウソをつく人は、本人が真実を知っている、もしくは知っていると思っていることが必要である。何が真かを知りながら、何らかの意図であえて虚偽を語るところにウソの本質がある。したがって、本人が虚偽だと知らずに語ったとしたら、それは間違いやでたらめであっても、本来のウソではない……。」(納富2002.97頁)という。 角川古語大辞典でも、「「いつはり」が、他を欺くことを意図した真実めかしたものであるのに対し、本当でないことが明らかで、聞く方も笑って済ますことのできるような、ばかばかしい内容のものを主としていう。」(①395頁)としている(注4)。スサノヲのヤマタノヲロチ退治の話は、話の作者が真実を知っており、あえて嘘をついている話として創作した説話なのであろう。それは、そもそもの内容が嘘にまつわる話だからということになる。嘘とは何かについてを含めて、論理階梯の二段階をひっくるめつつ相対視して鳥瞰する、嘘の説話が語られていると考えられるわけである。
ウソ(嘘)という語の確例は、温故知新書(1484年)の「迂疎虚言」と新しい。もとはウソブク(嘯)に由来する。白川1995.は、「「嘯吹く」の意である。「嘯」は口笛のような声の出しかたで、のち嘘の意となる。」(146頁)という。口をすぼめて息を強く吐くことの意の「うそ」がやがて虚偽のことを言う意に転化したと考えられている。新撰字鏡に、「嘯 蘇弔反、歗也、宇曾牟久」、説文に、「嘯 吹く声なり。口に从ひ肅声」、詩経・召南・江有に「其れ嘯するや歌ふ(其嘯也歌)」とある。紀では、彦火火出見尊が海神に教わった呪術に、「風招は即ち嘯なり。」(神代紀第十段一書第四)とある(注5)。嘘は、嘘から出た真というように、真実へと反転することもある。天満宮の鷽替神事も、嘘が変わるものであるとの基底認識を由来とするものであろう。ウソブク(嘯)という語が先んじてあって、嘘はフクものとして認められており、「吹く」でもあり「更く」でもあると感じられていたからではないか。実際、口をすぼめながら口笛のように強く息を出していればそのうちに風となるという発想は、火起こしの際に経験する。一端火が起こって焚き火が安定すると、上昇気流が生じて風は自然と集まり起こることになる。
口をすぼめて吹く様は、ひょっとこを思わせる。片目をつぶって口の尖った男の滑稽な仮面で、火男の転とされる。ばかばかしい嘘を吹いてからあのようなとぼけた面付きになる。ここで、火男とは、鍛冶屋で鞴がないために口を使うことの謂いであろう。鍛冶は金打(注6)の約で、鍛冶作業に片目を凝らして刃先を見続けるためにメカンチになるという説がある。また、火の温度管理に鞴を使うにあたり、火の色をどちらかの目で見るために目が悪くなるとの説もある(注7)。ひょっとこ面に片方の目をつぶり、口をとがらせているものがあるから後者のほうが興味深い説に思える。なにしろ、彼らはウソブクことをしているのであって、ウソを吹いて火が真っ赤に燃え盛る。真っ赤な嘘になるように吹いているわけである。
ひょっとこ面(屋台店頭商品)
当時の鍛冶は、韓半島南部からの技術移入であった。三国志・魏書・東夷伝に、「国に鉄を出づ。韓・濊・倭、皆従ひて之を取る。諸の市買、皆鉄を用ゐること中国の銭を用ゐるが如し。又、以て二郡[楽浪・帯方]に供給す。(国出鉄韓歳倭皆従取之諸市買皆用鉄如中国用銭又以供給二郡)」とあって、鉄生産、供給地であったことが記されている。釜山市莱城遺跡の鍛冶遺跡から北部九州の弥生中期前半の土器が出土し、倭人の生活空間が存在していたと評価されており、その交流の中で技術も伝わってきたと考えられている。
その技術の伝播は、4世紀末から5世紀にかけて起こった。嘘から出た実になるように、強力に嘯くことを続ければよいのだとわかったということだろう。鞴、鉄鉗が鍛冶技術に必要なものの代表として伝えられた。考古学的には古墳時代前期の福岡県博多遺跡から、弥生時代には見られなかった鞴の羽口が出土し、新たな送風技術が朝鮮半島から伝わったことを示している。そして、5世紀初頭頃、列島に新たな鍛冶具の鉄鉗が出現した。鉄鉗は赤熱した鉄を挟むのに用いる道具である。北部九州、吉備地域、奈良盆地周辺に集中して見られる。鍛冶生産に画期をもたらしたようである。その結果、鉄器が社会をさまざまな次元で変えたとされている(注8)。
鍛冶工房復元模型(平城宮いざない館展示)
鉄鉗はカナハシと訓まれる。鍛冶屋言葉にハシと呼んでいた。記に、河を箸が流れてきたとあったのは、二本セットでなければ箸と認められないから、今日の介護用箸のようにハサミ状に蝶番になっているものが流れてきたということの謂いであろう。そのようなハシは、知られる限り鉄鉗ばかりである。むろん、鉄鉗は重くて豪雨の濁流でもなければ流れ下るものではない。濁流のなかでは何が流れているかわかることもなく、そんな時、川の側にいたら自らも流されてしまうから見つけることはできない。まことに嘘話である。
スサノヲのヤマタノヲロチ退治の話は、鍛冶技術、製鉄技術について巧みな譬えで説話化しようとした試みと考えられる(注9)。だから話の枕に、嘘の話を展開しますよといろいろな形で語られている。鉄器作りの技術は漸次的に本邦に伝えられてきている。本格的な鍛冶作業ができるようになるのは古墳時代初頭以降であるとされている。もたらされた鉄素材や鉄器を再度熱して新しい鉄器に鍛造加工されたようである。
鉄素材を国産化するために製鉄が行われるようになるのは、古墳時代の中・後期以降であるとされている。そして、製鉄に当たって鉱石、磁鉄鉱(マグネタイトFe3O4)を原料にした製鉄技術が伝えられたように思われながらも、砂鉄(Fe2O3・FeO)と木炭によって製鉄(製錬)が行われるようになったという(注10)。木炭の技術は須恵器と連動しているはずだから、その移入とともに起こっているのではないかとも考えられている。弁辰に得意がられて独占物であったかと思われた技術は大掛かりなものであったが、讃嘆、驚嘆するほどのことではないとわかったということではないか。鍛冶はリサイクルである(注11)。塊煉鉄を用いた製鉄もリサイクルに同じと悟れば、鉄滓ばかりか砂鉄も使えそうだと理解できよう。頑張って鉱石を探すことから、砂鉄を用いることに鍛冶が舵を切ったということかもしれない。いわゆるたたら製鉄の発祥である(注12)。弁辰の製鉄炉はすごいものであったかもしれないが、いかに炉に風を送ることができるかがポイントであり、まったくの虚仮おどしの嘘みたいなものだったと知れた。そして、鍛冶ともども本当に必要とされているのは大規模な設備ではなく、鞴や鉄鉗といった小道具ばかりなのであった。
鞴
記紀におけるヤマタノヲロチの様子には、鍛冶、製鉄に使う鞴の形容が散りばめられている。
爾くして、「其の形は如何に」と問ふに、答へて白さく、「彼の目は赤かがちの如くして、身一つに八つの頭・八つの尾有り。亦、其の身に蘿と檜・椙と生ひ、其の長は谿八谷・峡八尾に度りて、其の腹を見れば、悉く常に血爛れたり」とまをしき。此に赤かがちと謂へるは、今の酸醤ぞ。(記)
期に至りて果して大蛇有り。頭・尾各八岐有り。眼は赤酸醤 赤酸醤、此には阿箇箇鵝知と云ふ。の如し。松柏、背上に生ひて、八丘八谷の間に蔓延れり。(神代紀第八段本文)
ヤマタノヲロチの特徴として、(1)頭と尾が八つに分かれている、(2)目が赤かがちのようである、(3)身(背)に蘿、檜椙や松柏が生えている、(4)腹が血で爛れている、(5)長さは谷八つ分、峰八つ分にわたる、(6)酒を飲む、といった点があげられる。それ以前に、蛇である、という基本も忘れてはならない。このうち、(1)と(5)は、名称に由来する表現で、山+田→八俣(八岐)とされた可能性がある。
ヤマタノヲロチは大蛇である。生態として脱皮することが知られている。和名抄に、「蛻〈蛇蛻付〉 野王案に云はく、蛻〈如説反、一音に税、訓は毛奴久〉は蝉の皮を解くなりといふ。本草に云はく、蛇肌は一名に竜子衣といふ。〈倍美乃毛沼介〉」とある。新撰字鏡に、「蛻 ……毛奴介加波、……虵蝉皮」、本草和名に、「虵蛻皮 〈仁諝に音は税〉一名に龍子衣、一名に虵苻、一名に龍子皮、一名に龍子単衣、一名に弓皮、和名は倍美乃毛奴介」とある。延喜式・典薬寮に、「諸国進年料雑薬」として、「蛇脱皮」が尾張・近江・美濃・丹波・丹後から納められている。蛇退皮、蛇蛻の名で知られるヘビの脱皮膜を乾燥させたものである。紀にある「背上」は背中のことである。記に、「[天照大御神の]そびらには千入の靫を負ひ、」(記上)、「其[熊曾建の弟建]の背皮を取りて、剣を尻より刺し通しき。」(景行記)などとある。後者の用字例のように皮が意識された語で、蛇の脱皮を想起させたくて使われているようである。蛇の脱け殻の見た目は、いわゆる蛇腹のそれであり、アコーディオン式の伸縮を思わせる。鞴のことを示している。
また、蛇腹は伏せ縫いのこと、袖口などの縫い代を押さえる伏せ縫いのうち、蛇腹糸のような太い糸を布地に伏せて綴じつける縫い方をいう。狩衣、水干、直垂などの袖口にある括り緒の伏せ方によく似る。逆に裏地を表に折り返して仕立てる場合は、袘、ふき返しという。ウソブキ(嘯)のフキと同音かと思われる。袴の裾を括るものは指貫といい、絹地で八幅に仕立て、紐で指し貫いて着用した。ニッカーポッカーズ姿は、包まれる足自体が太いわけではない。はったり、嘘姿である。和名抄に、「袴奴 楊氏漢語抄に袴奴〈左師奴岐乃波賀万、或は俗語抄に絹狩袴と云ひ、或に岐奴乃加利八可万と云ふ〉と云ふ。」とある。嚢のように入り口をつぼめて閉じるようにしており、「そびら」の蛻のさまを思わせる。たっぷりと布を使っている。「指貫も、なぞ足の衣、もしはさようのものは、足袋などもいへかし。」(能因本枕草子137)と見える。神代記第六段本文に「裳を縛きまつひて袴に為して、」、天武紀十三年閏四月条に「括緒褌を着よ。」とある。幅は、布の幅を数える単位で、和名抄に、「四声字苑に云はく、幅〈音は福、俗に訓は能〉は布絹の類の闊狭なりといふ。」とあり、鯨尺で九寸から一尺という。指貫が八幅だから、ヤマタ(八俣・八岐)とされたのかもしれない。
(2)の「赤かがち」は、酸醤のことであると注が付いている。和名抄に、「酸漿 兼名苑に云はく、酸漿は一名に洛神珠といふ。〈保々豆岐〉」とある。神代紀第九段一書第一に「[猨田彦大神の]眼は八咫鏡の如くして、赩然赤酸醤に似れり。」とあり、いずれも、目の様子を譬えている。赤く丸い実のなかの種を抜いて小さな袋状にし、口に含んで音を出したり、ストロー状のもので息を吹いて遊ぶ。貝原益軒・花譜に、「女児其なかづをさりて好んで口中にふくみならす。或ふきあけてたはむれとす。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1216672/64、漢字の旧字体は改めた)、喜田川季荘・守貞謾稿に、「此処女ノ所為ハ筆軸ノ如キ管末ヲ割リ広ケ、以レ之鬼灯ヲ弄スル体也。今世モ少女弄レ之。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592399/8、漢字の旧字体は改め、句読点を付した)とあって図が載る。吹くものである。ホホヅキ、つまり、頬についているような丸く赤いものが、目についているといっている。それを「赤かがち」というとするが、蛇の一種に「山かがち」がある。和名抄に、「蟒虵 兼名苑に云はく、蟒〈音は莾、夜万加々知、内典に見ゆ〉は虵の最も大きなりといふ。」とある。最終的に、ヲロチはたいそう酒を飲んでいる。話に聞く「蟒蛇」のようである。間違えているのではなく、わざと嘘話を作り上げていることを示したがっているように思われる。
(3)の「蘿」については、神代紀第七段本文に訓注があり、ヒカゲと訓まれている。
又、猨女君の遠祖天鈿女命、則ち手に茅纏の矟を持ち、天石窟戸の前に立たして、巧に作俳優す。亦、天香山の真坂樹を以て鬘にし、蘿 蘿、此には比舸礙と云ふ。を以て手繦 手襁、此には多須枳と云ふ。にして、火処焼き、覆槽置せ、覆槽、此には于該と云ふ。顕神明之憑談す。顕神明之憑談、此には歌牟鵝可梨と云ふ。(神代紀第七段本文)
……天宇受売命、手次に天香山の天の日影を繋けて、天の真拆を縵と為て、手草に天香山の小竹葉を結ひて、小竹を訓みて佐々と云ふ。天の石屋の戸にうけを伏せて、蹈みとどろこし、神懸り為て、胸乳を掛き出だし、裳の緒をほとに忍し垂れき。(記上)
蘿はヒカゲノカヅラのこととされ、それを使ってたすき掛けにして袖をまくったことになっている。ずり落ちてこないようにする点は、括り緒の袘と同じである。おかげで袖は蛇腹状に畳まれている。和名抄に、「蘿 唐韻に云はく、蘿〈魯何反、日本紀私記に蘿は比加介と云ふ〉は女蘿なりといふ。雑要决に云はく、松蘿は一名に女蘿といふ。〈万豆乃古介、一に佐流乎加世と云ふ〉」とある。この部分、ヒカゲと訓みながら、猨女君の遠祖、天鈿女命が着けているので、筆者はサルオガセではないかと考える。ヒカゲノカズラもサルオガセも似たようなものと思われていて、ヒカゲ(蘿・日影)と通称していたのだろう。ヤマタノヲロチの形容に、記に「蘿及檜椙」とあるところは、紀の「松柏」に対応しており、和名抄の「まつのこけ」を指すものかもしれない。虚仮おどしのような嘘なのである(注13)。いずれにせよ、枯れることなく千年万年も続くことを語るための比喩である。千代に八千代に苔生すように、おめでたいこと、すなわち、寿が語られている。コトブキの音が示すのは、コト(言・事)+フキ(吹)という真意である。吹聴しているばかりで、内心、本心は二の次である。
鞴のうそぶき
(4)の、腹に血がにじみ爛れていたのは不可思議である(注14)。蛇は地を這うが、こすれたからといって皮膚がただれることはない。鱗片で覆われ、粘液が出ているからである。ジムグリには腹に赤い模様があるとはいえ、血が出て爛れているとするのは誇張である。そのような爛れた皮膚に手当てするのに、ツワブキの根茎を乾燥したものを用いた。また、おできや小さな切り傷、軽い火傷には、ツワブキの生の葉を火であぶり、表皮を取り除いて中の粘液のある部分を患部に当てることもした。ツワブキは、古語にツハブキ、また、橐吾、橐とも記す。橐は、ふくろ、また、ふいごのことを指し、橐籥ともいう。淮南子・本経訓に、「橐を鼓し埵を吹き、以て銅鉄を銷し、堅鍛を靡流して、目に猒き足る無し。(鼓橐吹埵、以銷銅鉄、靡流堅鍛、無厭足目。)」とある。ふいごを使って銅鉄を融かし、堅く鍛えた金器を再度熔解して飽くことを知らないという意である。
似た表現は、仏典の地獄の形容に見られる。例えば、正法念処経・地獄品に、妄語を犯した者の落ちる大叫喚地獄の様子として、「所謂苦とは、悪業を以ての故に自身に蛇を生じ、(所謂苦者。以悪業故。自身生蛇。)」、「是の如き苦悩は火の苦より重く、是の如く彼処に大蛇の苦を受け(如是苦悩。重於火苦。如是彼処。受大蛇苦。)」、「所謂苦とは、二の韛嚢ありて風其の中に満ち(所謂苦者。二鉄韛嚢。風満其中。)」、「韛を以て極めて吹き、鉄鉗もて之を鉗みて鉄砧の上に在き、鉄椎もて之を打つ。(以韛極吹。鉄鉗鉗之。在鉄砧上。鉄椎打之。)」、「熱炎の鉄鉗は舌を抜きて出でしめ、(熱炎鉄鉗。抜舌令出。)」などとある(注15)。和名抄の「蟒虵」項に、「内典に見ゆ」とあったのは、地獄の表現のことを語っているのであろう。そして、「肥の河」とは、「熱炎の銅汁の其の色甚だ赤きを以て其の舌に灑ぐ。(熱炎銅汁。其色甚赤。以灑其舌。)」といったことを暗示しているのであろう。大智度論巻第十六に、「鉗を以て口を開き洋銅を灌ぐ。(以鉗開口灌以洋銅。)」とあって、往生要集に引かれている。地獄は閻魔王の裁きに従うもので、閻魔は梵語に yama というところからも、ヤマタと言うことが選ばれているのかもしれない。
鞴(寺島良安編・和漢三才図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1772984/221をトリミング)(注16)
鞴は、和名抄に、「鞴 唐韻に云はく、鞴〈蒲拝反、楊氏漢語抄に皮袋は布岐賀波と云ふ。〉は韋嚢にして火を吹くなりといふ。野王案に、鞴は冶火を吹きて熾しむる所似の嚢なりとす。」、延喜式・木工寮式に、「鍛冶吹皮の料に牛皮十五張」とある。後にもっぱら箱鞴が用いられたため、吹き皮の鞴の実体は不分明(注17)ながら、神代紀第七段一書第一には、「真名鹿の皮を全剥ぎて、天羽鞴に作る。」とある。動物の皮を剥いで中空構造を作り、蛇腹をバタバタさせることで鍛冶の火を強めるために送風した。すなわち、嚢状の仕掛けが吹く力になっている。中空のフクル(膨)ものがフクロであり、それをフク(吹)仕掛けとして活用できるからフクロと言い得て然りなのだと納得できる(注18)。
仏教にいう妄語は、嘘をつくことのいわゆる「妄語」、二枚舌を使うことの「両舌」、悪口をいうことの「悪口」、飾った言葉や無駄なおしゃべりの「綺語」などの総称とされる。大叫喚地獄とは、殺生、偸盗、邪行、飲酒に加え、妄語せるものの落ちる境遇といい、正法念処経に、「化楽天の八千年寿の如きは、此の人中に依りて若しは八千年を彼の天中の一日夜と為し、彼の三十日を以て一月と為し、彼の十二月を以て一歳と為し、彼の天中に於ける若しは八千年を、彼の地獄中の一日夜と為す。(如化楽天八千年寿。依此人中若八千年。於彼天中為一日夜。彼三十日以為一月。彼十二月以為一歳。於彼天中若八千年。彼地獄中為一日夜。)」とあって、「寿」のブラックユーモアの出所が仏教にあった可能性を指摘することができる。ヤマタノヲロチの形容は、仏教の妄語、すなわち、嘘をつくこと、うそぶくことによって陥る大叫喚地獄の様子にも取材しているようでさえある。その地獄は、鍛冶屋の熔解、精錬、冶金、鍛鉄のさまを比喩にしており、鞴で風を吹くことを語っている。鍛冶技術の伝来を説話として伝えるために、高度な修辞技法がとられたものと推察される(注19)。
鉄鉗
ヤマタノヲロチの第一義は蛇である。蛇の舌の先は左右に分かれている。古語でいう「左右」な状態になっている。そんな形の大工道具は釘抜きである。嘘をついていると、死んだときに閻魔さまに大きな釘抜で舌を抜かれると知られている。霊異記には「閻羅王」とあり、閻魔羅闍の約、中国でも早くから地蔵菩薩との習合が見られる。舌がないと地獄へ行っても何も言うことができず苦しむ。ところで、この世では舌そのものが釘抜きになっているヤマタノヲロチが出雲に登場している。これほど元も子もないモトコなことはない。
左:アオダイショウ(多摩動物公園)、右:千斤と鋏(寺島良安編・和漢三才図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1772984/221をトリミング)
千斤とも書く釘抜には、いくつかのタイプがある。現在一般的に用いられるのは、バール状の「かじや(かぢや)」と呼ばれるものである。また、「やっとこ(やとこ)」のように挟んで引き抜くものもある。そして、釘抜紋にデザイン化されたように、座金と鉄梃とを組み合わせてこじて使うものもあった。すべて釘を抜く道具であり、クシ(イ)ナダヒメが串、それも鉄の串のような釘に相当するのであろう。すると、アシナヅチ・テナヅチと言っていたヅチも、鉄槌を含意しているもののように受け取られる。記に、「足名鉄神」ともある。
忌詞に、「打つ」を「撫づ」という(注20)。わざわざ言い換える理由としては、「打つ」の意が征伐ないし打擲、すなわち、人体を殴ること一般(梅田1973.60頁)、笞杖で刑罰的に打つこと(安藤1974.358頁)が忌まれたからであるとの説がある。西宮1990.は、久志本常彰・忌詞内外七言集釈の割注、「打ハ敺撃スル也、笞杖ニテ打ヲ云、獄令曰、其決二杖笞一者、臀受拷訊者背臀分受是也、衣ヲ擣鼓ヲ撃類ノ打忌避ヘキニアラス」(注21)を引く。そして、それは笞杖で刑罰的に打つことをいうという解釈に当たらず、神宮の神官が外部の者に殴られたり、神官同士の殴り合ったりすることが多かったことから、それを忌んで反対語の「撫づ」を用いたとする説が生じているとする。令集解の神祇令・散斎条所引、延暦廿年五月十四日官符の「敺二伊勢大神宮祇宜内人一……又祝祇宜等与レ人闘打」により、神道上の忌穢の一つになるのだとする(305頁)。
延喜式・践祚大嘗祭式(注22)、儀式・践祚大嘗祭儀(注23)にも忌詞は指定されている。死刑判決、刑罰の執行、音楽を禁止しているところから、「打つ」は安藤説の刑罰のことを指していると考えるのが妥当であろう。潔斎のためには、たとえ罪人に対する刑罰であれ、人を傷つけることが憚られている。国家祭祀に際して恩赦を与える考えに近い。「撫づ」という語が、恵みの心をもって愛撫することを表すからと考えられる。「民を撫づるに寬を以てし、其の邪虐を除く。(撫民以寛、除其邪虐。)」(書経・周書・微子之命)、「撫 安なり。手に从ひ、無声。一に循なりと曰ふ。」(説文)とある。忌詞の発祥としてはそういうことになるが、打擲一般の意味に広げて「撫づ」は使われているものと考えられる。
斎宮忌詞の制がいつ頃から起こってきたか問われようが、「失火」について、ミヅナガレなる忌詞が天智紀などにありながら制度化されなかったことを勘案すると、忌詞自体の存在は存外に早かったのであろう。なぜなら、忌詞とは、逐語的に考えれば嘘を吹く言葉だからである。アシナヅチ・テナヅチ(注24)に見えるナヅ(撫)とは、「打つ」の忌詞になぞらえた物言いで、用字の「椎」(記)はまさしく打つ道具である。打つ道具をカナヅチ(鉄槌)というぐらいである。アシナヅチ・テナヅチは大きな、あるいは小さな鉄槌を持っていて、鍛冶作業にかなうものとして物語っているようである。しかし、決定的に足りないものがあった。それがヤマタノヲロチが持っている二股の道具、釘抜である。打てども抜かれて手も足も出ない状態に陥っていると話立てているわけである。
日葡辞典に、「Nadezzuchi.(撫槌) 米搗き用の大槌.」(439頁)などとあり、また、記に、「足名鉄神を喚して、告らして言はく、『汝は、我が宮の首に任けむ』といふ。且、名を負せて稲田宮主須賀之八耳神と号く。」とある。「八耳」とあるのは、稲架にするために畷に植えられたトネリコの木の枝分かれを表すのではないか(注25)。トネリコは木質が非常に硬く、野球のバットにも用いられている。収穫した稲を搗くこととも関連ある事項である。「打つ」と「撫づ」とが交用されて、釘と鉄槌の関係は、また、籾と杵との関係でもあると洒落てダブらせているように感じられる。そこには地獄の責め苦に、臼に搗かれて舎利となる様子も重ねられているようである。「稲」という語と、死ぬことを婉曲に、忌詞的にいう「去ぬ」の命令形「去ね」が同音のもとに理解される素地は固まっている(注26)。
クギヌキ(釘抜・釘貫)
釘貫門に釘貫柵(左:厳島遊楽図屏風、江戸時代、17世紀、東博展示品、右:「旧滝沢本陣(史跡)、旧滝沢本陣横山家住宅(重要文化財)」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/旧滝沢本陣(Qwert1234様)をトリミング)
クギヌキには釘貫の意もある。低い先の尖った角柱を立て並べ、そこへ横に数本の貫を通した柵のことをいい、また門の場合は釘貫門と称される。「凡そ春日春祭に、……同門西の釘貫の内の北面の東上に内侍已下座す。」(延喜式・掃部寮式)、「清見が関は、片つ方は海なるに、関屋どもあまたありて、海までくぎぬき(釘貫)したり。」(更級日記)などと見える。墓地でよく目にするほか、門や鳥居の両側に設けられており、稲垣と呼ぶこともある。クシイナダヒメとの関係が窺われる。今日でも、神社の鳥居脇の釘貫のところなどに、台を設けて酒樽が奉納されていることがある。スサノヲがアシナヅチ・テナヅチに命じた大蛇退治の作戦は、次のとおりである。
汝等、八塩折の酒を醸み、亦、垣を廻し、其の垣に八つの門を作り、門毎に八つのさずきを結ひ、其のさずき毎に酒船を置きて、船毎に其の八塩折の酒を盛りて待て。……其の八俣のをろち、信に言の如く来て、乃ち船毎に己が頭を垂れ入れ、其の酒を飲む。是に、飲み酔ひ留り伏して寝ぬ。(記)
故、素戔嗚尊、立ら奇稲田姫を、湯津爪櫛に化為して、御髻に挿したまふ。乃ち脚摩乳・手摩乳をして八醞の酒を醸み、并せて仮庪 仮庪、此には佐受枳と云ふ。八間を作ひ、各一口の槽置きて、酒を盛れしめて待ちたまふ。……酒を得るに及至りて、頭を各一の槽におとしいれて飲む。酔ひて睡る。(神代紀第八段本文)
獲物に噛みついた蛇は、首を翻して持ち上げていく。どんなに足を踏ん張って抵抗してみても引き抜かれてしまう。それを表す釘抜は、現在同様、多様な形状そのままに、釘抜という概念で括られていたことであろう。「かじや」は舌の動き、「やっとこ」は顎の動き、鉄梃でこじる動きも鎌首をひねっている様子に沿っている。また、蛇に睨まれた時点で、座金に囚われているとも解することができる。「やっとこ」はヤトコの転で、ト・コの甲乙は不明ながら、モトコ同様、ともに乙類と推測される。スサノヲ側は、その釘抜的な八つの頭で攻撃を仕掛けてくる。対するに、釘貫の柵の門にくぐらせて、酒を飲ませて酔わそうと目論んでいる。目には目を、歯には歯を、釘抜には釘貫をで対処している。この考えが正しい点は「酒船」という語からも確かめられる。フネはここで槽の意であるが、船とは反対の用途となっている。船ならばフネの外側に水分がなければならないところ、槽の内側に水分がある。だから、サカ(逆)フネであると示されている。
「さずき」とは桟敷の古形で、物見や納涼のために一段高く作った床のことである。トコは鍛冶道具には鉄床を示す。八つの床があるからヤトコ、八床にはやっとこで当たるのがふさわしい。紀にある「仮庪」の庪の字は、爾雅・釈天に、「山を祭るを庪縣と曰ふ。」とあり、山祭りに犠牲を載せる棚である。ヤマタノヲロチのヤマは山祭りに関係しそうで、それにまつわるから「八間」に作るわけである。
(つづく)
スサノヲのヤマタノヲロチ退治説話の舞台設定=嘘を語るために
スサノヲノミコトのヤマタノヲロチ退治の話の設定は、次のようなものである。
故、[須佐之男命]避り追はえて、出雲国の肥の河上、名は鳥髪といふ地に降りき。此の時に箸、其の河より流れ下りき。是に須佐之男命、人、其の河上に有りと以為ひて、尋ね覓ぎ上り往けば、老夫と老女と二人在りて、童女を中に置きて泣けり。爾くして問ひ賜はく、「汝等は誰ぞ」ととひたまふ。故、其の老夫が答へて言はく、「僕は国つ神、大山津見神の子ぞ。僕が名は足名椎と謂ひ、妻が名は手名椎と謂ひ、女が名は櫛名田比売と謂ふ」といふ。亦、「汝が哭く由は何ぞ」と問へば、答へ白して言はく、「我が女は本より八の稚女在りしに、是を高志の八俣のをろち、年毎に来て喫へり。今其が来べき時ぞ。故泣く」といふ。(記)
是の時に、素戔嗚尊、天より出雲国の簸の川上に降到ります。時に川上に啼哭く声有るを聞く。故、声を尋ねて覓ぎ往ししかば、一の老公と老婆と有りて、中間に一の少女を置ゑて撫でつつ哭く。素戔嗚尊、問ひて曰はく、「汝等は誰ぞ。何為ぞ如此哭く」とのたまふ。対へ曰さく、「吾は是国神なり。号は脚摩乳。我が妻の号は手摩乳。此の童女は是吾が児なり。号は奇稲田姫。哭く所以は、往時に吾が児、八箇の少女有りき。年毎に八岐大蛇の為に呑まれき。今此の少童、且臨被呑むとす。脱免るる由無し。故、哀傷む」とまをす。(神代紀第八段本文)
一書に曰はく、素戔嗚尊、天より出雲の簸の川上に降到ります。(一書第一)
一書に曰はく、是の時に、素戔嗚尊、安芸国の可愛の川上に下り到ります。彼処に神有り。名は脚摩手摩と曰ふ。其の妻の名は稲田宮主簀狭之八箇耳と曰ふ。此の神正に姙身めり。夫妻共に愁へて、乃ち素戔嗚尊に告して曰さく、「我が生める児多にありと雖も、生むたび毎に輙ち八岐大蛇有りて来りて呑む。一も存きこと得ず。今吾産まむとす。恐るらくは亦呑まれむことを。是を以て哀傷む」とまをす。(一書第二)
是の時に、素戔鳴尊、其の子五十猛神を帥ゐて、新羅国に降到りまして、曾尸茂梨の処に居します。乃ち興言して曰はく、「此の地は吾居らまく欲せじ」とのたまひて、遂に埴土を以て舟を作りて、乗りて東に渡りて、出雲国の簸の川上に所在る鳥上の峯に到る。時に彼処に人を呑む大蛇有り。(一書第四)
「肥の河上」(記)は、紀に、「簸の川上」とあり、今日の斐伊川のこととされている。「肥(簸)」のヒは乙類で、火、樋、楲、干(乾)、嚏などと同音である。記の原文には、「出雲国之肥上河上」とあり、「大山上津見神」、「足上名椎」、「手上名椎」同様、声注がついている。小松2006.に、「肥上」という声注は、「肥河」という読み取り方をしないようにとの計らいではないかとする(342~347頁)。また、山口1995.では、「簸」の意であることを表示するためのものとする(91~92頁)。いずれも、神名同様に、地名を固有名詞とし、その語源を意識してのことと考えているように見受けられる。後者では、火のアクセントは平型、樋は去型だから当たらず、観智院本名義抄に「燬 ヒ〈平〉」とあるが、同本には「火 ヒ〈上〉」ともある。
その川上に「鳥髪」というところがあるという。一般的に考えて鳥に髪の毛というものはない。頭頂部が黒くてあたかも髪の毛のように見えるのはウソ(鷽)である。鷽は郷土玩具になっており、削り掛けの一種である。天満宮では毎年一月の初天神に鷽替神事が行われている。前年の不幸が嘘となって吉事に替えられるという信仰から生まれたとされている。すると、ヒ(乙類)の川とあるのは、どうも嘘くさいと知れる。川は水が流れるものである。その対とされる火の川というのは、嘘っぽい話として聞こえてくる。
左:鳥のウソ(「ハイマツの実を食べるウソ(オス)」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/ウソ(Alpsdake様))、中・右:玩具の鷽(横浜人形の家・東京おもちゃ博物館展示品)
記の「肥」の用字としては、「肥河」のほか、九州の「肥国」(記上)、人名の「肥長比売」(垂仁記)があり、また、歌謡のなかで火を表す「燃ゆる火〔毛由流肥〕」(記24)、「真火〔麻肥〕」(記42)、「かぎろひ〔迦芸漏肥〕」(記76)がある。上代に確認される「火」は、(a)一般的に燃えるもの、熱いものの意で「水」と対照される。例えば、「火にも水にも〔火尓毛水尓母〕」(万506)といった例がある。(b)火炎、ほのお。(c)火事、火災。(d)灯火、ともしび。(e)火打石の火、切り火、があげられ、ほかに、蛍や鬼火、火が燃えるような激しい心情などの譬えにも用いられる。火事、火災を表す語に、「失火」(天智紀六年三月等)、「出火」(斉明紀五年七月)という忌詞がある。延焼していく様を流れと見立てている。したがって、肥(簸)=火の川とは、ミズナガレのおかしな洒落、すなわち、嘘なのである。とってつけたように「出雲簸之川上山、是也。」(紀一書第三)などとあるのは、この話は嘘ですよという符牒であろう。また、一書第二に、「安芸国の可愛(ア行のエ)の川上」とある。榎(ア行のエ)はエノキのことである(注1)。エノキの皮は靭皮繊維を縄にしたことがあった。縄のことだというので、「名は脚摩手摩と曰ふ。」などと老公・老婆を兼ねた名にし、「其の妻の名は稲田宮主簀狭之八箇耳と曰ふ。」と別仕立てにしている。名前が合体するなど嘘っぽいことになっている。
「櫛名田比売」(記)は不思議な名前である。「一の老公[脚摩乳]と老婆[手摩乳]と有りて、中間に一の少女を置ゑて撫でつつ哭く。」(紀第八段本文)とある。ナダと名にあるのは撫でられるほどなだらかということであろう。しかし、名前の先頭は「櫛」とあり、櫛は串と同根で、先が尖っており、使い方としては撫でているように見えても実は髪を解いたり削ったりしている。終いには、「乃ち湯津爪櫛に其の童女を取り成して御みづらに刺して、」(記上)、「湯津爪櫛に化為して、御髻に挿したまふ。」(紀第八段本文)とあり、尖っていることがわかる。また、「奇稲田姫」(紀)も不思議である。奇しとは、霊妙な、の意味である。霊妙な稲田とは、収量の多い上田である。斐伊川の水源が鳥上山で、箸が流れて来なかったら人がいるとは思えない山奥である。山奥に水田が拓かれていたとの含みを示しているが、気温、水温が低くて稲の生育は悪いだろう。なのに奇稲田と言っている。そして、イナダはまだ小型のブリの名である。やはり名前の話にこだわっている。寒ブリは脂がのって美味であるが、イナダにその面影は乏しく旬も異なる(注2)。本当にこれがあのおいしいブリの幼魚なのか、そのふりをしているだけのぶりっ子なのではないか。何とも嘘っぽい。さらに、もともと八人の娘がいて、毎年、ヤマタノヲロチが現れて食べていったという。今年が八年目に当たるから最後の娘の危機なのか、その場合、ヤマタノヲロチのどの頭がまだ食べていないのか。たくさん頭があることをいうために大きな数を表すヤ(八)と形容しているとしているなら、娘の数もとても多かったことを言っていることになり、そんなに子だくさんだったのはなぜか。山間の寒冷地でも食料に困らなかったということか。謎が多い。どう考えても嘘話なのである。そして、その嘘を見破って解決に導くのはスサノヲである。スサノヲは嘘泣きをして「神やらひ」にあっている(注3)。嘘を知るものが嘘を絡めとることになっている。
ウソとは何か、ウソブクとは何か
嘘とは、本当でないことを、本当のことであるように相手が信じるように伝える言葉である。人と人とのコミュニケーションのなかで、虚偽性と意図性をもって語られるものである。「ウソをつく人は、本人が真実を知っている、もしくは知っていると思っていることが必要である。何が真かを知りながら、何らかの意図であえて虚偽を語るところにウソの本質がある。したがって、本人が虚偽だと知らずに語ったとしたら、それは間違いやでたらめであっても、本来のウソではない……。」(納富2002.97頁)という。 角川古語大辞典でも、「「いつはり」が、他を欺くことを意図した真実めかしたものであるのに対し、本当でないことが明らかで、聞く方も笑って済ますことのできるような、ばかばかしい内容のものを主としていう。」(①395頁)としている(注4)。スサノヲのヤマタノヲロチ退治の話は、話の作者が真実を知っており、あえて嘘をついている話として創作した説話なのであろう。それは、そもそもの内容が嘘にまつわる話だからということになる。嘘とは何かについてを含めて、論理階梯の二段階をひっくるめつつ相対視して鳥瞰する、嘘の説話が語られていると考えられるわけである。
ウソ(嘘)という語の確例は、温故知新書(1484年)の「迂疎虚言」と新しい。もとはウソブク(嘯)に由来する。白川1995.は、「「嘯吹く」の意である。「嘯」は口笛のような声の出しかたで、のち嘘の意となる。」(146頁)という。口をすぼめて息を強く吐くことの意の「うそ」がやがて虚偽のことを言う意に転化したと考えられている。新撰字鏡に、「嘯 蘇弔反、歗也、宇曾牟久」、説文に、「嘯 吹く声なり。口に从ひ肅声」、詩経・召南・江有に「其れ嘯するや歌ふ(其嘯也歌)」とある。紀では、彦火火出見尊が海神に教わった呪術に、「風招は即ち嘯なり。」(神代紀第十段一書第四)とある(注5)。嘘は、嘘から出た真というように、真実へと反転することもある。天満宮の鷽替神事も、嘘が変わるものであるとの基底認識を由来とするものであろう。ウソブク(嘯)という語が先んじてあって、嘘はフクものとして認められており、「吹く」でもあり「更く」でもあると感じられていたからではないか。実際、口をすぼめながら口笛のように強く息を出していればそのうちに風となるという発想は、火起こしの際に経験する。一端火が起こって焚き火が安定すると、上昇気流が生じて風は自然と集まり起こることになる。
口をすぼめて吹く様は、ひょっとこを思わせる。片目をつぶって口の尖った男の滑稽な仮面で、火男の転とされる。ばかばかしい嘘を吹いてからあのようなとぼけた面付きになる。ここで、火男とは、鍛冶屋で鞴がないために口を使うことの謂いであろう。鍛冶は金打(注6)の約で、鍛冶作業に片目を凝らして刃先を見続けるためにメカンチになるという説がある。また、火の温度管理に鞴を使うにあたり、火の色をどちらかの目で見るために目が悪くなるとの説もある(注7)。ひょっとこ面に片方の目をつぶり、口をとがらせているものがあるから後者のほうが興味深い説に思える。なにしろ、彼らはウソブクことをしているのであって、ウソを吹いて火が真っ赤に燃え盛る。真っ赤な嘘になるように吹いているわけである。
ひょっとこ面(屋台店頭商品)
当時の鍛冶は、韓半島南部からの技術移入であった。三国志・魏書・東夷伝に、「国に鉄を出づ。韓・濊・倭、皆従ひて之を取る。諸の市買、皆鉄を用ゐること中国の銭を用ゐるが如し。又、以て二郡[楽浪・帯方]に供給す。(国出鉄韓歳倭皆従取之諸市買皆用鉄如中国用銭又以供給二郡)」とあって、鉄生産、供給地であったことが記されている。釜山市莱城遺跡の鍛冶遺跡から北部九州の弥生中期前半の土器が出土し、倭人の生活空間が存在していたと評価されており、その交流の中で技術も伝わってきたと考えられている。
その技術の伝播は、4世紀末から5世紀にかけて起こった。嘘から出た実になるように、強力に嘯くことを続ければよいのだとわかったということだろう。鞴、鉄鉗が鍛冶技術に必要なものの代表として伝えられた。考古学的には古墳時代前期の福岡県博多遺跡から、弥生時代には見られなかった鞴の羽口が出土し、新たな送風技術が朝鮮半島から伝わったことを示している。そして、5世紀初頭頃、列島に新たな鍛冶具の鉄鉗が出現した。鉄鉗は赤熱した鉄を挟むのに用いる道具である。北部九州、吉備地域、奈良盆地周辺に集中して見られる。鍛冶生産に画期をもたらしたようである。その結果、鉄器が社会をさまざまな次元で変えたとされている(注8)。
鍛冶工房復元模型(平城宮いざない館展示)
鉄鉗はカナハシと訓まれる。鍛冶屋言葉にハシと呼んでいた。記に、河を箸が流れてきたとあったのは、二本セットでなければ箸と認められないから、今日の介護用箸のようにハサミ状に蝶番になっているものが流れてきたということの謂いであろう。そのようなハシは、知られる限り鉄鉗ばかりである。むろん、鉄鉗は重くて豪雨の濁流でもなければ流れ下るものではない。濁流のなかでは何が流れているかわかることもなく、そんな時、川の側にいたら自らも流されてしまうから見つけることはできない。まことに嘘話である。
スサノヲのヤマタノヲロチ退治の話は、鍛冶技術、製鉄技術について巧みな譬えで説話化しようとした試みと考えられる(注9)。だから話の枕に、嘘の話を展開しますよといろいろな形で語られている。鉄器作りの技術は漸次的に本邦に伝えられてきている。本格的な鍛冶作業ができるようになるのは古墳時代初頭以降であるとされている。もたらされた鉄素材や鉄器を再度熱して新しい鉄器に鍛造加工されたようである。
鉄素材を国産化するために製鉄が行われるようになるのは、古墳時代の中・後期以降であるとされている。そして、製鉄に当たって鉱石、磁鉄鉱(マグネタイトFe3O4)を原料にした製鉄技術が伝えられたように思われながらも、砂鉄(Fe2O3・FeO)と木炭によって製鉄(製錬)が行われるようになったという(注10)。木炭の技術は須恵器と連動しているはずだから、その移入とともに起こっているのではないかとも考えられている。弁辰に得意がられて独占物であったかと思われた技術は大掛かりなものであったが、讃嘆、驚嘆するほどのことではないとわかったということではないか。鍛冶はリサイクルである(注11)。塊煉鉄を用いた製鉄もリサイクルに同じと悟れば、鉄滓ばかりか砂鉄も使えそうだと理解できよう。頑張って鉱石を探すことから、砂鉄を用いることに鍛冶が舵を切ったということかもしれない。いわゆるたたら製鉄の発祥である(注12)。弁辰の製鉄炉はすごいものであったかもしれないが、いかに炉に風を送ることができるかがポイントであり、まったくの虚仮おどしの嘘みたいなものだったと知れた。そして、鍛冶ともども本当に必要とされているのは大規模な設備ではなく、鞴や鉄鉗といった小道具ばかりなのであった。
鞴
記紀におけるヤマタノヲロチの様子には、鍛冶、製鉄に使う鞴の形容が散りばめられている。
爾くして、「其の形は如何に」と問ふに、答へて白さく、「彼の目は赤かがちの如くして、身一つに八つの頭・八つの尾有り。亦、其の身に蘿と檜・椙と生ひ、其の長は谿八谷・峡八尾に度りて、其の腹を見れば、悉く常に血爛れたり」とまをしき。此に赤かがちと謂へるは、今の酸醤ぞ。(記)
期に至りて果して大蛇有り。頭・尾各八岐有り。眼は赤酸醤 赤酸醤、此には阿箇箇鵝知と云ふ。の如し。松柏、背上に生ひて、八丘八谷の間に蔓延れり。(神代紀第八段本文)
ヤマタノヲロチの特徴として、(1)頭と尾が八つに分かれている、(2)目が赤かがちのようである、(3)身(背)に蘿、檜椙や松柏が生えている、(4)腹が血で爛れている、(5)長さは谷八つ分、峰八つ分にわたる、(6)酒を飲む、といった点があげられる。それ以前に、蛇である、という基本も忘れてはならない。このうち、(1)と(5)は、名称に由来する表現で、山+田→八俣(八岐)とされた可能性がある。
ヤマタノヲロチは大蛇である。生態として脱皮することが知られている。和名抄に、「蛻〈蛇蛻付〉 野王案に云はく、蛻〈如説反、一音に税、訓は毛奴久〉は蝉の皮を解くなりといふ。本草に云はく、蛇肌は一名に竜子衣といふ。〈倍美乃毛沼介〉」とある。新撰字鏡に、「蛻 ……毛奴介加波、……虵蝉皮」、本草和名に、「虵蛻皮 〈仁諝に音は税〉一名に龍子衣、一名に虵苻、一名に龍子皮、一名に龍子単衣、一名に弓皮、和名は倍美乃毛奴介」とある。延喜式・典薬寮に、「諸国進年料雑薬」として、「蛇脱皮」が尾張・近江・美濃・丹波・丹後から納められている。蛇退皮、蛇蛻の名で知られるヘビの脱皮膜を乾燥させたものである。紀にある「背上」は背中のことである。記に、「[天照大御神の]そびらには千入の靫を負ひ、」(記上)、「其[熊曾建の弟建]の背皮を取りて、剣を尻より刺し通しき。」(景行記)などとある。後者の用字例のように皮が意識された語で、蛇の脱皮を想起させたくて使われているようである。蛇の脱け殻の見た目は、いわゆる蛇腹のそれであり、アコーディオン式の伸縮を思わせる。鞴のことを示している。
また、蛇腹は伏せ縫いのこと、袖口などの縫い代を押さえる伏せ縫いのうち、蛇腹糸のような太い糸を布地に伏せて綴じつける縫い方をいう。狩衣、水干、直垂などの袖口にある括り緒の伏せ方によく似る。逆に裏地を表に折り返して仕立てる場合は、袘、ふき返しという。ウソブキ(嘯)のフキと同音かと思われる。袴の裾を括るものは指貫といい、絹地で八幅に仕立て、紐で指し貫いて着用した。ニッカーポッカーズ姿は、包まれる足自体が太いわけではない。はったり、嘘姿である。和名抄に、「袴奴 楊氏漢語抄に袴奴〈左師奴岐乃波賀万、或は俗語抄に絹狩袴と云ひ、或に岐奴乃加利八可万と云ふ〉と云ふ。」とある。嚢のように入り口をつぼめて閉じるようにしており、「そびら」の蛻のさまを思わせる。たっぷりと布を使っている。「指貫も、なぞ足の衣、もしはさようのものは、足袋などもいへかし。」(能因本枕草子137)と見える。神代記第六段本文に「裳を縛きまつひて袴に為して、」、天武紀十三年閏四月条に「括緒褌を着よ。」とある。幅は、布の幅を数える単位で、和名抄に、「四声字苑に云はく、幅〈音は福、俗に訓は能〉は布絹の類の闊狭なりといふ。」とあり、鯨尺で九寸から一尺という。指貫が八幅だから、ヤマタ(八俣・八岐)とされたのかもしれない。
(2)の「赤かがち」は、酸醤のことであると注が付いている。和名抄に、「酸漿 兼名苑に云はく、酸漿は一名に洛神珠といふ。〈保々豆岐〉」とある。神代紀第九段一書第一に「[猨田彦大神の]眼は八咫鏡の如くして、赩然赤酸醤に似れり。」とあり、いずれも、目の様子を譬えている。赤く丸い実のなかの種を抜いて小さな袋状にし、口に含んで音を出したり、ストロー状のもので息を吹いて遊ぶ。貝原益軒・花譜に、「女児其なかづをさりて好んで口中にふくみならす。或ふきあけてたはむれとす。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1216672/64、漢字の旧字体は改めた)、喜田川季荘・守貞謾稿に、「此処女ノ所為ハ筆軸ノ如キ管末ヲ割リ広ケ、以レ之鬼灯ヲ弄スル体也。今世モ少女弄レ之。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592399/8、漢字の旧字体は改め、句読点を付した)とあって図が載る。吹くものである。ホホヅキ、つまり、頬についているような丸く赤いものが、目についているといっている。それを「赤かがち」というとするが、蛇の一種に「山かがち」がある。和名抄に、「蟒虵 兼名苑に云はく、蟒〈音は莾、夜万加々知、内典に見ゆ〉は虵の最も大きなりといふ。」とある。最終的に、ヲロチはたいそう酒を飲んでいる。話に聞く「蟒蛇」のようである。間違えているのではなく、わざと嘘話を作り上げていることを示したがっているように思われる。
(3)の「蘿」については、神代紀第七段本文に訓注があり、ヒカゲと訓まれている。
又、猨女君の遠祖天鈿女命、則ち手に茅纏の矟を持ち、天石窟戸の前に立たして、巧に作俳優す。亦、天香山の真坂樹を以て鬘にし、蘿 蘿、此には比舸礙と云ふ。を以て手繦 手襁、此には多須枳と云ふ。にして、火処焼き、覆槽置せ、覆槽、此には于該と云ふ。顕神明之憑談す。顕神明之憑談、此には歌牟鵝可梨と云ふ。(神代紀第七段本文)
……天宇受売命、手次に天香山の天の日影を繋けて、天の真拆を縵と為て、手草に天香山の小竹葉を結ひて、小竹を訓みて佐々と云ふ。天の石屋の戸にうけを伏せて、蹈みとどろこし、神懸り為て、胸乳を掛き出だし、裳の緒をほとに忍し垂れき。(記上)
蘿はヒカゲノカヅラのこととされ、それを使ってたすき掛けにして袖をまくったことになっている。ずり落ちてこないようにする点は、括り緒の袘と同じである。おかげで袖は蛇腹状に畳まれている。和名抄に、「蘿 唐韻に云はく、蘿〈魯何反、日本紀私記に蘿は比加介と云ふ〉は女蘿なりといふ。雑要决に云はく、松蘿は一名に女蘿といふ。〈万豆乃古介、一に佐流乎加世と云ふ〉」とある。この部分、ヒカゲと訓みながら、猨女君の遠祖、天鈿女命が着けているので、筆者はサルオガセではないかと考える。ヒカゲノカズラもサルオガセも似たようなものと思われていて、ヒカゲ(蘿・日影)と通称していたのだろう。ヤマタノヲロチの形容に、記に「蘿及檜椙」とあるところは、紀の「松柏」に対応しており、和名抄の「まつのこけ」を指すものかもしれない。虚仮おどしのような嘘なのである(注13)。いずれにせよ、枯れることなく千年万年も続くことを語るための比喩である。千代に八千代に苔生すように、おめでたいこと、すなわち、寿が語られている。コトブキの音が示すのは、コト(言・事)+フキ(吹)という真意である。吹聴しているばかりで、内心、本心は二の次である。
鞴のうそぶき
(4)の、腹に血がにじみ爛れていたのは不可思議である(注14)。蛇は地を這うが、こすれたからといって皮膚がただれることはない。鱗片で覆われ、粘液が出ているからである。ジムグリには腹に赤い模様があるとはいえ、血が出て爛れているとするのは誇張である。そのような爛れた皮膚に手当てするのに、ツワブキの根茎を乾燥したものを用いた。また、おできや小さな切り傷、軽い火傷には、ツワブキの生の葉を火であぶり、表皮を取り除いて中の粘液のある部分を患部に当てることもした。ツワブキは、古語にツハブキ、また、橐吾、橐とも記す。橐は、ふくろ、また、ふいごのことを指し、橐籥ともいう。淮南子・本経訓に、「橐を鼓し埵を吹き、以て銅鉄を銷し、堅鍛を靡流して、目に猒き足る無し。(鼓橐吹埵、以銷銅鉄、靡流堅鍛、無厭足目。)」とある。ふいごを使って銅鉄を融かし、堅く鍛えた金器を再度熔解して飽くことを知らないという意である。
似た表現は、仏典の地獄の形容に見られる。例えば、正法念処経・地獄品に、妄語を犯した者の落ちる大叫喚地獄の様子として、「所謂苦とは、悪業を以ての故に自身に蛇を生じ、(所謂苦者。以悪業故。自身生蛇。)」、「是の如き苦悩は火の苦より重く、是の如く彼処に大蛇の苦を受け(如是苦悩。重於火苦。如是彼処。受大蛇苦。)」、「所謂苦とは、二の韛嚢ありて風其の中に満ち(所謂苦者。二鉄韛嚢。風満其中。)」、「韛を以て極めて吹き、鉄鉗もて之を鉗みて鉄砧の上に在き、鉄椎もて之を打つ。(以韛極吹。鉄鉗鉗之。在鉄砧上。鉄椎打之。)」、「熱炎の鉄鉗は舌を抜きて出でしめ、(熱炎鉄鉗。抜舌令出。)」などとある(注15)。和名抄の「蟒虵」項に、「内典に見ゆ」とあったのは、地獄の表現のことを語っているのであろう。そして、「肥の河」とは、「熱炎の銅汁の其の色甚だ赤きを以て其の舌に灑ぐ。(熱炎銅汁。其色甚赤。以灑其舌。)」といったことを暗示しているのであろう。大智度論巻第十六に、「鉗を以て口を開き洋銅を灌ぐ。(以鉗開口灌以洋銅。)」とあって、往生要集に引かれている。地獄は閻魔王の裁きに従うもので、閻魔は梵語に yama というところからも、ヤマタと言うことが選ばれているのかもしれない。
鞴(寺島良安編・和漢三才図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1772984/221をトリミング)(注16)
鞴は、和名抄に、「鞴 唐韻に云はく、鞴〈蒲拝反、楊氏漢語抄に皮袋は布岐賀波と云ふ。〉は韋嚢にして火を吹くなりといふ。野王案に、鞴は冶火を吹きて熾しむる所似の嚢なりとす。」、延喜式・木工寮式に、「鍛冶吹皮の料に牛皮十五張」とある。後にもっぱら箱鞴が用いられたため、吹き皮の鞴の実体は不分明(注17)ながら、神代紀第七段一書第一には、「真名鹿の皮を全剥ぎて、天羽鞴に作る。」とある。動物の皮を剥いで中空構造を作り、蛇腹をバタバタさせることで鍛冶の火を強めるために送風した。すなわち、嚢状の仕掛けが吹く力になっている。中空のフクル(膨)ものがフクロであり、それをフク(吹)仕掛けとして活用できるからフクロと言い得て然りなのだと納得できる(注18)。
仏教にいう妄語は、嘘をつくことのいわゆる「妄語」、二枚舌を使うことの「両舌」、悪口をいうことの「悪口」、飾った言葉や無駄なおしゃべりの「綺語」などの総称とされる。大叫喚地獄とは、殺生、偸盗、邪行、飲酒に加え、妄語せるものの落ちる境遇といい、正法念処経に、「化楽天の八千年寿の如きは、此の人中に依りて若しは八千年を彼の天中の一日夜と為し、彼の三十日を以て一月と為し、彼の十二月を以て一歳と為し、彼の天中に於ける若しは八千年を、彼の地獄中の一日夜と為す。(如化楽天八千年寿。依此人中若八千年。於彼天中為一日夜。彼三十日以為一月。彼十二月以為一歳。於彼天中若八千年。彼地獄中為一日夜。)」とあって、「寿」のブラックユーモアの出所が仏教にあった可能性を指摘することができる。ヤマタノヲロチの形容は、仏教の妄語、すなわち、嘘をつくこと、うそぶくことによって陥る大叫喚地獄の様子にも取材しているようでさえある。その地獄は、鍛冶屋の熔解、精錬、冶金、鍛鉄のさまを比喩にしており、鞴で風を吹くことを語っている。鍛冶技術の伝来を説話として伝えるために、高度な修辞技法がとられたものと推察される(注19)。
鉄鉗
ヤマタノヲロチの第一義は蛇である。蛇の舌の先は左右に分かれている。古語でいう「左右」な状態になっている。そんな形の大工道具は釘抜きである。嘘をついていると、死んだときに閻魔さまに大きな釘抜で舌を抜かれると知られている。霊異記には「閻羅王」とあり、閻魔羅闍の約、中国でも早くから地蔵菩薩との習合が見られる。舌がないと地獄へ行っても何も言うことができず苦しむ。ところで、この世では舌そのものが釘抜きになっているヤマタノヲロチが出雲に登場している。これほど元も子もないモトコなことはない。
左:アオダイショウ(多摩動物公園)、右:千斤と鋏(寺島良安編・和漢三才図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1772984/221をトリミング)
千斤とも書く釘抜には、いくつかのタイプがある。現在一般的に用いられるのは、バール状の「かじや(かぢや)」と呼ばれるものである。また、「やっとこ(やとこ)」のように挟んで引き抜くものもある。そして、釘抜紋にデザイン化されたように、座金と鉄梃とを組み合わせてこじて使うものもあった。すべて釘を抜く道具であり、クシ(イ)ナダヒメが串、それも鉄の串のような釘に相当するのであろう。すると、アシナヅチ・テナヅチと言っていたヅチも、鉄槌を含意しているもののように受け取られる。記に、「足名鉄神」ともある。
忌詞に、「打つ」を「撫づ」という(注20)。わざわざ言い換える理由としては、「打つ」の意が征伐ないし打擲、すなわち、人体を殴ること一般(梅田1973.60頁)、笞杖で刑罰的に打つこと(安藤1974.358頁)が忌まれたからであるとの説がある。西宮1990.は、久志本常彰・忌詞内外七言集釈の割注、「打ハ敺撃スル也、笞杖ニテ打ヲ云、獄令曰、其決二杖笞一者、臀受拷訊者背臀分受是也、衣ヲ擣鼓ヲ撃類ノ打忌避ヘキニアラス」(注21)を引く。そして、それは笞杖で刑罰的に打つことをいうという解釈に当たらず、神宮の神官が外部の者に殴られたり、神官同士の殴り合ったりすることが多かったことから、それを忌んで反対語の「撫づ」を用いたとする説が生じているとする。令集解の神祇令・散斎条所引、延暦廿年五月十四日官符の「敺二伊勢大神宮祇宜内人一……又祝祇宜等与レ人闘打」により、神道上の忌穢の一つになるのだとする(305頁)。
延喜式・践祚大嘗祭式(注22)、儀式・践祚大嘗祭儀(注23)にも忌詞は指定されている。死刑判決、刑罰の執行、音楽を禁止しているところから、「打つ」は安藤説の刑罰のことを指していると考えるのが妥当であろう。潔斎のためには、たとえ罪人に対する刑罰であれ、人を傷つけることが憚られている。国家祭祀に際して恩赦を与える考えに近い。「撫づ」という語が、恵みの心をもって愛撫することを表すからと考えられる。「民を撫づるに寬を以てし、其の邪虐を除く。(撫民以寛、除其邪虐。)」(書経・周書・微子之命)、「撫 安なり。手に从ひ、無声。一に循なりと曰ふ。」(説文)とある。忌詞の発祥としてはそういうことになるが、打擲一般の意味に広げて「撫づ」は使われているものと考えられる。
斎宮忌詞の制がいつ頃から起こってきたか問われようが、「失火」について、ミヅナガレなる忌詞が天智紀などにありながら制度化されなかったことを勘案すると、忌詞自体の存在は存外に早かったのであろう。なぜなら、忌詞とは、逐語的に考えれば嘘を吹く言葉だからである。アシナヅチ・テナヅチ(注24)に見えるナヅ(撫)とは、「打つ」の忌詞になぞらえた物言いで、用字の「椎」(記)はまさしく打つ道具である。打つ道具をカナヅチ(鉄槌)というぐらいである。アシナヅチ・テナヅチは大きな、あるいは小さな鉄槌を持っていて、鍛冶作業にかなうものとして物語っているようである。しかし、決定的に足りないものがあった。それがヤマタノヲロチが持っている二股の道具、釘抜である。打てども抜かれて手も足も出ない状態に陥っていると話立てているわけである。
日葡辞典に、「Nadezzuchi.(撫槌) 米搗き用の大槌.」(439頁)などとあり、また、記に、「足名鉄神を喚して、告らして言はく、『汝は、我が宮の首に任けむ』といふ。且、名を負せて稲田宮主須賀之八耳神と号く。」とある。「八耳」とあるのは、稲架にするために畷に植えられたトネリコの木の枝分かれを表すのではないか(注25)。トネリコは木質が非常に硬く、野球のバットにも用いられている。収穫した稲を搗くこととも関連ある事項である。「打つ」と「撫づ」とが交用されて、釘と鉄槌の関係は、また、籾と杵との関係でもあると洒落てダブらせているように感じられる。そこには地獄の責め苦に、臼に搗かれて舎利となる様子も重ねられているようである。「稲」という語と、死ぬことを婉曲に、忌詞的にいう「去ぬ」の命令形「去ね」が同音のもとに理解される素地は固まっている(注26)。
クギヌキ(釘抜・釘貫)
釘貫門に釘貫柵(左:厳島遊楽図屏風、江戸時代、17世紀、東博展示品、右:「旧滝沢本陣(史跡)、旧滝沢本陣横山家住宅(重要文化財)」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/旧滝沢本陣(Qwert1234様)をトリミング)
クギヌキには釘貫の意もある。低い先の尖った角柱を立て並べ、そこへ横に数本の貫を通した柵のことをいい、また門の場合は釘貫門と称される。「凡そ春日春祭に、……同門西の釘貫の内の北面の東上に内侍已下座す。」(延喜式・掃部寮式)、「清見が関は、片つ方は海なるに、関屋どもあまたありて、海までくぎぬき(釘貫)したり。」(更級日記)などと見える。墓地でよく目にするほか、門や鳥居の両側に設けられており、稲垣と呼ぶこともある。クシイナダヒメとの関係が窺われる。今日でも、神社の鳥居脇の釘貫のところなどに、台を設けて酒樽が奉納されていることがある。スサノヲがアシナヅチ・テナヅチに命じた大蛇退治の作戦は、次のとおりである。
汝等、八塩折の酒を醸み、亦、垣を廻し、其の垣に八つの門を作り、門毎に八つのさずきを結ひ、其のさずき毎に酒船を置きて、船毎に其の八塩折の酒を盛りて待て。……其の八俣のをろち、信に言の如く来て、乃ち船毎に己が頭を垂れ入れ、其の酒を飲む。是に、飲み酔ひ留り伏して寝ぬ。(記)
故、素戔嗚尊、立ら奇稲田姫を、湯津爪櫛に化為して、御髻に挿したまふ。乃ち脚摩乳・手摩乳をして八醞の酒を醸み、并せて仮庪 仮庪、此には佐受枳と云ふ。八間を作ひ、各一口の槽置きて、酒を盛れしめて待ちたまふ。……酒を得るに及至りて、頭を各一の槽におとしいれて飲む。酔ひて睡る。(神代紀第八段本文)
獲物に噛みついた蛇は、首を翻して持ち上げていく。どんなに足を踏ん張って抵抗してみても引き抜かれてしまう。それを表す釘抜は、現在同様、多様な形状そのままに、釘抜という概念で括られていたことであろう。「かじや」は舌の動き、「やっとこ」は顎の動き、鉄梃でこじる動きも鎌首をひねっている様子に沿っている。また、蛇に睨まれた時点で、座金に囚われているとも解することができる。「やっとこ」はヤトコの転で、ト・コの甲乙は不明ながら、モトコ同様、ともに乙類と推測される。スサノヲ側は、その釘抜的な八つの頭で攻撃を仕掛けてくる。対するに、釘貫の柵の門にくぐらせて、酒を飲ませて酔わそうと目論んでいる。目には目を、歯には歯を、釘抜には釘貫をで対処している。この考えが正しい点は「酒船」という語からも確かめられる。フネはここで槽の意であるが、船とは反対の用途となっている。船ならばフネの外側に水分がなければならないところ、槽の内側に水分がある。だから、サカ(逆)フネであると示されている。
「さずき」とは桟敷の古形で、物見や納涼のために一段高く作った床のことである。トコは鍛冶道具には鉄床を示す。八つの床があるからヤトコ、八床にはやっとこで当たるのがふさわしい。紀にある「仮庪」の庪の字は、爾雅・釈天に、「山を祭るを庪縣と曰ふ。」とあり、山祭りに犠牲を載せる棚である。ヤマタノヲロチのヤマは山祭りに関係しそうで、それにまつわるから「八間」に作るわけである。
(つづく)