古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

万葉集巻二十の冒頭歌─附.「や」+疑問詞について─

2023年09月07日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻二十の冒頭に、昔、こんな歌のやり取りがあったという歌が載っている。

  山村やまむら幸行いでましし時の歌二首
  先の太上天皇おほきすめらみこと陪従したがへる王臣おほきみまへつきみたちみことのりしてのたまはく、「諸王卿等おほきみまへつきみたちよろしくこたふる歌をみてまをすべし」とのたまひて、即ち御口号くちずさみて曰はく、〔幸行於山村之時歌二首/先太上天皇詔陪従王臣曰夫諸王卿等宣賦和歌而奏即御口号曰〕
 あしひきの 山きしかば 山人やまびとの われしめし 山づとそこれ〔安之比奇能山行之可婆山人乃和礼尓依志米之夜麻都刀曽許礼〕(万4293)
  舎人親王とねりのみこの、詔にこたへてこたへ奉る歌一首〔舎人親王應詔奉和歌一首〕
 あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人やたれ〔安之比奇能山尓由伎家牟夜麻妣等能情母之良受山人夜多礼〕(万4294)
  右は、天平勝宝五年五月に、大納言藤原朝臣の家に在りし時、事を奏すに依りて請問ひし間に、少主鈴せいしゆれい山田ふひと土麻呂ひぢまろ、少納言大伴宿祢家持に語りて曰はく、「昔、此のことを聞けり」といひて即ち此の歌をめり。〔右天平勝寶五年五月在於大納言藤原朝臣之家時依奏事而請問之間少主鈴山田史土麻呂語少納言大伴宿祢家持曰昔聞此言即誦此歌也〕

 「先太上天皇」は元正天皇のこと、続柄としては「舎人親王」の姪に当たる。藤原仲麻呂邸で、昔の歌のやりとりを山田土麻呂が大伴家持に伝え、その場で歌を吟じてくれたものである。
 新大系文庫本では次のように訳され、解説されている。

  山村にお出ましになった時の歌二首
  先の太上天皇(元正)が、付き従っていた廷臣に「諸王卿よ、これに和する歌を作って奏上しなさい」と仰せられて、自らお口ずさみになった歌に言う
 (あしひきの)山を通っていったら、山人が私にくれた山のみやげですよ、これは。(万4293)
  舎人親王が仰せに答えて奉った歌一首
 (あしひきの)山に行ったという山人の心もわかりません。その山人は誰なのでしょうか。(万4294)
 ……この「山づと」は何か、諸説あるが特定しがたい。……平安時代中期には上皇(太上天皇)の御所を「仙洞」と称したが、この時代にも同様だったか。それなら仙洞の住人すなわち上皇も山人となる。「山人」は「仙」の字謎(じなぞ)かも知れない。→一六八二注。舎人親王はこの行幸には従幸せず、土産の品を見て、山に行ったという山人(元正)のお気持も分かりません、その山人が出会ったという山人とは誰のことですかと戯れて詠ったのであろう。(199頁)

 歌は歌われたものである。ここでも少主鈴の山田史土麻呂が声を出して歌っている。字謎は書かれたものにしか生まれない。歌われたものを筆記するときに字謎として書くことは考えられるが、字謎を歌にくちずさんで通じるのは、皆によく知られたものでなければならない。聞いて咄嗟にわからなければ歌とならないからである。仙洞御所という言い方が奈良時代にすでに行われていて一般化していたという証拠はどこにもないから、字謎説は当たらない。
 この解説が参考として引いている万1682番歌は次のようなものである。

  忍壁皇おさかべのみたてまつる歌一首〈仙人やまびとすがたを詠めり〉〔献忍壁皇子歌一首〈詠仙人形〉〕
 とこしへに 夏冬行けや かはごろも あふぎ放たぬ 山に住む人〔常之陪尓夏冬往哉裘扇不放山住人〕(万1682)

 この歌の「仙人」、「山住人」は蝙蝠のことを言っている(注1)。蝙蝠は翼手目の動物で、腕と前肢の指が長く、それらの間に開閉自在の飛膜をつけて翼にして飛翔する。この飛膜は皮膚が伸びてできたもので、扇にも裘にも譬えられる。扇は蝙蝠扇といい、また、後肢を使って枝などに逆さにぶら下がってとまるとき、体を比翼に包むようにして休む。夏は扇子になり、冬はマントになる。まるで人が暑さ寒さをしのぐためにするようなことをしている生き物が山にいるということで、ヤマビト、ヤマニスムヒトと喩えている。
 つまり、この蝙蝠(の死骸)の翼部分が、万4293番歌にある「山つと」である。忍壁皇子当時から山のお土産だと歌われていた。元正天皇はそんな謂れを知っていて、戯れの歌を歌っている。舎人皇子も事の次第を知っていたから和す歌を歌っている。「山人」というのは言葉のあやですね、だってそれは蝙蝠ですから、と。コウモリは古語にカハホリ、カハ(川)+ホリ(掘)、ないし、カハ(川)+モリ(守)の転かとされている。少なくとも「山人」ではなく「川人」のはずだから、「山人」って誰のことを言っているのでしょうか、と言っている。頓智の効いたやりとりが行われている。
 歌意についての釈はそれで足りている。なお一点指摘しなければならない点がある。
 「あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人誰」(万4294)とある助詞「や」についてである(注2)
 ヤの用法については、文中のヤと文末のヤとで分けて考えられている。文中のヤにおいて、下に疑問詞が来る形は次のように説明されている。

 これはヤが体言を承けて主格に立ち、下に疑問詞を従えるものである。
  ここにして筑紫何処白雲のたなびく山の方にしあるらし(万葉五七四)
  ここにして春日何処さはり出でて行かねば恋ひつつそ居る(万葉一五七〇)
  ほととぎす来鳴きとよもす橘の花散る庭を見む人(万葉一九六八)
  あしひきの山に行きけむ山人の心も知らず山人(万葉四二九四)
 このように「何処いづく」あるいは「たれ」を下に従える構文は、助詞ハによって作られるものと同様である。例えば次のような。
  梅の花散らくいづく(万葉八二三)
 ではこのハとヤの相違は何なのか。「散らくいづく」といえば単に「花が散ったのは何処なのか」と問題を提示して答えを求めただけである。ハは、本質的に、もう一つ別の、しかし同類のものとの対比の観念を含むものである。「散らく」(散ルトコロ)に対して「匂はく」(匂ウトコロ)のような、個と個との対比が陰にある。ところが、「筑紫いづく」「見む人誰」 「山人誰」といえば、ヤが承けるもの「筑紫」「見む人」「山人」は、かねて心の中にすでに確かに保有されており、それが全面的に強く意識されていたことを表わしている。これは単に他と対比しているのではなく、それ一つを思い込んでいることを示す。だからヤの場合は「一体全体筑紫なんて何処なんだ」「花の散る庭を見る人は一体誰なんだ(アナタ以外ニナイノニ訪ネテ来ナイデハナイカ)」「その山人、 山人とは一体誰なんですか」という意味である。ヤは既に心に思い込んでいるものを全面的に強く指すことを読まなくてはならない。(大野1993.281~282頁)

 この解説は、「ヤが、ハ・コツ・ナム・ヤという疑問詞を承けない系列の助詞が共通に持つ性格、 即ち、承ける言葉を確実であるとする、あるいは確定的・既定的であるとする、あるいは旧情報であるとするという性格を、奈良時代にはそのまま具現していたことを示すといえる。」(281頁)と変わりないことを述べている。一方、ヤを説明する時には、カとの対比で解説されることも多い。特に奈良時代の例では、カは疑問、ヤは反語の意を表しているとされている。筆者が大野氏の解説に疑問を持つのは、ヤの反語性について十分に理解していないのではないかと思われる点である。確かなことと思うことを疑問の構図に据えたうえで、その疑問を返す形にすると反語の意が現れる。

 ここにありて 筑紫つくし何処いづち 白雲しらくもの たなびく山の かたにしあるらし(万574)(注3)
 「ここではるかに眺めやれば、筑紫は何処であろう。白雲のたなびく山の方であるらしい。」(大系本一270頁)(注4)
 ヤについて、「一体全体筑紫なんて何処なんだ」の意を表しているということだけでは、その反語性を示し切れていない。この歌は、作者の大伴旅人が大宰府から奈良へと帰京して、筑紫のことを思い返して歌った歌である。カを使う疑問文だと次のようになる。

 ここにありて 筑紫何処 白雲の たなびく山の 方にしあるらし(万574改)
 少し前まで筑紫にいた。今ここ奈良の都にいて、筑紫はどちらの方向に当たるのだろうか、きっと白雲のたなびく山の方向であるらしい。
 この前半部の疑問を示しているところを返すように訳せば、反語的な言い方になる。

 ここにありて 筑紫何処 白雲の たなびく山の 方にしあるらし(万574)
 少し前まで筑紫にいた。だから筑紫のことはよく知っている、今ここ奈良の都にいてもそうだ。筑紫はどちらの方向に当たるのだろうか、いやいやどちらの方向かなど私にとっては愚問である。必ずや白雲のたなびく山の方向であるらしい。
 ヤが反語を示すのは、ヤが承ける言葉が「確定的・既定的」なことだからである。筑紫のことなど当たり前のこと、全部知っていると思っている。だから反語になる。後半に「白雲のたなびく山の方にあるらし」と強意で示すことができる理由である。「筑紫何処」と「筑紫何処」との違いは、後者では、筑紫はどこか、いやいやどこかなどと問うことはおかしなことだ、わかろうはずないではないか、という意味である。「何処」という疑問詞を「確定的・既定的」とするとは、疑問は疑問であって答えられないということである。
 他の例も同様である。

 ここにありて 春日や何処 雨障あまづつみ 出でて行かねば 恋ひつつそ居る(万1570)
 「ここにいて春日はどっちにあたるだろう。雨にさまたげられて出て行かないので、ただ心の中で恋しく思っていることだ。」(大系本二325頁)
 大意としてこれでは不十分である。春日は「かねて心の中にすでに確かに保有されており、それが全面的に強く意識されていたことを表わしている」理由は、この歌の作者が藤原房前の第三子、藤原八束だからである。春日大社は藤原氏の氏神である。
 ここにいて、春日はどの方向にあたるのだろうか、いやいやそんなことは問うだけ野暮、わかりきっている。雨に降りこめられて外出できないので、春日を恋しく思いながら家にいる、という意味である。藤原氏の自負心を歌うためにヤを用いている。

 霍公鳥ほととぎす 来鳴きとよもす 橘の 花散る庭を 見む人やたれ(万1968)
 「ホトトギスが来て鳴きたてる、橘の花の散る庭を見る人は誰であろう。(あなたに相違ありませんね。)」(大系本三82頁)
 大意はこれで正しい。「花の散る庭を見る人は一体誰なんだ(アナタ以外ニナイノニ訪ネテ来ナイデハナイカ)」ということである。反語の意を明らかにするなら、霍公鳥が来て鳴きたてる、橘の花の散る庭を見る人は誰か、いやいや誰かと問うなど愚かなこと、あなた以外にないことですから、ということである。そのためにヤを用いている。

 あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず山人や誰(万4294)
 山に行ったという山人の心持も分りませんが、山人とは誰なのでしょう。(大系本四400頁)
 大意としてこれでは不十分である。「山人とは誰なのでしょう。」、「その山人、 山人とは一体誰なんですか」と、ヤが承ける言葉を確かなものとして捉えるだけでは疑問の強調にすぎなくなる。
 山に行ったという山人の心持ちはさて存ぜぬことです。山人とは誰か、いやいや山人は誰かと問うなど変なこと、山人ではなくむしろ川人のことなのですから、と言うためにヤを用いている。
 反語は高度な言語表現である。皮肉な気持ちを含ませる場合に使われたり、この例のようにおとぼけを表すためにも使われた。一度言っておきながらただちに否定してかかる方法としては、漫才のノリツッコミに類似のものである。万葉集に記録として残されている例から、当時の人たちの言語感覚の巧みさが伝わってくる。

(注)
(注1)拙稿「万1682番歌の「仙人」=コウモリ説」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/preview20?eid=948dac5fbf74363dc8a280a951c67fb9&t=1693307263084参照。
(注2)助詞の「や」については、時代的な変遷を経ており、平安時代には「や」が「か」の領分を浸食するような展開をみせている。そのため、文法の議論において、奈良時代までの「や」の使い方の際立つところ、すなわち、反語を表すために使われているところ、現代語に用法を持たない反語性のある単語についての説明が尽くし切られていないように見受けられる。
(注3)以下、大野氏の示した訓みと細部に違いを含むが、大勢に影響はない。
(注4)大野氏は、「日本古典文学大系『万葉集』……の訳をつけた当時、私はカとヤとの区別を見分けていなかった。だから訳文においてもカとヤの区別ができていない。」(大野1993.271頁)と自ら語っている。筆者はそれでもなお、ヤの反語性が十分配慮される段階には至っていないと考えている。拙稿「万葉集の反語の助詞「や」について」(仮称)参照。

(引用・参考文献)
大野1993. 大野晋『係り結びの研究』岩波書店、1993年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(五)』岩波書店(岩波文庫)、2015年。
大系本一・三・四 高木市之助・五味智英・大野晋校注『萬葉集一・三・四』岩波書店、昭和32・35・37年。

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