古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

丹比笠麻呂の「袖解きかへて」考

2024年01月15日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻四に載る丹比笠麻呂たぢひのかさまろの長歌と反歌の歌はあまり取りあげられることはないが、理解が行き届いているものではない。筑紫国へと下向する時、離れてしまう相手の女性への思いを歌にしているが、反歌にある「そできかへて」がどういう意味なのか、解釈が落ち着いていない(注1)。本稿では、この「そできかへて」という語に焦点を当て、この長短歌を正しい理解へと導きたい。はじめに、現在の解釈で標準的な、新大系文庫本の訳を添えて歌を呈示する。

  丹比真人笠麻呂たぢひのまひとかさまろ筑紫国つくしのくにくだる時に作る歌一首〈あはせて短歌〉〔丹比真人笠麿下筑紫國時作歌一首〈并短謌〉〕
 おみの 櫛笥くしげに乗れる かがみなす 御津みつ浜辺はまへに さにつらふ ひもけず 吾妹子わぎもこに 恋ひつつれば れの 朝霧あさぎりごもり 鳴くたづの のみし泣かゆ が恋ふる 千重ちへ一重ひとへも なぐさもる こころもありやと いへのあたり が立ち見れば 青旗あをはたの 葛城山かづらきやまに たなびける 白雲しらくもがくる あまさがる ひな国辺くにへに ただ向かふ 淡路あはぢを過ぎ 粟島あはしまを がひに見つつ 朝なぎに 水手かここゑ呼び 夕なぎに かぢおとしつつ 波のうへを いきさぐくみ いはを いもとほり 稲日いなびつま 浦廻うらみを過ぎて とりじもの なづさひ行けば 家の島 荒磯ありその上に 打ちなびき しじひたる なのりそが などかもいもに らずにけむ〔臣女乃匣尓乗有鏡成見津乃濱邊尓狭丹頬相紐解不離吾妹兒尓戀乍居者明晩乃旦霧隠鳴多頭乃哭耳之所哭吾戀流干重乃一隔母名草漏情毛有哉跡家當吾立見者青旗乃葛木山尓多奈引流白雲隠天佐我留夷乃國邊尓直向淡路乎過粟嶋乎背尓見管朝名寸二水手之音喚暮名寸二梶之聲為乍浪上乎五十行左具久美磐間乎射徃廻稲日都麻浦箕乎過而鳥自物魚津左比去者家乃嶋荒礒之宇倍尓打靡四時二生有莫告我奈騰可聞妹尓不告来二計謀〕(万509)
宮仕えの美しい女性の櫛箱に乗っている鏡、その鏡を「見つ」という名の美しい御津の浜辺の仮寝で、妻が結んでくれた(さにつらふ)赤い下紐を解き放つこともせずに、妻を恋い慕っていると、夜明け方の薄暗い朝霧の中に鳴く鶴のように声を挙げて泣けてくる。
私が恋しく思う心の千分の一でも慰むこともあろうかと、我が妻の家のある大和の方を立ちあがって眺めるが、(青旗の)葛城山にたなびく白雲に隠れて全く見えない。
(天さがる)鄙、西国の筑紫国に向かって、難波の真正面に見える淡路島を通過し、粟島を後ろに見ながら、朝凪に水夫は掛け声を合わせて漕ぎ、夕凪に梶の音をきしませて波の上を進みかねて、岩の間を行きなやんで、稲日つまの浦の周辺を過ぎて、(鳥じもの)難渋しながら進んで行くと、家島が見えて来たが、その荒磯の上に、波に靡いて生い茂っている名告藻(なのりそ)は、「な告りそ」と禁じているのでもないのに、どうして私は妻に大事な別れを告げずに来てしまったのだろうか。(343~345頁)
  反歌
 白栲しろたへの そできかへて かへむ 月日をみて きてましを〔白細乃袖解更而還来武月日乎數而徃而来猿尾〕(万510)
(白たへの)袖を解き交わして、筑紫から家に帰って来る月日を数えて、妻の家に行って戻って来られたらなあ。(345頁)

 解説に、「寝物語に旅の日数を計算して、帰宅の日を妻に約束できるように、船から家に行って帰ってこられたらなあと願う。類例、「み空行く雲にもがも今日行きて妹に言問ひ明日帰り来む」(三一〇)。「袖解き交へて」は「帯解き交へて」(四三一)に類似するが、帯ではなく袖を解くことが理解しにくい。」(同頁)とある。
 「そできかへて〔袖解更而〕」という言い方は孤例である。「そでへて」か「そでへて」か意見が分かれている。類例には次のような歌がある。

 敷栲しきたへの 袖へし君〔袖易之君〕 玉垂たまたれの 越野をちの過ぎ行く またも逢はめやも(万195)
 いにしへに 有りけむ人の 倭文幡しつはたの 帯へて〔帯解替而〕 伏屋ふせや立て 妻問つまどひしけむ 葛飾かづしかの 真間まま手児名てこなが おくを こことは聞けど ……(万431)
 高麗錦こまにしき 紐解きはし〔紐解易之〕 天人あまひとの 妻問ふよひぞ われしのはむ(万2090)
 垣ほなす 人は言へども 高麗錦 紐解きけし〔紐解開〕 君にあらなくに(万2405)

 男女が情事を交わすことを暗示する言い方である。しかし、「袖解・・更而」とある。洗濯の際に縫い目をその都度ほどいていたことからも、袖をほどいて交換することを歌っていると考えるべきである(注2)。「トキカヘテは、旧衣の紐を解いて、別の衣に著換えてである。妻のもとに行つてさつぱりした衣服に著換えてで、次の句を修飾する。」(武田1957.69頁)、「官服の長い筒袖を縫い目から外して解いて交換することをうたっていると考える……。ただし、……「妹」のもとへ行く前の行為と見る。」(関谷2021.145頁)などとも説かれている。
 丹比笠麻呂は筑紫国へ下る途上、船のなかで歌を歌っている。解き洗いを船中で行うことは考えられない。海の水で洗うはずはなく、縫い直す人、女性も同乗していない。また、着ている服が官服かどうかもわからない。
 長歌で歌っていたのは、どうして「妹」に何も告げないで出立してしまったかという後悔の念であった。用命で筑紫へ行くことになったからしばらく逢えないことになると、きちんと言って出かけてきたらよかったのに、何も言わないでいつものようにまたね、と言っただけで別れてきてしまった。長いこと逢えなくなると悲しむからとその場しのぎに黙っていたが、実際に逢うことのない日が続けば彼女はいろいろと悩むだろう。彼女にとっても自分にとっても良いことではなかったと気づいたのである。こんなにつらいものだとは思わなかった。自分のほうでも声をあげて泣けてくる。事情を聞かされずに放られた彼女のつらさは自分以上であろう。だから、……ということを反歌で歌っている。
 「きて」という言い方は、とんぼ返りに行って帰ってくること、短時間で行って帰ってくることをいう。

 たつも 今も得てしか あをによし 奈良の都に 行きてむため(万806)(注3)

 この例では、空想上の駿馬「龍の馬」に乗って瞬間移動する時に用いられている。丹比笠麻呂は、今、船上にいるわけだが、ささっと「妹」のところへ行って帰って来たいものだ、と思っている。もちろん、現実にできることではないのだが、行っておよその日程を告げたいと言っている。それが下の句である。
 上の句もそれと同じことを言っている。袖を解いて交換する必要が生じている。夜明け方の鶴のように声をあげて泣いてしまい、袖はぐっしょり濡れているから彼女のところへ行って解いてもらい、違うものに交換して縫ってもらって帰って来よう、と言っている。涙に袖を濡らす例は万葉集中にいくつか見られる(万135・159・614・723・2518・2849・2857・2953)。丹比笠麻呂は気持ちが悶絶していて慟哭の歌を歌っているのである(注4)

  白栲しろたへの そできかへて かへむ 月日をみて きてましを(万510)
 (白たへの)袖を解いて濡れていないものに代えてすぐに還って来ましょう。筑紫での日程がどのくらいになるか彼女に数え伝えて、とんぼ返りに行って帰って来たいものですよ、ああ。

(注)
(注1)解釈が定まらない反歌を措き、長歌の道行的叙述について和歌史的に重要であったとする考えが清水1980.に見られる。作者の丹比笠麻呂は伝不詳で、他の作品としては万385番歌があるばかりである。およそ何時頃の人かと推定し、他の万葉歌について先後の関係から表現を受け継いでいると見ようとするのであるが、万葉集に載らなかった歌がなかったのか、確かめようがないことである。論証できないことを議論する以前に、丹比笠麻呂が歌に込めた意味を理解することが求められよう。清水氏も校注者の一人である集成本に、「第二段では、船旅の困難さと重ねて、逢う意を思わせる 「淡路」「粟島」、妻が隠れている意の「稲日都麻」、さらに「家島」と続く地名にかけて、家から離れて行く心細さを述べ、妻恋しさに戻っている。」(267~268頁)とある。地名をあげているのは地口による暗示の性格が強い。古事記に楠葉くずは(「久須婆くすば」)という地名が「屎褌くそばかま」の訛ったものとする説明があるように、上代の人にとって当たり前のことであったろう。言葉を考えることは言葉を使うことを考えることで、言葉の使用史を和歌史に限ることはほぼ無用である。
(注2)そのような指摘は散見される。洗濯方法については、拙稿「万葉集における洗濯の歌について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/c5d4d5de2d83a06f6cbdde7f9bd3712aも参照されたい。
(注3)拙稿「万葉集の「龍の馬(たつのま)」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/d8777a3302a4f3fb5bf68d8b6fab7396参照。
(注4)近年の解釈に、「あの子と白妙の袖をさしかわし紐を互いに解きあって還って来たい。月日を数えて行って帰って来ようと思うのだが。」(稲岡1997.296頁)、「(いとしい妻と)白栲の衣の袖をさし交わし、帰って来る日までの月日を数えて行って来るのであったよ。」(阿蘇2006.485頁)、「(白たへの)袖を解き替えて、帰って来るだろう月日を数えて、(それを教えに大和に)行って(難波に戻って)来るのだった。」(関谷2021.125頁)などともある。
 阿蘇氏は、三句目と五句目に妻のもとに行って戻って来たいと繰り返すのは、気持ちを抑えきれず性急に畳みかけていることになり、長歌ののびやかな調べにそぐわないとしている。しかし、長歌で歌っていることは道行きではなくて、「などかもいもに らずにけむ」という後悔である。壮大な序を構えて、事情を告げず、いつまた逢えるか見当をつけることもないままに放ってしまった、その事の重大さを引き出そうとしているのである。
 全集本の語注に、「帰り来む─都の妻に逢ってから現在歌を詠んでいる地点まで引き返して来ようの意。ここで句切れ。」、「行きて来ましを─この行キテ来は妻の家に行って「来」、現在の地点に戻ってくることをさす。」と正しい判定ながら、「袖解きかへて」の語釈が覚束なく、また、「月日を数みて」について、「筑紫下向に要する日程(筑前まで下り十四日)をつめて遅れないように努めることをいう。」(310頁)と、あたかも実際に都へ行って戻ってくることを想定しているように解している。丹比笠麻呂が船をチャーターしているとは考えられないし、船団のうちの一隻のうちの最高位の乗客で他の船から離れて別行動を取ってかまわないということもない。この歌は船上で歌われ、同乗者がいて聞き、理解されたに相違あるまい。聞く人がいてはじめて歌となる。
 その他、長歌のはじめにある「おみ」は官女のことで、「吾妹子わぎもこ」や「いも」との関係を指摘する向きもある。同一人物としたり、二人別にいるとしたりして考えようとするのである。しかし、「おみの 櫛笥くしげに乗れる かがみなす」は「御津みつ」を導く序詞である。丹比笠麻呂が通う妻は、官女ではなくて、いい鏡も持っていない(持たせてあげられていない)。安物の鏡に映るようなところをミツと呼ぶのはふさわしくない。多少歪んでいても見えるから見ツであるとは思われない。ミツ(ミは甲類)がミ(御)ツ(津)に当たらなくなり、語感に合わない。
 また、「葛城山かづらきやま」とあるのは、その付近に丹比笠麻呂やその「吾妹子わぎもこ」の居住地があるからとする向きもある。「いへのあたり が立ち見れば 青旗あをはたの 葛城山かづらきやまに たなびける 白雲しらくもがくる」も修辞表現である。すでに「櫛笥くしげ」や「かがみ」が出てきている。十分に自分の容姿を確かめたがっていることを匂わせている。「吾妹子わぎもこ」は年若いようである。美容にこだわりがあるのだから髪飾りも大事であり、ウィッグであるカヅラ(鬘)がうまく装着しているか見ようとしている。だから、大和の地にある山でも特別に「葛城山かづらきやま」を取りあげている。地名を歌に詠み込む理由は、地理的な意味よりも地口として伝えたいからである。地図に書き記して行程を示す旅の栞ではなく、一度きり大きな声で歌って周囲の人の興味を引く瞬間芸であった。

(引用・参考文献)
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第2巻』笠間書院、2006年。
稲岡1997. 稲岡耕『和歌文学大系1 萬葉集(一)』明治書院、平成9年。
清水1980. 清水克彦『萬葉論集 第二』桜楓社、昭和55年。
集成本 青木生子・井出至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮古典文学集成 萬葉集一』新潮社、昭和51年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店、2013年。
関谷2021. 関谷由一『万葉集羇旅歌論』北海道大学出版会、2021年。
全集本 小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳『日本古典文学全集 萬葉集一』小学館、昭和46年。
大系本 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系 萬葉集一』岩波書店、昭和32年。
武田1957. 武田祐吉『増訂萬葉集全註釈 五』角川書店、昭和32年。

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