古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

柿本人麻呂「日並皇子挽歌」の修辞法「春花の 貴からむと 望月の 満しけむと」について

2023年06月21日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 柿本人麻呂「日並皇子挽歌」の修辞法「春花はるはなの たふとからむと 望月もちづきの たたはしけむと」について

 万葉集の日並皇子挽歌(万167)について、挽歌とは何かという大きな問題として多くの検討が行われてきた。殯宮はかりもがりのために設営される宮舎であり、お別れの儀式としてしのひことを言って形を整えることが行われていた。記上や神代紀には天若日子あめわかひこ(天若彦)の殯の儀礼、また、敏達紀十四年八月条には、誄を述べる段において物部守屋と蘇我馬子が口喧嘩をしている様子が活写されている。
 本稿では、挽歌とは何かという大それた議論については深入りしない。日並皇子挽歌のなかで、「春花の」が「たふとくあらむ」を導き、「望月の」が「たたはしけむ」を導くという修辞法について考える。歌はあくまで歌であり、歌われているなかにその本性は宿っていて自ずと露見する。歌い手がどういう位置からどういう立場で歌っているのかは、聞いていれば明らかになるものである。逆に、歌の歌われ方から取り扱われている事柄について、今日所謂歴史的位置づけを探ることは、必ずしも有効なことではない。柿本人麻呂が作った挽歌を見渡す限り、どれも下級官吏が門付け的に歌ったものである。殯宮に集まった人に対して、すなわち、お通夜に参列した人たちが外のテントのところで儀式の終わるのを待っている時に、故人を偲ぶにふさわしいそれなりの歌を歌って場を持たせたのが「殯宮之時柿本人麻呂作歌」である。誤解を恐れずに言えば、時間潰しのために必ず長歌が歌われているのであって、人麻呂は故人と親密だったわけではないからだらだらと中身の薄い言葉を並べ立てているのだと言える。
 故人についての知識をほとんど持たない人麻呂は、修辞を駆使して時間潰しの歌をでっちあげている。「春花の たふとくあらむと 望月の たたはしけむと」という言い回しも同様であろう。いずれもゆるやかにつながる修辞であり、比喩的な枕詞と呼ばれている。枕詞ではあるが他に例のある決まり文句ではない。それでも冠辞に違いはなく、それ自体に意味の重きを置くものではないと考えられている。

  日並皇子尊ひなみしみこのみこと殯宮あらきのみやの時に柿本朝臣人麻呂の作る歌一首 并せて短歌〔日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首并短歌
 天地あめつちの はじめの時 ひさかたの あま河原かはらに 百万ほよろづ 千万神ちよろづかみの 神集かむつどひ 集ひいまして かむはかり はかりし時に あまらす 日女ひめみこと 一に云ふ、「さしあがる 日女の命」 あめをば 知らしめすと 葦原あしはらの 瑞穂みづほの国を 天地の 寄り合ひのきはみ 知らしめす 神のみことと 天雲あまくもの 八重やへかきけて 一に云ふ、「天雲の 八重雲やへくもけて」 神下かむくだし いませまつりし 高照たかてらす 日の皇子みこは 飛ぶ鳥の 清御原きよみの宮に かむながら 太敷ふとしきまして 天皇すめろきの きます国と あまはら いはひらき 神上かむあがり 上りいましぬ 一に云ふ、「神登かむのぼり いましにしかば」 大君おほきみ 皇子のみことの あめした 知らしめしせば 春花はるはなの たふとくあらむと 望月もちづきの たたはしけむと 天の下 一に云ふ、「す国の」 四方よもの人の 大船おほぶねの 思ひ頼みて あまつ水 あふぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき ゆみをかに みやばしら ふときいまし みあらかを 高知たかしりまして 朝言あさことに こと問はさず つきの 数多まねくなりぬれ そこゆゑに 皇子の宮人 ゆく知らずも 一に云ふ、「さす竹の 皇子の宮人 ゆくへ知らにす」〔天地之初時久堅之天河原尓八百萬千萬神之神集々座而神分々之時尓天照日女之命一云指上日女之命天乎婆所知食登葦原乃水穂之國乎天地之依相之極所知行神之命等天雲之八重掻別而一云天雲之八重雲別而神下座奉之高照日之皇子波飛鳥之浄之宮尓神随太布座而天皇之敷座國等天原石門乎開神上々座奴一云神登座尓之可婆吾王皇子之命乃天下所知食世者春花之貴在等望月乃満波之計武跡天下一云食國四方之人乃大船之思憑而天水仰而待尓何方尓御念食可由縁母無真弓乃岡尓宮柱太布座御在香乎高知座而明言尓御言不御問日月之數多成塗其故皇子之宮人行方不知毛一云刺竹之皇子宮人歸邊不知尓為〕(万167)
  反歌二首
 ひさかたの あめ見るごとく あふぎ見し 皇子のかどの 荒れまくしも〔久堅乃天見如久仰見之皇子乃御門之荒巻惜毛〕(万168)
 あかねさす 日は照らせれど ぬばたまの 渡る月の かくらくしも 或るふみに、くだりの歌を以て後皇子尊のちのみこのみこと殯宮あらきのみやの時の歌のはん〔茜刺日者雖照者烏玉之夜渡月之隠良久惜毛或本以件歌為後皇子尊殯宮之時歌反也〕(万169)

 枕詞には、固定的なものと即興的なものの二種類があるとされている。「あしひきの」が「山」、「ぬばたまの」が「黒」や「夜」、「くさまくら」が「旅」にかかるように固定性の高いものがある一方、新たに創作されて一・二例しか例がないものもある。万葉集には400種もの枕詞があるが、うち、200種近くが万葉集に一例だけしか現れず、二例だけのものも60種以上見られるという。それら希少例の「多くは言語遊戯的で、意味やかかり方が明確である。……枕詞には固定的に繰り返し用いられるという側面と同時に、一回的に創作されるという側面があり、その両者はグラデーションのように、截然せつぜんと分かれることなく連続的に存在している。」(大浦2017.7頁)と概括されている。この万167番歌に見られる例でも、「春花」を具体物を示す名詞ととるか、「春花の」を次の言葉を導く枕詞ととるかは、比較相対的な傾向にあるということである。
 万葉集に「春花はるはなの」という表現は11例ある。「春花はるはな」を名詞と考えることができる例は次のとおりである(注1)

 …… 慰むる 心は無しに 春花の 咲ける盛りに 思ふどち 手折たをりかざさず 春の野の 繁み飛びくく 鶯の 声だに聞かず 娘子をとめらが 春菜摘ますと くれなゐの 赤裳の裾の 春雨に にほひひづちて 通ふらむ 時の盛りを ……(万3969)
 …… あらたまの 年がへり 春花の うつろふまでに 相見ねば いたもすべなみ ……(万3978)
 射水川いみづがは いめぐれる 玉くしげ 二上山ふたがみやまは 春花の 咲ける盛りに 秋の葉の にほへる時に 出で立ちて 振りけ見れば ……(万3985)
 世間よのなかは 数なきものか 春花の 散りのまがひに 死ぬべき思へば(万3963)
 …… 天地の 神言かむこと寄せて 春花の 盛りもあらむと 待たしけむ 時の盛りそ 離れ居て 嘆かす妹が いつしかも 使のむと 待たすらむ ……(万4106)
 …… 今日けふのみに 飽きらめやも かくしこそ いや年のはに 春花の 繁き盛りに 秋の葉の 黄色もみちの時に ありがよひ 見つつ偲はめ この布勢ふせの海を(万4187)

 一方、枕詞であると考えられる例は次のとおりである。すなわち、spring flower の意を負う必然性がなく、言語遊戯的な修辞として扱われている。

①春の花の美しく咲き盛るところから、メヅラシ・ニホフにかかる
 住吉すみのえの 里行きしかば 春花の いやめづらしき 君に逢へるかも(万1886)
 …… たまきはる 命も捨てて 争ひに 妻問つまどひしける 娘子をとめらが 聞けば悲しさ 春花の にほえ栄えて 秋の葉の にほひに照れる あたらしき 身のさかりすら 大夫ますらをの こといたはしみ ……(万4211)
➁花の散るところから、ウツロフにかかる
 …… 新世あらたよの 事にしあれば 大君の のまにまに 春花の 移ろひかはり 群鳥むらとりの 朝立ち往けば ……(万1047)
 春花の 移ろふまでに 相見ねば 月日みつつ 妹待つらむそ(万3982)

 万167番歌の「春花の」をこういったスケールのどの辺に位置づければよいのだろうか。
 spring flower の意を伝えるための用法ではないから枕詞的な傾向が強いと感じられる。しかし、「意味やかかり方が明確である」かというと少々疑問である。「春花の」性格として、美しく咲き盛ること、そして、一斉に咲いたかと思えばほどなく散り去ってしまうことがあげられ、そこから、メヅラシ、ニホフ、ウツロフにかかるとされている。
 メヅラシという語については、メヅ(愛)の展開した形とされることが多いが、「メヅラシのメは目で、見ること、シは形容詞化する接尾語、ツラは連れ立つ意のツル(連る)の活用形で、まれにしかないから見ることを続けたいの意に展開したのではなかろうか。中古によくない物事についてもメヅラシというのは、そのまれにしかない意が生きていたからと思われる。」(古典基礎語辞典1190頁、この項、大野晋)とする考え方が妥当である。春の花には葉に先駆けて咲くものもあり、メ(芽)(花芽)がメ(目)をひくから「春花の」は「いやめづらしき」などという大仰な表現を導いているものと考えられるわけである。言語遊戯的に手が込んでいると評されよう。
 そんななか、春の花が咲くのをタフトシと言い表すことができるとは考えにくい。春に花が咲くことはありふれたことで、どうしてそれをタフトシと形容するに堪えるのか不審である。タフトシ(貴・尊)という言葉は、立派である、壮大であるという意味合いで、高貴な人、父母、仏などをタフトシと捉え、また、玉や雪の光をタフトシと見ることもある。光明を放つ存在として考えている。春の花に特別に光明を見出すことは、夏に咲く仏花の代表、ハスの存在からしても否定的にならざるを得ない。多くの植物において、花は、季節がめぐれば当たり前に目にすることができるものである。
 そのためか、「春花」は漢語の翻読語であるとする説が唱えられている。春花と満月との対句関係も、漢籍の影響かとささやかれている。けれども、明確に典拠となった事例は確認されていない。確認されていないのであるが、中国の天子を讃えた比喩と似ているから、日並皇子に対する讃辞に置き換えられたのであろうとする説が唱えられている(注2)
 しかし、讃辞というには表現が軽い。「~と」と譬えているばかりである。では、なにゆえ、「春花の たふとくあらむと 望月の たたはしけむと」という挿入句がこの箇所に唐突に現れているのだろうか。常用される枕詞のように聞き覚えのあるものではなく、その改変されたもののようにどこか耳に馴染みあるものでもない。聞き手の理解がスムーズにいったかどうかが問題になる。なにしろ歌は歌われるままに流れていく。聞き手が聞いてたちどころに意味が通じるものとして挿入句はほどこされているはずである。「春花の」も「望月の」も常套句ではないから、当該歌に特別な意味を込めるために使われた言葉と考えなければならない。
 そのような可能性は、これが日並皇子の挽歌であるという点に尽きる。歌っているのは日並皇子にまつわることである。歌い手の人麻呂にとって、皇太子であった日並皇子は遠い存在であったろう。殯宮に参列している多くの人にとっても、親族である皇族や妻子、親交を結んだ高貴な豪族、また、身の回りの世話をした舎人等以外に近しい人などいない。現代、大きなお葬式やお別れ会、国葬があり、そこにファンが多数訪れたのと事情はあまり変わらない。古代、そんな人たちにとって日並皇子という存在は、それが日並皇子という名を負った人ということばかりだったであろう。そのために名があり、名に負うことが重んぜられ、名こそがその人のメルクマールであった。
 「なみ」という言葉で思い浮かぶのは、イザナキが禊ぎをすることで生まれた三貴士の逸話のなかで、「日にならぶ」(神代紀第五段)存在として「月」が考えられていたことである。ツキ(キは乙類)・ツク(月)が日並皇子の関連語である。だから、日並皇子にまつわる措辞として「望月の」という言葉が用いられている。「春花の」という言葉も、「日並」にかかわるツキ・ツク(注3)(月)との語呂合わせで、ツクシ(土筆)のことであると連想が及ぶ。春になって土手に現れる花のようなものである。植物学的にはスギナの胞子茎である。このツクシは塔に見立てられていた。そのアイデアは上代の用例に二つ確認される。ひとつは斉明紀二年条に見える多武峰の観、両槻宮にまつわる話(注4)、もうひとつは継体紀歌謡の「みなしたふ」という枕詞である。

 …… 御諸みもろが上に 登り立ち が見せば つのさはふ 磐余いはれの池の みなしたふ〔美那矢駄府〕 うをも 上に出てなげく ……(紀97)

 この「みなしたふ」については、ミ(水)+ナ(連体助詞)+シタ(下)+フ(経)、水の下を経て泳ぐ意から「魚」にかかる枕詞であるとする説がある(注5)。しかし、むしろ、ミナシ(見做)+タフ(塔)、すなわち、寺の塔のように上から下まで何層もの屋根に瓦を積んでいるのが魚の鱗に見立てられるところから「魚」にかかると考えたほうがわかりやすい。カハラ(瓦)は石質のもので火事除けになり、防火用水に恵まれたカハラ(河原)と同じ効果を持つ(注6)。建築に懸魚のように魚の意匠を施したのも火事除けの願いからであった。
左:土筆、右:瓦塔(東京都東村山市多摩湖町出土、奈良時代、8世紀、東博展示品)
 これらの例と照応するように、「春花の」はタフ(塔)を導いていて、塔はまた仏舎利を安置する貴い存在だからタフトシにかかる枕詞であると捻られているのであろう(注7)。「山柄やまからし たふとくあらし〔山可良志 貴有師〕」(万315)の例も、山の屹立するさまをタフ(塔)と見立てて洒落を言っていると考えられる。
 この推論は、日並皇子のもとの名が草壁皇くさかべのみと言っていたことによって確かめられる。草で覆った壁をイメージしてみると、住宅や施設建築、また、塀に積極的に壁面緑化を施したとは思われず、せいぜい竪穴式住居や大壁建築に茅葺き屋根が大きく掛けられていたことが浮かぶ程度である。ただ、それは「草壁」ではなく「草屋」である。「草壁」の語義に近いものを探れば、人工的に建設した河川や地水の堤防が考えつく。土手を作るとそこに草が生えてくる。土壌は表土を欠いてやせており、スギナの繁茂しやすい環境にある。土手つながりで海の堤防のことが思い起こされるから、対句形式に使うのにかなっている。「望月の」が「たたはし」にかかるのは、この場合、通説とは異なり海水が満ちて水を湛えているという発想から結びついているということになる。
 「望月の」は万葉集中に他に3例ある。万196・1807番歌の例は、満月の様子を見ているから通説どおり月の姿かたちの円いことを指している。一方、万3324番歌の場合は、「」(day)のことから十五夜の月の「たたはし」さを引き出している。「たたはし」が「たたふ」と同根の語であるなら、大潮の満潮のことと関連すると思われて使われていると考えられる。

 …… 春べは 花折りかざし 秋立てば 黄葉もみちばかざし 敷栲しきたへの 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 望月の〔三五月之〕 いやめづらしみ おもほしし 君と時々 いでまして 遊びたまひし 御食みけむかふ きのの宮を 常宮とこみやと 定めたまひて ……(万196)
 …… 望月の〔望月之〕 れるおもわに 花のごと みて立てれば ……(万1807)
 …… 何時いつしかも 日足ひたらしまして 望月の〔十五月之〕 たたはしけむと へる ……(万3324)

 万167番歌では、「日並」、すなわち、日に配ぶのものは月だからという一点で引き合いに出されている。これまでの説のように、今は亡き主人公のかつて栄えていたことを物語るものとして「望月の」が持ち出されている、あるいは、即位を待たずに逝去した皇子の姿を重ねている、といったことではない(注8)。「日並」であり「草壁」であるものとして想念されるものというだけのことで土手を思い浮かべて歌っている。歌を歌いながら、その歌の文句について、どうしてそういう言葉が登場してふさわしいのか、皆さん、わかりますか、と謎掛けをしている。歌の聞き手はその巧みな問いに知恵をめぐらせて楽しむことになる。リスナー参加型であることは、その場の雰囲気を趣きあるものへと変じさせる仕掛けであり、そうでなくてはいかにセンスある表現をしようと、後になっても語り合い、言い伝えられることにはならない。時は無文字時代である。そして、歌は一度きりしか発声されない。その場の人々に一定の評価を勝ち取るということは、聞き手がよくわかったということに他ならない。作者の主張が聞き入れられたということではなく、歌の文句がなるほど的確であって、まことにうまく言い当てていると認められたということである(注9)
 この日並皇子挽歌には、生前の事績を語るところがないと評されてきた。そして、存命であればきっと「春花の 貴からむと 望月の 満しけむと」治世したであろうと想像しているばかりであると述べられてきた。筆者は、「春花の 貴からむと 望月の 満しけむと」という挿入句を用いることは、それ以上の意味合いを含んでいると考える。日並皇子(草壁皇子)の事績として唯一考えられることに大津皇子謀反事件がある。大津皇子は謀反の廉で死を賜っている。事は天武紀、持統紀に記され、関連する歌が万416番歌に載っている。この事件については、歌を深く読みとると堤防建設工事に絡むものであったことが知れる(注10)。讒言したのは皇太子の地位にあった日並皇子(草壁皇子)で、有能な大津皇子を陥れたようである。すなわち、「春花の 貴からむと 望月の 満しけむと」という句を投入することで、大津皇子を粛清し、当座の政権の安定は図られたかもしれないが、そのことによって皇太子草壁は器量の小ささを露呈して、天皇たるにふさわしくないと周知させてしまったという事情を暗示することになっている。
 「春花の 貴からむと 望月の 満しけむと」の句は、一般に指摘されているように賛辞としてあるように見えつつ、わかる人には皮肉な洒落として効いていたということになる。両義的ともいえる方法によって、この歌は多くの聞き手の心をつかんだのである。言語のゲーム性によって言葉は八面六臂なものとなる。柿本人麻呂の才能はそこにこそ見出される。

(注)
(注1)小島1976.に「春花はるはなの」と「はるはな」とを一緒くたにした議論が行われている。そして、「机上で作られたこの枕詞を、これに続く「貴」の字の上にかぶらせた点は、そこにやはり彼の漢字に対する訓詁の知識を見る。枕詞はそれ自身とそれに続く語句との連結によってその効力を発揮する。筆をあやつる時代ともなれば、そのつなぎの仕方にも、外来的なものを移植し、「万葉語」は複雑化してゆく。人麻呂の「ハルハナノ、貴からむと」にみる、枕詞とそのかかり方もその一つの例とみなされる。」(63頁)としている。大きな誤りがある。歌の受け取り手は、書いたものを読んでいるのではなくて耳で聞いている。葬儀の席で葬儀とは無関係の外来思想による言葉をはじめて聞かされて誰が理解できるだろうか。多くの人に対してわからない歌を歌ったとしたら、柿本人麻呂は次回から呼ばれなくなったであろう。
(注2)内田2021.参照。
 (注1)のくり返しになる面があるが、再度確認のために述べておく。小島1976.は「春花はるはなの」という言葉の出処を六朝・唐時代の漢詩の詩語「春花」(chūn huā)に基づくものとしている。そして、宋・鮑照・中興歌などの「春花」の例をあげている。修辞とは言葉のつながりの技法である。鮑照詩に「春花」→「貴」というつながりがあるわけではなく、鮑照詩が当時伝来していたとする証拠もない。仮に伝来していたとして、さらに仮に人麻呂がそれを勉強していたとして、仮に翻訳して比喩的枕詞を創作したとして、日並皇子の殯宮に集まって外のテントで佇んでいる人たちを相手に声を上げて歌うことは考えられない。中宮定子が「香炉峰の雪いかならむ」と問いかけたのは、清少納言との二人だけの閉じた会話に終わるものではなく、結果的にであれ、周囲でその発言を耳にした他の侍女たちもその知識を共有することになるからである。飛鳥時代後期、律令国家体制の萌芽期にあって、どれほどの人が文字を読むことができたかさえあやしく、漢詩を作る人も非常に限られていて文字知識は広まっていない。ましてや参集しているのは高位の人ばかりではない。竪穴式住居から出仕していたかもしれない下級官吏や、雑用に明け暮れている舎人、采女の教養が追いつくところではない。
 白井2005.は、「「タフトシ」に漢語「春花」の喚起する意味を重層させることによって、元来の「タフトシ」のもつ意味に広がりを与えたという方向で捉えられるのではないか。」(40頁)とする。なぜそうしようとしたのか、意図については述べられていない。
(注3)ツクはツキの古形で、ツクヨミノミコト(月読尊)などと用いられている。
(注4)拙稿「多武峰の観とは何か─両槻宮・天宮という名称から見えてくるもの─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/6db7e5e201e5746e2c8ede091a10e339参照。
(注5)「下ふ」を「下」の動詞形とする考えもある。
(注6)拙稿「天の石屋(石窟)の戸について─聖徳太子の創作譚─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/01642f78ed47d43d3fb93c31b4f8f1fc参照。
(注7)タフトシという形容詞の語源的解釈としてタフ(塔)を持ち出しているのではなく、駄洒落として考案されていると見るべきである。人麻呂の躍如たる言語活動の産物である。
(注8)高桑2016.に、「「望月の」は「満し」に掛かる比喩的枕詞に過ぎないが、この枕詞が選び取られたことで、草壁には「望月」のイメージが付与されることになる。」(140頁)と、転倒した考えが述べられている。草壁は「日並」皇子だから、日に配ぶ月のイメージを付与することが可能であり、聞き手にもすんなり受け容れられたのである。歌は一回性の芸術である。一回歌われただけで受け容れられるには、その表現がすぐさま腑に落ちるものでなければ聞きとどめられることはない。
(注9)日並皇子挽歌についての研究に、話者をいかに捉えるかという議論が行われている。本稿とは直接の関係はないものの、身﨑1994.の議論を引いておく。

 この二作品[日並皇子挽歌・高市皇子挽歌]においては、作中主体=話者〈われ〉は持統宮廷を構成する貴族・官人の共通感情(として期待されるところのもの)を体現するものとして設定され、その話者のたちばからの哀悼感情を表現の基底におくとともに、作中に直接的ななげきの主体として故人にしたしくつかえたひとびと(宮人・舎人など)を配し、かれらの悲嘆のさまを客観的な視点からえがきだし、さらに長歌──反歌の機構のなかでそのふたつのたちばを交錯・融合させることによって、公的・儀礼的でありなおかつ抒情的挽歌たりえているという全体的統一性を保持することに成功している。(191頁)

 注意すべき点は、「客観的な視点」で描かれているという点である。歌の話者がいかに設定されているかは、この「客観的な視点」、言い換えれば俯瞰的な視点から歌っているということをもって、議論として有意義というよりも問い自体がほとんど氷解することになっている。「春花の 貴からむと 望月の 満しけむと」という表現も、それが取ってつけたものであると捉えることこそ、門付けに押しかけて歌を詠じている人麻呂の歌の性質にかなうことである。すなわち、歌の文句が的確というのも、感情移入して的確ということではなく、歌い回し、言葉づかいがうがっていてうまいというだけで、言語遊戯以外のなにものでもない。
(注10)拙稿「大津皇子辞世歌(「ももづたふ 磐余の池に」(万416))はオホツカナシ(大津悲し・覚束なし・大塚如し)の歌である論」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/8661c507412d2b8ca60c89b3c3909e27参照。

(引用・参考文献)
内田2021. 内田夫美「『萬葉集』柿本人麻呂「日並皇子挽歌」における漢籍の受容─「春花之」と「望月之」の文字表現を中心に─」『京都府立大学学術報告 人文』第73巻、2021年12月。京都府立大学学術機関リポジトリhttp://id.nii.ac.jp/1122/00006245/
大浦2017. 大浦誠士「「枕詞は訳さない」でいいのか」松田浩・上原作和・佐谷眞木人・佐伯孝弘編『古典文学の常識を疑う』勉誠出版、2017年。
小島1976. 小島憲之『古今集以前』塙書房、1976年。
白井2005. 白井伊津子『古代和歌における修辞』塙書房、2005年。(「修辞としての枕詞─柿本人麻呂の方法─」『萬葉』第167号、1998年11月。学会誌『萬葉』アーカイブhttps://manyoug.jp/memoir/1998)
高桑2016. 高桑枝実子『万葉晩夏の表現─挽歌とは何か─』笠間書院、2016年。
芳賀2003. 芳賀紀雄『萬葉集における中国文学の受容』塙書房、2003年。
身﨑1994. 身﨑壽『宮廷挽歌の世界』塙書房、1994年。
※注釈書は省いた。日並皇子挽歌については他に多くの論考があるが、当該表現にまつわらないものは挙げていない。

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