古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

万葉集の「龍の馬(たつのま)」について

2023年10月04日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻五には、漢文の書簡文を標題にもつ贈答歌がある。大宰府にいる大伴旅人が奈良の都にいる人と手紙をやりとりし、そのときに歌のやりとりをしている。漢詩文からの影響が大きい歌が作られていると見られている。新大系文庫本の訳を添えて掲げる。

  して来書らいしよかたじけなみ、つぶさ芳旨ほうしうけたまはる。たちまち隔漢かくかんの恋を成し、また抱梁はうりやうこころを傷ましむ。ただねがはくは、去留きよりうつつみ無く、遂に披雲ひうんを待たまくのみ。〔伏辱来書具承芳旨忽成隔漢之戀復傷抱梁之意唯羨去留無恙遂待披雲耳〕
  歌詞両首〈大宰帥だざいのそち大伴卿おほとものまへつきみ〉〔歌詞兩首〈大宰帥大伴卿〉〕
 たつも 今も得てしか あをによし 奈良の都に きてむため〔多都能馬母伊麻勿愛弖之可阿遠尓与志奈良乃美夜古尓由吉帝己牟丹米〕(万806)
 うつつには ふよしもなし ぬばたまの 夜のいめにを ぎて見えこそ〔宇豆都仁波安布余志勿奈子奴<婆>多麻能用流能伊昧仁越都伎提美延許曽〕(万807)
  答ふる歌二首〔答歌二首〕
 龍の馬を あれは求めむ あをによし 奈良の都に む人のたに〔多都乃麻乎阿礼波毛等米牟阿遠尓与志奈良乃美夜古邇許牟比等乃多仁〕(万808)
 ただに会はず あらくも多く 敷栲しきたへの 枕去らずて 夢にし見えむ〔多陀尓阿波須阿良久毛於保久志岐多閇乃麻久良佐良受提伊米尓之美延牟〕(万809)

 お手紙ありがたく頂戴し、お気持のほど十分に承りました。 拝読するや忽ちに天の河を隔てる彦星のように恋しく、また橋梁を抱い て人を待った尾生(びせい)と同様に心を痛めまし た。ただ旅のあなたもとどまる私もつつがなく日を過ごし、両地を隔てる雲を開いてお帰りになるのをお待ちするのみです。
 竜の馬が今すぐにでも欲しい。(あをによし)奈良の都に行って戻って来るために。(万806)
 現実には逢うすべもありません。(ぬばたまの)夜見る夢に絶えず現れて下さい。(万807)
 竜の馬を探してみましょう。(あをによし)奈良の都に帰って来ようとする人のために。(万808)
 直接お目にかかれない年月も積もりましたが、(しきたへの)枕辺を離れずに、あなたの夢の中に現れましょう。(万809)(59~61頁)

 「たつのま」という語については、漢語「龍馬」の翻読語であるとする見解が根強い。先行研究の諸説について、仲谷2021.のまとめを下に示す。

【典拠、及び翻訳語であることを指摘するだけのもの】
『仙覚抄』、『代匠記』(初/精)、『略解』、『楢の杣』、『古義』、『私注』、『大系』、『全集』、『新編全集』、小島論文(注1)
【実在的存在として解釈するもの】
A 駿馬と理解する説
『管見』、『楢の杣』、『攷證』、『新考』、『全釈』、(『総釈』)、『金子評釈』、『窪田評釈』、『全註釈』、『集成』、『全注』、『釈注』、『全歌講義』、露木論文(注2)
B 良馬と理解する説
『拾穂抄』、『童蒙抄』、『万葉考』、『注釈』
【空想的存在として解釈するもの】
C 想像上の飛行する馬とする説
『評釈万葉集』、『新大系』(注3)、『全解』、『和歌大系』、『岩波文庫』
D 車を牽く馬の役目をする龍とする説
荻原論文(注4)(33頁を一部整理)

 どの漢籍に拠るかの違いや駿馬、良馬、天馬、想像上の馬、車を牽くものといった違いがあるだけである。漢籍を読んで理解し、その観念に従って言葉を作ったというのである。漢詩文にもたれかかった舶来趣味とまで言われている。造語を使うことで歌としておもしろみがあるから使ったのであろうが、現状の解釈では、「たつのま」という言葉をあえて作ってまでして使っている理由が明らかにされていない。それら漢籍に学んだとする考え方は、万葉語がどんどん翻訳語を取り入れ膨らんでいっていたとする立場から、当該歌群が漢文の書簡を序にもつことによるとする見方まで、程度の差こそあれ、歌の詞を狭義のヤマトコトバから解放してしまおうととする捉え方によっている。この考え方は無反省に広まっており、漢籍に字面の類似したものを見つけてきっとそうだろうと言っている。根拠はそれだけである。「双六すぐろく」といった外来語が万葉集には見られる。なぜ漢語のままに「龍馬りうめ・りようま」とせずに翻読語としてあるのか、説明されていない(注5)
 歌は歌われて存在している。歌った時に聞いている人がいて、その人たちに通じているから成り立っている。多くの人々が聞いて、誰一人とまでは言わないがほとんど取り残されることなく理解されなくてはならない。ここで「たつのま」という言葉が唐突に現れている。記紀万葉で他に例がない(注6)。聞いた人たちが「龍馬」の翻読語だと、聞いた瞬間に理解できだろうか。たとえこの歌が書簡と関係があるとしても、その書簡の内容が中国の故事をふんだんに盛っているものであったとしても、「龍馬」と書き記しているのではなくてタツノマと音声で発せられている(注7)。漢籍に「龍馬」という漢語がいろいろ見出されても、「たつのま」という新語をはじめて耳にした人が即座に理解できるはずはない。よしんば書いてあるから何日もかけて頭をひねってみてわかろうとしたとして、間違える可能性があるとすると最初からその言葉は使わないであろう。今日の人が四庫全書をデータベースにしていかに辿り着いたとしても、今の理解は1300年前の理解と同じにならない。文字という担保が「たつのま」にはないからである。すなわち、歌のなかで「たつのま」という言葉が使われているなら、奈良時代当時の人たちはきっとこういうことを言っているのだろうと当てがあったに違いない。良馬、駿馬、天馬など、諸説にいうように「たつのま」を認識していたとは考えられない。認識していたら、この二首にしか見られない孤語にはならないだろう。「たつのま」という言葉を意図的に発することで謎掛けとしているというのが妥当な考え方で、何かしらそれとなく気づく存在があり、それに基づいてこの新語は構想されたのだろう。聞き手がすぐにそれとわかるから、歌の詞として使われていると考える。
 たつうまとが関係のある概念とすることは、諸説の説くとおりであろう。その龍はもちろん中国から移入されたもので、それを「たつ」と和訓している。雄略紀や欽明紀には、馬が龍のように翔るといった表現が行われていることも指摘どおりである。周礼・夏官・廋人の「馬の八尺以上を龍と為し、七尺以上を騋と為し、六尺以上を馬と為す。」部分の鄭注に、「鄭司農、説くに月令に以てして曰く、蒼龍に駕すといふ。」とある箇所は「たつのま」の語の基としてあげられている。ここにある蒼龍とは青龍のことである。この青龍について、奈良の都にいた人は具体像として知っている。玄武・朱雀・白虎・青龍の四神の一である。天皇の即位儀礼で、大極殿院前に幢幡が立てられ、そのいちばん東側には青龍を象った絵を描いた旗が立てられていた(注8)。龍は蛇のように胴が長く、四足を持ち、角や爪が生えている。胴が短くなれば馬に似てくる(注9)。肝心な点は図像として多くの人の目に触れていることである。だから、「たつのま」という言葉が成り立っている。聞いた人が、ああ、あれのことか、と気づくことができる(注10)。他の人に受け入れられてはじめて造語は言葉となる。これまでの翻読語説、翻案語説、翻訳語説はこの検証を欠いている。
左:蒼龍旗復元品(平城京天平祭)、右:平城京幢幡遺構整備展示
 具体的に歌のうえで考えてみる。「たつのま」が出てくるのは万806・808番歌である。

  歌詞両首〈大宰帥だざいのそち大伴卿おほとものまへつきみ
 たつも 今も得てしか あをによし 奈良の都に きてむため(万806)
  答ふる歌二首〔答歌二首〕
 龍の馬を 我れは求めむ あをによし 奈良の都に む人のたに(万808)

 「たつのま」に乗って奈良の都へ行って帰って来るために、「たつのま」なんかを今にも得たい、「たつのま」を私は求めよう、奈良の都に来ようという人のために、という意味である。青龍に乗ることができるなら、体を伸び縮みさせてあっという間に大宰府から平城京までを往復することがかなうであろう(注11)。そして、「たつのま」が青龍のことを言っている証拠として、枕詞「あをによし」が使われている。アヲが掛かっており、平城京の大極殿院前に幡が立てられたこととも結びついている。
 題詞に「歌詞両首」と断られている。「歌二首」の意であるはずが、わざわざそう断られている。歌詞、すなわち、「たつのま」が大事であり、大伴卿が作った二首とも「たつのま」の歌だということである。その点は「答歌」にも一貫している。「答歌」で「たつのま」を求めようと言っている。「たつのま」は青龍で、旗に描いてあるからそれを調達しようと思っているとおどけてみせている。つまり、「たつのま」(青龍)は奈良の都にあるもので、大宰府ほか地方にはないということである。万806・808番歌はほとんど同じことを言っていて、鸚鵡返しになっていると見る向きもある。しかし、「たつのま」という新語を作って使っているのだから、その言葉の意味合いをよく理解しているとわかるように示して答えることが、歌のやりとり、応答なのである。言葉が通じていること、それが歌として成り立っているということである。
 それぞれの歌の二首目は次のようになっている。

 うつつには ふよしもなし ぬばたまの 夜のいめにを ぎて見えこそ(万807)
 ただに会はず あらくも多く 敷栲しきたへの 枕去らずて 夢にし見えむ(万809)

 「うつつにはふよしもなし」、「ただに会はずあらくも多く」にある「会ふ」ことについて、これまでの解釈では互いの人どうしが会うことと考えられてきた。その考えではそれぞれの歌どうし、万806番歌と万807番歌、万808番歌と万809番歌のつながりが見出せない。「歌詞両首」と断っているのだから、万806番歌に特別な「歌詞」として「たつのま」が歌われているように、万807番歌でも特別な詞であるはずである。すなわち、「会ふ」対象は「たつのま」と捉えなければならない。現実に青龍に会うはずはない、夜の夢にでも続けざまに見たい、じかに青龍に会うことのできない日が多い、枕を片づけないで夢に見ましょう、と歌い合っている。
 万806番歌で現実に青龍に出会う方法がないとは、架空の動物だから本当に本当のことである。龍は玉を持っていると言われるから「ぬばたまの」という枕詞が出てきて順当である。夢で見たいと言う際に「たつのま」という「詞」を造語してまで使っている理由でもある。言葉遊びにおもしろいから使っている。
 青龍は馬のように乗れるとしているが、その体、とりわけ胴は長い。長いから遠距離をあっという間に行き来できると想っている。その長い体を一晩の夢で見ることはできず、部分的にずつ毎晩見継いでいって全体像を作ることができる。つまり、馬は馬でも、胴をブツ切りにして一晩ずつ夢に見る。だから、タツ(断)+ノ(助詞)+マ(馬)なのである。こういう洒落を言いたいから歌を歌っている。
 万809番歌はその意を汲んで答えている。奈良の都であっても、青龍の幡が掲げられるのは即位式典、元日朝賀だけである。あなたのためにこちらで求めましょうと言ってはみたものの、青龍に会えないことばかりである。そこで万年床にして、枕を置いて夢に見ようという。大伴卿が言っていたのは、「ぬばたまの夜の夢」であった。そうか、暗くないから会えないのだ。だから真っ暗、すなわち、マ(真)+クラ(暗)を導くためにマクラ(枕)は必須アイテムということになる。ずっと真っ暗ならばタツ(断)+ノ(助詞)+マ(馬)もつなぎ合わされて夢に一頭の「たつのま」として見ることができる。そうしたらあなたにお届けいたしましょう、と歌っている。空想の動物をモチーフにした架空の話、二首目に歌われているとおり夢想とも呼べるものを互いに理解しあってやりとりしている。
 このように、漢籍を一生懸命勉強して漢語「龍馬」を翻訳、翻読、翻案してその思想的背景を観念として勝ち取ったのではなく、青龍の描かれた旗のことを念頭に、「たつのま」談義に花を咲かせているのである。「龍馬」はタツ(龍)+ノ(助詞)+マ(馬)だし、タツ(断)+ノ(助詞)+マ(馬)だから「たつのま」だと笑いあっている。彼らは歌をやりとりしているのであって、漢文講読特論の講義をくり広げているものではない。

(注)
(注1)小島1954.に、「「龍の馬」も「龍馬」(一例、玉台新詠襄陽白銅鞮歌「龍馬紫禁鞍」、謝脁送遠曲「方衢控龍馬」)の飜読語の一例であり、その当時新しい歌語として歌人達に新鮮味を感じさせようとしたものであらう。」(327頁)とある。
(注2)露木2000.に、「「書簡文」の文案作成過程から導き出された漢籍からの引用と考えてよいのではなかろうか。」(118頁)とある。
(注3)新大系本には、「「てしか」を含む類歌(二六七六・三六七六・四四三三)における雲・雁・ヒバリと同じく、この「竜の馬」も空を飛ぶものとして想像されている。「竜の馬」は従来八尺以上の馬を言う「竜馬」(周礼など)の翻訳語と解釈されてきたが、漢語「竜馬」は「竜馬とは仁馬、河水の精なり。…骼上に翼有り」(瑞応図・芸文類聚・祥瑞部・馬)と、羽翼を持つものでもあり、さらには周の穆王が天下を巡行するに駕した「八竜の駿」は絶地・翻羽・超影・騰霧・挟翼などとも別称される(晋・王嘉・拾遺記三)飛行する馬であり、仏典の竜王の騎乗する竜馬も「虚空中に於て仏を繞ること三匝」(父子合集経五)と描かれることがある。「大鷦鷯帝の時に、竜馬西に見ゆ」(日本書紀(孝徳紀)・白雉元年)。上の奈良某人の書簡の「披雲を待たまくのみ」は、空飛ぶ「竜の馬」に駕して帰りたいという歌詞に答える表現でもあった。」(457頁)とある。さらに、廣川2015.には、「『漢書』および李善注を含んだ「赭白馬賦」を収載する『文選』は共に、日本上代の貴族官人たちにとって重要な書物であった。また、『芸文類聚』は、奈良朝の貴族たちによく読まれた書物であった。そこには、「龍の馬」と「天馬」とが通じ合う通路が、重層的に確保されていた……。上代奈良朝の貴族官人たちは、右の書物をとおして、龍と友であり「龍」と名付けられる名馬が、虚空に飛び上がり雲の高さまで登り疾駆し、また、万里を跳び越える姿で描かれている表現に出会った……。こうした表現の質を理解したうえでは、……「龍の馬」は、万里を跳び越え、天を翔る「天馬」を喚起する表現として、大宰府と奈良の都との間の〈距離〉を表わし出し、その〈距離〉を認識させる役割を十分に果たしている……。」(262頁)とある。
(注4)荻原2017.には、「龍の馬」は、……『楚辞』の世界からイメージされたものではないだろうか。すなわちそれは従来の説のような漢語「龍馬」 の翻読語ではなく、「の」は「体言の資格をもつ語句二つを結び、同格・性質・所属・所有などの関係をあらわす」助詞の「の」であり、漢籍から翻案した和語としての「龍の馬」(龍が馬の役目をつとめているもの)として理解すべきではないか。」(42~43頁)とある。
(注5)どうして言葉としてあるのか、と考えることは、今日の万葉集研究者の念頭にない。英語の詩である場合、どうしてその言葉があるのかまで遡ってそこに置かれていることを吟味している。例えば、その言葉がラテン語由来のものであるか、ゲルマン語系のものであるかによって、詩人の意図は異なると察せられるからである。これは、その詩人がどういうつもりで使っているのかを知ろうとすることで、必ずしも語源を遡るということにはならない。詩作当時の言葉の状況を理解しなければ詩の理解は満たされないということである。万葉歌においても、奈良時代当時の言葉の理解こそが迫られなければならない肝要点である。大伴旅人は漢籍を勉強したから使っているのだろうと当て推量して事足れりとすることと、どうして「たつのま」という言葉があるのかを問う姿勢とは根源的に異なっている。
(注6)孝徳紀、白雉元年条に見える「龍馬」にはリウメ(内閣文庫本)と付訓が見られる。
(注7)大宰府と都との往復書簡であって、書かれた歌、読み歌であるともされているが、「多都能馬」や「多都乃麻」と書いてあるものは口に唱えてみなければわからない。声の文芸であることに変わりはない。
(注8)それ以前から四神像は描かれていた。高松塚古墳などに残されている。旗として大っぴらに見ることができるようになったのは藤原京時代からで、藤原宮跡からも幢幡遺構が見つかっている。文献資料としては、「大宝元年春正月乙亥朔、天皇御大極殿朝。其儀、於正門烏形幢。左日像、青竜、朱雀幡。右月像、玄武、白虎幡。蕃夷使者、陳-列左右。文物之儀、於是備矣。」(続紀・文武天皇・大宝元年正月)と見える。ただし、平城宮とは旗の並び方が違っている。
(注9)絵図では、胴の長いものもあれば短いものもある。
(注10)「歌詞両首」と「答歌二首」とは私的な交信であり、書簡文と歌とかセットになっていて、歌の部分だけを切り離したら意を伝えることができない代物なのだという倒錯した見方もある。「答歌二首」のほうに書簡文が付されない理由や、歌のやりとりの発端となった最初の書簡(「来書」)を載せる気がない編者の姿勢を訝しがる向きもある。一番シンプルに考えるなら、これは万葉集という歌集であり、あくまで歌が主役であって、書簡文はその前置きに過ぎないということになる。
(注11)大宰府にいる旅人の懐郷の思いをこの歌から読み取ろうとする見方があるが、「行きて来むため」と往復を歌っているのを無視することはできない。

(引用・参考文献)
荻原2017. 荻原千鶴「大伴旅人考─〈遊於松浦河〉〈龍の馬〉と『楚辞』─」『萬葉集研究 第三十七集』塙書房、平成29年。
加茂1999. 加茂正典「「節旗」考」『日本古代即位儀礼史の研究』思文閣出版、1999年。
小島1954. 小島憲之「万葉集と中国文学との交流」『萬葉集大成 様式研究篇 比較文学篇』平凡社、昭和29年。
佐野2019. 佐野真人「「儀仗旗」に関する一考察」『古代天皇祭祀・儀礼の史的研究』思文閣出版、2019年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(二)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
新大系本萬葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系 萬葉集一』岩波書店、1999年。
『即位大嘗祭とその周辺』東京経済、平成元年。
露木2000. 露木悟義「龍の歌の贈答歌」『セミナー万葉の詩人と作品 第四巻 大伴旅人・山上憶良(一)』和泉書院、2000年。
仲谷2021. 仲谷健太郎「「たつのま」をめぐって」『美夫君志』第102号、令和3年4月。
原田2001. 原田貞義『読み歌の成立─大伴旅人と山上憶良─』翰林書房、2001年。
文安御即位調度図 『群書類従』(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2559108/1/59~86)

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