古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

万葉集の修辞法、「二重の序」について

2023年10月05日 | 古事記・日本書紀・万葉集


 万葉集の序歌に「二重の序」と呼ばれるものがある。序詞が重ね用いられたものである。序詞によって導かれた地名が掛詞になっていて、それがさらに序詞となって下文を導いている。詳細に検討された論考として井手1975.がある。そこでは次の歌をあげて説明している(注1)。以下、訓みは井手氏に従いつつ、用字については筆者の判断で改め、原文を添えて示す。

 いもが目を 見まくほりの さざれ波 きて恋ひつつ ありと告げこそ〔妹目乎見巻欲江之小浪敷而戀乍有跡告乞〕(万3024)

 最終的に述べたいのは「きて恋ひつつありと告げこそ」である。その主意部分を起こす叙景序として「堀江のさざれ波きて」が上にある。さらにそれを起こす抒情序として「妹が目を見まくり」が置かれている。りとほりとが掛けられている。そのうえ、中間の叙景部分を挟んで上の抒情序と下の抒情の主意部分が意味的に密接に関係していて、情報を付加しているとみている。すなわち、いちばん上の抒情序は、最後の主意に対する「曖昧句」であるとし、口語訳する際にはその意味を生かさなければならないと主張する。妙味のある掛かり方が巧みに繰り広げられている。同様の構造を持つものとして以下の歌がとられている。

 恋衣こひころも 着奈良きならの山に 鳴く鳥の 無く時無し 吾が恋ふらくは〔戀衣着楢乃山尓鳴鳥之間無無時吾戀良苦者〕(万3088)
 未通女等をとめらが そで布留ふるやまの 瑞垣みづかきの 久しき時ゆ 思ひき吾は〔未通女等之袖振山乃水垣之久時従憶寸吾者〕(万501)
 いもも吾も きよみの河の 河岸かはぎしの 妹がゆべき 心は持たじ〔妹毛吾毛清之河乃河岸之妹我可悔心者不持〕(万437)
 いもが髪 上竹あげたか葉野はのの はなち駒 あらびにけらし 逢はなく思へば〔妹之髪上小竹葉野之放駒蕩去家良思不合思者〕(万2652)
 吾妹子わぎもこに 相坂山あふさかやまの はだすすき 穂には咲きでず 恋ひ渡るかも〔吾妹兒尓相坂山之皮為酢寸穂庭開不出戀度鴨〕(万2283)
 つるばみの きぬき洗ひ 土山つちやま もとつ人には なほかずけり〔橡之衣解洗又打山古人尓者猶不如家利〕(万3009)
 あらぎぬ 鳥飼河とりかひがはの 河淀かはよどの 淀まむ心 思ひかねつも〔浣衣取替河之河余杼能不通牟心思兼都母〕(万3019)
 とのぐもり 雨布留ふるかはの さざれ波 無くも君は 思ほゆるかも〔登能雲入雨零川之左射礼浪間無毛君者所念鴨〕(万3012)

 解釈に疑念の残るものがあるが、その点は後述する。二重の序の構造、すなわち、序の掛かり方についての井手氏の整理は基本的に正しいと考える。ただし筆者は、二重の序の説明には不足する点があると考えている。これらの歌は、古代の人が文法的、構文的な意識のもとで作文したわけではなく、無意識のうちに、ないしは意識下に沈んだままに口ずさんで歌いながら作ったものと考えている。書き付けておいて壁に貼り付け、推敲に推敲を重ねた末に成ったものではない(注2)
 まず注目すべき点は、掛詞接合の序詞の重複する部分、一番上の抒情序と中間の叙景序が掛かるところである。固有名詞の地名になっている。固有名詞の地名を提示して、語呂合わせでありつつ名は体を表しているものとも捉えられている。その考え自体に誤りはない。もともとその場所につけられた地名があり、それを口に出して言ってみるとそれらしい雰囲気を醸し出すからそういうところなのであろうとしている。呼ばれるもの、それが名前である。曰く因縁があって名づけられたり、コピーライターが捻り出したり、人気投票の結果としての命名ではなく、すでに呼ばれていた地名について後から何かこじつけができないかと考える対象であった。無文字の時代に言葉は音声言語でしかなかった。音がそうであるなら意味もそれと関係するとして正しいと定めたがる傾向があった。そうではあるまいと否定的な見解を提出することも可能ではあるが、音声言語しかない言葉を使う人にとっては煩わしいばかりである。音がそうであれば意味もそうであるとして何ら不自然ではなく、一様にわかりやすく不都合もない。その具現例として、上にあげた二重の序なる修飾が行われ、もって回った言い回しが展開されている。
 二重の序は、固有名詞を掛詞としたものに限られる(注3)。言い換えれば、そのような二重の序の構成になっている固有名詞の地名は、そのような意味合いに捉えることによって再活性化し、生き生きとみずみずしく人々の脳裏に思い浮かんでくる名となっている。二重の序としては、他に次のような例があげられている。みな固有名詞の地名に掛けられている。

 吾妹子わぎもこを 聞き都賀野辺つがのへの しなひ合歓木ねぶ は忍び得ず 無くし思へば〔吾妹兒乎聞都賀野邊能靡合歓木吾者隠不得間無念者〕(万2752)
 吾妹子わぎもこに ころも春日かすがの 宜寸川よしきがは よしもあらぬか いもが目を見む〔吾妹兒尓衣借香之宜寸川因毛有額妹之目乎将見〕(万3011)
 吾妹子わぎもこに またも近江あふみの 野洲やすの河 安寐やすいも寝ずに 恋ひ渡るかも〔吾妹兒尓又毛相海之安河安寐毛不宿尓戀度鴨〕(万3157)
 君により 吾が名はすでに 龍田山たつたやま 絶ちたる恋の しげき頃かも〔吉美尓餘里吾名波須泥尓多都多山絶多流孤悲乃之氣吉許呂可母〕(万3931)
 白真弓しらまゆみ 今春山に く雲の 雪や別れむ こほしきものを〔白檀弓今春山尓去雲之逝哉将別戀敷物乎〕(万1923)



 井手氏の二重の序の説明に不足する点があると述べた。その点を考えるために、井手氏のあげていた二重の序の例のなかから疑問のある一首をとりあげる。万501番歌である。「柿本朝臣人麻呂歌三首」の一つである。これには類歌がある。万2415番歌である。「寄物陳思」の歌で、万2516番歌の左注、「以前一百四十九首、柿本朝臣人麻呂之謌集出」のうちの一つである。

 未通女等をとめらが そで布留ふるやまの 瑞垣みづかきの 久しき時ゆ 思ひき吾は〔未通女等之袖振山乃水垣之久時従憶寸吾者〕(万501)
 処女をとめらを そで布留ふるやまの 瑞垣みづかきの 久しき時ゆ 思ひけり吾は〔處女等乎袖振山水垣久時由念来吾等者〕(万2415)

 これまでの説明では、どちらも二重の序に当たる歌と考えられているようである。しかし、筆者は、万501番歌の人麻呂作歌は二重の序ではなく、万2415番歌の人麻呂歌集歌のみが二重の序であると考える。「久しき時ゆ」は、久しい時、長い間じゅうずっと、の意である。「ゆ」は経過中を表す(注4)
 万501番歌のように「思ひき吾は」と続けば、ずっと思っていたのは過去のことで、自分自身の頭の中ではっきりしていて今は完了している。思い出が主意である。それに直接に掛ってくるのはその前にある「布留山の瑞垣の」である。古くからの山の立派な垣根なのだから「久しき」と続けて適当である。さらに前にある「未通女らが袖振る」は「布留山」を導く序になっている。つまり、全体として、「未通女等が袖振る」が「布留山の瑞垣の」に対する小序、「未通女等が袖=振る/布留=山の瑞垣の」が「久しき時ゆ思ひき吾は」の序に当たる構造である。それ以外に捉えようがない。「未通女等が」のガは主格の助詞であり、袖を女の子たちが振っている。対して主意は、「久しき時ゆ思ひき吾は」であり、倒置を直すと「吾は久しき時ゆ思ひき」である。主語は一人称の「吾」であり、思っていたのは過去である。最後の主意と離れた場所にある先頭の序とでは人称が異なり、時制も過去となると、二重の序の「曖昧句」とはなり得ない。感慨が対象化され、セピア色の静止画になっている。
 曖昧にして絶妙に主意に掛かって来る感覚は、万501番歌にはないが、他方の万2415番歌には満ちている。

 処女をとめらを そで布留ふるやまの 瑞垣みづかきの 久しき時ゆ 思ひけり吾は〔處女等乎袖振山水垣久時由念来吾等者〕(万2415)
 お嬢さんたちのことを、お嬢さんたちが袖を振るという布留山の瑞々しい垣根のように古くから久しい間じゅうずっと思っていたと気づいたよ私は、お嬢さんたちのことを、お嬢さんたちが袖を振るという布留山の瑞々しい垣根のように長く久しい間じゅうずっと思っていたと気づいたよ私は、お嬢さんたちのことを、お嬢さんたちが袖を振るという布留山の瑞々しい垣根のように長く久しい間じゅうずっと思っていたと気づいたよ私は、お嬢さんたちのことを、……という歌である。
 歌詞に、「瑞垣の久しき時ゆ」とある。「瑞垣」はぐるりと取り囲むものである。その側をまわり始めてみると、どこまで行っても終わることはない。久しき間じゅうずっと、に掛かっていることがわかるとともに、歌の詞の流れ自体がぐるぐる旋回していることを自己主張する仕掛けになっている。助詞ヲは感動詞、間投助詞に始まり格助詞へとすすんだ懐の深い助詞として見てとり、助動詞ケリはああそうだったと今気づいた、の意である。ああそうだった、ああそうだった、ああそうだったんだなあという気づきが繰り返されている。
二重の序概念模式図
 本稿の主旨はここにある。二重の序が固有名詞を伴う傾向に偏っているのは、その固有名詞の意味を決める役割までも歌が担っているゆえである。最初の抒情序が主意に関わるのは、主意が最初の抒情序を決める力を持っているということでもあるからである。両者が互いの契約関係の中で拘束しあい、ひとまとまりになっていること、言い換えれば、最後に語られる主意が最初の抒情序を先行させているということである。二重の序として連鎖的に続けられているから、詠み進んで最後まで行って最初に戻って、また進んで最後まで行ってまた最初に戻って、の繰り返しである。つまり、循環構造になっている。それが二重の序という修辞の本旨である。二重の序という修辞は、循環論法に歌うための方策としてあったといえる。そして、時として、循環を示唆する言葉を内に含み、言辞のカテゴリーがメタ化している。この点を踏まえなければ二重の序の理解は完了しない。
 最初の例で説明すると、次のようになる。

 いもが目を 見まくほりの さざれ波 きて恋ひつつ ありと告げこそ〔妹目乎見巻欲江之小浪敷而戀乍有跡告乞〕(万3024)
 彼女の目を見たいと欲する、その堀江に立つさざれ波が重なってしきりに及んでくるように恋心があると告げて欲しい相手の彼女の目を見たいと欲する、その堀江に立つさざれ波が重なってしきりに及んでくるように恋心があると告げて欲しい相手の彼女の目を見たいと欲する、その堀江に立つさざれ波が重なってしきりに及んでくるように恋心があると告げて欲しい相手の彼女の目を見たいと欲する、……という歌である。
 この歌は、一言でいうと何の歌かと問われれば、高度な言語遊戯の歌ということになる。主意はたしかに主意なのであるが、短歌のなかに序を重ねて置くという離れ業をしてしまったら、もはや形式主意とでも呼ぶしかない状態になる。この歌では歌詞にそのことが確認される。「きて」とある。後から後から波が続いてくると歌いながら、歌自体が後から後から続いてくることに自己言及している。伝言を一度きり頼んだのか、何度も何度も頼んでいるのかと問うとするなら、明らかに、何度も何度も繰り返している。念には念を入れた、度重なる懇願が歌の基底にある。



 この考え方の正しさを検証するために、他の例についても逐一見ていく。解釈の難しい歌は後回しにする。

 吾妹子わぎもこに 相坂山あふさかやまの はだすすき 穂には咲きでず 恋ひ渡るかも〔吾妹兒尓相坂山之皮為酢寸穂庭開不出戀度鴨〕(万2283)
 吾妹子に、逢うというその相坂山のはだ薄のように穂には咲き出ることもなく吾妹子に恋ひ続けるのかなあ吾妹子に、逢うというその相坂山のはだ薄のように穂には咲き出ることもなく吾妹子に恋ひ続けるのかなあ吾妹子に、逢うというその相坂山のはだ薄のように穂には咲き出ることもなく吾妹子に恋ひ続けるのかなあ吾妹子に、……という歌である。
 次の例は、掛詞部分が抒情の序にも主意にも掛かっていて、さらに技巧的である。この場合、掛詞部分の掛かり方の優劣の判断までもその言葉自体で言い切ってしまうという自己言及的な言説をおかしている。短歌という三十一文字のなかで、今発した言葉がその言葉自体について言及して行っている。歌として、主意を謂わんとしているのかさえもはや不分明、不可解になっている。

 つるばみの きぬき洗ひ 土山つちやま もとつ人には なほかずけり〔橡之衣解洗又打山古人尓者猶不如家利〕(万3009)
 橡の衣は、解いて洗って又打つから真土山というところがあるというけれど、真土山というのは「もとつ」の訛りであり、「もとつ」、つまり、本来のものであって、本の人にはやはりかなわないなあ、一番だなあ、橡の衣は、解いて洗って又打つから真土山というところがあるというけれど、真土山というのは「本つ」の訛りであり、「本つ」、つまり、本来のものであって、本の人にはやはりかなわないなあ、一番だなあ、橡の衣は、解いて洗って又打つから真土山というところがあるというけれど、真土山というのは「本つ」の訛りであり、「本つ」、つまり、本来のものであって、本の人にはやはりかなわないなあ、一番だなあ、……という歌である。

 あらぎぬ 鳥飼河とりかひがはの 河淀かはよどの 淀まむ心 思ひかねつも〔浣衣取替河之河余杼能不通牟心思兼都母〕(万3019)
 衣を洗うときに、解いてから洗わないと衣が破れて取り替えなければならなくなることが多い、その名を負う鳥飼河の河淀のように、淀んで前に進まないためらいの気持ちが起こってどうしたらいいのか思いかねている、それはあらかじめわかっていたことだけれど、衣を洗うときに、解いてから洗わないと衣が破れて取り替えなければならなくなることが多い、その名を負う鳥飼河の河淀のように、淀んで前に進まないためらいの気持ちが起こってどうしたらいいのか思いかねている、それはあらかじめわかっていたことだけれど、衣を洗うときに、解いてから洗わないと衣が破れて取り替えなければならなくなることが多い、その名を負う鳥飼河の河淀のように、淀んで前に進まないためらいの気持ちが起こってどうしたらいいのか思いかねている、それはあらかじめわかっていたことだけれど、衣を洗うときに、……という歌である(注5)。恋模様の忸怩たる思いが渦巻いていることがメタレベルから眺めやることとなってよく伝わる。

 とのぐもり 雨布留ふるかはの さざれ波 無くも君は 思ほゆるかも〔登能雲入雨零川之左射礼浪間無毛君者所念鴨〕(万3012)
 雲がどんどんかき曇って雨が降るという、その布留川のさざ波の絶え間がないようにあなたのことは、心に思い浮かんでくるように雲がどんどんかき曇って雨が降るという、その布留川のさざ波の絶え間がないようにあなたのことは、心に思い浮かんでくるように雲がどんどんかき曇って雨が降るという、その布留川のさざ波の絶え間がないようにあなたのことは、心に思い浮かんでくるように雲がどんどんかき曇って……という歌である。

 吾妹子わぎもこに ころも春日かすがの 宜寸川よしきがは よしもあらぬか いもが目を見む〔吾妹兒尓衣借香之宜寸川因毛有額妹之目乎将見〕(万3011)
 吾妹子に衣をすことがあった、その春日かすがにある宜寸よしき川というのにまつわるよしもないものか、いやいやある、妹が目を見たい吾妹子に衣を貸すことがあった、その春日にある宜寸川というのにまつわる縁もないものか、いやいやある、妹が目を見たい吾妹子に衣を貸すことがあった、その春日にある宜寸川というのにまつわる縁もないものか、いやいやある、妹が目を見たい吾妹子に衣を貸すことがあった、……という歌である。

 吾妹子わぎもこに またも近江あふみの 野洲やすの河 安寐やすいも寝ずに 恋ひ渡るかも〔吾妹兒尓又毛相海之安河安寐毛不宿尓戀度鴨〕(万3157)
 吾妹子に、またも逢うという近江の野洲の河というのにまつわる安寐やすい、つまりは安眠もしないで恋い続けるのかなあ吾妹子に、またも逢うという近江の野洲の河というのにまつわる安寐、つまりは安眠もしないで恋い続けるのかなあ吾妹子に、またも逢うという近江の野洲の河というのにまつわる安寐、つまりは安眠もしないで恋い続けるのかなあ吾妹子に、……という歌である。

 君により 吾が名はすでに 龍田山たつたやま 絶ちたる恋の しげき頃かも〔吉美尓餘里吾名波須泥尓多都多山絶多流孤悲乃之氣吉許呂可母〕(万3931)
 君のせいで、私の名はすでに広く立ってしまった、その龍田山というので私は恋心を絶ったつもりでいたがその恋心はまた燃え上がるこの頃であることよ、君のせいで、私の名はすでに広く立ってしまった、その龍田山というので私は恋心を絶ったつもりでいたがその恋心はまた燃え上がるこの頃であることよ、君のせいで、私の名はすでに広く立ってしまった、その龍田山というので私は恋心を絶ったつもりでいたがその恋心はまた燃え上がるこの頃であることよ、君のせいで、……という歌である。

 白真弓しらまゆみ 今春山に く雲の 雪や別れむ こほしきものを〔白檀弓今春山尓去雲之逝哉将別戀敷物乎〕(万1923)
 雪のように白いまゆみで作った弓に矢をつがえて張るという今、春になったばかりの今春山に飛んでゆく雲が降らせる、その「き」なる雪は別れ行くでしょう、恋しいに決まっているのだが、その雪のように白い檀で作った弓に矢をつがえて張るという今、春になったばかりの今春山に飛んでゆく雲が降らせる、その「行き」なる雪は別れ行くでしょう、恋しいに決まっているのだが、その雪のように白い檀で作った弓に矢をつがえて張るという今、春になったばかりの今春山に飛んでゆく雲が降らせる、その「行き」なる雪は別れ行くでしょう、恋しいに決まっているのだが、その雪のように白い檀で作った弓に……という歌である。「今春山」を普通名詞に解する説が多いが、固有名詞として捉えた。



 解釈の定まらない歌についてみてゆく。最初に、訓みに難点のある歌をみる。

 吾妹子わぎもこを 聞き都賀野辺つがのへの しなひ合歓木ねぶ は忍び得ず 無くし思へば〔吾妹兒乎聞都賀野邊能靡合歓木吾者隠不得間無念者〕(万2752)

 原文の「靡」をシナフ(撓)、「隠」をシノブ(忍)と訓むのが通説となっている。しかし、「靡」をナビク、「隠」をナバルと訓んで音を掛けていると考えることもできよう。ナビク、ネブ、ナバリエズと続き、掛詞として掛かっている感じがさらに強くなると考える。ネムノキは、日が当たると葉が開き、暗くなると閉じる。だから、靡いているように思われ、葉が開いているときは隠れられるが、閉じれば露呈することになる。ネムノキの幹がしなうのではない。以下、その試訓で解する。

 吾妹子わぎもこを 聞き都賀野辺つがのへの なび合歓木ねぶ 吾はなばり得ず 無くし思へば〔吾妹兒乎聞都賀野邊能靡合歓木吾者隠不得間無念者〕(万2752)
 吾妹子のことを、人づてに聞き継ぐ、その都賀野つがののほとりに葉が開いたり閉じたりして靡く合歓ねむの木に私は隠れきることができない、絶え間なく思っているから吾妹子のことを、人づてに聞き継ぐ、その都賀野のほとりに葉が開いたり閉じたりして靡く合歓の木に私は隠れきることができない、絶え間なく思っているから吾妹子のことを、人づてに聞き継ぐ、その都賀野のほとりに葉が開いたり閉じたりして靡く合歓の木に私は隠れきることができない、絶え間なく思っているから吾妹子のことを、……という歌である。
 「間無くし思へば」と、「間無く」に強意の助詞シが付いている。「間」があれば隠れることはできるが、「間」がないから隠れきることができないと言っている。ネムノキの葉の開閉に合わせて思ったり思わなかったりすればいいのだが、常に思い続けているということを歌っている。
 次に、キナラ(「着楢」、「服楢」)の歌についてみる。

 恋衣こひころも 着奈良きならの山に 鳴く鳥の 無く時無し 吾が恋ふらくは〔戀衣着楢乃山尓鳴鳥之間無無時吾戀良苦者〕(万3088)
 恋の衣を着慣れているという、奈良の山に鳴く鳥が絶え間なく時を定めず鳴くような、私の恋は、恋の衣を着慣れているという、奈良の山に鳴く鳥が絶え間なく時を定めず鳴くような、私の恋は、恋の衣を着慣れているという、奈良の山に鳴く鳥が絶え間なく時を定めず鳴くような、私の恋は、……という歌である。奈良の山には「楢」の木が生えていて、そこに鳥は止まって鳴いていると解釈するのがより正しいだろう。

 韓衣からころも 着奈良きならの里の 島松に 玉をし付けむ き人もがも〔韓衣服楢乃里之嶋待尓玉乎師付牟好人欲得〕(万952)

 ここでは、「松」と「待つ」が掛けられている。樹木が取り沙汰されているのだから、原文の「楢」を借字とばかり言い切れないわけである。
 なおこの歌、原文の「嶋」を誤字として「つま」に意改する解説が多い。白井2019.はそう訓んだうえで、二重の序の一例にあげている。「韓衣 着奈良の里の 嬬松に 玉をし付けむ 好き人もがも」の意は、上等の韓衣を着慣れているという奈良の里の嬬を待つという松に玉をつけたくなるようないい人がいればなあ、あるいは、玉をつけてくれるようないい人があったらなあ、といった意であろうか。「もがも」は実現困難な願望について、……したい、という意と捉えられている。疑問である。上等の韓衣を着こなす奈良の里の「つま」と、松に玉までもつけたくなる(つけてくれる)ほどの「好き人」とは、どのように関係するのか。「奈良/慣ら」、「待つ/松」と2つの掛詞が並立しているだけで、並列にはなっていない(注6)。それでは二重の序ではないことになる。「待つ」と「もがも」は類義である。意改はふさわしいとは思われない。
 「島松」は、庭の山斎しまの松のことを言っていると考えたほうがわかりやすい。奈良の山が野趣あふれる楢などの雑木林であることの対比として「里」であると定めている。手入れをして造った庭こそ、整序ある文様の韓衣を着るのに似つかわしい。
 この歌の題詞は「五年戊辰/幸于難波宮時作歌四首」というものである。聖武天皇が幼い皇太子を東院庭園に見舞いに行くときのことを歌にしたものである(注7)山斎しまの松のことと、島流しにあった罪人が恩赦を待つこととが意味的に掛けられている。恩赦をすれば皇太子の病気が治ると思われたようである。山斎の松に玉飾りをつければ、幼子も喜んで元気になるという願いでもあった。
 「もがも」、「もが」は、対象の所有や状態の存在を願望する意を表す。①……が欲しい、……があったらなあ、②……であってほしい、……でありたい、……になりたい、……であったらなあ、の二様の表現に使われる。「好き人もがも」とある場合、よい人が欲しい、と、よい人になりたい、のいずれの場合にも用いられる。②の例に次のようなものがある。

 たまきはる いのちに向ひ 恋ひむゆは 君がみ船の 楫柄かぢからにもが(万1455)
 よしゑやし ただならずとも ぬえ鳥の うらりと 告げむ子もがも(万2031)

 万952番歌は、自分自身に対する希望、……でありたい、の意と解せられる。自分自身の内面のことだから、訴えかけては自らに返ってくる自己循環的な歌に体現されている。口に出して言ってみて耳から入って再確認して再度口に出して、という繰り返しをそのまま形にしている。ただこの場合、天皇自身が歌っているのではなく、天皇の気持ちが代詠されている。天皇は自分が聖人君子たる「好き人」であるか、そうでありたいものだ、という意味で歌われている。善行を積めば皇太子の病も治ると信じているところを歌にしている。

 韓衣からころも 着奈良きならの里の 島松に 玉をし付けむ き人もがも〔韓衣服楢乃里之嶋待尓玉乎師付牟好人欲得〕(万952)
 その人は、韓衣を着慣れているという、その奈良の里の庭の山斎の松に玉飾りをつける、すなわち、島流しにあっている罪人に恩赦を与える立派な人でありたいものだというその人は、韓衣を着慣れているという、その奈良の里の庭の山斎の松に玉飾りをつける、すなわち、島流しにあっている罪人に恩赦を与える立派な人でありたいものだというその人は、韓衣を着慣れているという、その奈良の里の庭の山斎の松に玉飾りをつける、すなわち、島流しにあっている罪人に恩赦を与える立派な人でありたいものだというその人は、韓衣を……という歌である。



 いもも吾も きよみの河の 河岸かはぎしの 妹がゆべき 心は持たじ〔妹毛吾毛清之河乃河岸之妹我可悔心者不持〕(万437)

 この歌は難解な歌とされている。万葉集には左注まで付いていて、当時からわからないものであったようである。題詞とともに示す。

 和銅四年辛亥、河辺宮人かはへのみやびとの姫嶋の松原に美人をとめかばねを見て、哀慟かなしびて作る歌四首〔和銅四年辛亥河邊宮人見姫嶋松原美人屍哀慟作歌四首〕(万434番歌の前)
 右は案ふるに、年紀としと所処、また娘子をとめの屍の歌を作れる人の名は已に上に見えたり。 但し歌のことば相違ひ、是非き難し。因りてかさねてつぎてに載す。〔右案年紀并所處及娘子屍作歌人名已見上也但謌辞相違是非難別因以累載於茲次焉〕

 歌の内容だけを捉えるなら、意味に通じないところはない。カップルがいて、彼女のほうが何かしら後悔して自死してしまった。川岸の堤防の「ゆ」と掛けて「悔ゆ」と歌っている。しかし、二人とも、何らやましいところはないはずである。誹謗中傷があったと訴えている歌である。無実なのだから「清の河」で晴らそうというわけである。そうなったとき、題詞の姫島の松原と関係がないではないか、また、女性の死体を見て無関係なはずの歌の作者が「妹も吾も」という言い方をするのは変ではないか、というのが左注の見解である。
 意味が通じるのに実状がよくわからない。けれども歌われていて記録に残っている。今日の我々および万葉集を編纂した人には不明でも、それ以前に現場で歌を歌った人やそれを直接聞いた人にはわかるものであったということであり、典故があったと考えられる。歌が歌われた場では常識として共有されていた。「妹」が亡くなったのは「清の河の河岸」である。そのような話は雄略紀に伝えられている。当時知られていた逸話を下敷きにして、万437番歌は歌われている。作歌者は廬城部連武彦いほきべのむらじたけひこの立場で歌っている。

 三年夏四月、阿閉臣国見あへのおみくにみまたの名は磯特牛しことひ栲幡皇女たくはたのひめみこ湯人ゆゑ廬城部連武彦いほきべのむらじたけひことをしこぢて曰く、「武彦、皇女をけがして任身はらましめけり」といふ。湯人、ここには臾衛ゆゑと云ふ。武彦の父枳莒喩きこゆ、此の流言つてことを聞きて、わざはひの身に及ばむことを恐る。武彦を廬城河いほきのかはあとたしみて、あざむきて使鸕鷀没水捕魚うかはするまねして、因りて其不意ゆくりなくして打ち殺しつ。天皇、聞こしめして使者つかひを遣して皇女をかむがへ問はしめたまふ。皇女対へてまをさく、「やつこらず」とまをす。にはかにして皇女、神鏡あやしきかがみり持ちて、五十鈴河いすずのかはほとりでまして、人のありかぬときをうかがひて、鏡を埋みてわなき死ぬ。天皇、皇女の不在なきことを疑ひたまひて、恒に闇夜やみのよ東西とさまかうさま求覓ぎしめたまふ。乃ち河上かはのほとりぬじの見ゆることをろちの如くして四五丈よつゑいつつゑばかりなり。虹のてる処を掘りて神鏡を移行未遠たちどころにして皇女のかばねを得たり。割きて観れば腹中はらのなかに物有りて水の如し。水の中に石有り。枳莒喩、これに因りて、子の罪をきよむること得たり。還りて子を殺せることを悔いて、たむかひに国見を殺さむとす。石上神宮いそのかみのかむのみやに逃げかくれぬ。(雄略紀三年四月)

 「五十鈴河のほとり」とあるのが、歌にある「清の河の河岸」である。歌ったのが「河辺宮人」だったから河の話にしている。栲幡皇女とその使用人、すなわち「宮人」である「湯人ゆゑ」とが讒言されているから、由縁ゆゑ有る歌を歌っている。登場人物が歌の枠組みをフレーミングしている。二重の序の循環構造になぞらえて、歌詠の前提に据えている。異なるカテゴリー錯誤を自ら楽しんでしている。

 妹も吾も きよみの河の 河岸の 妹がゆべき 心は持たじ〔妹毛吾毛清之河乃河岸之妹我可悔心者不持〕(万437)
 お前も私も清廉潔白なのだから、それを示すきよみの川の川岸が、えるようにお前が悔いるような心は持つまいよ、お前も私も清廉潔白なのだから、それを示す清の川の川岸が、崩えるようにお前が悔いるような心は持つまいよ、お前も私も清廉潔白なのだから、それを示す清の川の川岸が、崩えるようにお前が悔いるような心は持つまいよ、お前も私も……という歌である。



 いもが髪 上竹あげたか葉野はのの はなち駒 あらびにけらし 逢はなく思へば〔妹之髪上小竹葉野之放駒蕩去家良思不合思者〕(万2652)

 この歌は訓に問題がある。「小竹」とあるのをタケ、タカと訓み、髪をたくしあげることと考えようとしている。また、「放駒」をハナチゴマと訓み、放牧しているもののように解している。そして、「蕩」字をアラブ(荒)と訓んで、放牧している馬の性格が荒れていると解している。
 しかし、万葉集に「小竹」はシノ(篠)と訓まれることがほとんどである(注8)。「蕩」は集中に他に万2041番歌にしか見えず、また、トラクと訓むことがある。散り散りになるという意である。

 秋風の 吹きただよはす 白雲しらくもは 織女たなばたつめの あま領布ひれかも〔秋風吹漂蕩白雲者織女之天津領巾毳〕(万2041)
 ……能く諷歌そへうた倒語さかしまごとを以て、妖気わざはひはらとらかせり。(神武紀元年正月)
 仳 疋視反、平、別也、分也、醜面也、和加留わかる、又止良久とらく(新撰字鏡)

 「放駒」は、柵を越え出て野生化してしまった野良馬のことと捉えてわかりやすい。そして、コマ(駒)は仔馬こうまの約とされる語であるから、「いも」とあるのも sister の意の幼い「いも」を指した可能性が高い。「妹」と呼ぶことがあったような人が自分のところから離れて、自分の意のままにはならない年齢に長じたという意である。すると、「髪上」とある「髪上げ」は、「放駒」と関係があると気づく。

 未通女をとめらが はなりの髪を〔放髪乎〕 木綿ゆふの山 雲なたなびき 家のあたり見む(万1244)
 たちばなの 古婆こばはなりが〔古婆乃波奈里我〕 思ふなむ 心うつくし いでわれかな(万3496)
 大君の みことかしこみ うつくしけ 真子まこが手はなり〔麻古我氐波奈利〕 島づたく(万4414)
 はなに〔波奈礼蘇尓〕 立てるむろの木 うたがたも 久しき時を 過ぎにけるかも(万3600)
 畳薦たたみけめ 牟良自むらじが磯の はなの〔波奈利蘇乃〕 母を離れて 行くが悲しき(万4338)

 「はなりの髪」とは、髪を切らずに伸ばしながら結うことなく左右に振り分けにした髪のことである。おおよそ八歳から十五、六歳までの少女がそのようにしていたから、その頃の年齢の少女のこともそのように呼ぶ。時代別国語大辞典に、「女児は二、三歳ごろは髪の末を切り、成長すれば頭上で両方へかき分けて垂れ、肩のあたりで切り揃える。「年の八歳をきり髪の」(万三三〇七・万三三〇九)とあるから、八歳ぐらいまではこれであろう。このころから髪を切らず、一五、六歳ごろまでのばす。この髪型をハナリノ髪と言い、このころの女性を童女ウナヰと言う。……既婚の女性は結髪していた。」(587頁)とある。下二段活用の「はな(離)る」には、あるいは上代東国方言ともされるが四段活用の形があった。また、「離り磯」、「離れ磯」の両様があった。ならば、野生化してしまった馬のことを、「放れ駒」、「放り駒」の両様で呼んでいたとしても不思議ではない。これは、柵のなかで放牧させたり、儀式の際に一時的に「放ち駒」としたものとは異なる。冬を迎えたり儀式が終われば再び厩舎に呼び戻されればおとなしくしている。
左:見物に座る少女たち(左から切下髪、衣かづき、放りが3人。石山寺縁起模本、狩野晏川・山名義海模、明治時代、原本は明応6年(1497年)、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://image.tnm.jp/image/1024/E0055259.jpgをトリミング)、右:「磐城國野馬捕之圖」(三代歌川広重画、大日本物産図会、The Lavenberg Collection of Japanese Prints(http://www.myjapanesehanga.com/home/artists/utagawa-hiroshige-iii-1842-1894/wild-horse-roundup-from-series-product-of-japan))
 「小竹」はシノ(ノは乙類)と訓み、シノフ(偲、ノは乙類)と掛けている。「偲ふ」には、①慕う、思いをはせる意と、②賞美するという意がある。切下髪の、前髪をぱっつんにしたおかっぱ頭は「禿かぶろ」とも親しみをもって呼ばれていた。そんな幼い妹の前髪をあげてかわいいねと賞美していた頃と違い、八歳を過ぎて髪を伸ばしにかかり、髪同様に気持ちも御せなくなってしまって思い偲ぶばかりだという歌である。万葉集中に、「思」字をシノフと訓む例は10例以上ある。同時に「小竹」をシノと訓んでいる例をあげておく。

 朝柏あさかしは 閏八河辺うるやかはへの しのの芽の しのひてれば いめに見えけり〔朝柏閏八河邊之小竹之笶思而宿者夢所見来〕(万2754)(注9)

 いもが髪 上竹あげたか葉野はのの はなち駒 とらきにけらし 逢はなくしのへば〔妹之髪上小竹葉野之放駒蕩去家良思不合思者〕(万2652)
 妹の髪をあげて賞美することをいう偲ぶことを意味するであろう上竹あげたか葉野はのという名の野に、柵を越えて放れてしまった仔馬は、髪が散るように心も自分のところからは散ってしまったらしく、全然逢うこともなくただ慕い偲ぶ、その妹の髪をあげて賞美することをいう偲ぶことを意味するであろう上竹葉野という名の野に、柵を越えて放れてしまった仔馬は、髪が散るように心も自分のところからは散ってしまったらしく、全然逢うこともなくただ慕い偲ぶ、その妹の髪をあげて賞美することをいう偲ぶことを意味するであろう上竹葉野という名の野に、柵を越えて放れてしまった仔馬は、髪が散るように心も自分のところからは散ってしまったらしく、全然逢うこともなくただ慕い偲ぶ、その妹の髪をあげて……という歌である。
 妹の髪の毛を上げてかわいいねと賞美することと、妹がもはや自分になつかずに身近におらずに思いをはせるばかりであることを、同じ「偲ふ」という一語に圧縮している。それを上小竹葉野という地名の意と解して二重の序に丸め込んでいる。それらをつなぐキーとして、「放り」という語を使って馬と髪の「蕩」化を掛けている。思春期にさしかかる妹が兄のもとから遠ざかって行っていることを歌った歌である。



 以上、万葉集に二重の序と呼ばれる序歌形式について検討した。二重の序とは歌の循環を促す修辞法であり、それにより声が木霊こだまするような歌となっている。主意はあるにはあるが、それよりも修辞自体のほうに関心が向いており、言語遊戯の巧みなものとして評価されるべきである(注10)。あまり馴染みのない地名が歌中に現れ、聞く人は何か訳があるだろうと聞き分けるよう努めた。結果、掛詞として機能しているとわかっている。
 万葉集の二重の序の歌は、それが語呂合わせの洒落の数珠つながりであるばかりか、循環的に歌われることが可能であることを前提として知っているから興趣あるものと理解されたようである。二重の序が施された歌の主意は、取り立てて問題とはされないようである。その時、歌は歌(歌唱)、歌われているその場限りの口承文芸(注11)である。掛詞にあらわれる地名は、その場所が有意味なのではなく、その言葉の音に活用されているだけである。例えば、近江の野洲の河に、待ち合わせ場所として休憩用のホテルが建っていたりはしない。現実が問題なのではなく、歌われる声に興味があった。のど自慢大喜利大会とでも譬えればわかりやすいか。無文字時代の音声言語芸術には裏返されたアウラがあった。

(注)
(注1)井手1975.276~279頁には、縦書きの左右に傍線を引いて解説している。歌の番号などの一部の乱れは正した。
a       (欲り)     c 
妹が目を見まく江のさざれ波頻きて恋ひつつありと告げこそ(巻十二・万三〇二四)
        b
a   (穢)        c
恋衣着奈良の山に鳴く鳥の間無く時無し吾が恋ふらくは(巻十二・三〇八八)
    b
a     (振る)     c
娘子らが袖布留山の瑞垣の久しき時ゆ思ひき我れは(巻四・五〇一)
      b
a    (清み)     c  (壊ゆ)
妹も我れもの川の川岸の妹が悔ゆべき心は持たじ(巻三・四三七)
      b
a    (たか)     c
妹が髪上げ葉野の放ち駒蕩びにけらし逢はなく思へば(巻十一・万二六五二)
      b
a   (逢ふ)     c
我妹子に坂山のはだ薄には咲き出ず恋ひ渡るかも(巻十・二二八三)
     b
 
a の衣解き洗ひ真土又打ち、、、 cもとつ、、、山にはなほ如かずけり(巻十二・三〇〇九)
        b

a ひ衣鳥飼(取り替ひ)川の川 cまむ心思ひかねつも(巻十二・三〇一九)
    b
a      (降る)     c
とのぐもり雨布留川のさざれ波間無くも君は思ほゆるかも(巻十二・三〇一二)
       b
 この図解は、かなりわかりやすいものである。しかし、この井手1975.論文は、井手2006.に収録されているが、二重の序部分は割愛されている。説明不足でおさまりが悪いと考えられたかと推察する。なお、「主意」という言葉は「主想表現」に改められている。
(注2)以下に、人麻呂作歌の万501番歌と人麻呂歌集歌の万2415番歌を例に述べた。万2415番歌は口承の歌を人麻呂が採譜したもの、万501番歌はそれを下敷きにして人麻呂が作ったものと考える。
(注3)歌に固有名詞が出てきて、同音ゆえに掛詞となっている歌について、さてそれが何を謂わんとしているのか真向から相手するのは大変である。その地で歌われたものなのか、それともその地にゆかりがある人が歌ったものなのか、語呂合わせでただ登場している地名なのか、判断のしようがない。地名なのかどうかさえ定めきれない語も多数ある。それを一律に「地名」として捉えるのには無理がある。さらにまた、口承的な歌と文字に書いて作った歌とに分けて論じることに交えて考えるにしても、その両者の間には無文字文化と文字文化の違いが横たわっていることを念頭に置かなければならない。万葉集研究の枠、文学研究の枠、さらには言語研究の枠さえも超えて行かなければ理解できるものではない。ましてや、それは別世界、異次元の事柄なのだから、進歩や進化と捉えることは誤りである。
 白井2005.は、「序詞と本旨とが明らかな同音異義の懸詞によって接続する例を検してみると、地名を導く例を除けば、わずかに……[万2407・3663・2347・2643・2722・1539・2766・2990番歌]などを挙げうるに過ぎない。」(282頁)とし、その少なさから「一般的なありようではなかったことを物語っていよう。……『萬葉集』の序歌は、表象性を喚起するような例をひとつの極としつつも、あくまで音と意味を主たる契機として、景物の事象(序詞)を、それと有縁的な人事(本旨)に関連付けてゆくことを本来とする修辞であったと言ってよいのではなかろうか。」(283頁)としている。本稿では、二重の序の修辞は堂々巡りの言語遊戯であるとみている。掛詞から地名を除いて序歌全体のあり様を議論するのはかなり乱暴ではあるが、当たり障りのない結論であるともいえる。 
 反対に、二重の序に普通名詞を掛けたケースがあるかが問われよう。演繹的に考えれば、ないように思われる。歌は歌われるものであった。それが言葉遊びなのだと聞き手が理解し、歌が互いに共有されなければならない。遊戯性の担保のためにも、限定性を示す固有名詞の地名が出てくることが求められたのではないか。それにより、歌の主意(本旨)が宙ぶらりん状態になって、恋をしたとき恋心を一時いっとき、一心に訴える歌としては必ずしもふさわしいものではなくなっており、常態として思い続けているという歌に多く採用されている。伊藤1976.は、二重の序の説明において、要となる掛詞部分が普通名詞である例も含めているが、井手氏の指摘にあるような、抒情序+叙景序+主意の連続的連結と、最初の抒情序と主意とのそこはかとない連携を示しているとはいえない。伊藤1976.に指摘されている2例を示す。

 春去れば まづ三枝さきくさの さきくあらば のちにも逢はむ な恋ひそ吾妹わぎも〔春去先三枝幸命在後相莫戀吾妹〕(万1895)
 春になるといつもまっさきに咲く、その三枝というではないが、達者でいたら、将来、ナニハサテオイテモマッサキニ逢おうぞ、だから、そんなに恋い焦れるな。(伊藤1976.7頁の訳)

 この拡大解釈は論理矛盾を引き起こしている。「後にも逢はむ」を「まづさき」の意と絡めてしまうと、その季節は「春」のことなのかという疑念が生じる。四句目の「後にも逢はむ」に掛詞の掛かりが見られず、同形反復や同語反復も見受けられない。三句目までで説き起こしておいて、四・五句目を対置的に承け、時間的な先後、サキ←→ノチの対比によった言い回しと解される。歌の上の方でごちゃごちゃ掛かりながら言っていることに対して、主意のほうからすり寄ることはない。すなわち、形式主意ではない。なお、この歌を二重の序とする捉え方には、稲岡2011.も与しているが、その際には訓み方も変えている。拙稿「万1895の「幸命在」の訓─垂仁記の沙本毘売命と天皇との問答における「命」字を参照しながら─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/cd1b64fa70fc7036abab224f174094c8参照。

 もののふの 八十やそ氏川うぢがはの 早き瀬に 立ち得ぬ恋も 吾はするかも〔物部乃八十氏川之急瀬立不得戀毛吾為鴨〕(万2714)

 この歌に対して、伊藤1976.は、「「早き瀬に」までは、「立ち得ぬ」(耐えてゆくことのできない)を起こす譬喩の序で、その中の「もののふの八十」は、「氏」と「宇治」とを掛けた序とされている。とすれば、これも二重の序である」とし、「この作者が「もののふの八十氏」の一族であったかどうかは、今知るよしもなく、また考える必要もない。」(9頁)とする。しかし、「もののふの」は枕詞である。「もののふの八十氏」の全体が抒情序になっていると言えるものではない。主意に対して起こしの序として、そこはかとなく意味的に関連しているとは言えない。集中には他にも「もののふの八十宇治川」という慣用表現が行われており、この歌を二重の序の範疇に整理することはできない。
(注4)奈良時代までに見られる助詞「ゆ」について、「久しき時ゆ」はふつう、「久しい時から」と訳されている。久しい時の間じゅう、久しい時の間を通して、とした例に、武田1956.同1957.がある。
(注5)慣用表現の「予め兼ねて」によって「兼ぬ」という語の真意が知れる点については、拙稿「万葉集における洗濯の歌について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/c5d4d5de2d83a06f6cbdde7f9bd3712aを参照されたい。
(注6)「並立」はそれぞれの場所で並び立っているだけなのに対して、「並列」は電気の回路図のようにめぐって還ることを指して言っている。
(注7)拙稿「神亀五年の難波行幸歌」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/cb97f2b2556ac1998030a4b1331c9829参照。
(注8)「小竹」を植物のシノと訓む例に万1349・1350・1830・2754番歌、「しのふ」の当て字に使う例に万1786番歌、地名に当てる例に万1802・2774・3327番歌、副詞シノニ・シノノニに当てる例に万1977・3255・3993番歌がある。また、「小竹」を植物のササと訓む例に、万133・2336・2337番歌がある。タケ・タカと訓む例はない。
(注9)この歌が二重の序に当たるか、筆者にはよくわからない。
(注10)歌は、作った人の歌う歌である限りにおいて、本来的に主意を述べることを目的としている。修辞に偏重して主意をなおざりにすることは、何のために歌っているのかわからなくなって本末転倒である。といって修辞がなければ、言葉に妙味がなく、知恵ある人にとっては稚拙さに耐えられない。どうにかしてうまく表せないかといろいろ試行錯誤した。結果、二重の序のような、修辞にばかりとらわれて主意が二の次になっているかに思える歌が、歌声ばかりを聞かせるための歌として、それはそれで一つの到達点となっている。他方、主意を述べることと修辞を具えることとを両立させるために、言い回しの精髄として生まれたのが枕詞である。枕詞も序の一種であるが、多義を四、五音にまとめ切ってもとの意味を忘却するに至っている。短歌の音数を占領してしまうような二重の序よりも使い勝手が良かったから、たくさんの枕詞が用いられたのだと言えよう。その言語感覚は、無文字言語であったことが根本にある。無文字時代の言語活動の到達点が、枕詞や二重の序であったと考える。白井2005.参照。
(注11)口承文芸という概念は、時としていわゆる神話と親和性を持っている。しかし、ここで見てきた二重の序の施された歌にそのような性格を窺うことはできない。伝えられることを期待されていなかった一回性の歌謡技術練習回答、歌唱能力検定回答が、たまたま記述されて残っているとさえ感じられる。反復されないのに反復を内在する自己循環、自己問答する歌となっている。歌うことを自己目的化し、それを完遂して無色透明化するに至っている。歌の内容は括弧に入れられ、入れられているという気配を漂わせる工夫が見られている。言語遊戯に極まって自己満足しており、いわゆる文芸の地平は崩れている。文芸の概念から逸脱しているとも言えるだろう。そもそも無文字時代に文字はない。文のない文芸とは自己矛盾である。文芸の概念は転回されなければならない。

(引用・参考文献)
井手1975. 井手至「万葉集文学語の性格」五味智英・小島憲之編『萬葉集研究 第四集』塙書房、昭和50年。
井手2006. 井手至『遊文録 萬葉篇二─井手至論文集─』和泉書院、2006年。
伊藤1976. 伊藤博『萬葉集の表現と方法 下 古代和歌史研究6』塙書房、昭和51年。
稲岡2001. 稲岡耕二『人麻呂の工房』塙書房、2011年。
稲岡2006. 稲岡耕二『和歌文学大系3 萬葉集(三)』明治書院、平成18年。
岸1978. 岸俊男「万葉集と遺跡─〝嶋〟を事例に─」『國文學 解釈と教材の研究』第23巻5号、學燈社、昭和53年4月。
岸1979. 岸俊男「〝嶋〟雑考」『橿原考古学研究所論集 第五』吉川弘文館、昭和54年。
近藤2017. 近藤健史『万葉歌の環境と発想』翰林書房、2017年。
佐竹2000. 佐竹昭広『萬葉集抜書』岩波書店(岩波現代文庫)、2000年。(『万葉集抜書』岩波書店、1980年。)
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
白井2005. 白井伊津子『古代和歌における修辞─枕詞・序詞攷─』塙書房、2005年。(「序歌の意味と形式」『萬葉』第181号、平成14年7月。萬葉学会ホームページhttps://manyoug.jp/memoir/2002、「『萬葉集』歌における枕詞・序詞と懸詞─『古今和歌集』へ─」『文藝言語研究 文藝篇』第47号、2005年。つくばリポジトリhttp://hdl.handle.net/2241/9887)
白井2019. 白井伊津子「修辞と表記─序歌における懸詞のあり方から─」『仮名文字─万葉仮名と平仮名─第14回若手研究者支援プログラム報告集』奈良女子大学古代学・聖地学研究センター、2019年。奈良女子大学学術情報センターhttp://hdl.handle.net/10935/5345
武田1956. 武田祐吉『増訂 萬葉集全註釈 八』角川書店、昭和31年。
武田1957. 武田祐吉『増訂 萬葉集全註釈 五』角川書店、昭和32年。

※本稿は、2019年12月の旧稿の誤り(万952番歌部分)を正し、2023年10月にルビ化したものである。

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