(承前)
新撰字鏡に、「蚊 亡云反、口夫止(くちぶと)」、「蟁𧓹 同、亡眠反、蚋に似て稍火也、久知夫止我(くちぶとが)」、名義抄に、「蚊 クチブト」とある。このクチブトなる語については、二つの謂れがあったらしいことが考えられる。第一に、語義未詳ながら、鳥類のカラスのハシブトガラスとの関連が類推されている。金光明最勝王経音義に、「蚊 文音、加阿(かあ)」とあり、現在の関西方言に同じく、カーと長く発音するものであったらしい。カラスの鳴き声もカーである。カラスがカーと鳴いてその口から蚊が出てくると頭のなかで仮定してみると、その煩わしさ、嫌ったらしさは連想が効いていて理解されやすい。つまり、カガナベテを蚊が隠れることを意味するなら、それはカラスの口に隠れたことを表すことになる。カラスは黒い。ウバタマノ(烏羽玉の)という枕詞は、「夜」に掛かる。したがって、カガナベテという枕詞は、夜(よ・よる、ヨは甲類)と密接な関係にある。
第二に、クチブトと言われれば、口の太い状態を指すものと思われる。口を大きく開けるならばオオグチであろうから、口の部分の分厚さを示すものであろう。それが器物であれば、容器の口部の縁が太く作られているということである。すなわち、碗ではなく壺である。動物の器官でなら唇である。金光明最勝王経音義に、「脣 又◇(脤の左右反対)に作る 信音、久知比留(くちびる)」、和名抄に、「説文に云はく、脣吻〈上音旬、久知比留(くちびる)、下音粉、久知佐岐良(くちさきら)〉といふ。」とある。唇は、口の縁の部分が血を吸った蛭(ひる、ヒの甲乙不明)のように膨らんだ状態を表した言葉である。ヒルは蛭類に属する環形動物の総称で、体長は3~10㎝ほど、体は筒状ないし扁平で、3~4個の体節から成り、伸び縮みする。体の前後に吸盤があり、前の吸盤の底に口があって血を吸う。池や沼、水田などの淡水にいるチスイビル、ウマビルばかりか、海水に住むウオビル、ウミエラビル、陸上の草陰などにもヤマビルといった種類がいる。このうち、チスイビルがヒルの代表格である。人間にとって直接の害虫ゆえ、関心が高まる。ヒルという生き物は、彼らの唇という器官を使って吸血し、人の唇のような分厚い体型になる。名前が自己言及的な語となっており、古代の人に特有の賢明さに気づかされる。
ヒルの吸血性を利用し、腫物などの瀉血療法に用いられたことは、上述の正倉院文書、大友路万呂請暇解に見えるとおりである。つまり、クチブトという言葉は、蛭治療の休暇と関連する言葉ということになる。また、同音の蒜(ひる、ヒは甲類)については、記では筑波問答の直前に、アヅマの地名譚として出てきていた。足柄の坂本の坂の神が白鹿となって襲いかかって来そうになったとき、食い残した蒜の片端でその目に命中させたというのである。目(ま)に中(あ)てたからアヅマといったという説話である。
ノビル
もとより、このアヅマの地名譚の真偽を問うには及ばない。話(咄・噺・譚)だからである。重要なのは、鹿を退治するために、矢の代りになるような刈株の植物種として蒜が用いられている点である。新治との関連で見た墾道の歌(万3399)にも刈株があった。鹿退治の話になっているのは、蚊火と鹿火との同一性によっている。鹿火によって出る煙とは、弓矢の矢に相当する。それを叶えたのである。よって、「秉燭人」に「敦賞。」しただけでなく、「以二靫部一賜二大伴連之遠祖武日一也。」(景行紀)ことになっている。矢を入れる靫という武具が取り沙汰された由縁である。行軍を叶えるに功があったから、「行き(ゆき、キは甲類)」という言葉との洒落から「靫(ゆき、キは甲類)」が持ち出されている。自然な流れの追加記事である。
わざわざヒル(蒜)という植物を持ち出している。ノビルは、5~6月に茎の先に小さな散形花序をつけるが、花には紫色の零余子(むかご)をつける。ムカゴとは、植物の腋芽で栄養が貯蔵されて球状に膨らんだものをいう。成熟すると落ちて、そこから発芽し繁殖する。珠芽、肉芽、仔芽などとも書く。すなわち、鹿の目に蒜の片端を中てたというのは、ムカゴを目に向けたこと、芽をもって目を制したということである。同音の蛭に掛けているとすれば、縁語のネットワークから、蚊はクチブトと呼ぶにふさわしいと想定できる。そこから、カガナベテという枕詞は、同音の昼(ひ・ひる、ヒは甲類)と密接な関係になる。ヤブカ(豹脚)は、昼夜の別なく現れて悩まされる。以上から、記紀それぞれ26番歌謡に、「カガナベテ ヨニハ…… ヒニハ……」という言葉の連なりが生れていると理解される。
ヒルについて関連する事項としては、ヒルコがある。記紀の国生みの説話のなかで、いわゆる生みそこないとしてあらわれている。
くみどに興して生みし子は、水蛭子(ひるこ)。此の子は、葦船に入れて流し去りき。次に、淡島を生みき。是も亦、子の例(つら)には入れず。(記上)
遂に為夫婦(みとのまぐはひ)して、先ず蛭児(ひるこ)を生む。便ち葦の船に載せて流(なが)す。次に淡洲(あはしま)を生む。此も亦児の数に充(い)れず。(神代紀第四段一書第一)
次に蛭児を生む。已に三歳(みとせ)になるまで、脚猶し立たず。故、天磐櫲樟船(あまのいはくすぶね)に載せて、風の順(まにま)に放ち棄つ。(神代紀第五段本文)
国生みの説話は、伊奘諾尊(伊耶那岐命)(いざなきのみこと)と伊奘冉尊(伊耶那美命)(いざなみのみこと)が「国土(くに)を生み成さむ」(記)、「洲国(くにつち)を産生(う)まむとする」(神代紀第四段本文)ときの話である。導入部では、二神が「底下(そこつした)に豈国無けむや」(紀本文)、「吾、国を得む」(一書第二)、「当に国有らむや」(同第三)、「其[浮膏(うかべるあぶら)]の中に蓋し国有らむや」(同第四)と言っている。生みたいのは国、国土、地面である。それも「塩こをろこをろに描(か)き鳴す」(記)海のなかの話である。本邦においての大陸たるクニ、島嶼であるシマに満たないものとして、ヒルコ(「水蛭子」・「蛭児」)やアハシマ(「淡島」・「淡洲」)が表現されている。確かならざる地面である。数に入れないと断っているのは、数え唄にならないということを意味しよう。地面がぬかるんでいたら、数え唄を唱えながら遊ぶ羽根突きはできない。
記紀の話は、アシ(脚)が立たないからアシ(葦)の船に載せたという洒落であろう。歩けずに、また、国生みで失敗しているとすれば、浅瀬ぐらいのところということである。浅瀬に砂が堆積し、水面上にわずかに現れたり消えたりするところである。洲(す)と呼ばれる。万葉集に「渚」・「洲」の用字がある。三角洲になる洲には、当初葦が生えているが、川や湾の水の流れによって姿形や場所を変えていく。脚が立たないから葦船に載せて移動させるとの洒落は、次第に海水に浸り、深度が増して葦が枯れて倒れ流れたり、塩分濃度が増して葦が育たなくなったということも含意しているものと思われる。転変を繰り返す地形である。そして、砂泥が目立つことに注目した語に、「沙土(すひぢ)」という語がある。ス(砂・沙)+ヒヂ(泥)の意で、「沙土煑尊(すひぢにのみこと)。沙土、此には須毗尼(すひぢ)と云ふ。亦……沙土根尊(すひぢねのみこと)と曰す。」(神代紀第二段本文)とあり、記の、「須比智邇神(すひちにのかみ)」に該当する。「吸血(すひち)」ときわめてよく似た語である。スイチヒルは沙泥(すひぢ)に生息していると知れる。
なかなか国土として固まらない浅瀬は、エビ(海老)が巣(す)を作るところである。巣が洲に作られているのだから、正真正銘のスである。巣という字は、説文に、「巢 鳥の木上に在るを巢と曰ひ、穴に在るを窠と曰ふ。木に从ひ、象形。凡そ巢の属、皆巢に从ふ」とある。和名抄にも、「巢 孫愐曰く、鳥の巣の穴に在るを窠と曰ひ、樹に在るを巣〈音曹、訓須(す)、一に須久布(すくふ)と云ふ〉と曰ふといふ。」とある。巢の字の頭の巛は、雛の頭の毛の逆立った形とされる。また、説文に、「川 貫穿して通流する水也。虞書に曰く、𡿨巜を濬(さら)へて川に距(いた)るといふ。言の深きこと、𡿨巜の水会ひて川と為る也。凡そ川の属、皆川に从ふ」とある。つまり、巛という形において、巣(巢)でもあり、川(巛)でもあるものといえば、エビの巣のこと、夷(えびす)ということになる。確かに、東北地方は、なかなかヤマト朝廷に編入されない夷狄であり、行政区分の「国」とならなかった地方である。そして、甲殻類のエビは過剰なほどたくさんの脚を持つ。記紀の脚と葦の話を彷彿とさせる。作ってはいずれ崩れてしまう、産卵のためだけにあるのがエビの巣である。前にある脚を使い、砂粒を持ち上げては巣穴を拵えていく。穴の底から砂を運んで周りに積み上げていっている(注3)。
「海遊館で巣作りするエビ」(mnaka様、https://www.youtube.com/watch?v=k4t3ehwbjPM)
鳥の巣も雛が孵って巣立ったら放置される。しかし、完全に倒壊しなければ、あるいは別の個体が補修して再利用し、再度抱卵のために棲むことがあって、古巣に戻るように感じられている。エビの巣の場合はそうはいかず、いずれ流されてしまうし、積み上げた砂が水面上に出ることもない。クニにもシマにもならないから、国生みとしては失敗ということになる。そのうえ、鯛を釣るための餌にするエビは、陸上で歩くことができない。腰が曲がり、長いひげを持っており、長寿を表すものとされた。早くから「海老」という字で表された。和名抄に、「鰕 七巻食経に云はく、鰕〈音遐、衣比(えび)、俗に海老二字を用ゐる〉は味甘平にして毒無き者也といふ。」、延喜式・主計式に、「海老一升」とある。主役が「御火焼之老人」(記)と翁に設定されていた話に符合する。
倭建命(日本武尊)の一行が縦断してきた関東・東北地方とは、夷の地である。足が萎えてしまい、足が棒になり、歩けなくなっている。蹇(あしなへ)である。新撰字鏡に、「癖 疋亦反、入、腹内癖病也、足奈戸(あしなへ)也」、和名抄に、「蹇 説文に云はく、蹇〈音は犬、訓阿之奈閇(あしなへ)、此の間に那閇久(なへく)と云ふ。〉は行くこと正しからざる也といふ。」とある。霊異記・下二十に、「蹇(あしなへ)」とある。その箇所は・譬喩品第三の偈に当たる。談山神社蔵法華経院政期点に、「斯ノ経ヲ謗セムガ故ニ罪ヲ獲ムコト是ノ如シ。若シ人ト為ルコト得テハ、諸根暗鈍ナラム。矬ヒキニ陋カタナク𤼣テナヘ蹇アシナヘニシテ盲メシヒ聾ミミシヒ背セナカ傴カカマル ククセナラム」とある。
言い伝えにいう蹇の状態の最初は、国生みの話にある「水蛭子(ひるこ)」(記)、「蛭児(ひるこ)」(紀)である。洲=巣にいるのはヒルの子のはずだからヒルコというわけである。その蛭子命(ひるこのみこと)が祭神となっているのは、西宮が本家とされる戎(えびす)神社である。倭建命(日本武尊)の一行は、アヅマハヤと歎いた地を経巡って帰って来た。東から帰り、西に来た。酒折宮は、相対的に「西宮」ということになる。えびす神社の年中行事として最大のお祭りは、十日戎である。一月十日に商売繁盛を願って参拝する。前日の九日の夜は、御狩神事が行われる(注4)。すなわち、かがなべて、夜には九夜、日には十日を、の文言は、えびす神社の祭礼のことを含み物語っている。または、この歌に啓発されて西宮神社の祭礼日程が決まっている。
十日戎には、「商売繁昌笹持って来い」と唱えられる。笹に小宝を吊るしたものが縁起物として貴ばれる。守貞漫稿・春時に、大阪の今宮神社の十日戎の祭礼の様子が活写されている。
古き小唄に、「十日ゑびすの売物ははぜ袋に取鉢銭叺小判に金箱立烏帽子湯出蓮才槌束ね熨斗笹をかたげて◆(行の字のなかに鳥)足」。はぜぶくろ、ぜにがます、たばねのし等真物に非ず。摸物を云也。小宝の中に加レ之也。ゆでばすと云は蓮根を水煮にしたるを云。蓮根は蓮藕也。野外に売レ之。其詞に、「のばすのばす」と云。金銀を殖すを俗にかねを延すと云。野蓮と延すと和訓近きを以て吉兆とする也。
小宝の図 小宝と云は小判一分判丁銀等銅鉛及び土を以て摸二造之一たる米升米俵熨斗鮑銭叺木槌大福帳鎰各一はぜ袋赤紙黄紙等。
竹に准ずれば大形の子宝也
生笹三四尺小宝大小二種あり
……小宝は全家詣と雖ども、各自非レ買レ之なし。一戸一箇を買て神檀に置レ之、昨年の古物を去り代る。小宝価大約二三十文。又小宝と同店に売ず別店に竹枝を売る。此竹枝に小宝を結び付て神棚の上に挟む也。(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412(138/329)、漢字の旧字体は改め、適宜句読点を施した。)
どうして小宝が笹につけられたかについては、和漢三才図会にあったように、酒の匂いのするササ(篠)を以て蚊が集まったことと関係があるのであろう。利(かが)持って来いとの洒落である。吉井1999.に、「吉兆類を下げる笹、「商売繁昌笹もってこい」と景気のよいかけ声のもとに飛ぶように売れる笹は、もともとササすなわち神酒を意味したものではなかったろうか。」(378頁)と指摘がある。酒折宮の話の展開形といえる。
祭神のえびす神の像は、足がなく、ないしは蹇で、鯛を釣りあげた姿である。海老で鯛を釣る、という諺を具現化している。小さなエビを餌にして、美味で珍重されるタイという釣果を得ることから、わずかな元手をもって大きな収穫、収益、すなわち、利(かが)を得ることをいう。めでたいことは、浅瀬でエビの巣を見つけることに始まる。浅瀬のスヒヂ(沙土)に幸せの素がある。スヒチ(吸血)する蛭の、それもまた子が、おめでたい物事の原初である。よってヒルコが神さまなのである。山路1994.に、筑波問答歌は、「神社縁起と全く関係をもたぬもの」(327頁)とあるが、えびす神社の祭神が蛭子神である由来は、記紀の国生み章に既存である。それに輪をかけたのが筑波問答ということになる。そして、えびす神社の御利益は商売繁昌である。商売上の利益は、利(かが)である。西宮にエビスの名がまつわると知れる文献上の記録としては、平安末期の台記(康治元年(1142)正月)や広田社歌合(承安二年(1172))が確例とされているが、上述のとおり、上代からえびす神やえびす信仰は存在していたと考えるのが妥当である。
吉田2013.に、「ヒルコとエビスは異界的な荒々しい異形のものという共通項を有していた。その異形のものを祭ることが豊漁をもたらすという信仰がヒルコとエビスの共通点であったが、その結びつきはこれも難波の対岸の西宮に発している。」、「ヒルコが流れつき祭られた武庫は、向うの意、つまり難波の対岸を指し、ヒルコは難波辺りから流され、対岸の武庫で拾い上げられ、その中の西宮で祭られたというように、中世以降は理解されたということができる。」(262~263頁)とある。向こう側が重要なのではなく、向こうの洲になっているところが肝心なのである。湿性の虫について検討されるべき事柄である。難波宮の海岸は「津」であり、大きな船が停泊するには都合のいい地形である。人がヒルに喰われる心配も少ないが、エビにとっては棲息しにくい。彼岸の西宮は「洲」であった。なぜ西宮という地名が生れたかについて、津国(つのくに(摂津国))の対岸どうしである点が強調されようが、広田社歌合の歌群からは、西方浄土の思想まで含めて考えなければならないと指摘されている(注5)。対して筆者は、飛鳥時代のヤマトコトバそのものを所与のものとして研究対象とし、語源を探るという立場には立たない。無文字文化の上代にそう呼ばれていたから、そういう対比を考えたに違いなかろうという議論をしている。西方浄土云々は後付けである可能性が高い。
西宮神社については、傀儡子(くぐつ)の存在も特徴的である。傀儡子が歴史上いつ頃から活躍していたか不明である。上述の和名抄以降、大江匡房・傀儡子記(1087)に載るが、西宮にまつわるとする記述は見られない。西宮との関連は近世書に下る。
左:夷舞(えびすまひ)(蒔絵師源三郎ほか・人倫訓蒙図彙第七巻、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592445(20/30))、右:傀儡子(菱川師宣画・絵本このころくさ、同http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1118287(4/25))
菱川師宣・このころ草(1682)に、「津国にしのみや(西宮)より出るくわいらいし(傀儡子)といへるは人形箱をうしろにおゐて是も春は他こく(国)へめく(廻)りて家々にて人ぎやう(形)を廻し袖こひをするおさあひ(幼児)つきしと(慕)ふてあれあれしやのしやのころもがき(来)たはとて友をよ(呼)ぶくわいらいし(傀儡子)おとけものにて人形につゝみ(鼓)たいこ(太鼓)をう(打)たせきつね(狐)を出しておどす也」(菊池2006.、46頁、漢字と繰り返し記号を補正した。)とある。カガムとクグムとが音転であることから、西宮神社に付会されているものと想定される。筑波問答「かがなべて」の歌の余韻が響いている。
記紀に、葦船に載せて流し遣ったところとは、国生みによって生まれた本邦の国土の外と想定されたであろう。そこは、エミシ、エビスと呼んでいる。訓として表記されたものとしては、神武前紀に、「愛瀰詩(えみし)」(紀11歌謡)、新撰字鏡に、「蝦夷 衣比須(えびす)」とある。時代を追ってだんだんとエビスとばかり言うようになっていく。倭建命(日本武尊)の東征は、「悉言二‐向荒夫琉蝦夷等一」(記上)、「蝦夷既平、自二日高見国一還之、西南歴二常陸一」(景行紀四十年是歳)とあり、エビスの地を巡ってきたことが明記されている。ヒタチノクニが常陸国と記される所以については別に考える必要があるが、その字面からは、常に陸、すなわち、エビが巣を作るような遠浅の海水面下ではないとの謂いであろう。エビがスを作る夷の地ではなく、クニ(国)なのだということになる。
筑波山のことを、万葉集では、「筑波嶺(つくばね)」(「築羽根」(383)、「筑波根」(1497)、「筑波嶺」(1753・1754・1757・1757・1758・1759題詞)、「筑波祢」(3350・3351・3388・3390・3391・3392・3393)、「都久波尼」(4367)、「都久波祢」(4369))と呼んでいる。また、「小筑波嶺(をづくはねろ・をづくはのねろ)」(「乎豆久波祢呂」(3394)、「乎豆久波乃祢呂」(3395))ともある。ツクバネとは、衝羽根(つくばね)のことで羽根突き、羽子突きをいう。羽子板(胡鬼板)を使い、ムクロジの種に鳥の羽をつけた羽子(胡鬼の子)を突き合った。江戸時代にはお正月の女の子の遊びとされたり、飾り羽子板を作って浅草寺の羽子板市で売られるようになった。上杉本洛中洛外図屏風には、羽根突きをしている様子が描かれている。その起源は、文献では室町時代までしか遡れないとされる。下学集(1444年頃)に、「羽子板〈正月之を用ふ〉」の傍訓に、「ハコイタ」、「コキイタ」の二様が付いており、貞成親王・看聞御記に、「女中近衛・春日以下、男長資・隆富等朝臣以下、こきの子勝負分方、男方勝、女中負態(まけわざ)則ち張行、殿上に於て酒宴深更に及び、……」(永享四年(1433)正月五日)、「……宮御方ヘ球杖三枝、玉五〈色々綵色〉、こき板二〈蒔絵置物、絵等風流〉、こきの子五、進められえし言語道断殊勝、目を驚かし了んぬ、御自愛極み無く、若宮まで入られ思し食し、此の如き物進められし条、殊く喜悦珍重也」(永享六年(1435)正月五日)などとあるのが古い例とされている。
羽子出土品(今小路西遺跡出土、鎌倉歴史交流館展示品)
それでも、万葉集でツクバネという言葉があるから、古くからあったのであろう。そして、カガの音つながりの鏡同様、使い方は同じである。神獣などが描かれている装飾面ではなく、平らに磨かれた何もない面が実用のミラーである。絵、後には押絵の施された側ではなく、反対の何も描かれていない平らな方で羽根を突く。
ムクロジの実(神代植物公園頒布品)
ムクロジの実は、皮がつるんと剥けて黒い種が出てくる。果実の部分にはサポニンが含まれていて泡立つ。シャボンの成分サポニンである。和漢三才図会に、「無患子 ……或は一孔を鑿(ほ)り、小さき羽を植ゑて、小板を以て上は之を鼓(う)ち、則ち頡頏(とびあがりとびさがる)して以て遊戯(たはぶれ)とす。之れを羽子と称す。正月に之を弄(もてあそ)ぶは、鬼見愁の義を取るか。其の子(み)の皮、汁を煎りて衣を洗へば能く垢を去る。又、水に漬けて管を以て吹かば、則ち泡脹れ起り、以て戯と為(す)〈俗に奢盆(しゃぼん)と云ふ〉。……」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162(435/921)、漢字の旧字体は改め、漢文訓読を施した。)とある。ムクロジの実を使う2つの遊び、羽根突きとシャボン玉が記されている。羽根突きが交互に突き合うところが、筑波山の男体山と女体山の二嶺に表象されており、突羽根と筑波根とがしばしば洒落られているのであろう。二つの凸起が特徴である。名義抄に、「凸 ツバクム」とある。ツクバとよく似た音である。その間に凹、クボがある。新撰字鏡に、「凹 容䆘二同、候扶・於洽二反、久保无(くぼむ)」、霊異記・中第五に、「撫凹村(なでくぼのむら)」とある。クボサは利とも書く。利益、利潤のことで、「利(くぼさ)」(推古紀十二年四月・二十年是歳)とある。「利」はえびす神社に見たとおり、カガともいう。凸と凹とがあるから足に利いてくる。平らだったら歩くのに疲れない。
凸凹があって利く道具の筆頭は、古語に、「鋸(のほきり)」である。新撰字鏡に、「鋸 居御反、削刀也、割也、乃保支利(のほきり)」、和名抄に、「鋸 四声字苑に云はく、鋸〈音㨿、能保木利(のほきり)〉は刀に似て歯有る者也といふ。」とある。そのなかでも大きな鋸、大鋸(おが)のことはカガリ(ガガリ)と呼ばれた。新撰字鏡に「鉪 加々利(かがり)」、「★(金偏に然) 加々利(かがり)」とある。ここにもカガなる音があらわれている。観念上の連想として、筑波山という大鋸で切り取られた板は羽子板のことであろう。和漢三才図会の豹脚の項に見たとおり、大鋸屑(おがくず)は蚊遣りに使われた。ただし、渡邉2014.ほか多くの論者は、古代には、建築部材を横挽きにする鋸はあるが、縦挽きのいわゆるカガリは見られないとしている。わずかに、吉川1976.において、古代にも縦挽きの鋸は存在したとする。そうでなければ、正倉院の赤漆文欟本厨子のケヤキの一枚板など、到底、楔割りでは板に成らず、ましてや玉杢部分などは得られないとしている。筆者は、言葉の成り立つ行程に思いを致すとき、利く鋸という意味でカガ(利)+ガリガリ(擬音語)→カガリ(ガガリ)といった展開で形成されたのではないかと推測する(注6)。
鋸(石神遺跡出土品と再現品、江戸東京博物館『発掘された日本列島2014』展示品)
シャボン玉については、喜田川守貞・守貞漫稿・生業下・さぼん玉売の項に、「三都とも夏月専ら売レ之。大坂は特に土神祭祀の日専ら売来る。小児の弄物也。さぼん粉を水に浸し細管を以て吹レ之時に泡を生ず。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386/160?viewMode=(102/645))とあり、吹き玉とも呼ばれた。吹き玉には他に、ホオズキを吹くものがある。同・女扮中・宝暦六年印本に所載少女図の項に、「此処女の所為は筆軸の如き管本を割り広げ、以レ之て鬼灯を弄する体也。今世も少女弄レ之。鬼灯実の種を去り空として弄レ之。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386/160?viewMode=(182/645)、漢字の旧字体は改め、適宜句読点を施した。)とある。ホオズキは古語に、「鬼灯(かがち)(酸漿)」という。酒折宮の関連でヤシホヲリの酒を見たとき、八俣遠呂知(八岐大蛇)の目の形容に、「赤かがち」、「赤酸漿」とあった。やはり、カガなる音があらわれる。
左:さぼん玉売(喜田川守貞・守貞漫稿、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386/160?viewMode=(102/645))、右:羽根突きとほおずき(同http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386/160?viewMode=(182/645))
また、吹き玉はガラス吹きのこともいう。ガラスの珠を作る際、管から息を吹いたからである。正倉院には、蜻蛉玉が数多く残される。羽子は蜻蛉を模したともいわれ、正月に羽根突きをすると夏に蚊に食われないで済むというおまじないともされた。一条兼良著・一条兼冬補・世諺問答(天文一三年(1544))に、「問て云。おさなきわらはのこきのこといひてつき侍るは。いかなる事ぞや。答。これはおさなきものゝ蚊にくはれぬまじなひ事なり。秋(あき)のはじめに蜻蜓(とんばう)といふ虫(むし)出(いで)きては。蚊(か)をとりくふ物(もの)なり。こきのこといふは。木連子(もくれんじ)などをとんばうがしらにして。はねをつけたり。これをいたにてつきあぐれば。おつる時(とき)とんばうがへりのやうなり。さて蚊(か)をおそれしめんために。こきのことてつき侍るなり。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2539657(7~8/63))とある。胡鬼の子の、蜻蛉が蚊を食うのを謂れとしている。この伝承からも、カガナベテは、カ(蚊)+ガ(助詞)+ナベ(隠)+テ(助詞)の意であることが確認される。
羽根突きは、数多く突くことを競った。数え唄を歌いながら突いた。たくさんの羽根突き歌がある。例えば、「一人きな 二人きな 見てきな 寄ってきな いつ来てみても 魚子(ななこ)の帯を 矢の字にしめて 九(ここ)の世で一丁よ」(小島ほか2009.、1438頁。「羽根つき歌」の項、赤羽由規子。)、「ひとめ ふため みやかし よめで いつやの むさし ななやの やさし ここのや とーお とーおで一貫貸した」(中田2009.、270頁)、「一子(ひとご)に二子(ふたご)、見(み)渡しゃ嫁子(よめご)、いつ(五)よりむ(六)さし、な(七)ーんのや(八)くし、ここ(九)のやじゃ十ょ」などという。尾張童遊集には、「ヒイヤフゥ。ミデヨ。イヽツデム。ナァナデヤァ。コウコデ十(トウ)ヲ くり返し十の処二十三十とかゆる計也 三州岡崎にては ひねふねふんだる だるまがよるもひるも 頭巾かぶり とをいた 如此くりかへしくりかえしつく」(浅野ほか1977.、375頁)などとある(注7)。すなわち、記紀の26番歌謡に「御火焼の老人」、「秉燭人」が当意即妙に答えたのは、その返し方自体からしても羽子突きで、数え唄の一種のように歌っていて、そのパロディーであったようである。歌う内容と歌う行為とが互いに自己言及しあう様相を呈している。
酒折宮で歌を返したのは、記に、「御火焼(みひたき)の老人」とある。カヒ(鹿火・蚊火)の番は、屋外の作業員である。屋外でのヒタキといえば、鳥の鶲(ひたき)である。記にオキナ(翁)と断ってあったのは、鶲の字に翁の字が現れる点からも頷ける。ショウビタキ(尉鶲)の頭部が灰色をしていて白髪っぽい姿に見えるため、翁の字が与えられたのではないかとされている。また、キビタキ(黄鶲)は、俗に京女といい、オオルリ(大瑠璃)は東男といわれる。みな、ガラス玉(蜻蛉玉)のように耀く目と、美しい羽を持つ鳥である。艾に関連したヒトルタマにあった火齊珠は、翡翠火齊といわれる美しい羽子のことを表すこともある。美しい鳥の羽と美しい宝石とが同じ言葉で表されるのは、羽子によって結びつくから納得がいく。輝(耀)くように美しい羽根というわけである。やはりカガなる音が表れている。それを筑波ならぬ衝羽根で突き合った。
ジョウビタキ(井の頭自然文化園)
「御火焼之老人」、「秉燭人」は、倭建命(日本武尊)のデリカシーに欠ける問い掛けに、完全に頭にきて歌を返した。彼のような随員が頭にかぶる被(かがふ)(蒙、冠)りは、倭建命(日本武尊)のような貴人がかぶる偉そうな冠とは異なり、烏帽子である。エボシとエミシの音はよく似ている。紀に「侍者(さぶらひひと)」と断ってあるから、侍烏帽子であろう。烏帽子の形態はさまざまで、いくつも形態がある。伊勢貞丈・貞丈雑記に次のようにある。
一、横さびのゑぼしは、素襖きたる時かぶるゑぼし也。今時は侍ゑぼしと云ふ。古は士農工商ともに常にかぶりたる平服なり。侍のみかぶりたるにはあらざれば、侍ゑぼしといひがたし。又近代は納豆ゑぼしといひ習はしたり。弥非也(今時田舎ノ寺ヨリ檀那ヘ納豆ヲ送ルニ、薄キ板ヲ三角ニ折曲ゲテ紙ヲハリテ底ニシテ、ソレニ納豆ヲ盛ル也。其納豆ノ入物ニ似タル故、納豆烏帽子ト云フナリ。)此の横さびのゑぼしも古はやはらかなる立ゑぼしにて、それを折りて三角のまねきを作りたる也。まねきは即ひれ也。是れもひれゑぼしの内也。今はこはくぬりかため、まねきをば切りはなしてとりおきにこしらへたる、故あらぬ物の様になりたり。
右は昔様とも京極様とも云ふ折かた也。図の一二の次第のごとく段々に折るべきなり。
〈〔頭書〕古ハ紗絹ニ漆ヌリテ作ルユヱ、ヱボシヤハラカ也。常ニキルユヱモメテシハヨル也。鳥羽院衣文ト云事ヲ始メタマヒシ以来、ヱボシヲ紙ニテ張ヌキニシテ、モメタルシワノ形ヲ木形ニテ打出シテ是ヲサビト名付ケタリ。木形ニテ打テバイカヤウニモサビノ形出来ルユヱ、サマサマノサビヲ作リタルナリ。〉
一、上古の折ゑぼしは(右のよこさびなり)うすくやはらかにて、立ゑぼしを折りて折ゑぼしにしたる也。さればまねきも(三角ナル所ヲ云フナリ)ふたへになりて袋の如し。其の袋の如くなる内へ髪のもとゞりを入れてかぶりしなり。……
一、ゑぼしのこゆひと云ふ物も、古と今替りあり。古の小結の形如左。
〈古の人は月代そる事なく、惣髪にてもとゞりをいたゞきの真中に上げて組緒の平きにて長く巻きてちやせん髪にゆひしなり。ゑぼしのまねきの袋の如くなる中へもとゞりを入れて、こゆひにてまねきにもとゞりをゆひそへておくゆゑ、かけ緒をせされどもゑぼしぬげぬなり。〉(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771946(27~28/83)、漢字の旧字体は改め、適宜句読点を施した。)
横から見れば、凸凹凸状になっている。萎烏帽子を烏帽子懸けで首に結い止めるため、必然的に烏帽子の中ほどは凹むことになる。筑波の嶺のような二嶺ある形である。彼はそのような形の侍烏帽子を被(かがふ)っていたのであろう。やはりカガなる音が現れている。その烏帽子被りが名歌を歌い返して、今、耀いている。やはりカガなる音が現れている。カガという語は、耀(輝)くというように、周囲の平板な目立たない地の部分と異なり、鮮やかに際立って目につく存在を表している。旁には翟(きじ)の字が入っている。キジは、「総角特起」する羽冠を持つ。筑波の嶺にふさわしい鳥ということである。
以上、無文字文化のなかに、筑波問答「かがなべて」歌を探った。これでもかというほどの洒落、なぞなぞに、圧倒される思いがする。文字に呪縛され、知識に飼い殺される以前の、豊かな言葉の知恵に、ヤマトコトバの源はある。文字という媒介なしに言葉をやり取りしている。商取引に譬えれば、言葉の物々交換ということになる。通貨を持たない物々交換は、需要と供給とが片務的ではありえず、必ず相互的に完全一致しなければならない。言葉において、文字という証文を持たない交渉は、言葉と事柄とが背中合わせにくっついていなければ成り立たない。これがいわゆる言霊信仰である。事柄を言葉として表すとともに、発する言葉がその通りの事柄になると信じなければ、物事をやり取りすることが叶わなくなる。無文字社会という社会の成立する前提として、言霊信仰という契約が暗黙のうちに取り交わされていた。本稿に見た「かがなべて」の歌問答のように、上代説話とは、言葉がその発せられる場において必然性をもつこと、すなわち、自己言及的(self-referential)、ないし、自己述語的(autological)な様相を帯びている。それこそが無文字社会の説話であり、上代の智恵であった。
逆に言えば、文字に兌換できない言葉は、必ず自己言及的、自己述語的である。そうでなければ、多くの人々に当該語の正当なることを共通認識とすることはできない。そんなそもそもの前提への問い掛けが、我々には今、求められている。これは、言語のビッグバン時点の謎をも呼び覚ますことであり、ほぼ未開拓の領野に位置している。言葉が自己言及的に説話に語り込められている時、その言葉も説話も行動も、すべて正しいと証明されるのである。
自己言及性については、エピペニデスの「嘘つき」のパラドックスから説き起こされることが多い。事の本質は、言明が主張することと、言明がなされる仕方との間に、語用論的な自己言及性(再帰性)が起こり得る点である。竹内2002.は、S・J・バートレット、P・スーパー編『自己言及』(Steven J. Bartlett, Peter Suber(ed.):Self-Reference;Reflections on Reflexivity, Martinus Nijhoff Philosophy Library, Volume 21, Martinus Nijhoff Publishers, 1987.)の「序論(Introduction)」に依りながら、その諸相をまとめている。そのなかの「人類学における再帰性」の項に、ウォーフ『言語・思考・現実(Language,Thought,and Reality)』が「言語学的な再帰性」について述べたくだりをさらに簡潔にし、「思考は言語によって決定され、思考はそれを表現するために言語に頼る、という主張は、それ自体再帰的である。なぜなら、言語学的相対性仮説は、まさに言語によって表現された思考の集合だからである。」(59頁)とまとめられている。
その再帰性を逆手にとって、言葉という集合を自己述語的に仕立て上げられれば、言葉どうしの循環的な振動によって、言葉が事柄と一体化するという離れ業が可能なのである。自明の理の証明である。仮に造語するなら、逆説ではなく順説、背理ではなく腹理、paradox ではなく interdox, transdox を構成するということである。言霊信仰はここに生まれる。竹内2002.は、「ユーモアにおける再帰性」の項を立て、「[言葉遊びによって生ずる意味の]再構成は、突然起こる反動的な意味の転換、ふつうは意表をついた殺し文句の意図が存在する場合のように、しばしばユーモアの中に含まれている。ユーモア、すなわち意味の異なった位相を素早く感知する能力や、再構成、独創性、遊びは、自己言及性を含みうる才能を織り込んでいる。」(62頁)とする。Bartlett & Suber, op.cit. に、「Three brothers move to California to start a cattle ranch. When they have bought the rand, they phone their mother, asking that she name their ranch. The name she suggests is; “Where the sun's rays meet.”」という例があげられている。場所がカリフォルニアだから、「sun's ray(太陽光線)/son's ray(息子たちのひらめき)」が交わるところ、という洒落を言っている(注8)。「御火焼之老人」、「秉燭人」の歌い返しは、場所が、新治、筑波、甲斐国酒折宮という設定の上で、素早くして過剰なる殺し文句を言っているのであった。もはや、heterophonidox とでも呼んだ方がよいのではなかろうか。微妙に音程の異なる旋律を一斉に奏でられて、苦虫を噛み潰すように聴かされているからである。なお、竹内2002.も指摘するとおり、自己言及性の裏面には、精神の機能障害がついてまわる(注9)。
この景行朝の筑波問答の作者が誰であったか、史実か机上の作か、といった問いは、もはやナンセンスであると解されよう。それらを含めた形で、聖徳太子(皇太子)と蘇我馬子(島大臣)も、なぞなぞ仕立てで「天皇記・国記・……本記」(推古紀二十八年是歳)を記した。これが上代説話のもとである。さらに引き継いだ天武朝の書記官も、「帝紀及上古諸事」(天武紀十年三月)を記定して、無文字社会から文字社会へと橋渡しした。みな、言葉の本質、真髄を知り抜き、知り尽くしていた天才たちであったといえる。したがって、文章の一つ一つ、言葉の一つ一つに十分な検討を加えることが、上代の知恵をよみがえらせる唯一の方法といえる。今日の思考の枠組みを当てはめて、理解できないものはすべて「神話」であるとして片づけることは、何ひとつ上代人の精神に近づいておらず、近づこうとする意思すら持たないことをさらけ出して恥じないものである。筆者は、「古事記・日本書紀・万葉集を読む」ことによって、上代の精神誌(psychography)を示す試みを行っている。
(注)
(注1)本稿は、記紀25・26番歌に、多重に多相に多様に仕掛けられているなぞなぞについて検討している。同歌は、連歌の始まりとする説が古くより行われている。鈴木1981.に、「和歌の会の余興として連歌が詠(よ)まれたが、その際に「なぞなぞ」も行われることがあった。源師時(もろとき)の日記『長秋記(ちょうしゅうき)』保延(ほうえん)元年(一一三五)六月六日の条に、「於レ院有二和歌一……事畢、有二連歌并(ならびに)なぞなぞものがたりの事等一」と見えているのは、その証となる。ここにいう「なぞなぞ物語」は、或(ある)いは純然たるなぞ掛け遊びをさすのではなく、『実方(さねかた)朝臣集』や『讃岐入道(さぬきのにゅうどう)集』に見られるような、「なぞなぞ」を和歌に詠(よ)む遊びをさしていっているのであるかも知れない。」(57頁)とある。確かに、なぞなぞの問答をしている連歌はあるけれども、長秋記の記事は、「不読応製臣上字、事畢有連歌……」とあって、歌会がしらけて終って仕方ないから連歌でもするか、ついでになぞなぞ物語、というように、興が乗って行っていない。なぞなぞを歌に仕立てるには、生憎の日であったようである。
(注2)拙稿「神武記東征伝の槁根津日子について」参照。
(注3)拙稿「ヒルコ考」参照。
(注4)御狩神事については、柳田1990.のなかで、「三つの例[安房上総のミカリ・オミカワリ、摂津西宮の正月九日の忌籠り、阿波奥木頭(おくきとう)の北川のミカリ・ミカワリ]を綜合して考えると、ミカリが御猟ではなく、身を替えるという意味のミカワリであったことがややわかる。」(306頁)としている。これには反論もあり、小川1999.には、「獣肉を神饌(しんせん)とする祭りとの関連も考える必要があろう。」(320頁)とする。当該の西宮神社のそれについても、吉井1989.は、「西宮の場合を仔細に見ると、一概にミカリが直ちにミカハリに通ずるものと言うことも出来ないように思われる。」(282頁)とある。ただ、古来の伝統は、幾重にも織り成されてできたテクスチャーであるから、意味合いを多重に考慮しなければならないであろう。忌籠りの形態は、卵(かひ)という語と軌を一にするものと筆者には思われる。
西宮のえべっさんは、もと広田神社の摂社である。広田神社の御狩神事は、住吉大社の神事に由縁があるとされている。夷社のことは、住吉太神宮諸神事之次第記録に、「先づ九日の夜、江比須(えびす)の社の御前に於いて酒肴し巫女舞ふ」や、住吉松葉大記に、「先づ九日の夜、江比須(えびす)の社の御前に於いて、巫女舞踏・酒肴等の事、今曾て其の名をだも知らず」などとある。住吉大社は、記に、「墨江大神」とあるとおり、スミノエ、すなわち、江という地形にあった。難波が「津」、住吉が「江」、西宮が「洲」ということになる。これらの関係については、後考を俟ちたい。
(注5)西宮市史、464頁。
(注6)吉川1976.において、「[埼玉県羽生市]永明寺古墳[(ようめいじこふん)六世紀]出土鋸は、二人挽きの対向して挽く鋸で、おそらく杉や桐等の軟質材の縦挽に使用した鋸であろう。」(30頁)、「この[群馬県安中市松井田町愛宕山遺跡(八世紀)出土]鋸は縦挽鋸である。それは、鉄弓の構造をみてもわかる。……また、歯形が縦挽鋸の歯形と判定し得る下向歯である。中央から反対になる歯列をもつ。この二つは縦挽きしたことの決定的な証拠と言い得る。」(37頁)とある。
もう少し肌感覚として考えたとき、非効率ということと不可能ということとは違うことではないかと思う。筆者の経験で恐縮だが、3寸5分のヒノキ角材を、長さ2mにわたり、ホームセンターで売られている取替刃式の最も安価な鋸で対角線に「縦挽き」したことがある。縦挽きか横挽きかは、使い勝手の問題であるように思われた。
(注7)村尾節三・南簷零滴の「羽子突歌」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980178(57~58/98))参照。採譜を多く録したものとして、尾原2009.を挙げておく。
(注8)ユーモアにおける再帰性に関して、東森2015.に載るジョークを一例あげておく。全編にわたって興味深い検討が行われている。
(1) Why should you never date a tennis player?
Because love means nothing to them.
(2) Beware of tennis players―love means ‘nothing’ to them.(157頁)
(注9)近現代においても、自己言及について考究する必要性は繰り返し指摘されてきた。ここでは、難解な論理学に溺れず、また、わかった気にもならずに済む指摘について瞥見しておく。鈴木2014.に、「フォン・ノイマンの論文[von Neumann.J. (1928) Zur Theorie der Gesellschaftsspiele, Mathematische Annalen, 100: 295-320]のタイトルは、「spieleの理論」ではなく、「Gesellschaftsspieleの理論」となっています。……私は「Gesellschaftsspiele は社会的ゲーム」「Gemeinschaftsspiele は遊戯」かなと思いましたので、フォン・ノイマンの論文のタイトルを、『社会的ゲームの理論について』としました。」(30~31頁)と述懐があり、ジンメル1979.の記述が引用されている。そこには、「社会的遊戯(Gesellschaftsspiele)という表現は、深い意味において重要である。人間のあいだの一切の相互作用形式、社会化形成、例えば、勝利への意志、交換、党派の形成、奪取の意志、偶然の邂逅や別離のチャンス、敵対関係と協力関係との交替、陥穽や復讐―これらは何れも、油断のならぬ現実では目的内容に満たされているのに、遊戯となると、これらの機能そのものの魅力だけを基礎として生きて行く。……本当の遊戯者から見れば、遊戯の魅力は、社会学的に重要な活動形式そのものの活気や僥倖にある。社会的遊戯には、更に深い二重の意味がある。すなわち、それが実質的な参加者たる社会のうちで行われるという意味だけでなく、加えて、それによって実際に「社会」が「遊戯」になるという意味がある。」(81頁)とある。
ジンメルの主張を、彼の挙げた例示について見ると、「マラトンの戦闘において「ギリシア人」と「ペルシア人」とがどのように振舞ったかを問題とする。もし個人のみを現実と認める見解を正しいとすれば、われわれがそれぞれ個々のギリシア人やそれぞれ個々のペルシア人の行動を知り、これで彼のすべての生活史を知り、それから戦闘における彼の行動を心理的に理解できるようになり、そこで歴史的認識はそのときに、そして初めてその目的に達するであろう。」(ジンメル2004.、5~6頁)と、痛烈な皮肉になっている。犬飼2011.による解説に、「ジンメルは[マックス・]ウェーバー流の考えをする人々に向かって、「個人」に終始するのならば、「マラトンの戦い」に参加した兵士全員について悉皆(全数)調査をしなければならないだろう、仮にそれが出来たとしても、そんな作業で「マラトンの戦い」が理解できるのかと挑発」(297~298頁)しているのだという。記紀万葉に照らしながら飛躍していえば、古事記を近代にいう「作品」と見なすことで、古事記はわかるのか、ということである。
犬飼2001.は、ジンメルの著作を読む際に、「ジンメル的な知」といった独自の知的世界を想定しなければならないのではないかと考えている。そして、「そもそもジンメルの多くの著作には出口というものが見えにくい。特定の対象について特定の方法によって必然的な結論・方策(=出口)を引き出そうとする意図が強くないからである。目的合理性という概念を考えるならば、ジンメルの議論には「目的」にあたるものがはっきりとは出てこない。目的が定かでないから目的に向かうための合理性を設定できない。出口のない議論という言説世界は、特定の原因を見つけて合理的な解決策を提示するといった型の言説とは別のものである。近代(主義)的な知性を特徴づける信念とは、すべての現象には原因があって結果があり、人間はそれらの全過程と過程の法則を合理的に究明できるというものである。しかし、ジンメルにはそれらが希薄なのである。」(206頁)とする。
ジンメルは、Gesellschaftsspiele(社会的遊戯)に思い至ったため、「出口というものが見えにくい」ことになっている。ところで、ヤマトコトバの形成過程、なかんずく、成熟過程にある記紀万葉の記された飛鳥時代とは、Gemeinschaftsspiele(遊戯的社会)の時代に他ならない。遊戯のなかで自己完結することを志向する社会である。行動においては、神功皇后の言い伝えを信じ、それに準えて斉明天皇が行動している。言説においては、言い伝えという説話に言葉を塗り込めるように自己言及を繰り返し、それによってヤマトコトバが厚みを増して言葉として豊潤化していった。言葉という巾着袋に事柄をぶち込んでいって紐を引き結び、確かなものとして人々のあいだに通用させていった。「出口」どころか「入口」も見えないようにした。枕詞とは、Gemeinschaftsspiele の一つの象徴的な表れである。すなわち、基本的に無文字社会の上代を「紐解く」ことには、文字社会時代の歴史研究とは異質な難しさがもう一つ介在していることに、十分に思いを致さなければならないのである。
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※本稿は、2015年、2018年の旧稿に加筆、整理したものである。
(English Summary)
In this article, I will study about the customary epithet "Kaganabëte(かがなべて)" in Kojiki and Nihon-shoki. "Kaganabëte" means that mosquitoes(蚊(か)) are(が) hiding(隠(な)べて) originally, and it is an overlapping of various words that "Kaga" shows. In the age of the non-character, the word play, self-reference to the word itself, was flourishing.
新撰字鏡に、「蚊 亡云反、口夫止(くちぶと)」、「蟁𧓹 同、亡眠反、蚋に似て稍火也、久知夫止我(くちぶとが)」、名義抄に、「蚊 クチブト」とある。このクチブトなる語については、二つの謂れがあったらしいことが考えられる。第一に、語義未詳ながら、鳥類のカラスのハシブトガラスとの関連が類推されている。金光明最勝王経音義に、「蚊 文音、加阿(かあ)」とあり、現在の関西方言に同じく、カーと長く発音するものであったらしい。カラスの鳴き声もカーである。カラスがカーと鳴いてその口から蚊が出てくると頭のなかで仮定してみると、その煩わしさ、嫌ったらしさは連想が効いていて理解されやすい。つまり、カガナベテを蚊が隠れることを意味するなら、それはカラスの口に隠れたことを表すことになる。カラスは黒い。ウバタマノ(烏羽玉の)という枕詞は、「夜」に掛かる。したがって、カガナベテという枕詞は、夜(よ・よる、ヨは甲類)と密接な関係にある。
第二に、クチブトと言われれば、口の太い状態を指すものと思われる。口を大きく開けるならばオオグチであろうから、口の部分の分厚さを示すものであろう。それが器物であれば、容器の口部の縁が太く作られているということである。すなわち、碗ではなく壺である。動物の器官でなら唇である。金光明最勝王経音義に、「脣 又◇(脤の左右反対)に作る 信音、久知比留(くちびる)」、和名抄に、「説文に云はく、脣吻〈上音旬、久知比留(くちびる)、下音粉、久知佐岐良(くちさきら)〉といふ。」とある。唇は、口の縁の部分が血を吸った蛭(ひる、ヒの甲乙不明)のように膨らんだ状態を表した言葉である。ヒルは蛭類に属する環形動物の総称で、体長は3~10㎝ほど、体は筒状ないし扁平で、3~4個の体節から成り、伸び縮みする。体の前後に吸盤があり、前の吸盤の底に口があって血を吸う。池や沼、水田などの淡水にいるチスイビル、ウマビルばかりか、海水に住むウオビル、ウミエラビル、陸上の草陰などにもヤマビルといった種類がいる。このうち、チスイビルがヒルの代表格である。人間にとって直接の害虫ゆえ、関心が高まる。ヒルという生き物は、彼らの唇という器官を使って吸血し、人の唇のような分厚い体型になる。名前が自己言及的な語となっており、古代の人に特有の賢明さに気づかされる。
ヒルの吸血性を利用し、腫物などの瀉血療法に用いられたことは、上述の正倉院文書、大友路万呂請暇解に見えるとおりである。つまり、クチブトという言葉は、蛭治療の休暇と関連する言葉ということになる。また、同音の蒜(ひる、ヒは甲類)については、記では筑波問答の直前に、アヅマの地名譚として出てきていた。足柄の坂本の坂の神が白鹿となって襲いかかって来そうになったとき、食い残した蒜の片端でその目に命中させたというのである。目(ま)に中(あ)てたからアヅマといったという説話である。
ノビル
もとより、このアヅマの地名譚の真偽を問うには及ばない。話(咄・噺・譚)だからである。重要なのは、鹿を退治するために、矢の代りになるような刈株の植物種として蒜が用いられている点である。新治との関連で見た墾道の歌(万3399)にも刈株があった。鹿退治の話になっているのは、蚊火と鹿火との同一性によっている。鹿火によって出る煙とは、弓矢の矢に相当する。それを叶えたのである。よって、「秉燭人」に「敦賞。」しただけでなく、「以二靫部一賜二大伴連之遠祖武日一也。」(景行紀)ことになっている。矢を入れる靫という武具が取り沙汰された由縁である。行軍を叶えるに功があったから、「行き(ゆき、キは甲類)」という言葉との洒落から「靫(ゆき、キは甲類)」が持ち出されている。自然な流れの追加記事である。
わざわざヒル(蒜)という植物を持ち出している。ノビルは、5~6月に茎の先に小さな散形花序をつけるが、花には紫色の零余子(むかご)をつける。ムカゴとは、植物の腋芽で栄養が貯蔵されて球状に膨らんだものをいう。成熟すると落ちて、そこから発芽し繁殖する。珠芽、肉芽、仔芽などとも書く。すなわち、鹿の目に蒜の片端を中てたというのは、ムカゴを目に向けたこと、芽をもって目を制したということである。同音の蛭に掛けているとすれば、縁語のネットワークから、蚊はクチブトと呼ぶにふさわしいと想定できる。そこから、カガナベテという枕詞は、同音の昼(ひ・ひる、ヒは甲類)と密接な関係になる。ヤブカ(豹脚)は、昼夜の別なく現れて悩まされる。以上から、記紀それぞれ26番歌謡に、「カガナベテ ヨニハ…… ヒニハ……」という言葉の連なりが生れていると理解される。
ヒルについて関連する事項としては、ヒルコがある。記紀の国生みの説話のなかで、いわゆる生みそこないとしてあらわれている。
くみどに興して生みし子は、水蛭子(ひるこ)。此の子は、葦船に入れて流し去りき。次に、淡島を生みき。是も亦、子の例(つら)には入れず。(記上)
遂に為夫婦(みとのまぐはひ)して、先ず蛭児(ひるこ)を生む。便ち葦の船に載せて流(なが)す。次に淡洲(あはしま)を生む。此も亦児の数に充(い)れず。(神代紀第四段一書第一)
次に蛭児を生む。已に三歳(みとせ)になるまで、脚猶し立たず。故、天磐櫲樟船(あまのいはくすぶね)に載せて、風の順(まにま)に放ち棄つ。(神代紀第五段本文)
国生みの説話は、伊奘諾尊(伊耶那岐命)(いざなきのみこと)と伊奘冉尊(伊耶那美命)(いざなみのみこと)が「国土(くに)を生み成さむ」(記)、「洲国(くにつち)を産生(う)まむとする」(神代紀第四段本文)ときの話である。導入部では、二神が「底下(そこつした)に豈国無けむや」(紀本文)、「吾、国を得む」(一書第二)、「当に国有らむや」(同第三)、「其[浮膏(うかべるあぶら)]の中に蓋し国有らむや」(同第四)と言っている。生みたいのは国、国土、地面である。それも「塩こをろこをろに描(か)き鳴す」(記)海のなかの話である。本邦においての大陸たるクニ、島嶼であるシマに満たないものとして、ヒルコ(「水蛭子」・「蛭児」)やアハシマ(「淡島」・「淡洲」)が表現されている。確かならざる地面である。数に入れないと断っているのは、数え唄にならないということを意味しよう。地面がぬかるんでいたら、数え唄を唱えながら遊ぶ羽根突きはできない。
記紀の話は、アシ(脚)が立たないからアシ(葦)の船に載せたという洒落であろう。歩けずに、また、国生みで失敗しているとすれば、浅瀬ぐらいのところということである。浅瀬に砂が堆積し、水面上にわずかに現れたり消えたりするところである。洲(す)と呼ばれる。万葉集に「渚」・「洲」の用字がある。三角洲になる洲には、当初葦が生えているが、川や湾の水の流れによって姿形や場所を変えていく。脚が立たないから葦船に載せて移動させるとの洒落は、次第に海水に浸り、深度が増して葦が枯れて倒れ流れたり、塩分濃度が増して葦が育たなくなったということも含意しているものと思われる。転変を繰り返す地形である。そして、砂泥が目立つことに注目した語に、「沙土(すひぢ)」という語がある。ス(砂・沙)+ヒヂ(泥)の意で、「沙土煑尊(すひぢにのみこと)。沙土、此には須毗尼(すひぢ)と云ふ。亦……沙土根尊(すひぢねのみこと)と曰す。」(神代紀第二段本文)とあり、記の、「須比智邇神(すひちにのかみ)」に該当する。「吸血(すひち)」ときわめてよく似た語である。スイチヒルは沙泥(すひぢ)に生息していると知れる。
なかなか国土として固まらない浅瀬は、エビ(海老)が巣(す)を作るところである。巣が洲に作られているのだから、正真正銘のスである。巣という字は、説文に、「巢 鳥の木上に在るを巢と曰ひ、穴に在るを窠と曰ふ。木に从ひ、象形。凡そ巢の属、皆巢に从ふ」とある。和名抄にも、「巢 孫愐曰く、鳥の巣の穴に在るを窠と曰ひ、樹に在るを巣〈音曹、訓須(す)、一に須久布(すくふ)と云ふ〉と曰ふといふ。」とある。巢の字の頭の巛は、雛の頭の毛の逆立った形とされる。また、説文に、「川 貫穿して通流する水也。虞書に曰く、𡿨巜を濬(さら)へて川に距(いた)るといふ。言の深きこと、𡿨巜の水会ひて川と為る也。凡そ川の属、皆川に从ふ」とある。つまり、巛という形において、巣(巢)でもあり、川(巛)でもあるものといえば、エビの巣のこと、夷(えびす)ということになる。確かに、東北地方は、なかなかヤマト朝廷に編入されない夷狄であり、行政区分の「国」とならなかった地方である。そして、甲殻類のエビは過剰なほどたくさんの脚を持つ。記紀の脚と葦の話を彷彿とさせる。作ってはいずれ崩れてしまう、産卵のためだけにあるのがエビの巣である。前にある脚を使い、砂粒を持ち上げては巣穴を拵えていく。穴の底から砂を運んで周りに積み上げていっている(注3)。
「海遊館で巣作りするエビ」(mnaka様、https://www.youtube.com/watch?v=k4t3ehwbjPM)
鳥の巣も雛が孵って巣立ったら放置される。しかし、完全に倒壊しなければ、あるいは別の個体が補修して再利用し、再度抱卵のために棲むことがあって、古巣に戻るように感じられている。エビの巣の場合はそうはいかず、いずれ流されてしまうし、積み上げた砂が水面上に出ることもない。クニにもシマにもならないから、国生みとしては失敗ということになる。そのうえ、鯛を釣るための餌にするエビは、陸上で歩くことができない。腰が曲がり、長いひげを持っており、長寿を表すものとされた。早くから「海老」という字で表された。和名抄に、「鰕 七巻食経に云はく、鰕〈音遐、衣比(えび)、俗に海老二字を用ゐる〉は味甘平にして毒無き者也といふ。」、延喜式・主計式に、「海老一升」とある。主役が「御火焼之老人」(記)と翁に設定されていた話に符合する。
倭建命(日本武尊)の一行が縦断してきた関東・東北地方とは、夷の地である。足が萎えてしまい、足が棒になり、歩けなくなっている。蹇(あしなへ)である。新撰字鏡に、「癖 疋亦反、入、腹内癖病也、足奈戸(あしなへ)也」、和名抄に、「蹇 説文に云はく、蹇〈音は犬、訓阿之奈閇(あしなへ)、此の間に那閇久(なへく)と云ふ。〉は行くこと正しからざる也といふ。」とある。霊異記・下二十に、「蹇(あしなへ)」とある。その箇所は・譬喩品第三の偈に当たる。談山神社蔵法華経院政期点に、「斯ノ経ヲ謗セムガ故ニ罪ヲ獲ムコト是ノ如シ。若シ人ト為ルコト得テハ、諸根暗鈍ナラム。矬ヒキニ陋カタナク𤼣テナヘ蹇アシナヘニシテ盲メシヒ聾ミミシヒ背セナカ傴カカマル ククセナラム」とある。
言い伝えにいう蹇の状態の最初は、国生みの話にある「水蛭子(ひるこ)」(記)、「蛭児(ひるこ)」(紀)である。洲=巣にいるのはヒルの子のはずだからヒルコというわけである。その蛭子命(ひるこのみこと)が祭神となっているのは、西宮が本家とされる戎(えびす)神社である。倭建命(日本武尊)の一行は、アヅマハヤと歎いた地を経巡って帰って来た。東から帰り、西に来た。酒折宮は、相対的に「西宮」ということになる。えびす神社の年中行事として最大のお祭りは、十日戎である。一月十日に商売繁盛を願って参拝する。前日の九日の夜は、御狩神事が行われる(注4)。すなわち、かがなべて、夜には九夜、日には十日を、の文言は、えびす神社の祭礼のことを含み物語っている。または、この歌に啓発されて西宮神社の祭礼日程が決まっている。
十日戎には、「商売繁昌笹持って来い」と唱えられる。笹に小宝を吊るしたものが縁起物として貴ばれる。守貞漫稿・春時に、大阪の今宮神社の十日戎の祭礼の様子が活写されている。
古き小唄に、「十日ゑびすの売物ははぜ袋に取鉢銭叺小判に金箱立烏帽子湯出蓮才槌束ね熨斗笹をかたげて◆(行の字のなかに鳥)足」。はぜぶくろ、ぜにがます、たばねのし等真物に非ず。摸物を云也。小宝の中に加レ之也。ゆでばすと云は蓮根を水煮にしたるを云。蓮根は蓮藕也。野外に売レ之。其詞に、「のばすのばす」と云。金銀を殖すを俗にかねを延すと云。野蓮と延すと和訓近きを以て吉兆とする也。
小宝の図 小宝と云は小判一分判丁銀等銅鉛及び土を以て摸二造之一たる米升米俵熨斗鮑銭叺木槌大福帳鎰各一はぜ袋赤紙黄紙等。
竹に准ずれば大形の子宝也
生笹三四尺小宝大小二種あり
……小宝は全家詣と雖ども、各自非レ買レ之なし。一戸一箇を買て神檀に置レ之、昨年の古物を去り代る。小宝価大約二三十文。又小宝と同店に売ず別店に竹枝を売る。此竹枝に小宝を結び付て神棚の上に挟む也。(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412(138/329)、漢字の旧字体は改め、適宜句読点を施した。)
どうして小宝が笹につけられたかについては、和漢三才図会にあったように、酒の匂いのするササ(篠)を以て蚊が集まったことと関係があるのであろう。利(かが)持って来いとの洒落である。吉井1999.に、「吉兆類を下げる笹、「商売繁昌笹もってこい」と景気のよいかけ声のもとに飛ぶように売れる笹は、もともとササすなわち神酒を意味したものではなかったろうか。」(378頁)と指摘がある。酒折宮の話の展開形といえる。
祭神のえびす神の像は、足がなく、ないしは蹇で、鯛を釣りあげた姿である。海老で鯛を釣る、という諺を具現化している。小さなエビを餌にして、美味で珍重されるタイという釣果を得ることから、わずかな元手をもって大きな収穫、収益、すなわち、利(かが)を得ることをいう。めでたいことは、浅瀬でエビの巣を見つけることに始まる。浅瀬のスヒヂ(沙土)に幸せの素がある。スヒチ(吸血)する蛭の、それもまた子が、おめでたい物事の原初である。よってヒルコが神さまなのである。山路1994.に、筑波問答歌は、「神社縁起と全く関係をもたぬもの」(327頁)とあるが、えびす神社の祭神が蛭子神である由来は、記紀の国生み章に既存である。それに輪をかけたのが筑波問答ということになる。そして、えびす神社の御利益は商売繁昌である。商売上の利益は、利(かが)である。西宮にエビスの名がまつわると知れる文献上の記録としては、平安末期の台記(康治元年(1142)正月)や広田社歌合(承安二年(1172))が確例とされているが、上述のとおり、上代からえびす神やえびす信仰は存在していたと考えるのが妥当である。
吉田2013.に、「ヒルコとエビスは異界的な荒々しい異形のものという共通項を有していた。その異形のものを祭ることが豊漁をもたらすという信仰がヒルコとエビスの共通点であったが、その結びつきはこれも難波の対岸の西宮に発している。」、「ヒルコが流れつき祭られた武庫は、向うの意、つまり難波の対岸を指し、ヒルコは難波辺りから流され、対岸の武庫で拾い上げられ、その中の西宮で祭られたというように、中世以降は理解されたということができる。」(262~263頁)とある。向こう側が重要なのではなく、向こうの洲になっているところが肝心なのである。湿性の虫について検討されるべき事柄である。難波宮の海岸は「津」であり、大きな船が停泊するには都合のいい地形である。人がヒルに喰われる心配も少ないが、エビにとっては棲息しにくい。彼岸の西宮は「洲」であった。なぜ西宮という地名が生れたかについて、津国(つのくに(摂津国))の対岸どうしである点が強調されようが、広田社歌合の歌群からは、西方浄土の思想まで含めて考えなければならないと指摘されている(注5)。対して筆者は、飛鳥時代のヤマトコトバそのものを所与のものとして研究対象とし、語源を探るという立場には立たない。無文字文化の上代にそう呼ばれていたから、そういう対比を考えたに違いなかろうという議論をしている。西方浄土云々は後付けである可能性が高い。
西宮神社については、傀儡子(くぐつ)の存在も特徴的である。傀儡子が歴史上いつ頃から活躍していたか不明である。上述の和名抄以降、大江匡房・傀儡子記(1087)に載るが、西宮にまつわるとする記述は見られない。西宮との関連は近世書に下る。
左:夷舞(えびすまひ)(蒔絵師源三郎ほか・人倫訓蒙図彙第七巻、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592445(20/30))、右:傀儡子(菱川師宣画・絵本このころくさ、同http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1118287(4/25))
菱川師宣・このころ草(1682)に、「津国にしのみや(西宮)より出るくわいらいし(傀儡子)といへるは人形箱をうしろにおゐて是も春は他こく(国)へめく(廻)りて家々にて人ぎやう(形)を廻し袖こひをするおさあひ(幼児)つきしと(慕)ふてあれあれしやのしやのころもがき(来)たはとて友をよ(呼)ぶくわいらいし(傀儡子)おとけものにて人形につゝみ(鼓)たいこ(太鼓)をう(打)たせきつね(狐)を出しておどす也」(菊池2006.、46頁、漢字と繰り返し記号を補正した。)とある。カガムとクグムとが音転であることから、西宮神社に付会されているものと想定される。筑波問答「かがなべて」の歌の余韻が響いている。
記紀に、葦船に載せて流し遣ったところとは、国生みによって生まれた本邦の国土の外と想定されたであろう。そこは、エミシ、エビスと呼んでいる。訓として表記されたものとしては、神武前紀に、「愛瀰詩(えみし)」(紀11歌謡)、新撰字鏡に、「蝦夷 衣比須(えびす)」とある。時代を追ってだんだんとエビスとばかり言うようになっていく。倭建命(日本武尊)の東征は、「悉言二‐向荒夫琉蝦夷等一」(記上)、「蝦夷既平、自二日高見国一還之、西南歴二常陸一」(景行紀四十年是歳)とあり、エビスの地を巡ってきたことが明記されている。ヒタチノクニが常陸国と記される所以については別に考える必要があるが、その字面からは、常に陸、すなわち、エビが巣を作るような遠浅の海水面下ではないとの謂いであろう。エビがスを作る夷の地ではなく、クニ(国)なのだということになる。
筑波山のことを、万葉集では、「筑波嶺(つくばね)」(「築羽根」(383)、「筑波根」(1497)、「筑波嶺」(1753・1754・1757・1757・1758・1759題詞)、「筑波祢」(3350・3351・3388・3390・3391・3392・3393)、「都久波尼」(4367)、「都久波祢」(4369))と呼んでいる。また、「小筑波嶺(をづくはねろ・をづくはのねろ)」(「乎豆久波祢呂」(3394)、「乎豆久波乃祢呂」(3395))ともある。ツクバネとは、衝羽根(つくばね)のことで羽根突き、羽子突きをいう。羽子板(胡鬼板)を使い、ムクロジの種に鳥の羽をつけた羽子(胡鬼の子)を突き合った。江戸時代にはお正月の女の子の遊びとされたり、飾り羽子板を作って浅草寺の羽子板市で売られるようになった。上杉本洛中洛外図屏風には、羽根突きをしている様子が描かれている。その起源は、文献では室町時代までしか遡れないとされる。下学集(1444年頃)に、「羽子板〈正月之を用ふ〉」の傍訓に、「ハコイタ」、「コキイタ」の二様が付いており、貞成親王・看聞御記に、「女中近衛・春日以下、男長資・隆富等朝臣以下、こきの子勝負分方、男方勝、女中負態(まけわざ)則ち張行、殿上に於て酒宴深更に及び、……」(永享四年(1433)正月五日)、「……宮御方ヘ球杖三枝、玉五〈色々綵色〉、こき板二〈蒔絵置物、絵等風流〉、こきの子五、進められえし言語道断殊勝、目を驚かし了んぬ、御自愛極み無く、若宮まで入られ思し食し、此の如き物進められし条、殊く喜悦珍重也」(永享六年(1435)正月五日)などとあるのが古い例とされている。
羽子出土品(今小路西遺跡出土、鎌倉歴史交流館展示品)
それでも、万葉集でツクバネという言葉があるから、古くからあったのであろう。そして、カガの音つながりの鏡同様、使い方は同じである。神獣などが描かれている装飾面ではなく、平らに磨かれた何もない面が実用のミラーである。絵、後には押絵の施された側ではなく、反対の何も描かれていない平らな方で羽根を突く。
ムクロジの実(神代植物公園頒布品)
ムクロジの実は、皮がつるんと剥けて黒い種が出てくる。果実の部分にはサポニンが含まれていて泡立つ。シャボンの成分サポニンである。和漢三才図会に、「無患子 ……或は一孔を鑿(ほ)り、小さき羽を植ゑて、小板を以て上は之を鼓(う)ち、則ち頡頏(とびあがりとびさがる)して以て遊戯(たはぶれ)とす。之れを羽子と称す。正月に之を弄(もてあそ)ぶは、鬼見愁の義を取るか。其の子(み)の皮、汁を煎りて衣を洗へば能く垢を去る。又、水に漬けて管を以て吹かば、則ち泡脹れ起り、以て戯と為(す)〈俗に奢盆(しゃぼん)と云ふ〉。……」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162(435/921)、漢字の旧字体は改め、漢文訓読を施した。)とある。ムクロジの実を使う2つの遊び、羽根突きとシャボン玉が記されている。羽根突きが交互に突き合うところが、筑波山の男体山と女体山の二嶺に表象されており、突羽根と筑波根とがしばしば洒落られているのであろう。二つの凸起が特徴である。名義抄に、「凸 ツバクム」とある。ツクバとよく似た音である。その間に凹、クボがある。新撰字鏡に、「凹 容䆘二同、候扶・於洽二反、久保无(くぼむ)」、霊異記・中第五に、「撫凹村(なでくぼのむら)」とある。クボサは利とも書く。利益、利潤のことで、「利(くぼさ)」(推古紀十二年四月・二十年是歳)とある。「利」はえびす神社に見たとおり、カガともいう。凸と凹とがあるから足に利いてくる。平らだったら歩くのに疲れない。
凸凹があって利く道具の筆頭は、古語に、「鋸(のほきり)」である。新撰字鏡に、「鋸 居御反、削刀也、割也、乃保支利(のほきり)」、和名抄に、「鋸 四声字苑に云はく、鋸〈音㨿、能保木利(のほきり)〉は刀に似て歯有る者也といふ。」とある。そのなかでも大きな鋸、大鋸(おが)のことはカガリ(ガガリ)と呼ばれた。新撰字鏡に「鉪 加々利(かがり)」、「★(金偏に然) 加々利(かがり)」とある。ここにもカガなる音があらわれている。観念上の連想として、筑波山という大鋸で切り取られた板は羽子板のことであろう。和漢三才図会の豹脚の項に見たとおり、大鋸屑(おがくず)は蚊遣りに使われた。ただし、渡邉2014.ほか多くの論者は、古代には、建築部材を横挽きにする鋸はあるが、縦挽きのいわゆるカガリは見られないとしている。わずかに、吉川1976.において、古代にも縦挽きの鋸は存在したとする。そうでなければ、正倉院の赤漆文欟本厨子のケヤキの一枚板など、到底、楔割りでは板に成らず、ましてや玉杢部分などは得られないとしている。筆者は、言葉の成り立つ行程に思いを致すとき、利く鋸という意味でカガ(利)+ガリガリ(擬音語)→カガリ(ガガリ)といった展開で形成されたのではないかと推測する(注6)。
鋸(石神遺跡出土品と再現品、江戸東京博物館『発掘された日本列島2014』展示品)
シャボン玉については、喜田川守貞・守貞漫稿・生業下・さぼん玉売の項に、「三都とも夏月専ら売レ之。大坂は特に土神祭祀の日専ら売来る。小児の弄物也。さぼん粉を水に浸し細管を以て吹レ之時に泡を生ず。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386/160?viewMode=(102/645))とあり、吹き玉とも呼ばれた。吹き玉には他に、ホオズキを吹くものがある。同・女扮中・宝暦六年印本に所載少女図の項に、「此処女の所為は筆軸の如き管本を割り広げ、以レ之て鬼灯を弄する体也。今世も少女弄レ之。鬼灯実の種を去り空として弄レ之。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386/160?viewMode=(182/645)、漢字の旧字体は改め、適宜句読点を施した。)とある。ホオズキは古語に、「鬼灯(かがち)(酸漿)」という。酒折宮の関連でヤシホヲリの酒を見たとき、八俣遠呂知(八岐大蛇)の目の形容に、「赤かがち」、「赤酸漿」とあった。やはり、カガなる音があらわれる。
左:さぼん玉売(喜田川守貞・守貞漫稿、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386/160?viewMode=(102/645))、右:羽根突きとほおずき(同http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386/160?viewMode=(182/645))
また、吹き玉はガラス吹きのこともいう。ガラスの珠を作る際、管から息を吹いたからである。正倉院には、蜻蛉玉が数多く残される。羽子は蜻蛉を模したともいわれ、正月に羽根突きをすると夏に蚊に食われないで済むというおまじないともされた。一条兼良著・一条兼冬補・世諺問答(天文一三年(1544))に、「問て云。おさなきわらはのこきのこといひてつき侍るは。いかなる事ぞや。答。これはおさなきものゝ蚊にくはれぬまじなひ事なり。秋(あき)のはじめに蜻蜓(とんばう)といふ虫(むし)出(いで)きては。蚊(か)をとりくふ物(もの)なり。こきのこといふは。木連子(もくれんじ)などをとんばうがしらにして。はねをつけたり。これをいたにてつきあぐれば。おつる時(とき)とんばうがへりのやうなり。さて蚊(か)をおそれしめんために。こきのことてつき侍るなり。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2539657(7~8/63))とある。胡鬼の子の、蜻蛉が蚊を食うのを謂れとしている。この伝承からも、カガナベテは、カ(蚊)+ガ(助詞)+ナベ(隠)+テ(助詞)の意であることが確認される。
羽根突きは、数多く突くことを競った。数え唄を歌いながら突いた。たくさんの羽根突き歌がある。例えば、「一人きな 二人きな 見てきな 寄ってきな いつ来てみても 魚子(ななこ)の帯を 矢の字にしめて 九(ここ)の世で一丁よ」(小島ほか2009.、1438頁。「羽根つき歌」の項、赤羽由規子。)、「ひとめ ふため みやかし よめで いつやの むさし ななやの やさし ここのや とーお とーおで一貫貸した」(中田2009.、270頁)、「一子(ひとご)に二子(ふたご)、見(み)渡しゃ嫁子(よめご)、いつ(五)よりむ(六)さし、な(七)ーんのや(八)くし、ここ(九)のやじゃ十ょ」などという。尾張童遊集には、「ヒイヤフゥ。ミデヨ。イヽツデム。ナァナデヤァ。コウコデ十(トウ)ヲ くり返し十の処二十三十とかゆる計也 三州岡崎にては ひねふねふんだる だるまがよるもひるも 頭巾かぶり とをいた 如此くりかへしくりかえしつく」(浅野ほか1977.、375頁)などとある(注7)。すなわち、記紀の26番歌謡に「御火焼の老人」、「秉燭人」が当意即妙に答えたのは、その返し方自体からしても羽子突きで、数え唄の一種のように歌っていて、そのパロディーであったようである。歌う内容と歌う行為とが互いに自己言及しあう様相を呈している。
酒折宮で歌を返したのは、記に、「御火焼(みひたき)の老人」とある。カヒ(鹿火・蚊火)の番は、屋外の作業員である。屋外でのヒタキといえば、鳥の鶲(ひたき)である。記にオキナ(翁)と断ってあったのは、鶲の字に翁の字が現れる点からも頷ける。ショウビタキ(尉鶲)の頭部が灰色をしていて白髪っぽい姿に見えるため、翁の字が与えられたのではないかとされている。また、キビタキ(黄鶲)は、俗に京女といい、オオルリ(大瑠璃)は東男といわれる。みな、ガラス玉(蜻蛉玉)のように耀く目と、美しい羽を持つ鳥である。艾に関連したヒトルタマにあった火齊珠は、翡翠火齊といわれる美しい羽子のことを表すこともある。美しい鳥の羽と美しい宝石とが同じ言葉で表されるのは、羽子によって結びつくから納得がいく。輝(耀)くように美しい羽根というわけである。やはりカガなる音が表れている。それを筑波ならぬ衝羽根で突き合った。
ジョウビタキ(井の頭自然文化園)
「御火焼之老人」、「秉燭人」は、倭建命(日本武尊)のデリカシーに欠ける問い掛けに、完全に頭にきて歌を返した。彼のような随員が頭にかぶる被(かがふ)(蒙、冠)りは、倭建命(日本武尊)のような貴人がかぶる偉そうな冠とは異なり、烏帽子である。エボシとエミシの音はよく似ている。紀に「侍者(さぶらひひと)」と断ってあるから、侍烏帽子であろう。烏帽子の形態はさまざまで、いくつも形態がある。伊勢貞丈・貞丈雑記に次のようにある。
一、横さびのゑぼしは、素襖きたる時かぶるゑぼし也。今時は侍ゑぼしと云ふ。古は士農工商ともに常にかぶりたる平服なり。侍のみかぶりたるにはあらざれば、侍ゑぼしといひがたし。又近代は納豆ゑぼしといひ習はしたり。弥非也(今時田舎ノ寺ヨリ檀那ヘ納豆ヲ送ルニ、薄キ板ヲ三角ニ折曲ゲテ紙ヲハリテ底ニシテ、ソレニ納豆ヲ盛ル也。其納豆ノ入物ニ似タル故、納豆烏帽子ト云フナリ。)此の横さびのゑぼしも古はやはらかなる立ゑぼしにて、それを折りて三角のまねきを作りたる也。まねきは即ひれ也。是れもひれゑぼしの内也。今はこはくぬりかため、まねきをば切りはなしてとりおきにこしらへたる、故あらぬ物の様になりたり。
右は昔様とも京極様とも云ふ折かた也。図の一二の次第のごとく段々に折るべきなり。
〈〔頭書〕古ハ紗絹ニ漆ヌリテ作ルユヱ、ヱボシヤハラカ也。常ニキルユヱモメテシハヨル也。鳥羽院衣文ト云事ヲ始メタマヒシ以来、ヱボシヲ紙ニテ張ヌキニシテ、モメタルシワノ形ヲ木形ニテ打出シテ是ヲサビト名付ケタリ。木形ニテ打テバイカヤウニモサビノ形出来ルユヱ、サマサマノサビヲ作リタルナリ。〉
一、上古の折ゑぼしは(右のよこさびなり)うすくやはらかにて、立ゑぼしを折りて折ゑぼしにしたる也。さればまねきも(三角ナル所ヲ云フナリ)ふたへになりて袋の如し。其の袋の如くなる内へ髪のもとゞりを入れてかぶりしなり。……
一、ゑぼしのこゆひと云ふ物も、古と今替りあり。古の小結の形如左。
〈古の人は月代そる事なく、惣髪にてもとゞりをいたゞきの真中に上げて組緒の平きにて長く巻きてちやせん髪にゆひしなり。ゑぼしのまねきの袋の如くなる中へもとゞりを入れて、こゆひにてまねきにもとゞりをゆひそへておくゆゑ、かけ緒をせされどもゑぼしぬげぬなり。〉(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771946(27~28/83)、漢字の旧字体は改め、適宜句読点を施した。)
横から見れば、凸凹凸状になっている。萎烏帽子を烏帽子懸けで首に結い止めるため、必然的に烏帽子の中ほどは凹むことになる。筑波の嶺のような二嶺ある形である。彼はそのような形の侍烏帽子を被(かがふ)っていたのであろう。やはりカガなる音が現れている。その烏帽子被りが名歌を歌い返して、今、耀いている。やはりカガなる音が現れている。カガという語は、耀(輝)くというように、周囲の平板な目立たない地の部分と異なり、鮮やかに際立って目につく存在を表している。旁には翟(きじ)の字が入っている。キジは、「総角特起」する羽冠を持つ。筑波の嶺にふさわしい鳥ということである。
以上、無文字文化のなかに、筑波問答「かがなべて」歌を探った。これでもかというほどの洒落、なぞなぞに、圧倒される思いがする。文字に呪縛され、知識に飼い殺される以前の、豊かな言葉の知恵に、ヤマトコトバの源はある。文字という媒介なしに言葉をやり取りしている。商取引に譬えれば、言葉の物々交換ということになる。通貨を持たない物々交換は、需要と供給とが片務的ではありえず、必ず相互的に完全一致しなければならない。言葉において、文字という証文を持たない交渉は、言葉と事柄とが背中合わせにくっついていなければ成り立たない。これがいわゆる言霊信仰である。事柄を言葉として表すとともに、発する言葉がその通りの事柄になると信じなければ、物事をやり取りすることが叶わなくなる。無文字社会という社会の成立する前提として、言霊信仰という契約が暗黙のうちに取り交わされていた。本稿に見た「かがなべて」の歌問答のように、上代説話とは、言葉がその発せられる場において必然性をもつこと、すなわち、自己言及的(self-referential)、ないし、自己述語的(autological)な様相を帯びている。それこそが無文字社会の説話であり、上代の智恵であった。
逆に言えば、文字に兌換できない言葉は、必ず自己言及的、自己述語的である。そうでなければ、多くの人々に当該語の正当なることを共通認識とすることはできない。そんなそもそもの前提への問い掛けが、我々には今、求められている。これは、言語のビッグバン時点の謎をも呼び覚ますことであり、ほぼ未開拓の領野に位置している。言葉が自己言及的に説話に語り込められている時、その言葉も説話も行動も、すべて正しいと証明されるのである。
自己言及性については、エピペニデスの「嘘つき」のパラドックスから説き起こされることが多い。事の本質は、言明が主張することと、言明がなされる仕方との間に、語用論的な自己言及性(再帰性)が起こり得る点である。竹内2002.は、S・J・バートレット、P・スーパー編『自己言及』(Steven J. Bartlett, Peter Suber(ed.):Self-Reference;Reflections on Reflexivity, Martinus Nijhoff Philosophy Library, Volume 21, Martinus Nijhoff Publishers, 1987.)の「序論(Introduction)」に依りながら、その諸相をまとめている。そのなかの「人類学における再帰性」の項に、ウォーフ『言語・思考・現実(Language,Thought,and Reality)』が「言語学的な再帰性」について述べたくだりをさらに簡潔にし、「思考は言語によって決定され、思考はそれを表現するために言語に頼る、という主張は、それ自体再帰的である。なぜなら、言語学的相対性仮説は、まさに言語によって表現された思考の集合だからである。」(59頁)とまとめられている。
その再帰性を逆手にとって、言葉という集合を自己述語的に仕立て上げられれば、言葉どうしの循環的な振動によって、言葉が事柄と一体化するという離れ業が可能なのである。自明の理の証明である。仮に造語するなら、逆説ではなく順説、背理ではなく腹理、paradox ではなく interdox, transdox を構成するということである。言霊信仰はここに生まれる。竹内2002.は、「ユーモアにおける再帰性」の項を立て、「[言葉遊びによって生ずる意味の]再構成は、突然起こる反動的な意味の転換、ふつうは意表をついた殺し文句の意図が存在する場合のように、しばしばユーモアの中に含まれている。ユーモア、すなわち意味の異なった位相を素早く感知する能力や、再構成、独創性、遊びは、自己言及性を含みうる才能を織り込んでいる。」(62頁)とする。Bartlett & Suber, op.cit. に、「Three brothers move to California to start a cattle ranch. When they have bought the rand, they phone their mother, asking that she name their ranch. The name she suggests is; “Where the sun's rays meet.”」という例があげられている。場所がカリフォルニアだから、「sun's ray(太陽光線)/son's ray(息子たちのひらめき)」が交わるところ、という洒落を言っている(注8)。「御火焼之老人」、「秉燭人」の歌い返しは、場所が、新治、筑波、甲斐国酒折宮という設定の上で、素早くして過剰なる殺し文句を言っているのであった。もはや、heterophonidox とでも呼んだ方がよいのではなかろうか。微妙に音程の異なる旋律を一斉に奏でられて、苦虫を噛み潰すように聴かされているからである。なお、竹内2002.も指摘するとおり、自己言及性の裏面には、精神の機能障害がついてまわる(注9)。
この景行朝の筑波問答の作者が誰であったか、史実か机上の作か、といった問いは、もはやナンセンスであると解されよう。それらを含めた形で、聖徳太子(皇太子)と蘇我馬子(島大臣)も、なぞなぞ仕立てで「天皇記・国記・……本記」(推古紀二十八年是歳)を記した。これが上代説話のもとである。さらに引き継いだ天武朝の書記官も、「帝紀及上古諸事」(天武紀十年三月)を記定して、無文字社会から文字社会へと橋渡しした。みな、言葉の本質、真髄を知り抜き、知り尽くしていた天才たちであったといえる。したがって、文章の一つ一つ、言葉の一つ一つに十分な検討を加えることが、上代の知恵をよみがえらせる唯一の方法といえる。今日の思考の枠組みを当てはめて、理解できないものはすべて「神話」であるとして片づけることは、何ひとつ上代人の精神に近づいておらず、近づこうとする意思すら持たないことをさらけ出して恥じないものである。筆者は、「古事記・日本書紀・万葉集を読む」ことによって、上代の精神誌(psychography)を示す試みを行っている。
(注)
(注1)本稿は、記紀25・26番歌に、多重に多相に多様に仕掛けられているなぞなぞについて検討している。同歌は、連歌の始まりとする説が古くより行われている。鈴木1981.に、「和歌の会の余興として連歌が詠(よ)まれたが、その際に「なぞなぞ」も行われることがあった。源師時(もろとき)の日記『長秋記(ちょうしゅうき)』保延(ほうえん)元年(一一三五)六月六日の条に、「於レ院有二和歌一……事畢、有二連歌并(ならびに)なぞなぞものがたりの事等一」と見えているのは、その証となる。ここにいう「なぞなぞ物語」は、或(ある)いは純然たるなぞ掛け遊びをさすのではなく、『実方(さねかた)朝臣集』や『讃岐入道(さぬきのにゅうどう)集』に見られるような、「なぞなぞ」を和歌に詠(よ)む遊びをさしていっているのであるかも知れない。」(57頁)とある。確かに、なぞなぞの問答をしている連歌はあるけれども、長秋記の記事は、「不読応製臣上字、事畢有連歌……」とあって、歌会がしらけて終って仕方ないから連歌でもするか、ついでになぞなぞ物語、というように、興が乗って行っていない。なぞなぞを歌に仕立てるには、生憎の日であったようである。
(注2)拙稿「神武記東征伝の槁根津日子について」参照。
(注3)拙稿「ヒルコ考」参照。
(注4)御狩神事については、柳田1990.のなかで、「三つの例[安房上総のミカリ・オミカワリ、摂津西宮の正月九日の忌籠り、阿波奥木頭(おくきとう)の北川のミカリ・ミカワリ]を綜合して考えると、ミカリが御猟ではなく、身を替えるという意味のミカワリであったことがややわかる。」(306頁)としている。これには反論もあり、小川1999.には、「獣肉を神饌(しんせん)とする祭りとの関連も考える必要があろう。」(320頁)とする。当該の西宮神社のそれについても、吉井1989.は、「西宮の場合を仔細に見ると、一概にミカリが直ちにミカハリに通ずるものと言うことも出来ないように思われる。」(282頁)とある。ただ、古来の伝統は、幾重にも織り成されてできたテクスチャーであるから、意味合いを多重に考慮しなければならないであろう。忌籠りの形態は、卵(かひ)という語と軌を一にするものと筆者には思われる。
西宮のえべっさんは、もと広田神社の摂社である。広田神社の御狩神事は、住吉大社の神事に由縁があるとされている。夷社のことは、住吉太神宮諸神事之次第記録に、「先づ九日の夜、江比須(えびす)の社の御前に於いて酒肴し巫女舞ふ」や、住吉松葉大記に、「先づ九日の夜、江比須(えびす)の社の御前に於いて、巫女舞踏・酒肴等の事、今曾て其の名をだも知らず」などとある。住吉大社は、記に、「墨江大神」とあるとおり、スミノエ、すなわち、江という地形にあった。難波が「津」、住吉が「江」、西宮が「洲」ということになる。これらの関係については、後考を俟ちたい。
(注5)西宮市史、464頁。
(注6)吉川1976.において、「[埼玉県羽生市]永明寺古墳[(ようめいじこふん)六世紀]出土鋸は、二人挽きの対向して挽く鋸で、おそらく杉や桐等の軟質材の縦挽に使用した鋸であろう。」(30頁)、「この[群馬県安中市松井田町愛宕山遺跡(八世紀)出土]鋸は縦挽鋸である。それは、鉄弓の構造をみてもわかる。……また、歯形が縦挽鋸の歯形と判定し得る下向歯である。中央から反対になる歯列をもつ。この二つは縦挽きしたことの決定的な証拠と言い得る。」(37頁)とある。
もう少し肌感覚として考えたとき、非効率ということと不可能ということとは違うことではないかと思う。筆者の経験で恐縮だが、3寸5分のヒノキ角材を、長さ2mにわたり、ホームセンターで売られている取替刃式の最も安価な鋸で対角線に「縦挽き」したことがある。縦挽きか横挽きかは、使い勝手の問題であるように思われた。
(注7)村尾節三・南簷零滴の「羽子突歌」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980178(57~58/98))参照。採譜を多く録したものとして、尾原2009.を挙げておく。
(注8)ユーモアにおける再帰性に関して、東森2015.に載るジョークを一例あげておく。全編にわたって興味深い検討が行われている。
(1) Why should you never date a tennis player?
Because love means nothing to them.
(2) Beware of tennis players―love means ‘nothing’ to them.(157頁)
(注9)近現代においても、自己言及について考究する必要性は繰り返し指摘されてきた。ここでは、難解な論理学に溺れず、また、わかった気にもならずに済む指摘について瞥見しておく。鈴木2014.に、「フォン・ノイマンの論文[von Neumann.J. (1928) Zur Theorie der Gesellschaftsspiele, Mathematische Annalen, 100: 295-320]のタイトルは、「spieleの理論」ではなく、「Gesellschaftsspieleの理論」となっています。……私は「Gesellschaftsspiele は社会的ゲーム」「Gemeinschaftsspiele は遊戯」かなと思いましたので、フォン・ノイマンの論文のタイトルを、『社会的ゲームの理論について』としました。」(30~31頁)と述懐があり、ジンメル1979.の記述が引用されている。そこには、「社会的遊戯(Gesellschaftsspiele)という表現は、深い意味において重要である。人間のあいだの一切の相互作用形式、社会化形成、例えば、勝利への意志、交換、党派の形成、奪取の意志、偶然の邂逅や別離のチャンス、敵対関係と協力関係との交替、陥穽や復讐―これらは何れも、油断のならぬ現実では目的内容に満たされているのに、遊戯となると、これらの機能そのものの魅力だけを基礎として生きて行く。……本当の遊戯者から見れば、遊戯の魅力は、社会学的に重要な活動形式そのものの活気や僥倖にある。社会的遊戯には、更に深い二重の意味がある。すなわち、それが実質的な参加者たる社会のうちで行われるという意味だけでなく、加えて、それによって実際に「社会」が「遊戯」になるという意味がある。」(81頁)とある。
ジンメルの主張を、彼の挙げた例示について見ると、「マラトンの戦闘において「ギリシア人」と「ペルシア人」とがどのように振舞ったかを問題とする。もし個人のみを現実と認める見解を正しいとすれば、われわれがそれぞれ個々のギリシア人やそれぞれ個々のペルシア人の行動を知り、これで彼のすべての生活史を知り、それから戦闘における彼の行動を心理的に理解できるようになり、そこで歴史的認識はそのときに、そして初めてその目的に達するであろう。」(ジンメル2004.、5~6頁)と、痛烈な皮肉になっている。犬飼2011.による解説に、「ジンメルは[マックス・]ウェーバー流の考えをする人々に向かって、「個人」に終始するのならば、「マラトンの戦い」に参加した兵士全員について悉皆(全数)調査をしなければならないだろう、仮にそれが出来たとしても、そんな作業で「マラトンの戦い」が理解できるのかと挑発」(297~298頁)しているのだという。記紀万葉に照らしながら飛躍していえば、古事記を近代にいう「作品」と見なすことで、古事記はわかるのか、ということである。
犬飼2001.は、ジンメルの著作を読む際に、「ジンメル的な知」といった独自の知的世界を想定しなければならないのではないかと考えている。そして、「そもそもジンメルの多くの著作には出口というものが見えにくい。特定の対象について特定の方法によって必然的な結論・方策(=出口)を引き出そうとする意図が強くないからである。目的合理性という概念を考えるならば、ジンメルの議論には「目的」にあたるものがはっきりとは出てこない。目的が定かでないから目的に向かうための合理性を設定できない。出口のない議論という言説世界は、特定の原因を見つけて合理的な解決策を提示するといった型の言説とは別のものである。近代(主義)的な知性を特徴づける信念とは、すべての現象には原因があって結果があり、人間はそれらの全過程と過程の法則を合理的に究明できるというものである。しかし、ジンメルにはそれらが希薄なのである。」(206頁)とする。
ジンメルは、Gesellschaftsspiele(社会的遊戯)に思い至ったため、「出口というものが見えにくい」ことになっている。ところで、ヤマトコトバの形成過程、なかんずく、成熟過程にある記紀万葉の記された飛鳥時代とは、Gemeinschaftsspiele(遊戯的社会)の時代に他ならない。遊戯のなかで自己完結することを志向する社会である。行動においては、神功皇后の言い伝えを信じ、それに準えて斉明天皇が行動している。言説においては、言い伝えという説話に言葉を塗り込めるように自己言及を繰り返し、それによってヤマトコトバが厚みを増して言葉として豊潤化していった。言葉という巾着袋に事柄をぶち込んでいって紐を引き結び、確かなものとして人々のあいだに通用させていった。「出口」どころか「入口」も見えないようにした。枕詞とは、Gemeinschaftsspiele の一つの象徴的な表れである。すなわち、基本的に無文字社会の上代を「紐解く」ことには、文字社会時代の歴史研究とは異質な難しさがもう一つ介在していることに、十分に思いを致さなければならないのである。
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※本稿は、2015年、2018年の旧稿に加筆、整理したものである。
(English Summary)
In this article, I will study about the customary epithet "Kaganabëte(かがなべて)" in Kojiki and Nihon-shoki. "Kaganabëte" means that mosquitoes(蚊(か)) are(が) hiding(隠(な)べて) originally, and it is an overlapping of various words that "Kaga" shows. In the age of the non-character, the word play, self-reference to the word itself, was flourishing.