古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

お練供養と当麻曼荼羅 其の四(トネリ(舎人)とは、一緒に練り歩くことによる 其の五)

2015年09月22日 | 古事記・日本書紀・万葉集
(承前)
(補注3)紙漉きにおいて、ネリという粘剤は重要とされる。増田勝彦「正倉院文書料紙調査所見と現行の紙漉き技術との比較」宮内庁正倉院事務所編『正倉院紀要第32号』(同発行、平成22年)に、「粘剤の役割として、簀の水漏れ時間をコントロールすること、繊維同士の凝集を防いで分散を促し地合を良好にすることの、2点が指摘されているが、実験の結果からは、繊維層の簀上への定着にも大きな効果があることが確認できた」(95頁)とある。紙を乾かす時に板に貼りつけ、剥がす時にも、ネリがあるのとないのとでは違いがあるのであろう。増田先生は、「漉桁の操作に関しては、東洋の手漉き紙では、簀の上を紙料水位が流れることにおいて共通しており、東洋に広く見られる技術的特徴と言える。しかし、漉桁枠を置いて、比較的長い時間紙料水を留め置いて揺動を繰り返して紙料水の流動を促し、良好な繊維配向を得ることについては、東洋の中でも日本に特徴的に見られる操作である。……現代の手漉き技術が奈良時代から連綿と続く技術であること、また日本の手漉き紙の特徴は、紙漉きの中でも特異的な、上枠にため込んだ紙料水を積極的に揺動させるところに、あると言えるのではなかろうか。そうであれば、この和紙の技術を揺動法即ち『揺り漉き』と呼ぶことを提唱したい」(93頁)とされている。

 古代の紙漉きの技術について、溜漉きか流漉きかといった議論が行われている。言葉の感覚からすると、揺動させることで粘剤のネリがなくてもうまい具合に紙が漉ける技術は、熟練の技によるものであると想定することができる。つまり、漉桁枠の上手な動かし方は、練れた技術でネリである。漉桁枠を揺り動かすとき、簀上の繊維を確認するために顔を左右に面練るのは、溜漉きの技法(「漉く-越前和紙2/2」7:00~)かと思われる。紙漉きの漉枠の動きとトラのなわばり巡回活動、踊念仏のそれは、相似するということである。そして、熟練せずとも上手に紙漉きができる添加粘剤が見つかって、同じくネリと呼ばれ出したということであろう。同じことなのだから、同じ言葉で表す。言=事であるとする言霊信仰に適っている。なにしろ、ネリなる語は、ネル(練・錬)の連用形として成立していると考えられる。言葉の話であるから、科学的に証明することはできないが、形而上学的には正しいと考える。ご批判を賜わりたい。推古紀に、紙と墨の伝来記事がある。

 十八年春三月、高麗の王(きし)、僧(ほふし)曇徴(どむてう)・法定(ほふぢゃう)を貢上(たてまつ)る。曇徴は五経を知れり。且(また)能く彩色(しみのもののいろ)及び紙墨(かみすみ)を作り、并て碾磑(みづうす)造る。蓋し碾磑を造ること、是の時に始るか。(推古紀十八年三月条)

 このときの技術がどのようなものであったかはわからない。墨を固めて形にするのに、共練濃=トネリコを使ったとすると、紙の粘剤にもトネリコを使ったかもしれないが、不明である。「并て碾磑造る」の碾磑が、水車による臼のことで、叩き潰すのに使われた可能性は残る。あるいは、むしろ、熟練の練れた技術を互換していしまう材料のことをトネリコと呼んで、タモという木から採れるので樹種の名もトネリコというようになったのかもしれない。
紙漉き道具(川崎市立日本民家園にて)
 寿岳文章『日本の紙 新装版』(吉川弘文館、平成8年)に、大関増業(ますなり)編「紙漉録」『止戈枢要(しかすうよう)』(文化11年~文政5年)が付録されている。紙作りの最初の段階で、楮を採ってきて、蒸し、皮を剥ぎ、水で晒し、釜で煮る。その釜で煮る段階で、「練る」という語が登場している。

灰汁取図如此、桶入取る也。但、上樫木之灰をよしとす 楮三〆めを練にハ上灰八九升も入置に、図のごとく釜たらし入、煮立、楮を入ルなり。併、不浄の気而もあれハ如何ほど上灰ニても一切不練。右様之事稀に有之事也。其節は社人山伏などにて祈祷致し、清れハ又練ること妙あり。(付録22頁)
右の図ごとく楮能打こなし、もちのやうに和らかに製し上、舟の中へ入、図のごとき細き棒を以かきちらし、更合上紙に致、のり入にハ上白の餅米摺鉢而よく摺潰し、木めん布袋入、志ぼり出し、右白き水を柄杓にて折々入かき廻し漉なり。是、杉原奉書の類みな如斯又なりといふもの布袋入、図のごとく船の片隅入置、折々志ぼり出しかき廻し、更に是に加減有事也。右ねりハ山より持来り上皮を削取、真の木と皮との間に白所有。其真白処を削取、袋入、甚宜し也。木の肌山卯の木に類し而卯の木に非ず。又作りねりと云あり。是ハ畑江彼岸の比蒔置、其秋彼岸のころ出来もの也。花ハ夏中さくもの也。楮を入かき廻しねり袋の躰(付録25頁)

 トロロアオイの根によって作られるネリは、「作りねり」といい、山で採ってきた樹液のものは、「ねり」である。それ以前に使うものは、「のり」らしい。また、上灰を入れて釜で楮を煮ることを「練る」と呼んでいる。熟練者がその技量を以て首尾よく巧みにしなやかに作り上げること、それがネル(練)ことであったようである。そして、技術的に未熟な者でも、漉くときに入れると即席的に上手に漉ける魔法の粘剤、アンチョコ的な材料を、ネリと呼んでいたらしいとわかる。

(注2)和辻哲郎「面とペルソナ」『偶像再興 面とペルソナ』(講談社(講談社文芸文庫)、2007年)に、「[伎楽面の]顔面は実際に生きている人の顔面よりも幾倍か強く生きてくるのである。舞台で動く伎楽面に自然のままの人に顔を見いだすならば、その自然の顔がいかに貧弱な、みすぼらしい、生気のないものであるかを痛切に感ぜざるを得ないであろう。芸術の力は面において顔面の不思議さを高め、強め、純粋化しているのである」(263頁)とある。筆者は、今日、ゆるキャラと呼ばれる被り物をしたご当地キャラクターに、和辻先生のペルソナ論とはおそらく別の意味合いを見ている。観光で訪れて、ゆるキャラと一緒に写真を撮ると、ゆるキャラはイリュージョンであって、生身の人間は比較する対象に足り得ないと、当たり前のことに気づかされる。我々がどんなにいい笑顔をしても、おちゃめなピースサインを出しても、ゆるキャラの方が主役のスナップ写真でありつづけ、それでもって良い想い出として残される。我々は、まるで、行道の菩薩面を被った人を介添えする舎人の立場に立たされているようである。つまり、人は、伎楽面や能面、行道面、その他の被り物に、顔面の延長とは言えないものを感じている。化粧やプリクラの自動補正機能は、人間の顔面の延長である。したがって、オフ会やお見合いでのふだんの顔や、その化粧をさえ落としたすっぴんとの落差に、当惑させられたり、どん引きしたりする。けれども、レスラーの付けたマスクが脱がされたとき、そういうものなのかと変な納得に至ることがある。仮面が仮面であると予め納得の上で見ており、他界を含めた世界秩序が確認されているわけで、儀式や演劇が終わったからといって混乱することはない。化粧とコスプレは意味するところの次元が違うという見解は正しいのであろう。
 木村重信「仮面と岩壁画」『木村重信著作集第四巻 民族芸術学』(思文閣出版、2000年)に、「牧畜民であろうが、農耕民であろうが、超越的存在を意識する。しかし、その超越的存在に近づくに際して、農耕民は仮面を用いる。仮面は……中間的な存在であるから、ある意味では類概念だといえよう。つまり農耕民は仮面という類概念を媒介するのに対して、牧畜民はそういう中間項なしに、いきなり超越的存在に向かう。……農耕民にせよ、牧畜民にせよ、あるいは狩猟民にせよ、人間の集団が他界観をもつ、つまり死生観をもつことは、ある意味でかなり人類のユニヴァーサルな文化と考えていいが、その場合に、ユニヴァースな因子の一環として必ず出てくるのは、そういう超越的存在とどうやって行き来するかという問題である。その際に、農耕民は仮面を用い、遊牧民は現実の家畜を用いるわけである。したがって、私のいう類概念というのは、一種の媒介項であって、ある意味で役ないし役割の概念と考えられる」(30頁)とされている。美術評論の域を突き出たご見解には、ただただ頭を垂れるばかりである。
仮面を被って手を繋いで踊る人(舎利容器、中国伝スパシ、木製布帖彩色、6~7世紀、大谷探検隊将来品、東博展示品。クチャの亀茲楽。オアシス都市も農耕民である。)
 民族学の立場からは、吉田憲司「仮面と動物」奥野卓司・秋篠宮文仁編著『ヒトと動物の関係学第1巻 動物観と表象』(岩波書店、2009年)に、次のようにある。

 地域や民族、さらには時代を問わず、世界の仮面に共通する特徴としてまずあげられるのが、ほかでもない、それが、人びとにとっての「外」の世界、言い換えれば人間の知識や力の及ばない世界、つまり「異界」の存在を目に見える形に仕立て上げたものだという点なのである。……アフリカやメラネシアにおける葬儀や成人儀礼に登場する死者の霊や精霊、動物を表す仮面だけではない。ヨーロッパでいえば、ギリシアのディオニソスの祭典に用いられた仮面から、現代のカーニヴァルや越年際に登場する異形の仮面や魔女の仮面に至るまで、また、日本でいえば、能・狂言や民俗行事のなかで用いられる神がみの仮面から、現代の月光仮面や仮面ライダー、ウルトラマンに至るまで、仮面は常に、世界の変わり目や時間の変わり目において、「異界」から一時的にやって来て、人とまじわって去っていく存在を可視化するために用いられてきた。そこにあるのは、「異界」を、「村」と区別される「森」に設定するか、「町」と区別される「山」に設定するか、「地球」と区別される「月」に設定するか、あるいは「銀河系」と区別される「別の星雲」に設定するかの違いだけである。確かに、入手できる知識の増大とともに、人間の知識の及ばぬ領域=「異界」は、村や町をとりまく森や山から、月へ、そして宇宙の果てへと、どんどん遠くへ退いていく。しかし、世界を改変するものとしての「異界」の力に対する人々の憧憬、「異界」からの来訪者への期待が変わることはなかったのである。(131~132頁)

 お練供養で菩薩面を着けて練り歩くとは、「浄土(あの世)」から「娑婆(この世)」へ来て再び「浄土」へ還る、異界からの来訪者を演じることである。異界に近しい適役は、生産年齢から外れたお年寄りか幼子である。各地で稚児行列も行われる。神に近しい存在と認められる。お練供養の場合も、あの世という異界に近しい存在だから、年長者に委ねられてしかるべきである。木村先生の仰られるように、仮面が超越的存在の類概念であること、吉田先生の仰られるように、異界の力を形にしたものであると捉えると、菩薩面を着ける、被ることとは、仏教的な世界観のなかで超人的存在を演じること、それはまさしく菩薩になるということである。
 和辻先生の議論を引かれている坂部恵『仮面の解釈学〔新装版〕』(東京大学出版会、2009年)に、「〈ペルソナ〉としての〈わたし〉は、〈わたし〉―〈他者〉、〈主語〉―〈述語〉の分離的統一という構造、〈他者〉という述語による限定ないし刻印という、〈仮面〉の構造を、その根本において、もっている。このことは、精神分裂症を典型とするいわゆる人格の解体という現象において、いわば裏側から照し出すという形で、一層あきらかにたしかめられることになるだろう」(91頁)とあるが、仮面という語の譬えられ方を考慮したうえで、慎重に検討されなければなるまい。渡辺公三「仮面」鶴見俊輔・粉川哲夫編『コミュニケーション事典』(平凡社、1988年)に、「現代人は様々な日常生活の状況に応じて〈仮面=人格〉を使い分けるという比喩的な意味で〈仮面〉ということばがよく用いられる。この〈人格〉の語源ペルソナも、エトルリア地方の死者にかぶせるマスクの呼び名に由来するといわれる。しかし、具体的なものとして、儀礼や祭りに用いられる仮面の特徴は、日常生活とは異質な状況の中に〈出現〉してくる点にある」とされている。譬えとしての「仮面」という用語を宛がう際、語が独り歩きしないように見極めなければならない。
 幸いなことに、社会学においては、アーヴィング・ゴッフマンが役割と自己像とについて興味深い検討を加えている。そこでは、「自己」という概念の上位概念に「個人」という語を当てているようである。E・ゴッフマン、佐藤毅・折橋徹彦訳『出会い』(誠信書房、昭和60年)に、「個人は、それぞれ一つ以上のシステムまたはパターンに関与させられており、したがって、一つ以上の役割を演じているというのが、役割分析の基本的仮定になっている。それぞれ個人は、いくつかの自己を持つことになり、それらの自己がどのように関係しあっているかという興味ある問題が生じてくる。役割についての伝統的なパースペクティブによれば、人間のモデルは、意味的な関連を互いに持たない、いくつかの役割からなる持ち株会社 holding company のようなものである。そして、われわれの新しいパースペクティブにおける関心事は、個人がこの持ち株会社をどのように経営していくかということを見い出すことである」(91頁)とある。お練供養において、菩薩の面を被って行道することは、菩薩という役割を担うこと、すなわち、その人が菩薩という会社を買収して子会社化することである。さて、この菩薩株式会社は、経営実態のない、それこそ仮面カンパニーである。富を産まない。役に立たない役である。そんな会社を傘下に置いて何が面白いのかと考えるのは、おそらく青二才の着想である。すなわち、逆に、生産性が高くてROEの高い会社、すばらしい役割を担っていると思っていた自己たちは、実のところ、あの世へは持って行かれないと気づかされる。何を齷齪しているのか、不思議な悟りに導かれる。そのとき、いわば、人生の修練が起こる。人生というものを練り上げる。そのネリにもってこいの役割が、菩薩株式会社の社長を兼務して橋を練り歩くことなのであろう。練れた人になるには、むろん、他の役割(自己)を社長としてきちんと果たしていなければならないし、一緒に歩く「舎人(とねり)」を買って出てくれるだけの人望も必要である。

(追補注1)
 応神紀に「麋鹿」とある。ほかに、「是の野に麋鹿甚だ多し。気(いき)は朝霧の如く、足は茂林(しもとはら)の如し。臨(いでま)して狩りたまへ」(景行紀四十七年是歳条)とある。和名抄に、「麋 四声字苑に云はく、麋〈音屓、漢語抄に於保之可(おほしか)と云ふ〉は、鹿に似て大きく、毛斑ならず、冬至を以て角を解く者也といふ」、新撰字鏡に、「麞 諸羊反、平、久自加(くじか)、又於保自加(おほじか)」とある。このオホジカが現在の何に同定されるか、調べられているのかさえ管見にして筆者は知らない。箋注倭名抄は、漢籍に当たっているばかりである。和名抄の、毛に斑点がないという記述はわからなくさせるとともにわかるようにもさせている。列島には現在、大きな鹿としては、北海道にエゾシカがいる。ホンシュウジカよりも体が大きいから、第一候補として挙げられる。体の大きさは、ベルクマンの法則に当てはまってか、北へ行って寒くなるほど大きくなる。ただ、エゾシカも夏毛には鹿の子模様がある。とはいえ、アイヌの人たち、古墳時代や飛鳥時代の蝦夷(えみし)は、エゾシカの毛皮を使う際、目的は防寒用である。すると、毛の量の豊富な冬毛を好んだであろう。それをヤマトへの貢物にもしていたとすると、ヤマトの人は、エゾシカには斑紋はないと錯覚させるに十分であったに違いあるまい。そして、和名抄に、冬至に角を解くとあるのは、春に自然と脱落することではなく、ヤマトでの“常識”、五月五日に袋角を薬猟して、同時に鹿の子模様の毛皮を鞣して手に入れる方法をとらず、蝦夷が冬場に肉や毛皮を目当てに狩ることを指しているものである可能性がある。角は別に骨角器として利用されたのではないか。特殊品として、トロフィーを製作し、それが倭にもたらされたということかもしれない。
エゾシカ(上野動物園にて、9月下旬撮影)
織田東禹「コロポックルの村」(部分)(水彩・額装、明治40年(1907)、東博展示品)
 第二候補に、トナカイが挙げられる。トナカイは斑点が明らかではなく、しかも、オスの場合には角が冬に入ると落ちてしまう。クリスマスに角を生やしてサンタクロースを導いているのはメスである。シカの仲間でメスに角が生えている珍しい例である。シベリアからサハリン北部、カムチャッカ半島に生息しており、アイヌの人たちは毛皮を活用してトナカイと呼んでいるから、それが倭へもたらされていたことがあった可能性がある。
トナカイ(多摩動物公園にて)
村上貞助筆『北夷分界余話』(文化7年(1810)、国立公文書館蔵、「ようこそ歴史資料の宝庫へⅡ」展にて。~12/19(土)まで。)
 第三候補として、大陸のシカがもたらされた可能性もある。もともと、ニホンジカは、大陸から列島へ人為的に連れて来られたという説もあるようであるが、筆者は不勉強にしてわからない。大陸のシカが、倭にふつうに見られるシカよりも大きいのかどうか、これまた不勉強でわからない。ご教示頂けると幸いである。
獣文飾板(伝韓国慶州出土、初期鉄器~原三国時代、前3~前1世紀、小倉コレクション保存会寄贈、東博展示品)
 いま、人の頭が「麋鹿」の頭部で作ったマスク(トロフィーのようにしたもの)に入るかどうか、被れるかどうかを問題にしている。応神紀に記される日向の諸県君牛が被ったそれは、記述に「唯角著ける鹿の皮を以て衣服とせらくのみ」と明記されているから、木製や乾漆製の動物仮面ではなく、実際のシカの頭部付きの毛皮であったに違いない。正倉院などにその類のものは何ら見られないが、皮革製品はとても残りにくい。しかるに、諸県君牛は日向からの再訪途中で播磨まで来た時、淡路島で狩りをしていた天皇に見つけられている。宮崎県のほうにエゾシカやトナカイはいない。キュウシュウジカはホンシュウジカよりも少し小さい。古墳時代から飛鳥時代にどうであったかについては、動物考古学の調査に当たって頂きたい。筆者は、彼がそれ以前に宮仕えしていた時の賜物として、エゾシカかトナカイの全身毛皮かトロフィーを頂戴していたのであろうと推測する。大事な賜物だから、髪長媛を献上するに際しても被ってきたという話ではないか。ホンシュウジカ、キュウシュウジカのなかでも大きなシカのことを「麋鹿」と呼んでいる可能性がないわけではないが、景行紀の記事も、駿河でその地の賊が日本武尊を欺くために語られたことである。「気は朝霧の如く、足は茂林の如し」などという形容が使われている。こういった形容は、過剰である。雄略前紀の、「鹿」狩りに連れ出して暗殺する際の誘い文句にも、「其の戴(ささ)げたる角、枯樹(かれき)の末(えだ)に類(に)たり。其の聚(つど)へたる脚、弱木株(しもとはら)の如し。呼吸(いぶ)く気息(いき)、朝霧に似たり」とある。生きている姿を見たことがない大きなシカを「麋鹿」という言葉で表わしていると知られよう。以上から、「麋鹿」とは、エゾシカかトナカイのことである蓋然性が高いといえる。そして、「麋鹿」の頭部だけの剥製を目にしたヤマトの人は、慣れ親しんでいるホンシュウジカに当てはめて考えたとき、不自然に頭の大きなもの、すなわち、トラについて伝え聞くことによく似ていると感じられたのではなかろうか。
榊鬼(芳賀日出男『日本の民俗 祭りと芸能』KADOKAWA(角川ソフィア文庫)、平成26年、72頁より)
弥勒(ミルク)(岡本太郎・岡本敏子『岡本太郎の沖縄』NHK出版、2000年、57頁より)
 さて、せんとくんはじめゆるキャラは、多くの場合全身被り物である。特に、人は、人や擬人化可能性のある相手の特徴を顔に負っているため、頭部の比重を大きくすることによってアピールしようとする。神に近しい童子・童女の体型の化け物となっている。せんとくんがはじめて公開された時、気持ち悪いといわれて物議をかもした。“きもかわ”の先駆けであった。同様に、頭にすっぽりと被る伎楽面の場合、5頭身になり動きも少ないことになる。演技という面で制約が課されるが、心配する必要はない。存在自体が演技である。それを目にした倭の人たちにとって、伎楽の呉女や崑崙、酔胡従などは、きもかわの唐様かぶれである。かぶっているからかぶれている。乾漆製のものなど漆にもかぶれている。だから頭部が腫れている。張りぼてである。言葉の上で当たり前の現象が起こっている。ゆるキャラは動きも緩い。子供っぽいし、わざとらしい。伎楽では、聞き慣れない音楽にはやしたてられ、ばかばかしいドラマが演じられる。見物客は、あれは異国のもの、ひょっとすると異界のもの、大げさで虎みたいなものと思われたであろう。騙されたと思ってお芝居を見ていればいい。それぐらいの適当さをもって受け取られたのであろう。お練供養も騙されたようなものであるが、浄土教の思想や中将姫の物語など、いろいろな“心”まで複合させ、演技する人々の“心”のお芝居として永続した。
 今日的課題に、ふなっしーがある。“彼”は船橋市の非公認キャラクターとして登場した。頭部と胴体を連続させる衣装に仕立て、ご当地キャラの被り物の概念を覆し、猛烈なスピードで動く。そしてよく喋り、その発言内容は現実的で“大人”である。我が国の仮面文化の一大画期である。仮面が、神に近しいものを表そうとすることさえ反転させてしまった。あるいは、彼が登場するバラエティー番組とは現実の鏡像であり、その世界に往き来するとは来迎会の往還と同じことなのであろうか。現代社会において、個人は、確実に、「持ち株会社」として存立していることを窺わせてくれる。

(付記)トラとはどのような動物であるか、毛皮だけを目にした倭の人は、大陸で檻に入れたものを観察し、その内容を伝聞して頭のなかで再構成したと筆者は推測しましたが、倭の人は朝鮮半島へ古墳時代にたびたび行っており、それで知ったといえるのではないかとのご意見を頂戴しました。尤もなことであり、言葉の上では、朝鮮語のタイラ→トラ説にも一理あるといえます。筆者は、新しいヤマトコトバ、いわゆる和訓作りには、人々に新語が納得されるために、無文字社会ゆえの“頓智”がなければならず、分かり合えなければ新語は流通し得ないと考えております。外来語を記号変換のように利用できるのは、文字があれば容易であっても、(漢語や仏語は漢字で、今日ならカタカナで表記する。)音だけで伝え合うことができるのかどうか、ピジン・クレオールのような環境下にあったとも思われず、難しいのではないかと考えております。情報化社会とは違うということです。万葉語に「双六(すぐろく)」といった漢語が見られますが、朝鮮語であると確かにわかる語としては、紀に、「王(コニキシ)」、「王子(セシム)」、「太子(コヨシム)」ほか、官位に関する語が多くあるようです。日常的な語ではなく、特殊なればこそ面白がられたのではなかろうかと推量しております。いずれにせよ、多方面からの研究が欠かせないことを示唆して頂き、また、飛鳥時代の人に聞いてみなければわからないことを研究することの“凄さ”を再認識させて頂きましたこと、記して謝意を表したいと存じます。
マギー司郎の手品にかかったトラ(白地花卉鳥獣文緙糸、明時代、16~17世紀、東博展示品)

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