(承前)
世田谷・浄真寺のお練供養(1990年代、先頭に風流花笠が行っている。)
なお、奈良盆地の西の山に当たる信貴山の張子の虎については、その縁起が著名である。聖徳太子の毘沙門天の話である。時代的にすべて飛鳥時代に遡るもので、お練供養とは別の思考、観念の産物によって虎が登場していると考えるのが穏当である。それでも、張子である点に関しては、共通点を見出すことができる。お練供養は世田谷の浄真寺(九品仏)ではお面かぶりと通称されている。お面を被って歩くと介添え役「と練り」歩く結果となることは先に論じた。それとともに、そのお面は、軽量化が図られなければならない。自然と、張子、張りぼてが求められることになる(補注2)。仏像の制作技法として、奈良時代を盛期として乾漆像が多く採用された。石田尚豊・田辺三郎助・辻惟雄・中野政樹監修『日本美術史事典』(平凡社、1987年)、「乾漆」の項に、中国での乾漆技法、夾紵(きょうちょ)についての副島弘道先生の解説が載る。「夾紵像は石、塑、金属像と比べて軽量であり、そのわりに耐久性に富む。漢代以来の伝統的な夾紵技法が、仏像を奉じて練り歩くための行道像や皇帝の偉業を記念する等身像の製作に用いられたことは、目的にかなった合理的な技術の採用であり、これらに夾紵像発生の一因が求められよう」(216頁)とある。そして、日本の乾漆仏像の技法として、「この[法華堂金剛力士の乾漆像製作途中、その張子像の]表面を漆に細かい植物繊維(杉の葉をついた抹香かともいうが不明。現在ではヒノキの挽き粉を用いる)を混ぜてペースト状にした木屍冠に木屎漆(こくそうるし)を用いて塑形する」(217頁)と記されている。
夾紵大鑑(中国、戦国時代、前5~前3世紀、径1m38cm高50cm、39㎏、麻布・粉末・黒漆・赤漆・金ほか、伝河南省輝県出土、大倉集古館蔵、東博「トランク」画像より)
ミイラのマスク(エジプト出土、亜麻布・漆喰のカルトナージュ、プトレマイオス朝時代、前323年~前30年頃、東博展示品)
ペースト状の木屎漆とは、ヤマトコトバで表現するなら、練られた漆ということであろう。ねりかね、ねりぎぬ、などと同じである。新撰字鏡に、「錬 力見反、練字同、又鐗二字同。▲(金偏に右の口の代わりに匕、その下に日)也。冶金也。△(金偏に隋の旁部)也。祢利加祢(ねりかね)」、和名抄に、「練 蒋詞切韻に云はく、練〈郎旬反、祢利岐沼(ねりきぬ)〉は熟絹也といふ」とある。乾漆の仏像、伎楽面の充填材料に用いられている黒褐色の何かを混ぜた漆については、「これとよく似た性質をもつ充塡材料としては、東寺兜跋毘沙門天像、同観智院五大虚空蔵菩薩像、清涼寺釈迦如来像その他の中国から舶来されたの木彫像に多く用いられている『練物(ねりもの)』の例がある。……法隆寺伎楽面の製作年代が大陸からの影響力の強い時期であったことを考えると、それに用いられた漆地粉が、日本製の『練物』として新たに造り出された可能性も、一概には否定はできない」(中里寿克「漆芸技法」東京国立博物館編『法隆寺献納宝物 伎楽面』同発行、昭和59年、256頁)とのことである。ネリモノといっても蒲鉾の類ではないが、よく似た感触があるから同じ言葉に収められている。言葉とは、そういうものである。
他にも、紙を丈夫にするサイズ剤として、和紙には、ねりが加えられた。新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008年)に、「ねり【粘剤】和紙の流し漉くきのため、紙料に混ぜる植物粘液。繊維を均等に分散して漂浮させ、美しく強い紙を造るのに有効に作用する。粘液を抽出する植物は主としてトロロアオイとノリウツギ」(2179頁)とある。このネリという粘剤の利用について、また、古代の紙漉き技術一般については、さまざまな議論がある(補注3)。
トロロアオイ(世田谷区岡本民家園にて。根を利用するという。)
いずれの場合も、特殊、魔法的なネリを加えることにより、材料は、人々の利用にとってしっくりきてすばらしいものに仕上がっている。つまり、仏像や浄土思想、行道面、お練供養なども、よく練られた、巧みに構成された、うまくできた物であり、事であったことを語っている。現実の虎を知らないで済んでいる限りにおいて、それはまた、実際の死というものを誰も知ることができない限りにおいて、恐いぞと脅されて怯えてはいるものの、その正体たるや張子や正体をなくした酔っぱらいであって、まあ、そういうことならいいじゃないか、といった頓智話であると締めくくることができる。春のれんぞであの世の舎利を演技したり見物したりし、秋の稲架でこの世の舎利に出会える。それもこれも一緒に練り歩いてくれる舎人や、トネリコの木が畦道に側立っているおかげである。ゆたかな人生とは、ひょっとして、神仏よりもトネリに感謝しなければならないのかもしれない。張子や稲を干すように、気持ちも軽く生きて行くことを諭されているように感じられる。
(補注1)その昔、人々が綴織当麻曼荼羅を拝観したとき、それは図像としてとても大きなスクリーンに包まれるような思いがしたのではないか。阿弥陀浄土の世界のなかに入った感覚を懐いたかと感じられる。本ブログ「天寿国繍帳銘を読む 其の四」に、絵本についての天才的な論文を紹介した。再びそのまま引く。志村裕子「絵本における世界像についての一考察;視覚的表現における「図」(figure)と「地」(ground)の分析を中心に」『美術教育研究』№10(東京芸術大学美術研究会発行、2004年)に次のようにある。「多くの子どもにはそれぞれ、繰り返し読むお気に入りの絵本がある。彼らは時折感嘆の声をあげ、ぶつぶつ小さく呟きながら、まるで初めての本を見ているように長時間熱心に見入っている。その様子をよく観察すると、ページを次々とめくるのではなく、幾つかの特定の画面に長いこと留まっていることが多い。子どもたちは繰り返し読む絵本を、実際どのように体験しているのだろうか?『この絵本のどこが面白いの?』と問うと、『こんな世界にいきたいなぁ』とか『どうやったらここに行けるの?』など意外な答えが、数多く返ってきた。どうやら、子どもたちは、絵本の中のストーリーを繰り返したどっているのではなく、絵本の中に『こんな世界』を発見して、それに繰り返し見入っているらしい」(40頁)というところから解き起こしている。「絵本の世界像は、『地』に属する『図』をもつ『地』表現、つまりストーリーには直接絡まず『地』世界に属する活気ある事象をもつ『地』表現の、連続的変化の中に表わされていることがわかった。さらに絵本の世界像の中には、読者が『地』に属する『図』の視覚表現を発見して関係付けるという、読者自身の想像力を駆使する主体的な活動の余地があることがわかった。絵本を読むという営みの中で、作家の創造性と読者の創造性という双方向からの働きが出会うことによって、その読者自身の豊かな世界像が生成されて享受されるのである。このように、絵本の創造性の働きを、作家と読者の双方から捉える視座の重要性も、新たに明らかになった」(57頁)と究明されている。
この絵本の議論は、綴織当麻曼荼羅にそのまま当てはまることであろう。綴織当麻曼荼羅は、絵本の特定の見開き1ページである。「こんな世界」とは阿弥陀浄土である。大きすぎるほど大きくて、そのにぎやかなパーティのなかに入りこんでしまう。お練供養を伴えば、パーティ感はさらに高まる。きれいごとで言えば、聖衆倶会(しょうじゅくえ)の楽のまんまである。俗にいえば、舎人にエスコートされて、かしずかれてお酒を注いでもらっているほどにおもてなし感を味わえる。あの世の顕在化が起こっている。それに対して、当麻曼荼羅縁起のようなスクロールしてみる絵巻物は、絵本の見開き1ページのようなダイレクトさ、明解さがない。浄土が観想できるのであれば、後講釈のストーリーなど必要ないと思われる。綴織当麻曼荼羅の周囲に配されるコママンガ部も、人々が見たとして思うのは、それで、結局のところ、阿弥陀浄土とはどんなところなの? という問いに尽きるであろう。それが中心に大画面を成して織り成されている。視線が絵すごろくを進んで行って、あがりのところが中央の浄土パノラマである。
この世からあの世への引っ越し、橋渡りを確かならしめて描く山越阿弥陀仏図や二十五菩薩来迎図も、布教をねらうための方便として作られた講釈がましい図像に思われる。なぜなら、その図のなかに、観る者は立ち入ることができないからである。引っ越しのキャンペーンは、引っ越しをする人、臨終間際の人や病気がちの人にはきいても、引っ越しの予定がない人には他人事にならないだろうか。その点、綴織当麻曼荼羅は、お練供養という行事とも重なって見るとすれば、あの世とは「こんな世界」で、いつ行っても構わないパラダイスだと思うことができる。譬えるなら、家はそのままにして旅行(travel)に行く感覚である。今日、旅行を誘う観光地のポスターが、ただ美しくて魅力的に写されているのに似ている。ストーリーを含む図と含まない図とは異質である。志村先生ご指摘の、「図」(figure)と「地」(ground)の用語に従って誤解を恐れずに言うなら、当麻曼荼羅縁起や各種来迎図には「図」と「地」があるが、綴織当麻曼荼羅やそれを縮小コピーした当麻曼荼羅図は、近づいて見て周囲のコママンガ部が視界から外れれば、「地」しかない。実際に当麻曼荼羅図を見ると、コママンガ部は地味で縁模様のように背景へと消えていく。藤田美術館蔵当麻曼荼羅(鎌倉時代、13~14世紀)を、サントリー美術館「国宝 曜変天目茶碗と日本の美」展(2015年9月27日迄)に見ると、「根本曼荼羅(394.8×396.9cm)の4分の1より少し小さい縮尺本であるが、原本の図様をよく伝える。金泥塗に裁金(きりかね)を重ねる諸尊がきらびやかである」と解説ボードにあるとおりである。真正面から見るより、下の方から見上げたほうが、光線の具合で照り輝いてわかりやすい。殿上に三尊のほか、33の菩薩が体をくねらせている。お顔とはだけた上半身は黄金色である。こんなに座れるかと思えるほど、ラッシュアワー並みの混雑である。長い髪を首の脇から後ろへ垂らし、宝冠を被っている。遠近法などはないから、殿上の菩薩ばかりクローズアップされて目に入ってくる。これぞ極楽浄土、スーパービュー極楽浄土である。
人によって受け取り方は違い、好き嫌いの問題もあろう。あるいは、図像における源信派と証空派にわかれるものと言えるかもしれない。(来迎図の始めが源信かどうかについては議論がある。)そして、当麻のれんぞ、当麻のお練供養に参加する人たちにとっては、練り歩くこと自体がストーリーであって、それが「図」に当たり、自らが主役である。説明調の来迎図など見せられるよりも、極楽往生が叶うと信じることができたに違いあるまい。図様の作り手と見る側とが互いに交渉し合って、豊かな世界像が成立していると言えるのである。
(補注2)前掲書、『極楽へのいざない』に載る菩薩面は、木造のものばかりである。お練供養に用いられたお面は、時代的に言って乾漆のものはなかったと推測される。仏像の脱乾漆像も、8世紀までに限られる。筆者が乾漆技法にこだわるのは、ネルという語の二義性を統合的に把握する試みからである。副島先生の夾紵の解説に、中国で、「仏像を奉じて練り歩くための行道像」とあった。お練供養の菩薩面のプロトタイプは、本邦では乾漆の伎楽面に求められるのではないかと推論している。伎楽面では、頭にすっぽりと被るタイプのお面に、法隆寺献納宝物の楠製は2㎏と重い。桐を使って軽くなるように工夫したもののほか、乾漆製によるものが正倉院や法隆寺に伝わっている。美術・工芸的研究は正倉院にて行われている(宮内庁正倉院事務所編『正倉院紀要 第36号』同発行、平成26年)。実用・観念的研究は、“科学”ではないので進展に乏しい。(博物館、美術館、資料館のお面のカタログには、大きさばかりでなく、重量の記載をぜひお願いします。近年、3Dプリンター技術の進歩があり、着けた感、被った感をどこかで味わいたいと思います。)
乾漆像作成段階で、麻布製の漆塗りした張りぼてを一度切り離し、再び接合する際にペースト状の木屎漆は用いられる。当初、粘着力の強い麦漆で何層にも塗り貼りを繰り返していったん形が出来上がる。そのときの漆は接着剤とコーティング剤の機能を果している。原型であった塑土を掻き出したのち、新たに心木を入れて固定し、開口部を縫い閉じて木屎漆を塗る。それを“共練濃・共練粉(トネリコ)”とも呼べる「練物」を使って接合する。仕上げに必要なコーキング剤としての役割までプラスされている。ネリという言葉の素材が用いられることに、仏教に曰く因縁のある作業であるように感じられる。さらには、浄土教の練る行為とのつながりも見て取れる。それは、毛皮の仕上げの過程が、ヘラ(後に剪)を使ってタンパク質、膠質、脂質をきれいにこそぎ落とす作業が、鞣すという言葉で表されることと相同している。乾漆(夾紵)の技法も、漆を、ヘラや刷毛を使ってなめるように施したに違いあるまい。ねばねば感から、古語にナムという感覚であったであろう。
そもそも、人間が仮面(マスク)をつけて演じることの意味は逆説的である。仮面は、素顔との関係で短絡的に想定されるほど簡単なものではない。むしろ、逆に、お祭りで仮面をつけて演ずることによって、自己(セルフ)とは、実は世を忍ぶ仮の姿にすぎないのだという真実を、身をもって実感することができる。自己というものを相対化するテクニックの一つになり得るのである。日常の陥穽に重く埋没してのっぴきらならないと感じて心理的に落ち込んでしまわずに、多様に生まれ変わることは可能でありながら、“今”を選んで生きているのだと再確認できる絶好のチャンスである。すると、お練供養でお面を被って練り歩くこととは、この世とあの世という宗教的な意味合いばかりか、自己と他者という社会的な意味合いをもっても、その境界を溶解させてしまう契機と位置付けられる。お練供養に参加すれば、極楽往生が約束される、という平板な議論はもはや正解とは言えない。すでに極楽往生できてしまったと錯覚される点、何のことはないのだと思えてしまう点が重要なのではないか。張子の虎のような菩薩の種明かしが悟られるのである。自己=菩薩である。そして、そのお祭りの行われるれんぞ、お練供養の日が、耕作のために水田にべったりとへばりつけられ始める前日であることの意味は深い。セルフをセルフケアし、予防注射の効果を継続させてセルフをセルフコントロールするには、一年のうちで最も敵った日である。れんぞに行かなければ、地道にしんどい田仕事に耐えられなくなり、収穫までこぎつけることができなくてトラレヌゾどころか、発狂してトラのように叫びお隣さんへ襲いかかるような転落人生が待っているのであった。お隣さんとしても困るので、みんなしてレンゾには当麻寺へ詣でようと誘いあったことであろう。
以上までが筆者のヤマトコトバ研究であり、ここから先の議論は、筆者には専門外の文化人類学の祭りや仮面の研究、また、哲学や社会学、心理学、文学などの「自己」「個人」「私」像の研究であり、「近代的自我」や日本にいう「自分」といった課題など途方もないので、(注2)に蛇足的に付記はしたものの責任は負えず、その道の方々に委ねたい。(つづく)
世田谷・浄真寺のお練供養(1990年代、先頭に風流花笠が行っている。)
なお、奈良盆地の西の山に当たる信貴山の張子の虎については、その縁起が著名である。聖徳太子の毘沙門天の話である。時代的にすべて飛鳥時代に遡るもので、お練供養とは別の思考、観念の産物によって虎が登場していると考えるのが穏当である。それでも、張子である点に関しては、共通点を見出すことができる。お練供養は世田谷の浄真寺(九品仏)ではお面かぶりと通称されている。お面を被って歩くと介添え役「と練り」歩く結果となることは先に論じた。それとともに、そのお面は、軽量化が図られなければならない。自然と、張子、張りぼてが求められることになる(補注2)。仏像の制作技法として、奈良時代を盛期として乾漆像が多く採用された。石田尚豊・田辺三郎助・辻惟雄・中野政樹監修『日本美術史事典』(平凡社、1987年)、「乾漆」の項に、中国での乾漆技法、夾紵(きょうちょ)についての副島弘道先生の解説が載る。「夾紵像は石、塑、金属像と比べて軽量であり、そのわりに耐久性に富む。漢代以来の伝統的な夾紵技法が、仏像を奉じて練り歩くための行道像や皇帝の偉業を記念する等身像の製作に用いられたことは、目的にかなった合理的な技術の採用であり、これらに夾紵像発生の一因が求められよう」(216頁)とある。そして、日本の乾漆仏像の技法として、「この[法華堂金剛力士の乾漆像製作途中、その張子像の]表面を漆に細かい植物繊維(杉の葉をついた抹香かともいうが不明。現在ではヒノキの挽き粉を用いる)を混ぜてペースト状にした木屍冠に木屎漆(こくそうるし)を用いて塑形する」(217頁)と記されている。
夾紵大鑑(中国、戦国時代、前5~前3世紀、径1m38cm高50cm、39㎏、麻布・粉末・黒漆・赤漆・金ほか、伝河南省輝県出土、大倉集古館蔵、東博「トランク」画像より)
ミイラのマスク(エジプト出土、亜麻布・漆喰のカルトナージュ、プトレマイオス朝時代、前323年~前30年頃、東博展示品)
ペースト状の木屎漆とは、ヤマトコトバで表現するなら、練られた漆ということであろう。ねりかね、ねりぎぬ、などと同じである。新撰字鏡に、「錬 力見反、練字同、又鐗二字同。▲(金偏に右の口の代わりに匕、その下に日)也。冶金也。△(金偏に隋の旁部)也。祢利加祢(ねりかね)」、和名抄に、「練 蒋詞切韻に云はく、練〈郎旬反、祢利岐沼(ねりきぬ)〉は熟絹也といふ」とある。乾漆の仏像、伎楽面の充填材料に用いられている黒褐色の何かを混ぜた漆については、「これとよく似た性質をもつ充塡材料としては、東寺兜跋毘沙門天像、同観智院五大虚空蔵菩薩像、清涼寺釈迦如来像その他の中国から舶来されたの木彫像に多く用いられている『練物(ねりもの)』の例がある。……法隆寺伎楽面の製作年代が大陸からの影響力の強い時期であったことを考えると、それに用いられた漆地粉が、日本製の『練物』として新たに造り出された可能性も、一概には否定はできない」(中里寿克「漆芸技法」東京国立博物館編『法隆寺献納宝物 伎楽面』同発行、昭和59年、256頁)とのことである。ネリモノといっても蒲鉾の類ではないが、よく似た感触があるから同じ言葉に収められている。言葉とは、そういうものである。
他にも、紙を丈夫にするサイズ剤として、和紙には、ねりが加えられた。新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008年)に、「ねり【粘剤】和紙の流し漉くきのため、紙料に混ぜる植物粘液。繊維を均等に分散して漂浮させ、美しく強い紙を造るのに有効に作用する。粘液を抽出する植物は主としてトロロアオイとノリウツギ」(2179頁)とある。このネリという粘剤の利用について、また、古代の紙漉き技術一般については、さまざまな議論がある(補注3)。
トロロアオイ(世田谷区岡本民家園にて。根を利用するという。)
いずれの場合も、特殊、魔法的なネリを加えることにより、材料は、人々の利用にとってしっくりきてすばらしいものに仕上がっている。つまり、仏像や浄土思想、行道面、お練供養なども、よく練られた、巧みに構成された、うまくできた物であり、事であったことを語っている。現実の虎を知らないで済んでいる限りにおいて、それはまた、実際の死というものを誰も知ることができない限りにおいて、恐いぞと脅されて怯えてはいるものの、その正体たるや張子や正体をなくした酔っぱらいであって、まあ、そういうことならいいじゃないか、といった頓智話であると締めくくることができる。春のれんぞであの世の舎利を演技したり見物したりし、秋の稲架でこの世の舎利に出会える。それもこれも一緒に練り歩いてくれる舎人や、トネリコの木が畦道に側立っているおかげである。ゆたかな人生とは、ひょっとして、神仏よりもトネリに感謝しなければならないのかもしれない。張子や稲を干すように、気持ちも軽く生きて行くことを諭されているように感じられる。
(補注1)その昔、人々が綴織当麻曼荼羅を拝観したとき、それは図像としてとても大きなスクリーンに包まれるような思いがしたのではないか。阿弥陀浄土の世界のなかに入った感覚を懐いたかと感じられる。本ブログ「天寿国繍帳銘を読む 其の四」に、絵本についての天才的な論文を紹介した。再びそのまま引く。志村裕子「絵本における世界像についての一考察;視覚的表現における「図」(figure)と「地」(ground)の分析を中心に」『美術教育研究』№10(東京芸術大学美術研究会発行、2004年)に次のようにある。「多くの子どもにはそれぞれ、繰り返し読むお気に入りの絵本がある。彼らは時折感嘆の声をあげ、ぶつぶつ小さく呟きながら、まるで初めての本を見ているように長時間熱心に見入っている。その様子をよく観察すると、ページを次々とめくるのではなく、幾つかの特定の画面に長いこと留まっていることが多い。子どもたちは繰り返し読む絵本を、実際どのように体験しているのだろうか?『この絵本のどこが面白いの?』と問うと、『こんな世界にいきたいなぁ』とか『どうやったらここに行けるの?』など意外な答えが、数多く返ってきた。どうやら、子どもたちは、絵本の中のストーリーを繰り返したどっているのではなく、絵本の中に『こんな世界』を発見して、それに繰り返し見入っているらしい」(40頁)というところから解き起こしている。「絵本の世界像は、『地』に属する『図』をもつ『地』表現、つまりストーリーには直接絡まず『地』世界に属する活気ある事象をもつ『地』表現の、連続的変化の中に表わされていることがわかった。さらに絵本の世界像の中には、読者が『地』に属する『図』の視覚表現を発見して関係付けるという、読者自身の想像力を駆使する主体的な活動の余地があることがわかった。絵本を読むという営みの中で、作家の創造性と読者の創造性という双方向からの働きが出会うことによって、その読者自身の豊かな世界像が生成されて享受されるのである。このように、絵本の創造性の働きを、作家と読者の双方から捉える視座の重要性も、新たに明らかになった」(57頁)と究明されている。
この絵本の議論は、綴織当麻曼荼羅にそのまま当てはまることであろう。綴織当麻曼荼羅は、絵本の特定の見開き1ページである。「こんな世界」とは阿弥陀浄土である。大きすぎるほど大きくて、そのにぎやかなパーティのなかに入りこんでしまう。お練供養を伴えば、パーティ感はさらに高まる。きれいごとで言えば、聖衆倶会(しょうじゅくえ)の楽のまんまである。俗にいえば、舎人にエスコートされて、かしずかれてお酒を注いでもらっているほどにおもてなし感を味わえる。あの世の顕在化が起こっている。それに対して、当麻曼荼羅縁起のようなスクロールしてみる絵巻物は、絵本の見開き1ページのようなダイレクトさ、明解さがない。浄土が観想できるのであれば、後講釈のストーリーなど必要ないと思われる。綴織当麻曼荼羅の周囲に配されるコママンガ部も、人々が見たとして思うのは、それで、結局のところ、阿弥陀浄土とはどんなところなの? という問いに尽きるであろう。それが中心に大画面を成して織り成されている。視線が絵すごろくを進んで行って、あがりのところが中央の浄土パノラマである。
この世からあの世への引っ越し、橋渡りを確かならしめて描く山越阿弥陀仏図や二十五菩薩来迎図も、布教をねらうための方便として作られた講釈がましい図像に思われる。なぜなら、その図のなかに、観る者は立ち入ることができないからである。引っ越しのキャンペーンは、引っ越しをする人、臨終間際の人や病気がちの人にはきいても、引っ越しの予定がない人には他人事にならないだろうか。その点、綴織当麻曼荼羅は、お練供養という行事とも重なって見るとすれば、あの世とは「こんな世界」で、いつ行っても構わないパラダイスだと思うことができる。譬えるなら、家はそのままにして旅行(travel)に行く感覚である。今日、旅行を誘う観光地のポスターが、ただ美しくて魅力的に写されているのに似ている。ストーリーを含む図と含まない図とは異質である。志村先生ご指摘の、「図」(figure)と「地」(ground)の用語に従って誤解を恐れずに言うなら、当麻曼荼羅縁起や各種来迎図には「図」と「地」があるが、綴織当麻曼荼羅やそれを縮小コピーした当麻曼荼羅図は、近づいて見て周囲のコママンガ部が視界から外れれば、「地」しかない。実際に当麻曼荼羅図を見ると、コママンガ部は地味で縁模様のように背景へと消えていく。藤田美術館蔵当麻曼荼羅(鎌倉時代、13~14世紀)を、サントリー美術館「国宝 曜変天目茶碗と日本の美」展(2015年9月27日迄)に見ると、「根本曼荼羅(394.8×396.9cm)の4分の1より少し小さい縮尺本であるが、原本の図様をよく伝える。金泥塗に裁金(きりかね)を重ねる諸尊がきらびやかである」と解説ボードにあるとおりである。真正面から見るより、下の方から見上げたほうが、光線の具合で照り輝いてわかりやすい。殿上に三尊のほか、33の菩薩が体をくねらせている。お顔とはだけた上半身は黄金色である。こんなに座れるかと思えるほど、ラッシュアワー並みの混雑である。長い髪を首の脇から後ろへ垂らし、宝冠を被っている。遠近法などはないから、殿上の菩薩ばかりクローズアップされて目に入ってくる。これぞ極楽浄土、スーパービュー極楽浄土である。
人によって受け取り方は違い、好き嫌いの問題もあろう。あるいは、図像における源信派と証空派にわかれるものと言えるかもしれない。(来迎図の始めが源信かどうかについては議論がある。)そして、当麻のれんぞ、当麻のお練供養に参加する人たちにとっては、練り歩くこと自体がストーリーであって、それが「図」に当たり、自らが主役である。説明調の来迎図など見せられるよりも、極楽往生が叶うと信じることができたに違いあるまい。図様の作り手と見る側とが互いに交渉し合って、豊かな世界像が成立していると言えるのである。
(補注2)前掲書、『極楽へのいざない』に載る菩薩面は、木造のものばかりである。お練供養に用いられたお面は、時代的に言って乾漆のものはなかったと推測される。仏像の脱乾漆像も、8世紀までに限られる。筆者が乾漆技法にこだわるのは、ネルという語の二義性を統合的に把握する試みからである。副島先生の夾紵の解説に、中国で、「仏像を奉じて練り歩くための行道像」とあった。お練供養の菩薩面のプロトタイプは、本邦では乾漆の伎楽面に求められるのではないかと推論している。伎楽面では、頭にすっぽりと被るタイプのお面に、法隆寺献納宝物の楠製は2㎏と重い。桐を使って軽くなるように工夫したもののほか、乾漆製によるものが正倉院や法隆寺に伝わっている。美術・工芸的研究は正倉院にて行われている(宮内庁正倉院事務所編『正倉院紀要 第36号』同発行、平成26年)。実用・観念的研究は、“科学”ではないので進展に乏しい。(博物館、美術館、資料館のお面のカタログには、大きさばかりでなく、重量の記載をぜひお願いします。近年、3Dプリンター技術の進歩があり、着けた感、被った感をどこかで味わいたいと思います。)
乾漆像作成段階で、麻布製の漆塗りした張りぼてを一度切り離し、再び接合する際にペースト状の木屎漆は用いられる。当初、粘着力の強い麦漆で何層にも塗り貼りを繰り返していったん形が出来上がる。そのときの漆は接着剤とコーティング剤の機能を果している。原型であった塑土を掻き出したのち、新たに心木を入れて固定し、開口部を縫い閉じて木屎漆を塗る。それを“共練濃・共練粉(トネリコ)”とも呼べる「練物」を使って接合する。仕上げに必要なコーキング剤としての役割までプラスされている。ネリという言葉の素材が用いられることに、仏教に曰く因縁のある作業であるように感じられる。さらには、浄土教の練る行為とのつながりも見て取れる。それは、毛皮の仕上げの過程が、ヘラ(後に剪)を使ってタンパク質、膠質、脂質をきれいにこそぎ落とす作業が、鞣すという言葉で表されることと相同している。乾漆(夾紵)の技法も、漆を、ヘラや刷毛を使ってなめるように施したに違いあるまい。ねばねば感から、古語にナムという感覚であったであろう。
そもそも、人間が仮面(マスク)をつけて演じることの意味は逆説的である。仮面は、素顔との関係で短絡的に想定されるほど簡単なものではない。むしろ、逆に、お祭りで仮面をつけて演ずることによって、自己(セルフ)とは、実は世を忍ぶ仮の姿にすぎないのだという真実を、身をもって実感することができる。自己というものを相対化するテクニックの一つになり得るのである。日常の陥穽に重く埋没してのっぴきらならないと感じて心理的に落ち込んでしまわずに、多様に生まれ変わることは可能でありながら、“今”を選んで生きているのだと再確認できる絶好のチャンスである。すると、お練供養でお面を被って練り歩くこととは、この世とあの世という宗教的な意味合いばかりか、自己と他者という社会的な意味合いをもっても、その境界を溶解させてしまう契機と位置付けられる。お練供養に参加すれば、極楽往生が約束される、という平板な議論はもはや正解とは言えない。すでに極楽往生できてしまったと錯覚される点、何のことはないのだと思えてしまう点が重要なのではないか。張子の虎のような菩薩の種明かしが悟られるのである。自己=菩薩である。そして、そのお祭りの行われるれんぞ、お練供養の日が、耕作のために水田にべったりとへばりつけられ始める前日であることの意味は深い。セルフをセルフケアし、予防注射の効果を継続させてセルフをセルフコントロールするには、一年のうちで最も敵った日である。れんぞに行かなければ、地道にしんどい田仕事に耐えられなくなり、収穫までこぎつけることができなくてトラレヌゾどころか、発狂してトラのように叫びお隣さんへ襲いかかるような転落人生が待っているのであった。お隣さんとしても困るので、みんなしてレンゾには当麻寺へ詣でようと誘いあったことであろう。
以上までが筆者のヤマトコトバ研究であり、ここから先の議論は、筆者には専門外の文化人類学の祭りや仮面の研究、また、哲学や社会学、心理学、文学などの「自己」「個人」「私」像の研究であり、「近代的自我」や日本にいう「自分」といった課題など途方もないので、(注2)に蛇足的に付記はしたものの責任は負えず、その道の方々に委ねたい。(つづく)