昔。
そう、太陽がまだこの地に、今では「懐郷の街」と呼ばれてしまったこの地に、射していたころ。
私たちは、生きていた。若い時を。
「おはよう、李両君」
口角をきゅっと持ち上げて、自信に溢れた華やかな笑みを浮かべて、桔梗は部屋に入ってきた。
今は、「懐郷の塔」と呼ばれている、塔の4階の隅にある一室に。
そこは研究室が並ぶ階。
李両は、部屋にいくつも並んだ、薄い板で造られた「平の研究員用の量産机」の一つに、資料や文献をうず高く積み上げて、調べものをしていた。他の研究員たちも、各々の仕事をしていた。
「……おはよう。桔梗」
桔梗が、彼の机の際まで来て「返事は?」と催促してようやく、李両は顔を上げて、そうあいさつした。
切れ長の銀の瞳に浮かぶ光は、激しくも強くもなかったが、学者らしい冷静な鋭いものだった。
「なにか用?」
職業柄、李両は、相手を追及するような眼をする。いつもならば、それを、余裕の高雅な笑みで押し返す桔梗だったが、今日は、幾分、いや、大分、控えめな微笑で受けた。彼女自慢の瑠璃の瞳が、わずかに揺れた。
「し、翔伯は、どこにいるの? 今日はこちらに来ていると、聞いたのだけれど。用があるのよ。渡すものがあるの。父の頼まれ物で、……どこにいるの?」
李両は瞳を細めて、息をついた。
「翔伯に用なら、塔の中でなく、外へ行けばいい。裏庭でなにかしているから」
そもそも、学者ではなく実動者の翔伯がここにいるはずがないのだ。桔梗もそれはわかっているはず。なにせ、彼女の父親はこの塔の幹部。
李両は、桔梗のこんな行動に、彼女のおびえを見て取った。
「ありがとう李両。行ってみるから」
彼の返答に、まるで同時に「勇気」までもらったように、桔梗は、さっそうと動き出す。
普段の彼女に戻ったなと思った李両は、もう少しで手が届かない距離にいく彼女の銀のマントを、つかんで引いた。
「待て」
桔梗は、己の衣服をそんな風に「ぞんざい」に扱われたことに気分を害して、ぱっと振り返った。
「やめてくれないかしら? しわになってしまうわ? 言葉だけで、足りるでしょう? そんなふうにして欲しくないの」
気位が高い、つんとした声。だが、豊かな環境で生きてきた彼女の声は、ひどく優雅だった。
そんな桔梗の要請は無視して、李両は言葉を続ける。
「先客で菊がいる」
「……」
桔梗の表情が、一瞬だけ、凍った。
しかしすぐに、自信に満ちた笑みを浮かべて見せ付けた。
「あらそう」
まるで舞踏会のように、銀のマントを翻した。
「行くわ私」
そして彼女は、鮮やかに去っていった。
だから李両は、げんなりと息をつく。
彼のところに、それまで盗み見盗み聞きをしていた、他の研究員たちが寄って来る。
「相変わらず、まぶしいほどの自信だな」
「お嬢様育ちだからな」
「小さいことから塔の天辺が遊び場だものな」
それは、賞賛でもなく、逆に揶揄でもなく、珍奇なものへの評価だった。
「どうしてこんなとこにいるんだろうな? 泥臭い、危ない、荒っぽい、この塔に。……彼女自身『あたしに似合うのは、この衣装ではない』と公言してはばからないというのに」
同僚の言葉に、李両は苦笑して答えてやった。
「華やかな世界に旅立つためには、『同伴者』が必要だからさ。彼女に相応しい」
皆、どっと笑った。
そう、太陽がまだこの地に、今では「懐郷の街」と呼ばれてしまったこの地に、射していたころ。
私たちは、生きていた。若い時を。
「おはよう、李両君」
口角をきゅっと持ち上げて、自信に溢れた華やかな笑みを浮かべて、桔梗は部屋に入ってきた。
今は、「懐郷の塔」と呼ばれている、塔の4階の隅にある一室に。
そこは研究室が並ぶ階。
李両は、部屋にいくつも並んだ、薄い板で造られた「平の研究員用の量産机」の一つに、資料や文献をうず高く積み上げて、調べものをしていた。他の研究員たちも、各々の仕事をしていた。
「……おはよう。桔梗」
桔梗が、彼の机の際まで来て「返事は?」と催促してようやく、李両は顔を上げて、そうあいさつした。
切れ長の銀の瞳に浮かぶ光は、激しくも強くもなかったが、学者らしい冷静な鋭いものだった。
「なにか用?」
職業柄、李両は、相手を追及するような眼をする。いつもならば、それを、余裕の高雅な笑みで押し返す桔梗だったが、今日は、幾分、いや、大分、控えめな微笑で受けた。彼女自慢の瑠璃の瞳が、わずかに揺れた。
「し、翔伯は、どこにいるの? 今日はこちらに来ていると、聞いたのだけれど。用があるのよ。渡すものがあるの。父の頼まれ物で、……どこにいるの?」
李両は瞳を細めて、息をついた。
「翔伯に用なら、塔の中でなく、外へ行けばいい。裏庭でなにかしているから」
そもそも、学者ではなく実動者の翔伯がここにいるはずがないのだ。桔梗もそれはわかっているはず。なにせ、彼女の父親はこの塔の幹部。
李両は、桔梗のこんな行動に、彼女のおびえを見て取った。
「ありがとう李両。行ってみるから」
彼の返答に、まるで同時に「勇気」までもらったように、桔梗は、さっそうと動き出す。
普段の彼女に戻ったなと思った李両は、もう少しで手が届かない距離にいく彼女の銀のマントを、つかんで引いた。
「待て」
桔梗は、己の衣服をそんな風に「ぞんざい」に扱われたことに気分を害して、ぱっと振り返った。
「やめてくれないかしら? しわになってしまうわ? 言葉だけで、足りるでしょう? そんなふうにして欲しくないの」
気位が高い、つんとした声。だが、豊かな環境で生きてきた彼女の声は、ひどく優雅だった。
そんな桔梗の要請は無視して、李両は言葉を続ける。
「先客で菊がいる」
「……」
桔梗の表情が、一瞬だけ、凍った。
しかしすぐに、自信に満ちた笑みを浮かべて見せ付けた。
「あらそう」
まるで舞踏会のように、銀のマントを翻した。
「行くわ私」
そして彼女は、鮮やかに去っていった。
だから李両は、げんなりと息をつく。
彼のところに、それまで盗み見盗み聞きをしていた、他の研究員たちが寄って来る。
「相変わらず、まぶしいほどの自信だな」
「お嬢様育ちだからな」
「小さいことから塔の天辺が遊び場だものな」
それは、賞賛でもなく、逆に揶揄でもなく、珍奇なものへの評価だった。
「どうしてこんなとこにいるんだろうな? 泥臭い、危ない、荒っぽい、この塔に。……彼女自身『あたしに似合うのは、この衣装ではない』と公言してはばからないというのに」
同僚の言葉に、李両は苦笑して答えてやった。
「華やかな世界に旅立つためには、『同伴者』が必要だからさ。彼女に相応しい」
皆、どっと笑った。