すぎな之助の工作室

すぎな之助(旧:歌帖楓月)が作品の更新お知らせやその他もろもろを書きます。

時に浮かぶ、月の残影54

2005-07-25 00:47:59 | 即興小説
真っ黒といえばいいのか、空の中といえばいいのか。
祈職の階は、そんなふうだった。
床も壁も、磨きぬかれた黒御影石。外壁はほぼ一面の大きな窓。黒い壁床は、景色を鏡のように反射している。
他の階は、こんなではない。灰色の岩の壁のままだったり、岩壁に木の壁を設えてあったり。とにかく、人の住む空間であるのだ。職場であったり、応接室であったり、控え室であったり、生活が見える場所だった。
ここには、そんなもの、これっぽっちもない。黒、または、空。

私は、正直、ぞっとした。この階の光景に。
まるで「天に召される最中」のようであったから。

「お、お父様、」
おろおろと、右隣に立つ父のそでを握って、不安をまぎらわそうとするが、彼はすげなく振り払った。……その冷たいしぐさが、私にとっての悲劇の始まりを告げる合図のように思えた。
お父様やっぱり私やめます、との言葉が、私ののどの奥に湧き上がった瞬間だった。
まるで運命の歯車が、犠牲者の悲鳴にきしみながら残酷に回るように、祈職の長が、私たちを迎えに来た。祈職の長は、高齢の男性だった。沢山のしわを顔にきざみ、長い髪は真っ白だった。
先に一礼したのは、父だった。
「先ほどは失礼しました。お取り込み中のところ」
応じる長の声は、驚くほど張りがある。声だけ聞けば、父よりもずっと若い。外見は老いているが、声や、目の輝きには力があり、そこだけはとても老人とは思えなかった。
「いえ。済みましたので、今ならよろしいですよ。どのような用件です?」
「これが」
父は私の背中に左手をやり、ぐい、と前方に押し出した。嫌がる羊を処分場に引き出すような、有無を言わさぬあらっぽさだった。
「祈職になりたいと申すのですよ?」
「……」
長は、驚いて言葉を失って、次に、奇妙な顔をした。
「何故ですか?」
「桔梗、理由はお前の口から言うのだ」
父はそう勧めた。いや、命じた。
「先ほど見ました、菊さんの姿がひどく印象に残りましたの。銀無垢の長衣。とても素敵なお姿でしたわ?」
私は、なんとか外見上は華やかに自信に満ちた態度で言った。
長は、いっそう奇妙な表情になって私をしげしげと見つめ、次に、眉をひそめて父を見た。
父は、にがみばしった顔をして、言った。
「……知らんのです」
長の返答は素早かった。
「ではお引き取りください」
「そんな!」
私が食い下がった。断られたとなると、無性に腹が立った。私の価値をちっとも理解してないと思ったからだった。自尊心がひどく傷ついた。
「そんな! 私はきしょくになることを望んだのです! どうぞ仮にでもお雇いくださいませ!」
「貴方は祈職を侮辱するのですか?」
長の、この、静かではあるが冷え切った、北の果ての湖水のような言葉は、私にではなく保護者に向けられた。……この娘に言っても理解できないだろう、と思われたのだ。
「滅相もございません」
父は、耐えられないほど苦渋に満ちた顔をして真摯に首を振ると、深々と頭を下げた。
「娘のたっての希望。そして私の娘としての最後の希望なのです。どうか、どのような形でも結構ですので、祈職として雇っていただけませんか」