すぎな之助の工作室

すぎな之助(旧:歌帖楓月)が作品の更新お知らせやその他もろもろを書きます。

時に浮かぶ、月の残影52

2005-07-22 21:37:35 | 即興小説
父みずから、私を階下へ連れて行った。
表階段を降りながら、父は言う。抑えた調子で、淡々と。
「桔梗。お前が祈職になったら、肉親も何もかも、関係がなくなる。覚えておきなさい」
縁を切るということだった。
私は、今見た祈職のキクの態度の方にばかり気が向けられていた。「祈職になれば、偉くなる」などという、ひどく安直な考えに、現を抜かしていた。だから、……父の言葉は、わたしの耳を、素通りした。

それは、表階段の踊り場の壁だと思われた。灰色の岩壁だと。
父はその踊り場の壁に正対している。
「開けてくだされ。祈職の長に頼み申したいことがある」
そう叫んだ。
しかし、……返答は、「岩壁」の向こうから響いた女の声は、
「今取り込み中です。後になさってください」
私は心の中で目を丸くした。
入室を断った! お父様が、塔の幹部が頼んでいるのに!
「では後ほどまた」
父も素直に従っている! 従うのだ!
……じゃあ私は偉くなれる!

私は、この岩壁の向こうに行くのが、楽しみになった。


時に浮かぶ、月の残影51

2005-07-22 00:18:18 | 即興小説
何も考えていなかったのだ。結局。
今ならば、わかる。
父と菊とが、なぜにあんな会話を、父は丁寧に菊は鷹揚に言葉を交わしたのか。
なぜ最上階の一つしたに、隠されるようにして祈職の階があったのか。
私は、当時の私は、それがそうである理由を考えようともせず、ただ自分にとって都合のよい利用できる道具だとしか、思えなかったのだ。
……どれだけのものと引き換えに、祈職の者たちがそうして在れるのかも知らずに。
私は、こっけいな虚栄心に踊らされて、菊が部屋を辞するやいなや、ついに口にしたのだ。
「お父様、わたしは『きしょく』になりたいのです」と。
……どんな文字をあてるのかすら、知らないで。

それを聞いた父の顔は、初めに虚を突かれた様子で目を丸くして、次に意味を悟って怒りの表情を浮かべ、最後に……笑ったのだ。大いに。
「ハハハハハハハ!」
私は、父がこんなにも開け放しで、しかも乾いた笑い声を上げるのを、初めて聞いた。
「アハハハハハハ!」
……今なら、この笑いは「もはや笑うしかない」という意であると、わかる。
当時は、何がなにやら、わからなかった。
父の気が狂ったかと思った。突然、「私の発言とは無関係に」、なんらかの原因で。
「お、おとうさま?」
腹を抱えて笑い出す父の異常さが、私は恐ろしく、おろおろとした声を掛けた。
「ハハハハハ! ハハハハッ! 桔梗、桔梗よ、ああ、桔梗……ハハハハ!」
笑う父の床についた手は、しかしその表情とはぞっとするほど逆に、そこに爪あとが残るほどに強く激しくかきむしっていた。「何か激しい感情に基づいて」起こした行動だろう、とは、当時の私でも、理解できた。
「あの……おとうさま?」
よくわからないが、父は狂ったと、私は思った。もちろんその原因は私ではありえなかった。

すると、突然に、父が押し黙ってしまった。
「……」
眉根を寄せて、苦悶の表情で、床に膝をついたまま、まるで「激しい感情をこらえるかのように」。
ぶるぶると、その身が震えていた。
父がそうしていたのは、どれくらいの時間だっただろうか。私はただ、予想もつかない父の行動を、息をのんで見ているほかなく。
やがて、さすがの私も「自分が父に対して何か粗相をしたのか?」と思い始めた時。
父は、表情をあらためたのだ。
……塔の幹部にふさわしく、泰然としたものに。
「祈職になりたいのか? 桔梗」
私は、ただ「幹部からかしずかれたいがため」に答える。
「はいお父様。きしょくになりたいです」
父は、一つうなずいた。その動きは深かったか、重かったか、それとも何かの企みがあったか、私には見抜くだけの目がなかったが。
「それが、お前の望みで、いいんだな? 桔梗や?」
「はいお父様」
私は間髪いれずに、返事をしたのだ。それは、明らかに、何もわかっていないことを表す反応のしかただった。
「よしわかった」

可をくれた父の表情、私は私の喜びで気持ちがいっぱいで……今でも、その時の父の顔を、思い出せない。