すぎな之助の工作室

すぎな之助(旧:歌帖楓月)が作品の更新お知らせやその他もろもろを書きます。

時に浮かぶ、月の残影49

2005-07-20 00:27:04 | 即興小説
その日の父は、いつにもまして優しかった。
私は何も考えずに、朝から父の後ろで「笑って過ごして」、午前の仕事を終えた。
そして昼食時に、父は言ったのだ。
父の部屋で、一流の料理人に作らせた昼食を、二人で向かい合わせに座って食べながら。

「どうだ桔梗? お前、他にやりたいことがあるのではないのか? 秘書の仕事もそろそろ飽きただろう?」

私が採用されて6ヶ月目。仮任用期間が終了し、本採用になるその日だった。
「……」
私は、なんと返答してよいのかわからなかった。
……他にやりたいこと……って? 他の仕事をしたいのかと聞いているのか? それとも、誰かの妻になりたいのかと聞いているのか?
そんな私に、父は言葉を加えた。
「言ってご覧? なんでも願いを叶えよう」
「え? なんでも?」
私の体を巡っている、血と一緒に巡っている、「欲」がむくむくと頭をもたげた。

翔伯の妻になりたい、と、口から出掛かって、……出すのをやめた。
それは私の身の破滅を意味するからだった。
翔伯のことを、父は大層買っていた。いや、父だけではなく、幹部連中はみんなだ。
そして……菊のことも。
私には、理解できなかった。意中の翔伯のことはともかく、なぜ菊がそんなに……。

とにかく、それ以外で、何か私の幸せになる願いを考えようと思った時だった。

一番聞きたくない声が、扉の向こうから、響いたのだ。

「菊です」

瞬間、父が表情を改めて立ち上がった。
足早に、扉へ進む。
急いで、しかし丁重に、そう、丁重に、父が扉を開けた。これは初めて見る行動だった。父の部屋を訪れる者ならば、父は鷹揚に笑って、自分は座ったままかあるいはその場で立って迎えるだけなのだ。
それなのに。
父が取った行動は、私を呆然とさせるに十分すぎた。

「よくぞ無事に戻って来られた!」
扉を開けるなり、父は、なんということだろう感極まった声で、涙交じりの声になって、そう叫んで菊を迎えたではないか。
しかも深々と頭を下げて。

私は、耳を疑った。
お父様は一体どうしてしまったのだろう? 頭でもおかしくなったのか? なぜ菊に対してそんなに……?

「祈職の皆様方には、いつもご迷惑をお掛けしている。貴方たちこそが、塔の要です。何か必要なことがあれば、なんでも言っていただきたい。我々は全力でもって、それに答えていく所存です!」
「ありがとうございます。今回も皆様の補助を得て、こうして無事に帰ってこられました。感謝いたします」

私はめまいを覚えた。これは、夢ではないのかと思った。
なぜにお父様はそんなに腰が低いのか?
それに、……答える菊の落ち着いた様子といったら!

私は、父と菊のやりとりを聞きながら、こう考え始めていた。
私が今の今まで軽蔑してきた「きしょく」とやらは、……実は大層な地位なのかもしれない、と。