その日の父は、いつにもまして優しかった。
私は何も考えずに、朝から父の後ろで「笑って過ごして」、午前の仕事を終えた。
そして昼食時に、父は言ったのだ。
父の部屋で、一流の料理人に作らせた昼食を、二人で向かい合わせに座って食べながら。
「どうだ桔梗? お前、他にやりたいことがあるのではないのか? 秘書の仕事もそろそろ飽きただろう?」
私が採用されて6ヶ月目。仮任用期間が終了し、本採用になるその日だった。
「……」
私は、なんと返答してよいのかわからなかった。
……他にやりたいこと……って? 他の仕事をしたいのかと聞いているのか? それとも、誰かの妻になりたいのかと聞いているのか?
そんな私に、父は言葉を加えた。
「言ってご覧? なんでも願いを叶えよう」
「え? なんでも?」
私の体を巡っている、血と一緒に巡っている、「欲」がむくむくと頭をもたげた。
翔伯の妻になりたい、と、口から出掛かって、……出すのをやめた。
それは私の身の破滅を意味するからだった。
翔伯のことを、父は大層買っていた。いや、父だけではなく、幹部連中はみんなだ。
そして……菊のことも。
私には、理解できなかった。意中の翔伯のことはともかく、なぜ菊がそんなに……。
とにかく、それ以外で、何か私の幸せになる願いを考えようと思った時だった。
一番聞きたくない声が、扉の向こうから、響いたのだ。
「菊です」
瞬間、父が表情を改めて立ち上がった。
足早に、扉へ進む。
急いで、しかし丁重に、そう、丁重に、父が扉を開けた。これは初めて見る行動だった。父の部屋を訪れる者ならば、父は鷹揚に笑って、自分は座ったままかあるいはその場で立って迎えるだけなのだ。
それなのに。
父が取った行動は、私を呆然とさせるに十分すぎた。
「よくぞ無事に戻って来られた!」
扉を開けるなり、父は、なんということだろう感極まった声で、涙交じりの声になって、そう叫んで菊を迎えたではないか。
しかも深々と頭を下げて。
私は、耳を疑った。
お父様は一体どうしてしまったのだろう? 頭でもおかしくなったのか? なぜ菊に対してそんなに……?
「祈職の皆様方には、いつもご迷惑をお掛けしている。貴方たちこそが、塔の要です。何か必要なことがあれば、なんでも言っていただきたい。我々は全力でもって、それに答えていく所存です!」
「ありがとうございます。今回も皆様の補助を得て、こうして無事に帰ってこられました。感謝いたします」
私はめまいを覚えた。これは、夢ではないのかと思った。
なぜにお父様はそんなに腰が低いのか?
それに、……答える菊の落ち着いた様子といったら!
私は、父と菊のやりとりを聞きながら、こう考え始めていた。
私が今の今まで軽蔑してきた「きしょく」とやらは、……実は大層な地位なのかもしれない、と。
私は何も考えずに、朝から父の後ろで「笑って過ごして」、午前の仕事を終えた。
そして昼食時に、父は言ったのだ。
父の部屋で、一流の料理人に作らせた昼食を、二人で向かい合わせに座って食べながら。
「どうだ桔梗? お前、他にやりたいことがあるのではないのか? 秘書の仕事もそろそろ飽きただろう?」
私が採用されて6ヶ月目。仮任用期間が終了し、本採用になるその日だった。
「……」
私は、なんと返答してよいのかわからなかった。
……他にやりたいこと……って? 他の仕事をしたいのかと聞いているのか? それとも、誰かの妻になりたいのかと聞いているのか?
そんな私に、父は言葉を加えた。
「言ってご覧? なんでも願いを叶えよう」
「え? なんでも?」
私の体を巡っている、血と一緒に巡っている、「欲」がむくむくと頭をもたげた。
翔伯の妻になりたい、と、口から出掛かって、……出すのをやめた。
それは私の身の破滅を意味するからだった。
翔伯のことを、父は大層買っていた。いや、父だけではなく、幹部連中はみんなだ。
そして……菊のことも。
私には、理解できなかった。意中の翔伯のことはともかく、なぜ菊がそんなに……。
とにかく、それ以外で、何か私の幸せになる願いを考えようと思った時だった。
一番聞きたくない声が、扉の向こうから、響いたのだ。
「菊です」
瞬間、父が表情を改めて立ち上がった。
足早に、扉へ進む。
急いで、しかし丁重に、そう、丁重に、父が扉を開けた。これは初めて見る行動だった。父の部屋を訪れる者ならば、父は鷹揚に笑って、自分は座ったままかあるいはその場で立って迎えるだけなのだ。
それなのに。
父が取った行動は、私を呆然とさせるに十分すぎた。
「よくぞ無事に戻って来られた!」
扉を開けるなり、父は、なんということだろう感極まった声で、涙交じりの声になって、そう叫んで菊を迎えたではないか。
しかも深々と頭を下げて。
私は、耳を疑った。
お父様は一体どうしてしまったのだろう? 頭でもおかしくなったのか? なぜ菊に対してそんなに……?
「祈職の皆様方には、いつもご迷惑をお掛けしている。貴方たちこそが、塔の要です。何か必要なことがあれば、なんでも言っていただきたい。我々は全力でもって、それに答えていく所存です!」
「ありがとうございます。今回も皆様の補助を得て、こうして無事に帰ってこられました。感謝いたします」
私はめまいを覚えた。これは、夢ではないのかと思った。
なぜにお父様はそんなに腰が低いのか?
それに、……答える菊の落ち着いた様子といったら!
私は、父と菊のやりとりを聞きながら、こう考え始めていた。
私が今の今まで軽蔑してきた「きしょく」とやらは、……実は大層な地位なのかもしれない、と。