受け入れよう、受け入れよう、そう努めていました。
今までの僕の失敗の多くは、受け入れられなかったことにある、と。
しかし、「受け入れる」の具体は、実際はどうなっているのでしょう?
何を持って「受け入れた」ことになっているのでしょう?
ある話し合いの場で、やっとわかった。あきらめる、手放す、捨てる、そうしてやっと受け入れる空間ができることを。
二つ(受け入れることと手放すこと)は対だった。呼吸のように。吐くから吸える。受け入れよう受け入れようとだけしている間は、受け入れられない。それはご飯を前にして、ひたすら想像して、食おう食おうとしているような状態。手で持って、放して、口に入れる、味わう、噛み砕く、体のものにする。そうして初めて受け入れた、ということになっていた。
受け入れられなかったのは、誰かを、何かを持ち続けていたから。それはとても自分にとって大切なものだったから。それがあって初めて「私」と言えるような。
「学生の時に深く関わっていた女性がいた」「今でも好きだ」「向こうもそうだろう」「いつかきっと会える」「その日まで、僕は待つ」。そう言っていた。確かにそうだった。しかし、その態度は今に開かれていなかった。過去を持ち歩いていた。心を閉ざし、時間は止まっていた。まったくわからないことを、自明のこととして、心に貼り付けていた。蓋をしていた。我慢ばかりで、方向がばらばらで。
言う通りにならない犬。しかりつけて、首輪をはめ、常に紐はぴんと張っている。こっちに行け、こんなところで止まるな、なんで糞なんかするんだよ、お座り! そうやっていらいらしていなかったか。なるようになる道を、私の思いで操作しようとしていなかったか。私だけの快楽、安全(予想通り)を、無理矢理引き伸ばしてはいなかったか。
犬を手放してみる。散々になつかせようとしたけれど、私の欲しいものを与えてくれるのではないかと期待していたけれど、どうやら違うようだから。犬はもう帰ってこないかもしれない。車に轢かれるかもしれない。やたらに孕ませるかもしれない。でも、それは彼のこと。
その瞬間、彼の人生は独立するのかもしれない。いろんなことが起こるだろうから、対処する術を自ら学ばなくてはならない。痛い目に遭い、なんで俺だけがと苦しみ、主が縄を解いたことを恨むかもしれない。でも、それが彼の人生。誰にも文句は言えない。ここから見出していくしかない。他と関わり、自を浮き上がらせていくしかない。差異の中で、初めて個が機能していく。
彼女は彼女で、それでいいんだ。僕の思うようになんかならない。なるはずがない。僕がそうされてみたらきっと反発する。
受け入れるということは、自分から離すこと、明らかに観るということ。自分とは違う存在を、自分と同様に大切に扱うということ。
そう簡単ではない。まったくの不意に、不合理に、不幸にも、自分の生存にとって必要不可欠な対象を失ってしまうことがある。受け入れるまで、明らかに観る(あきらめる)まで、時間がかかって当然でしょう。その時は、きっと来る。蕎麦がひっそり咲くように、椿がぽとっと落ちるように、雀が一斉に飛び立つように。
今まで明確に意識はしていなかったけど、僕も何度も手放し、受け入れ、手放し、受け入れ、してきていた。小学校、中学校、高校、大学、それぞれの友人、本気で好きになった女性たち、お世話になった先生、日々食べてきた鳥や魚や野菜や、雨も晴れも、そしてたくさんの言葉。受け入れっぱなしということは決してなかった。先に進むためにしかたなく、愛着を捨ててきた。そして今に合うものを、人を取り入れてきた。そうやって機能してきた。命をつないできた。今、十分に燃えるために。
僕自身もまた、いつか大地に帰る。地球に受け入れられる。それは悲しいことじゃなくて、自然なのでしょう。今はそう思える。だけど、実際に親の死に目に会うと、どうなるかわからない。
他を他として知ること。僕が僕を大切にするように。どう生きればいいのか、悩んできたように。悩んでいるように。
それなら、できる。
今までの僕の失敗の多くは、受け入れられなかったことにある、と。
しかし、「受け入れる」の具体は、実際はどうなっているのでしょう?
何を持って「受け入れた」ことになっているのでしょう?
ある話し合いの場で、やっとわかった。あきらめる、手放す、捨てる、そうしてやっと受け入れる空間ができることを。
二つ(受け入れることと手放すこと)は対だった。呼吸のように。吐くから吸える。受け入れよう受け入れようとだけしている間は、受け入れられない。それはご飯を前にして、ひたすら想像して、食おう食おうとしているような状態。手で持って、放して、口に入れる、味わう、噛み砕く、体のものにする。そうして初めて受け入れた、ということになっていた。
受け入れられなかったのは、誰かを、何かを持ち続けていたから。それはとても自分にとって大切なものだったから。それがあって初めて「私」と言えるような。
「学生の時に深く関わっていた女性がいた」「今でも好きだ」「向こうもそうだろう」「いつかきっと会える」「その日まで、僕は待つ」。そう言っていた。確かにそうだった。しかし、その態度は今に開かれていなかった。過去を持ち歩いていた。心を閉ざし、時間は止まっていた。まったくわからないことを、自明のこととして、心に貼り付けていた。蓋をしていた。我慢ばかりで、方向がばらばらで。
言う通りにならない犬。しかりつけて、首輪をはめ、常に紐はぴんと張っている。こっちに行け、こんなところで止まるな、なんで糞なんかするんだよ、お座り! そうやっていらいらしていなかったか。なるようになる道を、私の思いで操作しようとしていなかったか。私だけの快楽、安全(予想通り)を、無理矢理引き伸ばしてはいなかったか。
犬を手放してみる。散々になつかせようとしたけれど、私の欲しいものを与えてくれるのではないかと期待していたけれど、どうやら違うようだから。犬はもう帰ってこないかもしれない。車に轢かれるかもしれない。やたらに孕ませるかもしれない。でも、それは彼のこと。
その瞬間、彼の人生は独立するのかもしれない。いろんなことが起こるだろうから、対処する術を自ら学ばなくてはならない。痛い目に遭い、なんで俺だけがと苦しみ、主が縄を解いたことを恨むかもしれない。でも、それが彼の人生。誰にも文句は言えない。ここから見出していくしかない。他と関わり、自を浮き上がらせていくしかない。差異の中で、初めて個が機能していく。
彼女は彼女で、それでいいんだ。僕の思うようになんかならない。なるはずがない。僕がそうされてみたらきっと反発する。
受け入れるということは、自分から離すこと、明らかに観るということ。自分とは違う存在を、自分と同様に大切に扱うということ。
そう簡単ではない。まったくの不意に、不合理に、不幸にも、自分の生存にとって必要不可欠な対象を失ってしまうことがある。受け入れるまで、明らかに観る(あきらめる)まで、時間がかかって当然でしょう。その時は、きっと来る。蕎麦がひっそり咲くように、椿がぽとっと落ちるように、雀が一斉に飛び立つように。
今まで明確に意識はしていなかったけど、僕も何度も手放し、受け入れ、手放し、受け入れ、してきていた。小学校、中学校、高校、大学、それぞれの友人、本気で好きになった女性たち、お世話になった先生、日々食べてきた鳥や魚や野菜や、雨も晴れも、そしてたくさんの言葉。受け入れっぱなしということは決してなかった。先に進むためにしかたなく、愛着を捨ててきた。そして今に合うものを、人を取り入れてきた。そうやって機能してきた。命をつないできた。今、十分に燃えるために。
僕自身もまた、いつか大地に帰る。地球に受け入れられる。それは悲しいことじゃなくて、自然なのでしょう。今はそう思える。だけど、実際に親の死に目に会うと、どうなるかわからない。
他を他として知ること。僕が僕を大切にするように。どう生きればいいのか、悩んできたように。悩んでいるように。
それなら、できる。
ありがとうございます。
しゃべりばに参加したかいもありました。