行こうと思っていました。が、やめようか、とも思いました。
2時間かけて、1000円払って、自分の時間を使って、まで、行くか?
一つのことに対して、必ず抵抗する力も出てくるのでした。
でも、目覚まし通りに起きて、体は「行く」ようになっていました。
前半、ああ来なきゃよかった、と感じました。目を覆うようなパフォーマンス、また飛び出る絶叫、聞きたくもない体の話、取り乱した姿・・・。
俺の方がましだ、と、傲慢にも思ったりもしました。
でも、一回戦が終わった頃から、朗読者に引き込まれることが多くなりました。雑念すら消えてしまうような。
声と言葉。体と心。この一致具合が大きい人の作品ほど、僕に届いた。
笑わせるような、うけを狙った人もいた。それは、表面的には沸かせるのだけど、奥までは響かなかった。ただ手で、波をぱしゃぱしゃ飛ばしているようで。
途中から、楠さんの挙げる色に注目した(楠さんとは、「詩のボクシング」の主催者で、ジャッジの一人。本選では、赤か青の、より朗読の届いたコーナーに、その色のグローブの形をした札を挙げることになっています)。楠さんに限らず、どちらが残るか、ということを意識するようになった。そして、正直どっちでもいいや、というときは、4対3に(ジャッジは7人)なり、そしてほとんど、僕の判断する方に、手は挙がった。
優勝した吉川詩歩さんは、筑波大学の一年生だそうです。彼女の朗読には、やはり一番引き込まれた。これも2回戦くらいから、ああ彼女が優勝するんじゃないかと思っていた。
引き込まれるというより、触発されるというのでしょうか。登場した16人の中で、一番抵抗なく、すっと入ってきた。そして、ありがたいとしか言いようのない、なにか僕にとっても大切なところに、その言葉と声は届いて、僕を動かした。意識していない、でも動きたかった方へ。
決勝の即興が見事でした。「マスク」というお題が出たのですが、彼女は目を手で隠し、ひたすらにイメージを、言葉を、感触を追っていた。産まれたときから、頼んでもいないのに、薄皮のように張り付いたようなマスクがあって、これさえなければもっとらくちんに生きられるのに。苦しまずに、もっとそのまま、見せたいものを見せられるのに。でも、それがあるからこそ、私は守られてもいる。マスクがあるからこそ、心臓がこぼれなくても済んでいる。
その感覚は、まったくその通りだと共鳴した。よくぞ表現してくれた、とも思った。
家に帰って、パンフレットを改めて見たら、「詩歩」さんだったんですね。まったく詩が歩くような、詩によって歩くような、多分彼女そのものなんでしょうね、そのものが、やっぱり一番応えました。
と、書いていたら、階下の母から、「詩のボクシング」やってるよ~、と呼ばれました。NHKのBSで、「谷川俊太郎対ねじめ正一」の試合と、その後の発展を紹介していました。縁というのでしょうか。
谷川さんの「詩は曲のようなもの」という言葉が印象的です。また楠さんの「声は言葉の器」という説も。
パソコンや紙面からだけでは、生の情報は足りない。人と人が、生身で向き合う、そのことで初めて何か新しいものが生まれる、ということがある。それはカウンセリングの醍醐味とも通じる。生きることに欠かせない何か。
また、リング上での、与えられた3分が、また貴重なのです。それは、他者がいる中での、自分の時間。自由に使える時間なのです。それもまた、カウンセリングの1時間と似ている。そんな「私の時間」、どれだけの人が有効に使っているでしょうか? エンデの『モモ』の中の、「時間泥棒」も思い出されます。
ということで、また出る、でしょう。
ピアノを弾くように、ベルを鳴らすように、バイオリンを弾くように。その感覚がつかめるのは、いつになるかわからないけど。書くことと同様に、これも実践していく中で血肉としていくしか方法はないようです。
辛いんだけどね、逃げたいくらい怖いんだけどね。
でも、やらないことには、上達しないのです。
2時間かけて、1000円払って、自分の時間を使って、まで、行くか?
一つのことに対して、必ず抵抗する力も出てくるのでした。
でも、目覚まし通りに起きて、体は「行く」ようになっていました。
前半、ああ来なきゃよかった、と感じました。目を覆うようなパフォーマンス、また飛び出る絶叫、聞きたくもない体の話、取り乱した姿・・・。
俺の方がましだ、と、傲慢にも思ったりもしました。
でも、一回戦が終わった頃から、朗読者に引き込まれることが多くなりました。雑念すら消えてしまうような。
声と言葉。体と心。この一致具合が大きい人の作品ほど、僕に届いた。
笑わせるような、うけを狙った人もいた。それは、表面的には沸かせるのだけど、奥までは響かなかった。ただ手で、波をぱしゃぱしゃ飛ばしているようで。
途中から、楠さんの挙げる色に注目した(楠さんとは、「詩のボクシング」の主催者で、ジャッジの一人。本選では、赤か青の、より朗読の届いたコーナーに、その色のグローブの形をした札を挙げることになっています)。楠さんに限らず、どちらが残るか、ということを意識するようになった。そして、正直どっちでもいいや、というときは、4対3に(ジャッジは7人)なり、そしてほとんど、僕の判断する方に、手は挙がった。
優勝した吉川詩歩さんは、筑波大学の一年生だそうです。彼女の朗読には、やはり一番引き込まれた。これも2回戦くらいから、ああ彼女が優勝するんじゃないかと思っていた。
引き込まれるというより、触発されるというのでしょうか。登場した16人の中で、一番抵抗なく、すっと入ってきた。そして、ありがたいとしか言いようのない、なにか僕にとっても大切なところに、その言葉と声は届いて、僕を動かした。意識していない、でも動きたかった方へ。
決勝の即興が見事でした。「マスク」というお題が出たのですが、彼女は目を手で隠し、ひたすらにイメージを、言葉を、感触を追っていた。産まれたときから、頼んでもいないのに、薄皮のように張り付いたようなマスクがあって、これさえなければもっとらくちんに生きられるのに。苦しまずに、もっとそのまま、見せたいものを見せられるのに。でも、それがあるからこそ、私は守られてもいる。マスクがあるからこそ、心臓がこぼれなくても済んでいる。
その感覚は、まったくその通りだと共鳴した。よくぞ表現してくれた、とも思った。
家に帰って、パンフレットを改めて見たら、「詩歩」さんだったんですね。まったく詩が歩くような、詩によって歩くような、多分彼女そのものなんでしょうね、そのものが、やっぱり一番応えました。
と、書いていたら、階下の母から、「詩のボクシング」やってるよ~、と呼ばれました。NHKのBSで、「谷川俊太郎対ねじめ正一」の試合と、その後の発展を紹介していました。縁というのでしょうか。
谷川さんの「詩は曲のようなもの」という言葉が印象的です。また楠さんの「声は言葉の器」という説も。
パソコンや紙面からだけでは、生の情報は足りない。人と人が、生身で向き合う、そのことで初めて何か新しいものが生まれる、ということがある。それはカウンセリングの醍醐味とも通じる。生きることに欠かせない何か。
また、リング上での、与えられた3分が、また貴重なのです。それは、他者がいる中での、自分の時間。自由に使える時間なのです。それもまた、カウンセリングの1時間と似ている。そんな「私の時間」、どれだけの人が有効に使っているでしょうか? エンデの『モモ』の中の、「時間泥棒」も思い出されます。
ということで、また出る、でしょう。
ピアノを弾くように、ベルを鳴らすように、バイオリンを弾くように。その感覚がつかめるのは、いつになるかわからないけど。書くことと同様に、これも実践していく中で血肉としていくしか方法はないようです。
辛いんだけどね、逃げたいくらい怖いんだけどね。
でも、やらないことには、上達しないのです。
ありがとうございました♪
吉川詩歩さんは、全国大会のリングでも
ジャブジャブ ストレート アッパー が
真剣に決まりましたよ☆
僕も全国大会、観戦してました。
確かに、彼女は真剣でしたね。
「さようなら」の後、彼女がどう変わっていくのか、気になります。