泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

アキレスと亀

2008-10-03 22:02:21 | 映画
 「アキレスと亀」というパラドクス(逆説)があります。それは先に亀が歩いていて、後から走り出したアキレス(人間)が、理論上、時間上は、永遠にアキレスは亀を追い越すことはできないというものです。アキレスが進み、でも亀も進んでいる。その差は、限りなくゼロに近づくけれども、ゼロになることはない。この問題を、北野監督は、「芸術(夢)と人間」に置き換えています。
 宣伝では、監督自らが演じる中年期が目立ちますが、この物語の中核は、主人公真知寿(まちす)の幼年時代にあります。父は生糸で成功していた会長。彼は芸者たちと酒宴に興じている。騙されていることも知らずに、芸術を理解しているつもりで。息子はとにかく絵が好きだった。父は可愛がった。絵だけ描いていればいいと教えた。それが、その後の悲劇の始まりです。
 蚕が一夜にして全滅してしまう。会社は倒産し、父は首をくくる。残された母(後妻)は、親戚(父の弟)に真知寿を預け、自らは投身自殺。唯一の友達となったちょっと変わったおじさんもまた、バスに跳ねられ(真知寿が去ろうとしたのを止めようとして?)死んでしまう。
 青年時代、新聞配達や工夫をしながら、彼は創作を続ける。学校で知り合った仲間たち、そこでも行き過ぎた熱で、絶望で死ぬ人が二人出る。そんななか、職場で知り合った女性と彼は結婚。幸せだが、絵は一向に売れない(実は騙されている)。
 二人が作った娘が高校生になり、両親を嫌悪するようになる。小遣い欲しさに売春、家出。それでも夫婦は作品にのめりこむ。挙句に、娘も死んでしまう(ドラッグによる中毒死か?)。これには夫婦も参った。さすがに奥さんも夫の狂気についてゆけず別れる。真知寿も死のうとする。しかし、死ねない。
 川沿いのフリーマーケットで、彼は半分焼けたコーラの空き缶を20万で売っている。包帯ぐるぐるで。それは自分そのものだったのでしょう。
 「それください」という人が現れる。その人と彼は、手をつないで帰っていく。
 と、粗筋を追体験すると、この物語は「承認」の物語なのではと思えてきました。真知寿は、どんなことをしてでも、受け止めてくれる人が欲しかったのではないか。いい絵だね、買うよ、ぜひ続けてくれ、楽しみにしてる。そう心から応じてくれる人。それがかつての父だった、母だった。
 その絶対的な存在を、妻が引き受けている。彼は結局、求めていたものを得たのではないか、と思った。だからその後、もう彼は作品を作らなくてもいいのかもしれない。夫婦で、慎ましく、労わりあって生き続けていく、それこそが二人の最高傑作なのではないか。そうなってしまったら、もう「作品」はいらない。と言っても、彼らは作り続けるのでしょう。今度こそ、最高傑作だと信じて。
 生まれ持った業から抜け出る物語でもあるのかもしれません。それが芸術だ、と監督は思っているのかもしれない。
 僕の勝手な想像があるとは思いますが、こうした想像を促したのはこの作品です。
 最後に、「そしてアキレスは亀に近づいた」。
 夢、目的に近づこうとする人間たち。僕もまたその一人。それは決して一致するものではない。一致したと思ったら次の瞬間にはわからなくなっているもの。
 「紙一重」の大切さ、と、やっぱり社会に適応するための基礎は身につけていないと、という現実感覚、逆説的に教えられたようです。

北野武監督・脚本・絵/樋口加南子・伊武雅刀他/テアトル新宿にて

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