泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

崖の上のポニョ

2008-09-03 02:21:00 | 映画
 やっぱり気になっていて、観てきました。
 とてもよかった。映画館を出たときの気持ちをなんと表現したらいいのか。心が澄んでいて、自信がいつの間にか増えていて、人に優しくなれて。
 全体のテーマとして伝わってきたのは、人間の人間による人間のための「肯定」です。ポニョは魚の子なのですが、人間になりたい。そのために必要な条件がある。正体(魚、人面魚)を知っていてなおその存在が好きである自分以外の人間がいること。宗介(5歳の男の子)は、見事にその試練に耐えた。なんて言うのは、周りの大人の取り越し苦労だけなのかもしれません。子供時代、自他の区別もわからず、他を排除するなんてことがあったでしょうか。
 と書いて、幸せな環境(両親、それに変わる大人に愛されるということ)に産まれなかった、排除された人のことが思い出されます。そんな人にとって、この映画は辛いのだろうか? わからない。でも、環境を突破する力があるように感じます。自己以外をすべて取っ払ってしまって、今の人としての私に入る力。それこそ親代わりになりうる力というのでしょうか。それが芸術の役割でもあるのでしょう。それが確かにあった。あっという間で、周りなんか見えない、そんな状態の持続。感情にふっと触れる感覚。
 魔法とはなんだろう、とも思いました。それは自分の願望がすぐに実現してしまうということ。それは未熟な心の夢見ることなのかもしれません。自己中心で、むかついたからやった、みたいな犯罪の心理、または正当化する倒錯とも通じているようです。ポニョは、人間になる引き換えに、魔法を失った。それは思った通りに人生を進める、という幼い幻想から、他との共存、出会いに乗っていくという相互関係への発展を意味しているように感じます。
 振り返って自分のこと。精神科医が、カウンセラーが、また書店が、友が、家族が、作品が、自然が、僕を受け入れてくれなかったら、と思うとぞっとする。人が人になるために、その人として生きていけるために、絶対に他者からの受容が必要です。存在が尊重されるということ。その実感を他から受けると、その人もまず自己を尊重、肯定するようになる。母なるもの、生命の母である海、そこが率直に描かれていました。人として大切なものを、製作者たちがしっかりと把握していたのではないでしょうか。そうでないとこれほどの信頼を寄せることはできません。
 あと、これは『崖の上のポニョ』の公式ホームページを見て知ったことですが、前作『ハウルの動く城』以降、宮崎監督は夏目漱石全集を読みふけっていたそうです。あの『門』の主人公は「宗助」。しかも「崖の下」に住んでいた。そして漱石の誕生日は旧暦の1月5日。宮崎監督は新暦の1月5日。そして、なんと僕の誕生日も1月5日・・・。たまたまでしょう。でも、ね。なんか感じないわけにはいきません。通じるものというのでしょうか。過去からしっかりと新しいものを生み出すということでしょうか。この人は、これだけは、という敬愛や関心の近似というのでしょうか。
 それにしても生き物が、ほんと生きていました。波も月も花も。これがすべて手作りの業かと思うと途方もないものを感じますが、確かに職人芸。こんな素晴らしいものを人間は作ることができる。誇りに感じます。
 僕も保全のために募金した「淵の森」。そこで監督はごみ拾いしながら着想を得たようです。『となりのトトロ』もまたそうだった。自然と人間の融和。その創造力。独創性。見事と言うしかありません。そこから学ばないといけません。
 とにかく、よかった。まだの方、ぜひ。

宮崎駿監督・原作・脚本/久石譲音楽/山口智子他/東宝/2008

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