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旅日記

石見の伝説と歴史の物語−86(後醍醐天皇−14 船上山)

30.3.元弘の乱

 

30.3.12. 船上山
 
隠岐を脱出した後醍醐帝は、伯耆国名和(鳥取県西伯郡大山町名和)名和の湊にたどり着いた。

名和の地の地頭であった名和氏は漂着した後醍醐天皇を保護し、閏2月28日に、船上山にて挙兵した。

「太平記」この時に兵糧を船上山に運び上げる下りがある。

名和長年が近在の民家に人を回して、
「思い立つことがあって、船上山に兵糧を上げる事がある。我々の倉にある米を担って運んだ者には一回ごとに銭を五百ずつ与えよう」と触れを出したので、四方八方から人夫五、六千人が現れ来たって人に負けまいと運んでいく。

一日の間に兵糧七百五十トンを運んだのだった。

その後、家中の財宝を全てその人たちに与えて自分の館に火を放ち、その手勢百五十騎で船上山に駆けつけ、帝のお住まいを警護申し上げる。長年の一族で名和七郎という者が、戦の知略に長けていたので、白布がたくさんあったのを旗にこしらえて、松の葉を焼いて煙にいぶし、近国の武士たちの家紋を書いてあちらの木の根元、こちらの山の峰に立て置いた。

このたくさんの旗が峰の風に吹かれて陣ごとに翻る様子は、山中に大勢が満ちあふれているように見えて大変な数に思える。

 

兵糧運搬に係る逸話が残されている。

船上山に兵糧を運ぶ際、あまりの重さに耐えかねた名和軍は、一回で運ぶ量を一斗六升(約24キロ)にしたとされる。

この兵糧を下ろした土地(鳥取県西伯郡大山町豊成陣構)は一斗六升と呼ばれるようになった。

 

後醍醐帝を擁護する名和軍は僅か150前後であり、攻める幕府軍、隠岐の守護佐々木清高率いる3000余りであった。

しかし、名和軍は知略を持って、そして半ば幸運ともいえる出来事もあり、幕府の軍勢を撃退する。

幸運とは、幕府軍の指揮官の一人、佐々木昌綱は麓で指揮を執っていたが流れ矢が右の眼に当たり戦死してしまった、ことをいう。

これで昌綱の部下500は怖気づいて戦意を失ってしまうのである。

 

 

後醍醐帝は戦いの後に船上山に行宮を設置し、ここから討幕の綸旨を発した。

西国各地の武士は天下の形勢に動揺しており、いつか旗幟鮮明すべきと思っていたときであるから、この機とばかりにかなりの者が船 上山へ馳せ参じた。

 

この様子を「太平記」では次のように述べている。

主上が隠岐国からお帰りになることができて、船上山においでになると噂が立つと、国々の兵達が馳せ参じること、引きも切らない。

まず一番に出雲の守護塩冶判官高貞が富士名の判官を連れて千余騎で馳せ参じる。

その後、浅山二郎八百余騎、金持の一党が三百余騎、大山寺の門徒七百余騎と、出雲、伯耆、因幡三国の間に、すべてで弓矢に携わる者で参上しない者はいなかった。

これだけでなく、石見国では沢(佐波)、三隅の一族、安芸国では熊谷、小早川、美作国では菅家の一族の江見、芳賀、渋谷、南三郷、備後国では江田、広沢、宮、三吉、備中では新見、成合、那須、三村、小坂、河村、庄、真壁、備前では今木、大富太郎幸範、和田備後二郎範長、知間二郎親経、藤井、射越五郎左衛門範貞、小嶋、中吉、美濃権介、和気弥次郎季経、石生彦三郎、このほか四国や九州の武士までも、次々に伝え聞いて我先にと馳せ参じたので、その勢は船上山にあふれて、四方の麓三㎞ほどの間は木の下、草の陰までも人がいないというところがなかったのだった。

石見の佐波氏、三隅氏一族は船上山に馳せ参じているが、出羽・小笠原の両氏は形勢を観望していたと思われる。

また益田氏の動向も明らかでない。

吉見氏については、後述する。

 

 

千種忠顕の出陣

この頃、赤松入道、叡山勢力らが数回に亘って京に攻め入ろうとして六波羅軍と戦闘している。

健闘するがいずれも六波羅軍に押し返されてた。

これを、聞いた後醍醐帝は、船上山から軍勢を出して赤松入道らと力を合わせ六波羅を攻めようとした。

千種忠顕が8千の兵を率いて船上山からを目指して出陣した。

六条ノ少将千種忠顕忠顕

後醍醐帝が隠岐に配流された時に付添として幕府から許されたのは、男二人、女三人であった。

千種忠顕はこのうちの一人である。

残る人々は左中将ノ一条行房、女性は藤原為道 の娘権大納言ノ局、右大臣久我友親の妻の姪に当たる小宰相ノ局、三位 阿野廉子の三妃であった。

 

千種軍は山陰道を東に進み京へ向かう。

道中で軍勢は徐々に増えていき、兵力は1万を超えた。

「太平記」では兵力は2万7千騎とあるが、例によって誇張があると思われる。

赤松入道と力を合わせて六波羅を攻めようと、六条少将忠顕朝臣を頭中将にして山陽と山陰両方の兵の大将として、京都へ差し向けられる。

その軍勢が伯耆を出立した時まではわずか千余騎と言われたが、因幡、伯耆、出雲、美作、但馬、丹後、丹波、若狭の軍勢たちが馳せ加わって、まもなく二十万七千余騎になった。

また同じく「太平記」に、

但馬国守護大田三郎衛門尉が後醍醐帝の第六皇子を大将に戴いて、篠村に集まった。
ここで千種忠顕率いる軍勢と合流した、とある。

後醍醐帝の第六皇子の名前は記載されていないが、​​「​​静尊法親王(じょうそんほっしんのう)」と思われる。

静尊法親王は、後醍醐天皇の皇子で、母は参議正三位藤原実俊の娘遊義門院一条局。

同母の兄弟に世良親王がいる。 出家して聖護院に入り、元弘の乱では1332年但馬国に配流となり、但馬国守護太田守延に預けられた。

なお、およそ20日後に、幕府打倒を決意した足利高氏がこの篠村の篠村八幡宮(京都府亀岡市篠町)で幕府討伐戦の戦勝祈願の願文と鏑矢を奉納することになる。

 

京への侵攻

元弘三年(1333年)4月8日、「恵尊法親王」を大将に、千種忠顕を副将にして錦の御旗を掲げて京都に侵攻(*1)するも、六波羅探題に阻まれる。

(*1)太平記」では20万騎で侵攻したとあるが、これも誇張であろう。

この、京攻めの軍勢に、「天莫空勾践 時非無范蠡」の児島備後三郎高徳も参戦している。

敗軍の将となった「恵尊法親王」は逃走する。

児島備後三郎高徳が大将のいた本陣峰堂に行ってみると、錦の御旗や鎧直垂までが捨てられていた。

高徳は錦の御旗だけを抱いて、立ち去った。

後日、足利高氏が篠村に滞在している時に高徳は高氏に会い、この錦の旗を足利高氏に手渡したといわれている。

 

この戦いのおよそ1週間後に、反乱鎮圧のために鎌倉幕府から大軍が次々と上洛する。

鎮圧軍の大将は名越尾張守高家、副将は足利高氏である。

 

<続く>

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