33.戦時中の先島集団軍内の事件
33.1.軍隊の不祥事
第二次大戦を通じ、国軍内で幾多の不祥事件が発生したが、軍の威信を保つため、その多くが闇から闇へと葬られ、殆んど外部へは洩れなかった。
昭和19年(1944年)6月、宮古島・石垣島方面の防衛部隊をまとめる「先島集団」が設けられ、第28師団長が司令官となった。
この先島集団においても、大戦末期頃から士気の低下、軍規の弛緩、秩序の紊れが著しくなり、それに伴なって、先島集団管下の各部隊のなかから幾つかの不祥事件が起った。
事件の処理は第28師団に法務官不在のため、那覇の第32軍々法会議でなされた。
然し昭和23年3月以後は交通が途絶し、事件送致が不可能となったため、師団内に臨時軍事法廷を開設し、麾下将校のうちから法律に明るい適任者を選んで臨時に法務官、検察官を命じ、事件を処理した。
宮古島で発生した軍刑法違反事件については記録や資料が残っていないので、全般を明らかにすることは出来ないが、一部に明らかになった事件がある。
33.1.1.国軍未曾有の不祥事(酒乱将校、部下三名を斬殺)
昭和19年秋(一説によれば11月)平良町瓦原で発生した乱酔将校による部下三名殺害事件 は国軍史上稀にみるものだった。
事件の概要は大体次のようなものである。
19年秋、平良町瓦原部落に駐屯した某部隊の隊長が替わり、新隊長のA大尉が着任したので、民家(隊長の宿所先か?)で部下の主だった将校下士官が集まって歓迎の宴を催した。
A大尉はアルコール分の強い地酒(泡盛)をかなりの量呑んで酔酔い、余興に日本刀を振り回して剣舞を始めた。
舞い終った途端、B曹長が気を利かして刀の鞘を差し出したところ納めようとして誤ってB曹長の胸を突き刺した。
血をみて興奮したA大尉は同席のC軍曹、D兵長、E軍属を次々と刺し、会場は修羅場と化した。
B軍曹とC曹長は殆んど即死、D兵長は陸軍病院で応急手当を受けたが数時間後に死亡、E軍属は背中を負傷しただけで一命を取り止めた。
凶行後A大尉は一時茫然となっていたが、暫くして我にかえり、犯した罪の重大さを知るや矢庭に隣室に飛込み、拳銃で自決しようとしたが、部下に制止されて果さず、身柄は憲兵隊に拘留された。
一応の取り調べが終わったあと、A大尉は那覇の第32軍々法会議に送られた。
軍事法廷は20年2月7日懲役15年(飲酒による心神喪失と戦局急迫で情状酌量)を宣告、沖縄刑務所(軍命により軍人軍属の未決、既決囚をも収容していた)で服役した。
当時本土との交通が途絶し、軍刑務所へ送致することが不可能だった。
下手人のA大尉は剣道の有段者で手練の持ち主だったが、日頃から酒癖があり、酔うとよく軍刀を振り回すことがあったので、部下から警戒されていたようである。
下獄後間もなく沖縄戦が始まり、5月下旬刑務所が解散となったので、同大尉は職員と共に南部に落ち延び、6月23日頃百名(ひゃくな:沖縄県南城市玉城)に於て米軍に投降した。
その後、無事帰還し一時潜伏生活を送っていたが、前非を悔い数年前病歿する迄三名の遺族に慰藉料として月々送金したと云う。
本事件は部隊にとって極めて不名誉なものとして関係者は口を緘して語らず、負傷して生き残った軍属のE氏は、こんな不愉快な事件は思い出すだけでも嫌だと、事件に触れることを避けている。
33.1.2.船舶工兵隊の集団逃亡事件
時期は明かでないが(二十年夏頃と思われる)船舶工兵隊の兵八名が舟挺を利用して集団で逃亡した事件があった。
厳重な捜索にも拘らず、終戦迄行方は不明、台湾、西表に漂着したか、或は海上で遭難したか、今だに消息は分らないと云う。
船舶工兵隊
大発(陸軍の主力上陸用舟艇)などの舟艇に乗り組み揚陸作業と機動輸送専門の工兵部隊。
沖縄防衛の第32軍の隷下に第11船舶部隊があり、その第11部隊の指揮下に船舶工兵第23連隊と第26連隊があった。
この内の船舶工兵第23連隊第1中隊が、昭和19年7月19日宮古島に配備されていた。
33.1.3.上官侮辱罪で懲役3年
昭和19年11月1日夕方独立歩兵大隊所属の上等兵山口某は無断外出、飲酒の上、平良市西里の映画館新世界に於いて巡察将校(師団司令部付 A中尉)に咎められて反抗「兵隊をそう苛めるものではない」と怒鳴り、上官侮辱に問われた。
そして第32軍々法公議に送致(当時は未だ宮古、那覇間の交通は細々ら保たれていた)され、12月7日上官侮辱罪で懲役3年を宜告され、小倉陸軍務所へ移送された。
この事件の干与裁判官は陸第少佐井上茂 、法務大尉田村常雄 、大尉和才則雄だった。
その他、前記の外にも若干の刑法犯があったと考えられるが、軍法会議送致事件があったか、どうかは不明、なお将校クラスにも職権乱用て懲戒処分(佐官2名を含む)に付されたのも若干あったようである。
33.2.捕虜に対する戦争犯罪
戦争捕虜に対する扱いに関して、ジュネーヴ条約がある。
これは、戦時国際法としての傷病者及び捕虜の待遇改善のための国際条約である。
大東亜戦争では、連合国側は、開戦直後から日本にジュネーヴ条約の相互適用を求めていたが、日本は陸・海軍の反対でジュネーヴ条約を批准しておらず、調印のみ済ませていた。
その後、日本側は外務省と陸軍省などの協議の結果、ジュネーヴ条約を「準用」すると回答した。
回答を受けたイギリスならびにアメリカ側は「批准」と同等と解釈した。
そのため、捕虜とした連合国兵士の処遇については戦時中から連合国側から不十分と非難されていた。
沖縄作戦中、先島群島に来襲した敵機中日本軍の地上砲火を浴びて撃墜されたのも少なくなかったが、これらの搭乗員のうち一部はパラシュートで脱出降下、捕虜となった。
これらの身柄は殆ど台湾又は沖縄(昭和20年2月以前)へ送られ、抑留生活ののち解放されたが、石垣島で三名、宮古島で一名が処刑され、処刑関係者は戦後米軍の手によって摘発されて軍事法廷に付され、断罪された。
33.2.1.石垣島事件(米軍海軍艦載機の搭乗員3人を殺害)
昭和20年(1945年)4月15日、沖縄県の石垣島の宮良飛行場を空襲したアメリカ海軍艦載機が撃墜された。
搭乗員3人(V・L・ティボ中尉、W・H・ロイド兵曹およびR・タグル兵曹)が落下傘により石垣島大浜海岸から200メートルほどの浅い海中に降りたところを、海軍警備隊により捕獲された。
海軍警備隊は、3人をバンナ岳麓の海軍警備隊本部防空壕のある空地へ連行し、米軍に関する情報収集のため取調べ・尋問を行なった。
海軍警備隊司令の井上乙彦大佐らが3名の殺害を決定した。
震洋特攻隊員の幕田大尉がティボ中尉を、田口海軍少尉がタグル兵曹を日本刀で斬首・殺害、ロイド兵曹は榎本大尉の指示により、柱に縛りつけられ、20分ほどの間、50人ほどの兵士から殴打されたのち、藤中1等兵、成迫上等兵、榎本大尉ら、約40人に順番に銃剣で刺突され、死亡した。
同日夜10時頃、海軍警備隊は、3人を警備隊本部建物から150メートルほど離れた照空隊附近の荒れ地へ連行し、殺害して遺体を同地で穴に埋めた。
敗戦後、警備隊員は米兵の遺体を掘り返して火葬にし、遺灰を西表島の北方3キロの海中に捨てた。
しかしその後、軍関係者がGHQに密告したことにより事件が発覚した。
昭和23年(1948年)にアメリカ軍横浜裁判で海軍警備隊の関係者ら46人が起訴され、41人が死刑判決を受けた。
海軍警備隊司令の井上大佐は捕虜処刑の理由として①収容施設に欠く、②台湾へ送る手段がない、③食糧の余裕がない、などを挙げて陳弁したが、認められなかった。
実際は井上司令が冷静な判断を欠き、血気盛りで敵愾心旺盛な井上副長や幕田大尉らの「空爆で犠牲になった部下の敵討ち、将兵の士気昂揚のため軍陣の血祭りに供するが適切」との意見が処刑へ踏切らせたのではないかとも考えられた。
絞首刑判決を受けた41人のうち、昭和24年(1949年)1月28日に第8軍法務部による判決の確認(裁判記録の検討)手続きにより、命令に従って刺突を行ったものの、主体的に殴打や暴行を行わなかったとされた水兵31人が減刑となり、更に1950年3月18日に連合軍総司令部による死刑判決の再審査により3人が減刑となった。
井上司令と、4人の将校(井上勝太郎大尉、幕田稔大尉、榎本宗応大尉、田口泰正少尉)および下士官2人(成迫忠邦上等兵曹、藤中松雄1等兵曹)の7人については死刑が確定、最終的には絞首刑7人、終身刑8人、有期刑24人、無罪6人となった。
昭和25年(1950年)4月7日に、7人の死刑が執行された。
藤中松雄の陳述書
BC級戦犯として死刑執行された藤中松雄の陳述書が、国立公文書館で見つかった。
(その一部)
問 銃剣で刺突する前に俘虜を殴った者の名と証跡をあげよ
答 北田兵曹長は俘虜を殴るために杖、又は剣を用いた。彼は兵に遺体の靴をとれと命じた。炭床兵曹長は俘虜を殴るのに、杖を用いた。K兵曹は俘虜を殴るのに拳固でやった。それと、「これは戦友の仇討ちだ」といいながら足で蹴った。他の多数の者の名を自分は憶えていない。
問 その時、どんな命令がだされたか。
答 榎本中尉が指揮した。
問 刺殺の時の指揮官の名を挙げ、何を言ったかを話せ。
答 榎本中尉が俘虜を刺殺する命令を出した。彼は「そんなやり方ではいかぬ」と言った。それから誰かが実地にやることを命じた。
<米軍飛行士の慰霊碑>(石垣市新川)
33.2.2.米飛行士一名を銃殺(謎の多い宮古島戦犯事件)
宮古地区での米飛行士捕虜についての記録は四件が公式文書として残っている。
1、昭和19年10月13日 宮古島南海岸に降下一名、19日那覇の第32軍司令部に送付
2、昭和20年1月9日西海岸に不時着一名、15日那覇へ送付
3、昭和20年4月29日 降下一名、7月19日輸送機で台湾へ送付したが、機が墜落、操縦士ら合わせて九名死亡、遺骨は台湾へ送付
4,昭和20年5月19日 西海岸に降下一名、海軍部備隊の手で台湾へ送付
以上の四件が記録されているが、米軍の講査進むに伴って不審な点が発見された。
更に追及を続けるうち、ついに戦後宮古島から沖縄の米軍作業隊に編入された歩兵第3連隊の某中尉(二世出身と云われる)の口から捕虜殺害の事実が明るみに出た。
殺害された捕虜は一時歩兵第3連隊が管理していたことがあったので、その連隊関係者はその消息に通じていたようである。
これによると、昭和20年4月29日午後3時頃米艦載機一機が地上砲火によって撃墜されたが、搭乗員はパラシュートで脱出、野原越付近に降りたところを付近の日本軍に捕えられ、師団司令部へ送られた。
情報係将校が訊問した結果、米空軍少尉ジョセフ・フランシス・フロ ーレンスと名乗り、台湾東方海上の米空母から飛び立ったと供述した。
司令部ではこの身柄取扱いについて考えた結果、台湾へ送ることになったが、この頃になると航空機による連絡は杜絶え勝ちで、又飛行場も連日の空襲で破壊され、離着陸は甚だしく危険を伴うようになっていた。
止むを得ず輸送のメドがつく迄抑留することを決め、憲兵隊に身柄を預けたが、そのうち給養や檻禁施設などに不自由になってきたので、同人の身柄を歩兵第三連隊長怡土大佐に一任した。
怡土大佐は同人を中飛行場での不発弾解体処理作業に使用したが、何分危険を伴なう仕事であるので、就業をいやがり、又食事がまずいと不平不満が多く、取扱いが面倒になったので、身柄は再び司令部が管理することになった。
そのうち台湾への輸送の途がつかなくなり、あらためてその取扱いが問題になった。
6月2日敵来攻の公算が大きくなったので、乙戦備が下令され、捕虜を何とかせねばならなくなった(乙号戦備=上陸攻撃のおそれが少ない空襲または砲撃に対する戦備)。
これについては幕僚の間でも屢々討議されたようだが、結論は出なかったという。
納見師団長は憲兵畑を歩んできた関係もあって捕虜の取扱いについては経験知識が深く、国際法にも通じていたので、決め兼ねていたようだが、7月上旬銃殺以外方法なしと判断、捕虜管理の責任をもつ陸路参謀に対し、処刑実施を命じた。
この命令に一瀬参謀長が関与したか、どうかが後日問題になったが、参謀長は軍事法廷で当時陣地視察のため司令部を留守にしていたので、知らなかった、司令部に帰還してから報告を受け始めて知ったと述べてい る(この件については軍隊の指揮構成上、参謀長が関知しない筈はないという見方と、納見師団長の性格から考えて参謀長を差し措いて直接担任者に下命することも十分あり得るとの見方があるようだが、肝腎の納見、一瀬両氏が故人となった今日では推測の域を出ない)
このような一札を経て7月11日フローレンス少尉は檻禁所から引き出され、野原岳ふもとの窪地で射殺された。
記録によると処刑は夜間実施されたようで、あらかじめ掘った穴の前で畑野伍長が先ず後頭部を拳銃で射撃して倒し、捕縄を外して穴に投げ込み、外の三名がそれぞれ一 発づつ浴せて息の根を止めた。
遺体はそのまま埋葬されたが、戦後掘り出して火葬に付し、遺骨は一尺四方の白木の箱に入れ、台湾軍司令部宛に送られた。
この事件について戦犯の責めを問われたのは陸路参謀ら四名で、昭和23年7月26日横浜軍事法廷で次の如く判決が言い渡された。(求刑は行なわれていない)
重労働35年 第28師団参謀 中佐 陸路富士雄
重労働9年 第28師団司令部付 中尉 外村奥次
重労働3年 第28師団司令部付 曹長 竹内次郎
重労働3年 憲兵伍長 畑野耕三
訴因は陸路参謀が処刑命令及び遺体の処置が適切を欠いた罪、外村、竹内、畑野の三被告が捕虜を不法に殺害又は関与した罪となっている。
米軍事法廷では一瀬参謀長及び武田憲兵分隊長にも追及の手を進めたようだが、両氏の言分が認められて責めを問われなかった。
ただ両氏に対して戦犯関係者の間から責任転稼も甚だしいとして非難と怨嗟の声があったことは事実のようである。
各被告は処刑が師団長命令によるものであることを強調したが、納見中将は自決(昭和20年12月13日)にあたって何らの遺書を残さず、又捕虜についての記録は戦後焼却されていたので、これを立証する手段を得られず、結局前記の四被告が貧乏クジを引く結果になったので ある。
ところで納見中将が何故この頃(7月に入って敵の攻撃の重点が本土に指向され、宮古島をめぐる状況はやや緩和されつつあることが看取された)になって敢て捕虜処刑を決断したかについては適確な資料は得られないがこの点について杉本参謀は次の点が要因ではないかと述べている。
一、捕虜の性格が素直でなく、取り扱いに手古摺ったこと
一、不発弾解体作業に使役された関係で外歩きの機会が多く、従って中 地区の陣地配備などについてある程度の知識を持っていたので、敵来攻の際、万一敵手に落ちた場合、日本軍に不利な情報が洩れる虞れがあると考えられた。
一、空襲の激化に伴なって収容施設や給養上に不便を生じたこと
一、無差別爆撃によって軍民の被害が重なり、 敵愾心が盛り上がった。
さらに捕虜処刑について上級司令部(台北の第十方面軍司令部)に対しあらかじめ連絡又は指示を仰いだが、どうかについても資料が得られないが、前後の事情から推測して納見師団長が独自の判断に基いて処刑を命じたのではないかと思われる節が多く、この点事件関係者に取って極 めて後味の悪いものになったようだ。
宮古島、石垣島両戦犯事件を通じて興味を惹くのは石垣島が海軍部隊、宮古島が陸軍部隊によって事件が起こった点で、背景に指揮官の性格、判断、実行力が影響したと思われる節がある。
すなわち石垣島海軍警備隊司令井上大佐は性格が激し、離島の任地を潔しとせず、部下に接する態度にも問題があったようで、必ずしも心服されてはいなかったと云う。
これに反し陸軍の宮崎少将は人格高潔、温厚な人柄で部下将兵の受けもよく、捕虜は人道的に便船あり次第台湾へ送付していたので面倒な事件を惹き起こさずに済んでいる。
次に宮古島の場合、海軍の村尾司令は、これ又温厚な武人で捕虜取扱いも慎重を期し、身柄は台湾へ送ったので問題はなかった。
然し陸軍の納見中将は秋霜烈日、部下からも畏怖された果断実行型の将軍で所謂ワンマン型、捕虜処刑の決断も敢えて逡巡しなかったと考えられる。
貧乏くじを引いた陸路氏は戦後の回想で櫛淵中将か福地少将の何れかでも残っていたなら、このような事件は避けられたのではないか、と述べている。
この他に宮古島では昭和20年7月始め頃米潜水艦から潜入した沖縄出身のスパイ容疑者一名(名護出身、沖縄戦で米軍に収容)を捕え、処刑したと云う風説もあるが明確な資料はない。
<続く>