31.4.宇多天皇
光孝天皇の第七皇子であり、母は皇太后班子女王(桓武天皇の皇子仲野親王の娘)である。
諱は定省(さだみ)。
光孝天皇は元慶8年(884年)6月に26人の皇子皇女に源姓を賜い臣籍降下させた。
定省王もその一人であり、源定省と称した。
臣籍降下していた源定省は藤原基経の推薦により8月25日に皇族に復帰し、翌26日に皇太子となった。
同日光孝天皇天皇が崩御すると、源定省はただちに践祚し、11月17日に即位した。
定省、在原業平と相撲をとる(大鏡)
定省が陽成に王侍従として仕えていた時、殿上の間の御椅子の前で在原業平と相撲をとり、二人の体が椅子にぶつかって手すりが折れたという逸話が大鏡に書かれている。
五十九代
(略)
御年十八。王侍従などきこえて、殿上人にておはしける時、殿上の御椅子の前にて、業平の中将と相撲とらせ給ひけるほどに、御椅子に打ちかけられて、高欄折れたり。
それを今に侍るなり。
(略)
31.4.1.阿衡(あこう)事件
仁和3年(887年)11月17日に21歳で天皇(宇多天皇)に即位した。
宇多天皇は、左大弁橘広相に命じて、21日に「太政大臣」であった藤原基経に勅書を送った。
そこには
「其万機巨細、百官惣己。皆関白於太政大臣、然後奏下、 一如旧事」
( 「其れ万機巨細、 百官己に惣べよ。皆太政大臣に関(あづか)り白(まう)し、 然して後に奏し下すこと、 一に旧事の如くせよ」 )
と述べられており、執政の任に当たるよう命じた。
これが日本史上で初めて「関白」という言葉が使われた勅書と言われている。
光孝朝においてと同様に全官庁を統轄し、大小全ての上奏・宣下案件を基経に諮るようにと命じたのである。
この命令を、藤原基経は辞退する。
これは、当時の慣習で、一度は断ることが正しい作法とされていたからである。
当然、宇多天皇は2度目の勅書を橘広相(ひろみ)に命じて作らせる。
橘広相は「基経は関白を辞退したが、阿衡(あこう)という役はどうだろうかと考えた」
そこで、2度目の勅書に「宜しく阿衡の任を以て卿の任とせよ」との一文を入れた。
これが、大問題となった。
阿衡とは中国の殷代の賢臣伊尹が任じられた官であり、この故事を橘広相は引用したのである。
しかし、これを文章博士の藤原佐世が「阿衡は位貴くも、職掌なし(地位は高いが職務を持たない)」と基経に告げたからである。
つまりこれは、『実質的な仕事はないということは、政治の表舞台から手を引け、と言われたことと同然だ』と言ったのである。
基経はこれを聞いて大激怒する。
一切の政務を放棄してしまい、そのため国政が渋滞する事態に陥ったのである。
心痛した天皇は基経に丁重に了解を求めるが、確執は解けなかった。
この文章を書いた橘広相は反論するが、朝廷の官僚達は藤原基経を恐れて、橘広相に賛同する者はいなかった。
宇多天皇は2人を呼び出して話し合わせるが、お互いに自説を譲らず、藤原基経も我関せずの態度を取り続けたため、事態は一向に進展しなかった。
半年も政治が停滞したことに困り果てた宇多天皇は、ついに橘広相の職を解き、「阿衡の言葉は間違いであった」という新たな勅を出さざるを得なくなった。
つまり、天皇が臣下の圧力に屈したということ。これによって、天皇よりも関白の方が強い権力を持つことを世間に知らしめる結果になったのである。
ところが藤原基経は、なおも橘広相を島流しにするよう宇多天皇に迫る。
そのとき、朝廷の要職にあった菅原道真が、藤原基経に対して「これ以上紛争を続けるのは藤原氏のためにならない」という書を送り、ようやく藤原基経も振り上げたこぶしを下ろしたという。
基経が執拗に橘広相を失脚させようとしたのは次の理由が大きかった、といわれている。
宇多天皇の女御の一人である橘義子は橘広相の娘であった。
この宇多天皇と橘義子の間に男の子ができると、まずいと考えた基経は橘広相を執拗に排斥しようとしたものである。
これは藤原氏の他氏排斥運動の一つとされている。
なお、菅原道真の娘の菅原衍子(えんし)も宇多天皇の女御となっている。
この一件で、菅原道真は政治家として名を上げ、宇多天皇にも重用されることになる。
しかし、同時に藤原氏一族が、菅原道真へ強い警戒心を抱くようになったことも確かであった。
このときに生まれた小さな対立は、のちの藤原氏一族による菅原道真の排斥へと結びついていくのである。
31.4.2.仁和寺
仁和寺の歴史は仁和2年(886年)第58代光孝天皇によって「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願されたことに始まる。
しかし翌年、光孝天皇は志半ばにして崩御されたため、第59代宇多天皇が先帝の遺志を継がれ、仁和4年(888年)に完成した。
寺号も元号から仁和寺となった。
<国宝 金堂>
<宇多天皇大内山陵:京都市右京区鳴滝宇多野谷>
御陵は大内山の山中標高200mの所にある。
普通の御陵は鳥居の前に柵が有り、立ち入りができず鳥居の先がどうなっているのか分からない。
しかし、この御陵は横から覗くことができた。
<続く>