31.2.陽成天皇
貞観10年(869年)生後3か月足らずで立太子し、貞観18年(876年)11月に7歳で父・清和天皇から譲位され、第57代天皇に即位した。
母は、藤原高子である。
父帝に続く幼年天皇の登場であり、母方の伯父・藤原基経が摂政に就いた。
元慶7年(885年)11月、陽成の乳兄弟であった源益が殿上で天皇に近侍していたところ、突然何者かに殺害されるという事件が起きた。
事件の経緯や犯人は不明とされ、記録に残されていないが、陽成が事件に関与していたとの風聞があったといい、故意であれ事故であれ、陽成自身が起こしたか少なくとも何らかの関与はあったというのが、現在までの大方の歴史家の見方である。
宮中の殺人事件という未曾有の異常事に、基経から迫られ、翌年2月に17歳で退位し、太上天皇となる。
公には病気による自発的譲位である。
その後60年余り、上皇として過ごし、82歳で崩御した。
精神的な病のため、異様な行動は退位してからも続き、天下の悩みの種となったそうである。
大変な馬好きで30頭もの馬を飼っており、家来を従えて馬を走らせ、女子どもを鞭や棒で打ち散らしたとか、家をめちゃくちゃに壊したとか残酷な話が伝わっている。
百人一首
百人一首には8人(天智天皇、持統天皇、陽成院、光孝天皇、三条院、崇徳院、後鳥羽院、順徳院天皇)の歌が撰定されている。
陽成天皇もそのうちの一人である。
百人一首 第13番 陽成天皇
筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞ積もりて 淵となりぬる
この歌は、陽成天皇退位後に作られた歌で、光孝天皇(陽成天皇の次に天皇)の娘である綏子(すいし)内親王に贈った、とされている。
綏子内親王は天皇退位後に陽成院の妃となった。
大鏡
陽成院から二代後の宇多天皇の行列が陽成院の邸の前を通った時の様子が書かれている。
五十九代
・・・(略)・・・
陽成院の御時、殿上人にて、神社の行幸には舞人などせさせ給へり。
位に卽かせ給ひて後、陽成院を通りて行幸ありけるには、「當帝は家人にはあらずや。悪し くも通るかな」 とこそ仰せられけれ。 さばかりの家人もたせ給へるみかどもありがたき事ぞかし。
<現代語訳>
(59代宇多天皇は)陽成院の御時、殿上人(清涼殿の殿上間に昇ることを許された者)として、神社行幸には舞人などをされていた。
帝位に就かれた後、陽成院(現京都市中京区)を通って行幸された時、陽成院が「当代はわしの家人ではないか」と申された。
天皇を家人に持たれた帝は、めったにいないことである。
<陽成天皇神楽岡東陵:京都市左京区浄土寺真如町>
31.3.光孝天皇
天長7年(830年)に第54代仁明天皇の第三皇子(時康親王)、として生まれる。
母は藤原沢子、第55代文徳天皇は兄である。
陽成天皇が母方の叔父である藤原基経によって廃位されたのち55歳で即位。藤原基経は母方の従兄弟にあたる。
「徒然草」には即位後も、不遇だったころを忘れないようかつて自分が炊事をして、黒い煤がこびりついた部屋をそのままにしておいた、という話がある。
徒然草 第176段
黒戸は、小松御門、位に即かせ給ひて、昔、たゞ人にておはしましし時、まさな事せさせ給ひしを忘れ給はで、常に営なませ給ひける間なり。
御薪に煤けたれば、黒戸と言ふとぞ。
(現代語訳)
清涼殿の黒戸御所は、光孝天皇が即位した後、かって一般人だった時の自炊生活を忘れないように、いつでも炊事ができるようにした場所である。薪で煤けていたので、黒戸御所と呼ぶのである。
また、「古事談」には
「藤原基経が、陽成天皇の次の天皇を誰にしようかと親王たちの邸をまわっていると、いずれの親王たちも自分を推してもらおうと装束を改め対応に慌てていたのに、時康親王だけは破れた御簾に、敗れた畳の上で動ずる様子もなくすわっていたので、この人こそ天皇にと思った」と記されている。
上文中
「儲君」:皇太子にする予定の皇子に宣下された称号
「昭宣公」:藤原基経の諱
「小松帝」:光孝天皇
54代仁明天皇、55代文徳天皇、56代清和天皇、57代陽成天皇と続く天皇の流れの中で、本来は決して天皇になる可能性がなかった光孝天皇が、藤原基経のお陰で58代の天皇に即位した。
光孝天皇は擁立に報いるために、太政大臣である基経に大政を委任する詔を発し、基経を前代に引き続いて政務を委任したのである(前代では摂政という役職で政務を行った)。
光孝天皇は、次の天皇は陽成天皇の弟で、基経の甥でもある貞保親王に継がせるであろうと基経の心の内を推測して即位と同時にすべての子女を臣籍降下させ、子孫に皇位を伝えない意向を表明した。
だが、基経は妹である高子(貞保親王の母)と仲が悪く、その子である貞保親王を避けていた為に次代の天皇の候補者が確定していなかった。
やがて光孝天皇は病となり、重篤に陥った。
命旦夕に迫った時、光孝天皇は第七皇子の源定省(さだみ)に皇位を継承させたいと強く希望した。
基経は、一旦臣籍に下ったことを理由として難色を示していた。
しかし、基経の妹の尚侍藤原淑子(定省を猶子として養育していた)や、文章博士の橘広相(ひろみ)の奔走により、基経は同意することになる。
臣籍降下していた源定省が藤原基経の推薦により8月25日に皇族に復帰し、翌26日に皇太子となった。
同日に光孝天皇は、58歳で崩御する。
即位期間は僅か4年間であった。
小倉百人一首 第15番 光孝天皇
君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ
古今集の詞書に「仁和のみかどみこにおはしましける時、人に若菜たまひける御歌」と書いてあることから、天皇に即位する前の歌であることがわかっている、贈った相手は不明である。
光孝天皇は、紫式部が書いた源氏物語(寛弘5年(1008年)初出)の主人公である、光源氏のモデルの一人といわれている。
<光孝天皇後田邑陵:京都市宇多野御池町>
<続く>