34.足利尊氏叛乱
34.8. 湊川の戦い
34.8.1. 正成と義貞の会見
5月24日、正成は兵庫に着くと新田義貞と会見した。
義貞は自分の心境を正成に語った。
「昨年関東に討伐隊として東上したが合戦で破れ、その面目をまだ十分に晴らせないでいる。
なのに、今回西国に派遣されて、敵の城一つ落とすことできずにいる。
この少勢で、敵の大軍と戦うことは無謀とは思う。
しかし、敵が大軍であることを聞き一戦も交えずに京都まで退くのは、あまりにも不甲斐ない。
ここは、戦いの勝敗を考えずに、ただ一戦の忠義の心を見せようと思うだけだ。」
正成は、義貞に言う。
「元弘の初めには鎌倉幕府を打ち破り、今年の春には、尊氏を九州に追い遣った。
これは帝の威光と言うが、義貞殿の計略に寄るところが大きい。
『多くの愚者の議論よりも、一人の賢人に従う方がよい』と言う言葉もある。
道理の分らぬ人々が言うことに一々気にする必要はない。
戦うべきところを見て戦い、叶わない時を知って退くことこそ、優れた武将と言う。
孔子も「暴虎憑河而死無悔之者不与」と子路を戒められている。
『虎を素手で打ったり黄河を歩いて渡ったするように、死んでも悔いないような者とは組しない』
今回の義貞殿の処置は一々道に叶っている。」
義貞はこれを聞いて大層喜んだという。
34.8.2. 足利軍兵庫に現れる
夜が明けた、5月25日の朝八時、沖の霞の晴れ間からかすかに見える船があった。
左右に楯を並べた船首と船尾に旗を立てた数万の軍船が順風に帆を揚げていた。
一方、須磨の上野と鹿松岡、鵯越の方から二つ引き両、四つ目結、直違い、左巴、寄せ懸かりの輪違いの旗が五、六百本差し並べて雲霞のように押し寄せていた。
海の船と陸の大軍が思ったよりもおびただしくて、聞いていた以上であった。
官軍はこれを見て戦意を失ってしまった。
しかし義貞朝臣も正成も、大軍を見ては臆することなく、少しも気力をなくした様子もなくて、落ち着いて軍の手配をした。
34.8.3. 本間孫四郎遠矢の事
太平記では、「平家物語」那須与一の話に似た話を綴っている。
<那須与一>
それは本間孫四郎の弓の話である。
本間孫四郎忠彦は、相模の人で新田義貞の家臣であった。
この話とは次のようなものである
水軍を用意できなかった、新田軍は本陣を二本松(現JR兵庫駅の西)に置き、和田岬(神戸市兵庫区)にも軍勢を配置して水軍の上陸に備え、沖の尊氏の軍船と対陣した。
この時、新田軍の本間孫四郎が馬に乗って現れ、和田岬の波打ち際から、沖の船に向かって遠矢を放った。
この矢は、見事船まで届き、両軍の喝采を得たという。
「太平記」ではこの時の様子を次のように描写している。
新田軍と足利軍が向かい合ってまだ戦いが始まらないでいるところに、本間孫四郎重氏が黄河原毛の大きくたくましい馬に紅裾濃の鎧を着て、ただ一騎和田岬の波打ち際に馬を寄せて沖にいる船に向かって大音声を挙げた。
将軍筑紫より御上洛候へば、定て鞆・尾道の傾城共、多く被召具候覧。
其為に珍しき御肴一つ推て進せ候はん。暫く御待候へ。
「将軍は九州から御上洛なさったのだから、おそらく鞆や尾道の遊女たちを連れてきておられるだろう。
そのために珍しい御肴を一つお勧めしよう。
しばらくお待ちあれ」
孫四郎は尊氏に珍しい肴を差し上げる、と言って鏑矢を構えた。
孫四郎は、鶚(みさご)が海面で魚を捕らえ飛び上がるのを待ち、これを射た。
鏑矢は見事に鶚の羽に当たった。
鏑矢は音を立てて大内介の船の帆柱に立ち、鶚は魚を掴んだまま大友の船の屋形の上に落ちた。
足利軍の船七千余艘では舷を踏んで立ち並び、新田軍五万余騎は水際に馬を並べて、「おお、射た射た」と感嘆する声が天地をどよもして鎮まらなかった。
<本間孫四郎>
尊氏が「ぜひとも射手の名前を聞きたいものだ」と言うと、小早川七郎は船の舳先に出て立って、「比類なくみごとなことをお見せになったものだ。
それにしてもお名前は何と仰るのか。お聞きしたいものだ」と尋ねた。
本間孫四郎は「名乗っても知っている人はいないと思うが、ただ、関東八ヶ国の弓矢に長けている者は知っている者もいるかもしれない。
この矢で名をご覧あれ」と言って、三人で張りの弓に長い矢をゆっくりと引き絞って、二引両の旗(足利尊氏の家紋)を立てた船をめがけて遠矢に射た。
その矢は600mを越えて尊氏が乗っていた船の隣の佐々木筑前守の船に突き刺さった。
この矢には「相模国の住人本間孫四郎重氏」と小刀の先に書かれていた。
本間孫四郎は扇を揚げて沖の方を差し招き、
「合戦の最中なので、矢は一本でも惜しい。その矢をこちらへ射返してくだされ」と言った。
尊氏は
「味方に誰かこの矢を返すことのできるものはいるか」と高師直に問う。
師直は「ひょっとすると、佐々木筑前守顕信ができるかもしれません」と言う。
尊氏は顕信に
「この矢を元のところへ射返せ」と言った。
顕信は改まってできないと言うが、尊氏が強いて言うため断り切れない。
顕信は、その準備を始める。
周りの者はそれを固唾を飲んで見守っていた。
その時、どういうわけか、足利軍の讃岐勢の中から、
「この矢一つを受けて弓の強さをご覧ぜよ」と高らかに言う声がして、鏑矢を一本射た。
しかし、その矢は二百mも届かないで波の上に落ちた。
新田軍勢五万余騎が一斉に、「あ、射たりや」と馬鹿にして、しばらく笑いが収まらなかった。
こうなっては、かえって射ても仕方がないということで、佐々木は遠矢を止めてしまった。
この本間孫四郎は、鎌倉幕府に従属していたが後に離反し足利尊氏を経て新田義貞に従った武将である。
この後の叡山の合戦でも活躍するが、それが恨みを買い、後醍醐天皇と足利尊氏の和睦後に六条河原で首を刎ねられたといわれている。
34.8.4. 楠木正成兄弟討死
新田軍は、本陣を二本松に置き、和田岬にも軍勢を配置して足利水軍の上陸に備えた。
楠木軍は湊川の西側の会下山(神戸市兵庫区)に布陣した。
足利直義を司令官とする足利陸上軍の主力は西国街道を進み、少弐頼尚は和田岬の新田軍に側面から攻撃をかけた。
また、斯波高経の軍は山の手から会下山に陣する楠木正成の背後に回った。
さらに、細川定禅が海路を東進し生田神社の森(神戸市三宮、御影付近)から上陸すると、義貞は退路を絶たれる危険を感じて東走した。
楠木軍は孤立してしまった。
ここで誰も居なくなった和田岬から、悠々と尊氏の本隊が上陸した。
楠木正成は包囲される。
奮戦するものの多勢に無勢はいかんともしがたく、楠木軍は壊滅したのである。
正成は弟の楠木正季ら一族とともに自刃した。
「太平記」では自刃の様子を次のように記している。
正成座上に居つゝ、舎弟の正季に向て、
「抑最期の一念に依て、善悪の生を引といへり。九界の間に何か御辺の願なる。」
と問ければ、正季からからと打笑て、「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へ。」
と申ければ、正成よに嬉しげなる気色にて、「罪業深き悪念なれ共我も加様に思ふ也。
いざゝらば同く生を替て此本懐を達せん。」と契て、兄弟共に差違て、同枕に臥にけり。
正成は上座に座って弟の正季に、
「そもそも最後の一念によって来世の善悪が決まると言われる。
九つの世界のどこをそなたは願うか」と尋ねると、
正季はからからと笑って、「あと七回ただ同じ人間界に生まれて、朝敵を滅ぼしたいと思います」
と申したので、正成は非常に嬉しそうな様子で、「罪深い悪い思いであるが、私もそう思う。
ならば、同じように生まれ変わってその本懐を遂げよう」と約束して、兄弟一緒に刺し違えて、一緒に倒れ伏した。
正成の首
湊川で討たれた楠正成の首は、六条河原に懸けられた。
しかし、この年の正月の戦のときにも、新田と楠木を討ち取ったと言って、様子の似た首を二つ、獄門の木に掛けて、「新田左兵衛督義貞・楠河内判官正成」と書き付けたことがあった。
そのため京童は、これもまたそうだろうといい、
疑ひは人によりてぞ残りけるまさしげなるは楠が首
この首が本物なのか昔を知っている人は疑っているが、本物らしくもある楠の首よ
(正成とまさしげ(本当らしい)を掛けている。)
と狂歌に書いて立てて揶揄したのだった。
その後足利尊氏は
「公私ともに親しくした古い馴染みもあって不憫である。後に残った妻子がもう一度亡骸でも見たいであろう」
と言って、楠の首を正成の領地へ送った。
湊川神社
JR神戸駅北口の向かいに湊川神社があり、楠木正成が祀られている。
本殿の横に正成・正季兄弟が一族郎党とともに自刃したとされる場所がある。
神社の入り口右横に楠木正成公の墓碑がある。
この墓碑は元禄5年(1692年)に徳川光圀が建立した。
徳川光圀公御像並頌徳碑
足利尊氏と新田義貞の戦いは、京へ、比叡山へと持ち込まれて行く。
<続く>