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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−183(安芸守護代武田元繁)

59.戦国の石見−2(続き)

59.3.安芸守護代武田元繁

59.3.1.安芸武田氏

安芸武田氏は甲斐武田の5代武田信光の時代に起こった承久の乱(1221年)の戦功によって鎌倉幕府より安芸守護に任じられたことから始まる。

任命当初は守護代を派遣していたが、後に7代武田信時の時代に元寇に備えて安芸国に佐東銀山城を築き本格的な領土支配に乗り出すようになった。

甲斐武田10代武田信武の子の武田信成が甲斐守護、武田氏信が安芸守護を継承した。
この氏信が安芸武田氏の初代となる。

しかし、この武田氏信は応安元年(1368年)に幕府によって守護職を解任され、以降は安芸守護職は今川氏・細川氏・山名氏等の足利一門が担い、安芸武田氏は銀山(かなやま)城(​​広島市安佐南区祇園)を中心とした、佐東、山県、安南の分郡守護として存続した。

武田信繁まで分郡守護の家として足利将軍家に仕え、信繁の嫡男である武田信栄は、若狭守護となったのを機会に安芸から若狭に武田氏の本拠地を移した。

明応の政変(1493年)の混乱に乗じ、大内氏は武田領へ侵攻し武田元繁を制圧した。

武田元繁は大内氏の支配下になることを余儀なくされた。

 

武田元繁

武田元繁は安芸武田第7代の当主である。

永正5年(1508年)、大内義興は足利義材を奉じて上洛軍を起こし、元繁もこれに従い上洛した。

上洛した義興は、足利義材改め足利義稙を将軍職に復帰させると、自身も管領代として京都に留まった。元繁もこれに従い駐留を続けていたが、大内氏当主と主力が不在の安芸国では、厳島神主家で後継者を巡って内訌が発生していた。

厳島神主家
厳島神主家は、安芸国(現在の広島県)厳島神社の神主を務めた一族である。

鎌倉時代末期から戦国時代には在地武士団として活動し、水軍を備えた国人勢力として活動した。

そこで、永正12年(1515年)、義興は鎮圧のため元繁を帰国させることとした。

このとき義興は、「元繁が大内方から離反しないように」と、養女としていた権大納言飛鳥井雅俊の娘を元繁に嫁がせている。

 

59.3.2.安芸守護代武田元繁の帰国

大内義興が「元繁が大内方から離反しないように」と、養女としていた権大納言飛鳥井雅俊の娘を武田元繁に嫁がせた。

しかし元繁は帰国すると、すぐに妻を離縁する。

そして、尼子経久の弟・久幸の娘を妻として出雲尼子氏の支援を背景に大内氏に離反した。

帰国した元繁は、東西に分裂して対立していた厳島神主家の東方につく。

そして、西方(大内方の勢力)の安芸河内城(​​廿日市市物見)を攻めた。

すると、城兵が戦いもせず逃亡したために元繁はこの城を難なく手に入れた。

安芸国内での勢力拡大を図る元繁は、さらに厳島神社を有する己斐城(広島市西区)を攻め、陥落寸前まで追い込んだ。

これに対して大内義興は、毛利興元・吉川元経に武田元繁の動きを牽制することを命じた。

命じられた毛利・吉川軍は武田方の山県郡の有田城(広島県山県郡北広島町)を攻略した。

山県郡は武田方である山県氏の一族(壬生氏・有田氏・今田氏)の領地であり、有田城が落とされたことは元繁にとって痛手であった。

そこで、元繁は己斐城攻めを中断して有田城奪還を試みたが攻め落とせず一旦退却した。

以後、元繁は大内方の毛利・吉川勢と対立することになるのである。

陰徳太平記より

京師(京の都)は暫く平安無事であったが、上に立つものは愚かで道理に暗く、下は邪心を抱き、三管四職の行状は、はなはだ乱れ政治は不正が蔓延っている。

それゆえ紀綱は天下に行われず、波濤海内に静まらず(天下は平和でない)して郡主・県令は互いに境を侵して土地を奪いあい、戦闘は一日として止むことはなかった。

中でも、尼子経久は佐々木と示し合わせて足利義晴(第11代将軍義澄の子)を将軍にさせようとして、自国に帰り隣国を切り従えようとして計略をめぐらした。

そのため、山陽山陰は動乱して、幕府の命令に従うことがなかった。

そこで、大樹(将軍)の命により、武田太郎左衛門元繁を帰国させて、国内を落ち着かせることにした。

元繁は自国に着くと、思案した。

自分はこの国の探題職として諸士に命令する立場であったが、国人共は我が命令に応ぜず、ややもすれば蔑ろにもしていた。

今、この擾乱に乗って憎き奴らを攻め従わし、家を滅ぼし根を断って見懲(悪業の報いを見て恐れ、懲りること)らせようと、強く思った。

そして、諸士が在京の隙を狙って彼らの妻子を追い出して耕作地を押領した。

 

59.3.3.安芸有田の城攻め

永正13年(1516年)に毛利興元が病死した。

幼少の幸松丸が毛利氏の跡を継ぐと、その動揺に乗じ大内方の毛利氏・吉川氏に占領されていた有田城を奪還するために、武田元繁は行動を開始する。

翌年(1517年)、元繁は有田城攻略の軍を起こした。

10月21日、元繁は総勢5,000以上とされる大軍を率いて有田城を包囲した。

同時に、猛将の誉れ高い熊谷元直に兵1500程度を与えて救援に来る1000余の毛利・吉川軍の迎撃に当たらせた。

しかし、幸松丸の後見役であった毛利元就の用兵により熊谷勢は壊滅し、元直も討死した。

まさかの敗戦の報に激昂した元繁は、翌22日に自ら主力軍およそ4000を率いて毛利・吉川連合軍を攻撃する。

武田軍は圧倒的な兵力差をもって優勢に戦を進めるが、少数ながら粘り強く抗戦する毛利・吉川軍を撃ち破るべく、自ら騎乗して又打川を渡ろうとした。

元繁を先頭に渡河する武田軍に対して毛利軍が一斉に矢を放ち(流れ矢であるとも言われている)、矢を受けた元繁は又打川で落馬して討ち取られた。

元繁を討ったのは、毛利勢の井上光政と伝えられる(有田中井手の戦い)。

 

元繁の討死後、安芸武田家は光和が相続した。

しかし、この戦いを期に安芸武田氏は徐々に衰退し、数代後に強大化した毛利氏によって滅亡に追いやられることになる。

この戦いは毛利氏、毛利元就にとって中国地方の大勢力となる分水嶺の戦いと言われ、後日、西の桶狭間と呼称されるようになる。


この有田合戦は、武田氏の威勢を失堕させることとなり、逆に毛利氏は安芸国人の中に占める地位を固め、初陣を飾った元就自身も毛利家家督相続の足場を築くこととなった。

 

59.3.4.大内義興の帰国

大内義興は、永正5年(1508年)に足利義稙を擁して上洛し、義稙を再び将軍の座に着けた。

しかし次第に将軍足利義稙や細川高国と不仲になる。

また、長引く在京に耐え切れなくなった、石見や安芸の国人の中で勝手に帰国する者が相次いだ。

安芸では武田元繁が大内氏に反旗を翻したが、義興は毛利・吉川らに命じてこれを抑えた。

一方、出雲の尼子経久は領内を平定すると、大内領へ侵攻を開始してきた。

義興は、在京して尼子氏を討つため、永正14年(1517年)に石見守護となり、益田氏や吉川氏など石見在地の豪族と手を結び、尼子勢力の侵入を抑えようとした。

しかし尼子氏の勢力拡大は抑えることが出来なかった。

そこで、義興は永正15年(1518年)8月2日に管領代を辞して堺を出発、10月5日に山口に帰国した。

大内と尼子の戦いが始まるのである。

 

<続く>

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