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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−129(観応の擾乱−2)

39.観応の擾乱

39.3.直冬が蜂起し、尊氏発進する

観応元年/正平4年(1350年)9月29日、九州肥後国から援軍依頼の早馬が京に来た。

それは、ちょうど高師泰が、青杉城(邑智郡美郷町)を落とし、西進して三隅城(浜田市三隅町)の攻撃を始めた頃であった。

早馬は、

「足利直冬の勢力が北朝方を追い詰め攻撃しており、寝返る武将も増えている。

このままでは手遅れになるので、早急に軍勢を派遣して欲しい」

ということを伝えた。

足利直冬は前年の1349年9月13日肥後に到着し、肥後有力武将である川尻肥後守幸俊の館を住まいとした。

川尻氏は嵯峨源氏の末裔といわれ、肥後国飽田郡河尻(現熊本市川尻町)を本貫とするいわゆる国御家人である。

河尻氏は鎌倉中期以降、北条氏と密接な関係をもって拾頭し、南北朝期にも大むね武家方に属した。

「肥後守」は菊池氏惣領の南朝方の肥後守に対抗して、直冬の承認を得て称したものであった、と思われている。

この直冬に大友一族の宅磨当太郎守直が加勢して国中で兵を集めた。

そして、川尻、宅磨らの軍勢は将軍の監代(探題職の代理か)である宇都宮三河守を追い落とした。

 

直冬は、徐々に勢力を拡大していき、遂に、少弐氏や大友氏が直冬の味方になっていた。

 

尊氏は、この報告を聞いて苦々しく思いながら、

「さて、誰を討手にやろうか」と執事の高師直にたずねた。

「遠国の乱を鎮めるためにはご一家の末流か、私などが行くべきですが、今回は何としても上様直々にお下りいただいて成敗なさらなくてはならないでしょう。

なぜならば、九州の者たちが兵衛佐(直冬)殿にお付きしたのは、将軍の御子であるので、ひょっとしたら、内々お心を通じていらっしゃる事があるだろうと考えるからです。

世の人は、将軍が直々に御成敗の合戦をなされば、誰もが、父子の確執に天の罰が下されると思うでしょう。

将軍の御指揮で私が命を捨てて戦うならば、九州、中国の全てが敵に味方したとしても、何を恐れることがありましょうか。

すぐに急いでお下り下さい」と強く勧めた。

尊氏は、これを聞いて一言も異論なく自ら討伐することを決めた。

10月13日、尊氏は都の警固に宰相中将義詮(尊氏の嫡男)を残して、高師直を連れ、8千余騎を率いて直冬討伐に出発した。

 

39.4.直義、京を脱出する

観応元年/正平4年(1350年)10月13日、尊氏・師直らが直義の養子直冬を討つために中国地方へ遠征する前夜、京都では大事件が起こっていた。

蟄居中の足利直義が京都を脱出したのである。

「太平記」では

将軍、已明日西国へ可被立と聞へける其夜、左兵衛督入道慧源は、石堂右馬助頼房許を召具して、いづち共不知落給にけり。

是を聞て世の危を思ふ人は、「すはや天下の乱出来ぬるは、高家の一類今に滅ん。」とぞ囁ける。

将軍(尊氏)がまさに明日西国へ発つと伝えられたその夜、左兵衛督入道慧源(直義)は、石塔右馬助頼房を連れて、どこへとも知れず逃げ去った。

これを聞いて世の中の心配する人は、「さあ、天下の乱が起こるぞ。高家一族は今に滅びるだろう」とささやいた。

とある。

 

この報せは、高師直にも届いた。

高師直は、「しばらく、九州行きを延期して京に居て直義の居場所を探しては」という進言を嘲笑って、こう言った。

「何と大袈裟なことだ。たとえ吉野、十津川の奥、鬼界が島や高麗の方へお逃げになったとしても、私が生きている間は、だれがその人の味方になろうか。

首を獄門の木に曝し、屍を卑しい者の鏃に懸けられることは、三日以内であろう。その上、将軍のご出発のことは、すでに諸国へ日を示して触れて遣ってある。

約束が違えば、面倒なことが多くなる。少しも留まるべきではない」

 

10月13日早朝、足利尊氏らは京都を出発、軍を西へ進めた。

道中、方々からの軍勢を糾合しつつ、11月19日、備前国(岡山県東部)の福岡(岡山県・瀬戸内市)に到着した。

ここで、四国地方と中国地方からやってくる勢力を待ったが、海上に風波が荒れて船は航行できず、山陰道には雪が降り積もり、馬の蹄も立たなくなっているので、馳せ参じてくる者の数は少なかった。

そこで、足利尊氏は仕方なく、年が明けてから九州へ向かうことにした。

尊氏は、備前の福岡(岡山県瀬戸内市)にて、徒に日を送る事になった。

 

一方、直義のことである。

直義は、京を脱出して大和国に逃げ込んだ。

頼った先は、大和国土着の武士・越智伊賀守である。

越智は直義を温かく迎え入れ、近隣の郷民たちもこれに合力し、街道を切り塞ぎ、国の四方に関所を設け、二心なく直義を守る態勢を見せた。

そして、翌日には、石塔頼房以下、多少なりとも直義に志を通じている人々が、馳せ参じてきた。

このように、足利直義が大和に居る事は、天下周知の事実となった。

直義は今後のことを考えると、朝廷の後ろ盾がどうしても必要だと思った。

そこで、直義は朝廷(北朝)に人を使わして、院と交渉をした。

その結果、院宣はくだされ、さらに「鎮守府将軍補任」というおまけまでついてきた。

院宣をいただいて言う、斑鳩宮が守屋を処罰し、朱雀院が将門を討った、これは悪を棄て善を守る天子のお考えである。

ここに無法の者を征伐し父と叔父、二人の無念を慰めたいと思うことに院は深く感心しておられる。

よって鎮守府将軍に任じ、左兵衛督に任ずることにする。早速九州と二島ならびに畿内、七道の軍勢を率いて上洛を計画し、天下を守護せよ。

かくて院宣によっての仰せは以上のようである。
   観応元年十月二十五日           権中納言 国俊承る
   足利左兵衛督殿

上皇陛下よりの院宣を受け、以下のごとく申し伝えるものなり。

かつて、聖徳太子は、物部守屋を誅したまい、朱雀天皇は平将門を戮された。

これまさに、悪を滅し善を保つ、君主の聖なる処断である。

今ここに、そちが凶悪なる逆徒(高師直)を退治し、父叔両将(尊氏と直義)の鬱念を晴らさんとしておる事、上皇陛下におかせられては、大いにお喜びである。

よってここに、そちを鎮守府将軍に任命し、あわせて、左兵衛督に任ずるものなり。

速やかに九国二島(九州と壱岐、対馬)ならびに五畿七道の軍勢を率いて、上洛を企て、天下を守護すべし。

以上、ここに上皇命令書をもって、上記のごとく執達せしものなり。

観応元年十月二十五日 権中納言・吉田国俊奉ず

足利左兵衛督殿

  

さて、首尾よく、院宣は得たものの、その目的を達成するために必要な軍勢が圧倒的に不足していた。

それに、京は高、仁木、細川一族、南(大和・河内・和泉・紀伊)は南朝に服している武将達に囲まれており、命の保証もない状態であった。

この様な状況を見て越智伊賀守が直義に思いもよらぬ提言をした。

「このままでは何とも仕様がない、ここは思い切って一旦吉野朝に下って、身の安全を確保してから、体勢の挽回を考えたらどうか」と。

 

<続く>

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