34.2. 後醍醐天皇東坂本遷幸
年が明け(建武三年(1336年))ると足利軍と官軍の攻防戦が始まる。
10日、淀川近辺で両軍は激突する(淀大渡の戦い)。
この戦いは義貞らの敗北に終わった。
京都は足利尊氏の軍勢に占領されることとなった。
後醍醐帝は東坂本(滋賀県大津市)に遷幸し、大宮の彼岸所(現滋賀県大津市にある日吉大社境内の各所に設けられた仏教施設)に在した。
新田義貞もこれに供奉した。
官軍は、ここで後醍醐天皇を護り、北国、奥州の軍勢を待つことにした。
<日吉神社 東本宮>
後醍醐天皇の遷幸について
京に攻め込んだ足利尊氏に追われ、後醍醐天皇は坂本の日吉神社に避難した、と太平記などでは記している。
しかし、後醍醐天皇は八瀬(京都市左京区)から比叡山に遷幸したとの伝承がある。
「八瀬天満宮」(左京区八瀬秋元町)の境内に「後醍醐天皇御旧跡」という石碑があり、
延元元年(1336年)正月,後醍醐天皇が足利尊氏の軍勢を避け、二万余騎の勢を従えて八瀬坂を通り比叡山に登ったと伝えられている。
<八瀬天満宮>
<石碑「後醍醐天皇御旧跡」>
また、八瀬地区に住む人々を八瀬童子といい、京都文化博物館がまとめた『八瀬童子―天皇と里人』には、資料に基づくと、八瀬童子と最初に深い関係を持った天皇は後醍醐天皇でらしい、と示している。
またそれによると、この地区には後醍醐天皇に関する伝説が残っており、それは後醍醐天皇の比叡山逃避行時に、八瀬童子が輿を担いだというものである。
恐らく、後醍醐天皇は、その後の史実や展開を考えると「太平記」にあるように、坂本の日吉神社に遁れたと思われるが、なんとも興味深い話である。
三井寺合戦
尊氏は、官軍の軍勢が集まらないうちに攻め込もうと準備する。
足利尊氏は延暦寺と対立していた三井寺を味方につけ、坂本に攻め込もうとした。
尊氏は三井寺に細川定禅を送り込み、準備を始めた。
ちょうどこの頃、陸奥将軍府から北畠顕家がやってきて、官軍と合流した。
坂本の官軍は新田軍、楠木軍、北畠軍が集結し大軍となった。
勢いづいた官軍は、細川定禅が陣取っている三井寺を夜襲した。
大軍の強襲に細川は尊氏に援軍を要請するが、尊氏は援軍を送らなかった。
官軍は勝利する。
<三井寺(天台寺門宗総本山園城寺)>
伝教大師・最澄の跡をうけ第五代天台座主となった智証大師円珍を開祖とする宗派で、日本天台三総本山のひとつ。
延暦寺を山門派というのに対し三井寺を寺門派と呼び、千年以上の長い歴史を有する代表的宗派。
三井寺が、長暦2年(1038年)独自の戒壇設立を朝廷に奏請して以来、両寺の対立が激化していた。
建武3年(1336年)正月に官軍、と比叡山の僧兵は、三井寺に立て籠もる足利軍を攻め込んだ(三井寺合戦)。
この合戦で、三井寺は炎上し、金堂本尊の弥勒菩薩も首を切られ、山(比叡山)法師の落書きが添えられ、藪に放置されていたとある。
また焦土と化した境内には、空しく焼け残った梵鐘があった。この鐘は、むかで退治で有名な俵藤太の逸話で知られ、後段「弁慶の引き摺り鐘」の伝説として残る鐘である。
この後、戦場は洛中に移っていった。
官軍は1月27日から30日にかけて京都とその周辺で攻勢をかけた。
尊氏は、1月30日の戦いで敗れ丹波国篠村八幡宮に撤退することになる。
34.3. 楠木の策略
前述の洛中の戦いの勝利は、楠木正成に帰するところが大きかった。
正成は策略を用いて足利軍を翻弄している。
「太平記」では次のように描いている。
官軍10万3千余り、足利軍50万の軍勢が京で衝突した。
1日目は、軍勢で劣る官軍が奇襲を用い足利軍を優勢に追い詰め、足利軍は散り散りに逃げていった。
楠木正成は足利軍を京から追い払ったが、官軍を京に留めることをせず、坂本まで引き上げた。
それは、正成が次の心配をしたからである。
足利軍は大きな痛手を被っていないから、必ず明日は体制を整えて攻撃してくる。
このまま官軍が京に留まると、兵士どもはバラバラに財宝を探し歩き、兵の気が緩み、そこを狙われると、苦境に陥る。
正成は次の日、策略を施す。
正成は延暦寺の僧20〜30人を京にいかせ、あちこちの戦場で死体漁りをさせた。
京に戻ってきた足利勢は洛中に官軍がいないことに驚いた。
そして、死体漁りをしている僧たちを見つけ、その訳を尋ねた。
僧達は「昨日の合戦で、新田左兵衛督殿、北畠源中納言殿、楠判官殿以下、主な人が七人もお討たれになりましたので、供養のためにその死骸を捜しているのです」と答えた。
足利軍の武将たちはこれを聞いて、官軍が京にいないのは、このせいかと納得する。
そして、敵将の首を必ず探し出し、その首を獄門にかけ、大路を引き回せと、命じた。
だが、生きている人間の首が見つかるわけがない。
足利軍は仕方なく、様子の似た首を二つ、獄門の木に掛けて、「新田左兵衛督義貞・楠河内判官正成」と書き付けた。
だが、京童は、これを黙っては見ていない。
いつものようその立て札の傍に、
是はにた頸也。まさしげにも書ける虚事哉
「これは似た首である。正しそうに書いているが、虚事である。
『にた頸』と新田、『まさしげ』と正成を掛けたものである。」
と洒落た言葉を書き添えて見せた。
楠正成は、その夜中に家来達に松明を二、三千本点して連れだって比叡山を下らせた。
洛中の足利軍勢はこれを見上げて、
「おお、叡山の敵どもが大将を討たれて、今夜方々へ逃げて行くようだ」と思った。
そして「それなら逃がさぬように、方々へ軍勢を行かせよ」という命令がでた。
追手を、鞍馬路へは三千余騎、小原口へは五千余騎、勢多へ一万余騎、宇治へ三千余騎、嵯峨、仁和寺の方まで、洩らさぬように道を塞げと、千騎、二千騎を差し向けて、軍勢を向けられない方角がなかった。
そのため、京の中の大軍は半分にも減って、残る兵も無用な用心をする者はいなかった。
これを狙って官軍は夕方から比叡山の西坂を下って、八瀬、薮里、鷺の森、下リ松に陣を取った。
そして、二十九日の朝六時に二条河原へ押し寄せて、あちらこちらに火を掛け、三ヶ所で一斉に鬨の声を挙げたのだった。
足利軍の兵は敵を追って方々に散らばっており、洛中にはほとんどいなかった。
敵が攻めてくるとは夢にも思わなかった。
慌てふためき、足利軍は逃げ惑う。
ある者は丹波路へ退くものもあり、ある者は山崎に向かって逃げる者もあった。
遂に、尊氏は丹波の篠村まで撤退することになるのである。
<続く>