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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−51(高まる武士の地位−2)

22.3. 平治の乱

保元の乱後、院政を始めた後白河上皇の側近の二人、信西と藤原信頼が激しく対立する。

平治元年(1159年)に、藤原信頼は源義朝と結託し、平清盛が熊野詣に出かけている間の軍事的空白をねらって兵をあげ、信西を自殺させた。
清盛は、京都の六波羅邸に帰還すると、藤原信頼らを滅ぼし、東国に逃れる途中の源義朝を討ち、その子の源頼朝を捕らえて伊豆に流した。これが平治の乱である。

 

平治元年(1160年)12月9日の深夜、藤原信頼と源義朝らの軍勢は、後白河上皇が住む三条殿を襲い、後白河上皇を二条天皇の居る内裏に幽閉した。

この襲撃は平清盛一行が熊野を詣でるために都を留守にしている時を狙って行われた。

信西は事前に危機を察知して山城国の田原に避難する。
追手が迫ると、信西は竹筒で空気穴をつくって土中に埋めた箱の中に隠れた。
しかし、追手は郎党を尋問し隠れた場所を発見する。
信西は土を掘り返された際に、自ら首を突いて自害したという。享年55であった。
追手は信西の首を切って京に戻り、首はさらし首にされた。

平清盛は熊野詣でから引き返し、17日に帰京する。
清盛は25日に信頼と会い、ひとまず恭順の意を示した。

幽閉されていた後白河院は25日の夜に脱出する。
日付が変わった26日の丑の刻(午前2時)に二条天皇も、内裏を出て清盛邸である六波羅へと移った。
これを知った、公卿、諸太夫は六波羅に集結する。
摂関家の忠通・基実父子も参入したことで、清盛は一気に官軍としての体裁を整えるに至り、信頼・義朝の追討宣旨が下された。

平清盛は、内裏に立てこもる信頼・義朝らを襲撃する。
信頼は捕らえられ、六条河原で斬首された。
源義朝は内裏を出て、数十騎で六波羅を目指したが、多勢に無勢で敗北し都落ちする。


源義朝は東国に逃げて再起をはかろうとするが、尾張の地で、配下の武将に殺されてしまう。


平治の乱の戦力比較

この戦も、清盛側の圧倒的な戦力によりあっけなく終る。

内裏攻撃軍  3000騎→3300騎
平重盛(1000騎)、平頼盛(1000騎)、平経盛(1000)
後に源光保(300騎)が寝返る


内裏立てこもり軍 800騎→500騎
源義朝(200騎)、藤原信頼(300騎)、(源光保(300騎)内裏攻撃軍に寝返る)

 

22.4. 平家一門の繁栄

貴族たちは自分たちの権力争いに、もはや武士を傭兵隊(金銭などの利益により雇われ、直接に利害関係の無い戦争に参加する兵またはその集団)として利用することができなくなっていた。

武士を貴族社会に組み入れてこれを利用することを考えるようになってくるのである。

後白河院は平治の乱で信西、藤原信頼という2人の側近を失い、後白河派は壊滅してしまう。
やがて二条天皇の親政が始まり、院は政務から排除されることになった。

しかし、後白河院はしぶとかった。
永方元年(1165年)に23歳の若さで二条天皇が崩御し、二条天皇の皇子である六条天皇が2歳で即位する。
六条天皇はまだ幼少であり、母の身分が低いこともあって、政権は不安定であった。
そこで、白河院は平清盛と手を結び、院政を再開するのである。

 

『玉葉』における白河院の人物像

『玉葉』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて執筆された、日本の公家九条兼実の日記である。

その中の元暦元年(1184年)3月16日の条に、大外記頼業が、先年通憲法師から聞いたという後白河院評がある。

「和漢の間少比類之暗主」:日本や中国においても滅多にいない愚かな主と、こき下ろしている。
また一方で
「・・・不拘人之制法必遂之」:一旦決心したことは人のルールに縛られず成し遂げる。と評している。

これは悪くいうと、実行力があるが裏切りや手のひら返しも造作無く、行うことである。

源頼朝が後白河院を評して「日本国第一之大天狗」と言ったのはこのことを意味しているのであろう。

この性格で平清盛、後に登場する木曽義仲、源義経らを操りながら、生き延びてきたのではないかと思う。

   

 

22.4.1. 平清盛

  

 

平治の乱から8年後の仁安2年(1167年)平清盛は武士として初めて人臣最高の官である従一位太政大臣に任命された。
清盛は、娘を天皇の正室にするなど、朝廷での地位を確かなものにする。

のちの安徳天皇は平清盛の娘である平時子の子である。
平治の乱からおよそ20年間、平氏の天下が続く。この平氏の政権は、六波羅に屋敷があったことから「六波羅政権」と呼ばれていた。

「平家にあらずんば人にあらず」

平家でなければ人ではないと平家一門が口にするほどの繁栄ぶりであったという。

平清盛は朝廷を我がものとするだけでなく、日宋貿易によって莫大な富を手にし、その地位をますます強固なものにしようとした。

平氏は、かつての藤原氏のやらなかった、地方の知行国主や受領を一門で占めるたり、自分たちの領地ばかりではなく公領や権門領内に家人を地頭として送り込んだ。

仁安2年(1167年)2月、清盛は太政大臣になったが、清盛は福原(現神戸)開拓に専念する為、わずか3ヶ月で太政大臣を辞任する。

仁安3年(1168年)2月7日に清盛は病に倒れ、3月に出家する。
病から回復した清盛は福原に別荘・雪見御所を造営して、かねてからの念願であった厳島神社の整備・日宋貿易の拡大に専念した。

仁安3年(1168年)2月19日、後白河法皇と平清盛は、わずか在位2年8ヵ月で、5歳の六条天皇を退位させ上皇にする。六条上皇は、天皇即位も上皇になったのも歴代最年少である。

そのあとには、後白河院の第7皇子で、平清盛の義理の甥に当たる高倉天皇を擁立した。
六条上皇にとっては、叔父への皇位継承ということになる。

承安2年(1172年)、平清盛と時子の娘の平徳子(のちの建礼門院)が高倉天皇に入内、中宮に迎えられる。
平清盛にとっては、義理の甥と娘の結婚となったのである。
これで皇子が生まれ、立太子となれば、平家の地位はますます安泰になるのである。

後白河院は京都東山に「法住寺殿」を造り、ここで院政を行った。
現在の三十三間堂はこの敷地内にあった。

承安3年(1173年)この法住寺殿内に、最勝光院を建立する。
これは宇治の平等院を模したもので、間口は約80メートルと平等院の47メートルより大幅に大きなものであった。

この法住寺殿は永寿2年(1183年)に木曽義仲の夜襲にあい焼失している。

法住寺殿については、最近遺構や文献を基にCGによる再現もおこなわれている。

<法住寺殿 CG画像>

<最勝光院 CG画像>

 

22.4.2.後白河院と清盛の対立

安元3年(1177年)6月、平家を倒そうとする陰謀事件「鹿ヶ谷の陰謀」が起こる。
京都郊外の鹿ヶ谷の山荘に後白河院の近臣の藤原成親・藤原成経・西光・僧俊寛らが中心となり度々集って、平氏政権を打倒する密談をしていた。

しかし、この密会は、密告により発覚し西光は死罪、成親は備前国に配流後殺害され、ほかは薩摩国鬼界ケ島に流された。

平清盛は鹿ケ谷の陰謀事件を通じて、後白河院の影響力をも一気に削いでしまうと考え、後白河上皇を幽閉しようとした。 

これに平清盛の嫡男で棟梁でもあった平重盛が大反対する。
平重盛は、院近臣として後白河院に仕えていて、父と主君の対立の中、板挟み状態で非常に苦しい思いをしていた。

平清盛の後白河院に対する強硬な態度に、遂に重盛は耐えきれなくなり清盛に言う。

「父のために尽くそうと思えば上皇様に尽くせず、上皇様に尽くそうと思えば父に尽くすことができません。私の進退はここに極まりました。父が上皇様を幽閉なされるのなら、どうか私の首を刎ねてからなされてくだされ。さすれば、私は父にも上皇様にも尽くすことができなくなるでしょう。」

この時に『忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず』の言葉が生まれ、後世に伝わったというが、これはフィクションであるとの意見が強いようである。

この息子の命懸けの懇願にさすがの平清盛も心を動かされた。
後白河院と平清盛の決定的な決裂は辛うじて回避されたのである。

 

22.4.3.治承三年の政変

治承2年(1178年)に、中宮・徳子に皇子(のちの安徳天皇)が誕生し、翌月には早々に皇太子となる。

治承3年(1179年)6月、清盛の娘で近衛基実の未亡人盛子が亡くなる。
盛子の管理していた摂関家領は藤原基通(基実の子)もしくは、盛子が准母となっていた高倉天皇が相続すると思われていた。
しかし、後白河院は、強引に殆どすべての領土を取り上げ、院の領土としてしまった。

一方、清盛の嫡男重盛は治承2年に病に倒れ、7月に死去する。
この重盛の知行国・越前(現・福井県の辺り)を後白河院は没収した。
 越前は北陸道の中でも随一の大国で、本来ならば重盛の息子の維盛が継承するはずの国である。
後白河院に長年仕えた重盛に対するかなり冷淡な仕打ちと言える。

また後白河法皇は清盛の意見を無視した人事を行う。
中納言のポストに欠員が出たとき、清盛の孫にあたる二位の中将近衛基通を無視し、
関白基房の嫡男でわずか8歳の藤原師家を任命するのである。

またこの頃、親平氏の延暦寺でも反平氏勢力が台頭して内部紛争が起こるなど、情勢は予断を許さないものになっていた。

翌年の治承3年(1179年)11月、平清盛は後白河院の度重なる背信に意を決し、数千騎の大軍を擁して福原から上洛し、クーデターを起こす。敗れた後白河院は幽閉状態となる。

翌治承4年(1180年)2月、高倉天皇は平清盛の孫に当たる安徳天皇に皇位を譲り、上皇と成る。
高倉上皇はまもなく病に倒れ、翌治承5年(1181年)1月14日、21歳で崩御する。

それに続いて同年2月に平清盛が亡くなる。
これにより、後白河院の院政が再復活するのである。

 

<続く>

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