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旅日記

石見の伝説と歴史の物語−47(邑智郡の荘園−2)

律令制定の当時、邑智郡は五郷に分けられていた。各郷を現在の旧町村名を当てて区分すると次のようになる。

神稲(くましろ)郷
   田所・出羽・高原・阿須那・口羽
邑美(おふみ)郷
   矢上・中野・井原・川本・祖式・川下・三谷・三原・川越のうちの大貫、渡利、鹿賀
桜井郷
   日和・日貫・長谷・市山・川戸・谷住郷・川越のうち田津・市木・那賀郡の都川及び和田の大部分
都賀郷
   布施・都賀・都賀行・谷
佐波郷 
   沢谷・浜原・粕淵・吾郷・君谷

19.2. 邑智郡の荘園について

邑智郡の荘園に関する資料は乏しく、わずかにある断片的な伝承に基づいてあれこれ考えるしかない。

桜井郷の大部分が桜井荘となり、邑美郷は、甘南備佐木荘、久永荘、稲光荘になった。
同じように神稲郷に安須奈荘、佐波郷に佐和荘等の荘園が発生していった。
市木別符は桜井荘から外れたため、国衙領として市木別符となり、同じように長田別符は阿須那荘から外れたため、長田別符の名称となったものと思われる。

貞応2年(1223年)頃の石見国の荘園地図(原慶三氏の「益田氏系図の研究」より)

  

これによると、この頃(鎌倉時代初期)には市木別符、長田別符、稲光も益田一族の領地になっていた。
荘園が分布していない場所は山岳地帯であり耕作ができない場所であることを考えると国の殆どが荘園化しているのがよく分かる。

 

 

佐和荘

伝承によれば佐波義連が正治元年(1199年)常陸国谷貝より邑智郡下佐波庄矢谷に来住し、佐波氏を称するとある。

この佐波氏は平安時代中期の文章博士三善清行の後裔で、清行の子浄蔵貴所から5代後の子孫が義連である。

義連は石見国佐波郷を分与されて 現地に下向したというが、おそらく三善惣領家の領地に代官として派遣されたものと思われる。
この頃の三善惣領家は三善康信が継いでいた。
康信は鎌倉幕府初代の問注所執事であり、それなりに政治的な影響力を持っていた。
この康信の推挙で三善惣領家の領地である佐波庄へ代官としてやってきたのではないかと想像する。

 

桜井庄

邑智郡誌に、

昔桜井郷と称したのは八戸川筋、今の市山、川戸、日和、日貫、長谷、市木、谷住郷、田津の諸村で、平安時代に名付けられたものである。
桜井の郷は皇室の御料地として定められたもので、後宇多天皇の御料地目録にもそれが明記してあるという。
この川筋は天武天皇の御頃諸国に放生地と称するものを定められた時、長谷村一円と市山村の幾部は放生地として殺生禁断の掟がたてられた。

との記載があるが、桜井の庄の範囲を示してはいない。

この桜井庄の範囲を、石見町誌では熊野権現の分布から、桜井の庄は日貫、長谷、都川(現浜田市)の三地区に限られており、桜井郷全域ではない、と推測している。

恐らく、この推測は当を得ていると思われる。

 

神奈備佐木荘

甘奈備佐木庄に関する史料は殆ど見当たらない。
後年これらの地域を治めた、小笠原氏に関する伝承が残っている。

鎌倉期になり、益田郷を拠点とする益田氏の勢力は拡大してくる。
石見の大半は益田一族の領地となり、この神奈備佐木庄の一部(河本郷(現河本))も益田一族の領地となった。
この河本郷は鎌倉時代後期に阿波国からやって来た小笠原長親が、益田兼時の娘(美夜)と結婚し譲り受けた。

 

久永荘

邑智郡誌に次の記載がある。

久永庄とは中野・矢上・井原・田所・高原・阿須那地方を総称する荘園の名である。
後鳥羽天皇文治2年(1186年)に源頼朝は久永庄を京都上賀茂大社に献じてその神領に定め、中野村は神領久永庄の地頭職の地下となった。
地頭職久永氏は雲井城主として庄政を執行した。

同様に石見誌にも、

文治二年(1186年)に地頭として久永某が着任、元享年間、延徳年間にそれぞれ久永行賢、久永行盛が地頭の任に就いている。

との記録があるとしている。


荘園の本家は京都の賀茂神社である。
矢上の賀茂神社の由緒の石碑があり、

・・(略)・・賀茂別雷神の旧神領久永の別宮として桓武天皇朝の延暦二年(783)十月九日此の地に勧請され・・(略)・・

と記載されている。

  

  

  

 

久永保

久永保という荘園名があるが、この保について「石見町誌」では次のように説明している。

​​村内には、およそ五軒ずつ一組にして「保」と名づけ、相互に助け合い監視し合い道路・橋など管理させる組織がつくられた(貞観4年(862年 ))。江戸時代の五人組のようなものである。この保は私田を開墾し経営を拡大し、やがて地方行政の区域に変化し一條天皇のころ、独立して保長・保司を置き、郷長・郷司と同資格を得てきた。 庄または庄園は、もと朝廷より皇子・諸臣たちに褒賞として諸国の田園を与えたものの名称であるが、後には、自分で開墾したり、他の土地を併合したり、奪い取ったりしたものも多い。さらには、その持ち主がいなくても、名前だけが残って、一村または数村の名称となり、郷と同様な意味につかわれるようになった。

 

大家庄

大家庄の領家は摂関家であった。

・大家庄は平安末期に皇嘉門院九条聖子から九条道家に伝領されている。
・九条聖子は第75代天皇である崇徳天皇の皇后である。
・九条道家は鎌倉初期の公卿で摂政・関白、鎌倉幕府第4代将軍藤原頼経の父である。
・九条家領の後は摂関領、成恩院領と九条家一族の支配下となっている。

成恩院:山城国乙訓郡(京都府乙訓郡大山崎町大山崎)にあった天台宗寺院で当初は西願寺と称した。西願寺を九条良平によって伽藍等が整備され、藤原氏の歴代の影像を祀り、成恩寺と改称し、更に成恩院と改称した。その後廃絶したが、一条実経が臨済宗寺院として再び山崎の地に再建した。
九条良平は鎌倉初期の公卿で太政大臣。

九条良平 
下総国 寛喜3年(1231年)4月14日
安房国 寛喜元年(1229年)10月28日
和泉国 天福元年(1233年)4月9日
河内国    建保6年(1219年)1月14日
伯耆国   寛喜3年(1231年)4月14日
日向国   寛喜3年(1231年)4月14日

九条道家  
丹波国    寛喜2年(1230年)6月29日
備中国    寛元2年(1244年)4月5日
讃岐国    仁治2年(1241年)1月8日

 

15.3. 荘園の崩壊

これらの荘園は鎌倉時代に地頭が置かれ、国司との二重支配の構造となり、これが原因で
争いが起こることもあった。
武家政権のもとでは地頭勢力を強めていく反面、国司の力は弱まり名ばかりの役職となっていく。
一方、鎌倉時代が滅亡すると、各地では国司の権限を奪い取り支配する守護大名が現れてくる。
応仁の乱が起こり、戦国時代になると、領地は武力によって奪い取るものという時代となり、荘園制は一気に崩壊していった。

 

<続く>

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