39.観応の擾乱
39.9.尊氏と直義の和睦
39.9.3.高兄弟の滅亡
観応2年/正平6年(1351年)2月26日に、和睦が成った尊氏は上洛の途についた。
高執事兄弟も時宗の僧に紛れて、馬を進めた。
ちょうどその日は、春雨がしめやかに降って、数万の敵がそこかしこに待ち構えている中を通っていった。
高兄弟は正体をひたすら隠しながら進んでいく。
蓮葉笠を傾けて袖で顔を隠すけれども、それはかえって目立ってしまう。
将軍尊氏から離れてしまっては、道中なにがあるか分からないと危ぶんで、少しも遅れないようにと、馬を進めていた。
高兄弟に対して、最大の恨みを持つ者は、彼らに主君を殺された上杉家、畠山家の家臣たちである。
彼らは、京都への道中に、高兄弟を殺害してしまおうと、計画を立てていた。
その計画とは、尊氏と高兄弟の間を引き離して討ち取ろうとする計画である。
彼らは街道のあちらこちらの、道路の両側に100騎、200騎、50騎、30騎と控え、尊氏と高兄弟の来るのをじっと待ち構えた。
高兄弟の姿を目にすると、高角兜の一隊70余騎が尊氏と高兄弟との間に無言で割って入ってきた。
その結果、高兄弟の意に反して押し隔てられて、武庫川の辺りに通りかかった時は、尊氏と高兄弟との間は、川を隔て山を隔てて5㎞あまりになってしまった。
その時の様子を「太平記」では次のように哀れんでいる。
哀なる哉、盛衰刹那の間に替れる事、修羅帝釈の軍に負て、藕花の穴に身を隠し、天人の五衰の日に逢て、歓喜苑にさまよふ覧も角やと被思知たり。
此人天下の執事にて有つる程は、何なる大名高家も、其えめる顔を見ては、千鍾の禄、万戸の侯を得たるが如く悦び、少しも心にあはぬ気色を見ては、薪を負て焼原を過ぎ、雷を戴て大江を渡が如恐れき。
何況将軍と打双て、馬を進め給はんずる其中へ、誰か隔て先立人有べきに、名も知ぬ田舎武士、無云許人の若党共に押隔られ/\、馬ざくりの水を蹴懸られて、衣深泥にまみれぬれば、身を知る雨の止時なく、泪や袖をぬらすらん。
「哀れなるかな人の運命は、
盛衰が一瞬で入れ替わるのは、修羅が帝釈との戦に敗れて蓮の穴に身を隠し、天人が五衰の日に逢って歓喜苑にさまようのもこのようであろうか。
この人(高師直)が天下の執事であった時は、どんな大名、名家でも、その笑顔を見ては千金の禄や万戸の領地をもらったように喜び、少しでも不機嫌顔を見ては、薪を負って焼原を歩き、雷鳴轟くなか大河を渡るように恐れた。
ましてや将軍と馬を並べてお進みになるその中へ、誰も間に入って先に行く人など誰もいなかった。
しかし今は、名も知れない田舎武士や取るに足らない若党等などに押し隔てられている。
馬が蹴り立てるぬかるみの水に衣が泥にまみれ、身の行く末を示す雨は止まず、涙が袖を濡らすばかりである。」
高兄弟が武庫川を渡って、堤の上を通りかかった時、三浦八郎左衛門の家来2人が走り寄ってきた。
「この遁世者の、顔を隠しているのは何者か。その笠を取れ」と言って、師直のかぶっていた蓮葉笠を剥ぎ取って捨てた。
すると、頬被りが外れて片側の顔が少し見えた。
三浦八郎左衛門は、
「おお敵だ。願っていた幸いだ」と喜んで、長刀の柄を延ばして胴中を切って捨てようと、右の肩先から左の小脇まで切り付けた。
討たれた師直は馬からどっと落ちた。
そこを、三浦は馬から飛び降りて師直の首を掻き落として、長刀の切っ先に貫いて差し上げた。
師泰は五十mほど離れて進んでいたが、これを見て馬を走らせて通り抜けようとした。
しかし、後に続いていた吉江小四郎が槍を取って背骨から左の乳の下へ突き通す。
そこを吉江の家来が走り寄って、鐙の先を捕らえて足を外して、師泰を引き落とした。
小四郎は落ちた師泰の首を掻き切った。
今朝高一族はおよそ700騎で出発した。
しかし、高一族の主要メンバー14人が次々と討たれてしまい、それを見た中間、下僕らはみな何処かに逃げ去ってしまった。
「太平記」はこのことについて次のように評している。
討たれた14人の他は、その家来の下々に至るまで、一人もいなくなった。
14人というのも、日頃皆たびたびの合戦で名を揚げ武勇を見せた者たちである。
たとえ武運が尽きたならば、最後までとは言わなくても、心を合わせて戦ったならば、相応の敵と戦って死ぬことができただろうに、一人も敵に太刀を向ける者なく、切っては落とされ押さえては首を掻き切られて、無造作に皆討たれてしまったのは、天罰とは分かるけれども、情けない不面目であることだ。
夫兵は仁義の勇者、血気の勇者とて二つあり。
血気の勇者と申は、合戦に臨毎に勇進んで臂を張り強きを破り堅きを砕く事、如鬼忿神の如く速かなり。
然共此人若敵の為に以利含め、御方の勢を失ふ日は、逋るに便あれば、或は降下に成て恥を忘れ、或は心も発らぬ世を背く。
如此なるは則是血気の勇者也。
仁義の勇者と申は必も人と先を争い、敵を見て勇むに高声多言にして勢を振ひ臂を張ざれ共、一度約をなして憑れぬる後は、弐を不存ぜ心不変して臨大節志を奪れず、傾所に命を軽ず。
如此なるは則仁義の勇者なり。
今の世聖人去て久く、梟悪に染ること多ければ、仁義の勇者は少し。
血気の勇者は是多し。
されば異朝には漢楚七十度の戦、日本には源平三箇年の軍に、勝負互に易しか共、誰か二度と降下に出たる人あるべき。
今元弘以後君と臣との争に、世の変ずる事僅に両度に不過、天下の人五度十度、敵に属し御方になり、心を変ぜぬは稀なり。
故に天下の争ひ止時無して、合戦雌雄未決。是を以て、今師直・師泰が兵共の有様を見るに、日来の名誉も高名も、皆血気にほこる者なりけり。
さらずはなどか此時に、千騎二千騎も討死して、後代の名を挙ざらん。
仁者必有勇、々者必不仁と、文宣王の聖言、げにもと被思知たり。
「そもそも兵には仁義の勇者と血気の勇者の二つがある。
血気の勇者というのは、合戦に臨む毎に勇み進んで肘を張り、強き者をやぶり、堅きを砕くこと、鬼のごとく、怒れる神のごとく、速やかである。
しかしこのような人がもし敵のために利でもって誘われ、また味方が勢いを失った時は、逃れる手立てがあれば、ある時は降伏して恥を忘れ、ある時はその気もない出家をする。
これは、即ち血気の勇者である。
仁義の勇者というのは、必ずしも人と先を争ったり、敵を見て声高に多くを語って勢いを振るい肘を張ることはない。
しかし、一度約束をして頼りにされた後は、二心を持たず心変わりしないで、重要な局面に臨んでは、志を決して失わず、たとえ味方が敗勢になっていようとも、自らの命を軽んじて、必死に戦う。
このようであるのが、つまり仁義の勇者である。
今の世は、聖人が去って久しく、梟悪に深く染まっていることが多いので、仁義の勇者はいない。
血気の勇者が多い。
だから、古代中国では漢楚七十度の戦い、日本では源平三ヶ年戦い続けた。
その戦いの優劣・勝敗は目まぐるしく入れ替わったけれども、二度も降伏した者はいない。
今、元弘以後、帝と帝の争いで世の中が変わったのはわずか二度に過ぎないのに、天下の人は、五回、十回、敵に従い味方になり、寝返りを繰り返した。
一度も心を変えなかった者は極稀である。
だから、天下の争いは止む時がなく、合戦は勝敗が決しない。
このことから今師直、師泰の兵達の様子を見ると、日頃の名誉も高名も、みな血気に誇る者たちなのだった。
そうでなければどうして千騎、二千騎も討ち死にすれば、後世に名を残さないはずはない。
仁者は必ず勇気があり、勇者は必ずしも仁ではないと、
文宣王(*)の名言はなるほどと思われる。」*:孔子のこと
<高師直の塚(伊丹市池尻1丁目地内)>
高兄弟の殺害によって、観応の擾乱の前半戦は終了する。
<続く>