39.観応の擾乱
39.9.戦後処理
尊氏は播磨から上洛し、義詮は丹波の石竈から上洛し、直義は八幡から入京した。
三人はすぐに会って、和平のしるしに酒宴をもうけた。
しかし、一献の儀式があったけれども、この間の確執はさすがに気が咎める気持ちがして、互いに言葉少なく、盛り上がりを欠いたまま酒宴は終わった。
<足利義詮>
39.10.1.恩賞問題
足利直義は兄の足利尊氏を排除する気は全くなく、打出浜の戦い後も足利尊氏は征夷大将軍を続けた。
こうして、足利直義は義詮の補佐として再び政務に返り咲いたが、苦難の連続が待ち構えていた。
直義は、これまでの戦いの中で高師直派の武将の領地を没収して、直義派の武将に与えていた。
しかし、尊氏はこれに待ったをかけ、尊氏派として戦った、武将の所領を返せと言い出した。
直義は反論したが、最終的には直義が折れ次の様な決着となった。
①この戦において、終始尊氏派だった武士の所領を安堵することを優先する。
②その次に、それ以外の武将に恩賞を与える
このとき恩賞を与える「恩賞充行(あておこない)権」を尊氏が持っていたのである。
尊氏は恩賞充行権を使い、打出浜の戦いで自分に対して忠誠を示した武将たちに対し、積極的に恩賞を与えた。
一方、直義方として、戦った武士たちの恩賞が少なかった事や、遅れた事で直義に対する求心力は低下していった。
この恩賞問題で足利直義は求心力を失っていったのである。
39.10.2.上杉能憲と足利直冬の処遇
高兄弟を滅ぼした上杉能憲の死罪を尊氏は主張した。
しかし、上杉能憲は直義にとって大事な部下であり、足利家にとって大事な執事を殺害させたからといって、そんなことはとてもできるものではなかった。
直義は交渉の末、どうにか流罪で決着させた。
戦後処理は、敗戦した尊氏主導でなされ、直義にとって意に沿わないことが多かった。
しかし、直義は足利直冬の鎮西探題就任を尊氏に認めさせた。
直冬が幕府の要職に就くことは直義にとっても有利なことであった。
39.10.3.直義、南朝との関係で苦悩する
直義は高師直を打倒する為に、南朝に降参した南朝方の武将であり、それは南朝の正統性を認めた事になる。
この直義が再び幕府の政務を司ることになった。
しかし、幕府は北朝の元で運営されている組織であり、南朝にとってこれは問題とした。
南朝は、直義に対して政権を返すことを要求した。
困った足利直義は後村上天皇に、北朝と南朝で両統迭立を提案したが、南朝は当然のごとくこれを却下した。
半年後に、尊氏は政権を南朝に返している。
この政権返上は唐突感があるが、恐らくこの時期に尊氏と直義は政権のあり方について論議して、南朝への政権返上も一つのケースとして考えていたのかもしれない。
南朝との問題を解決できない直義は苦悩し、また武士たちの支持も失っていく事になった。
40.三者鼎立
40.1.尊氏、直義との和睦後
尊氏、直義との和睦後の二人を取り巻く状況を「太平記」では次の様に記している。
将軍兄弟は、まことに塵ほどの隔たりもなく、和睦して思うところもなかった。
しかし、足利一門の時流に乗って勢いを得て権勢を得ようとする者たちは、他人がその時流に乗ることを妬み、自分の権威が低下することに憤を抱いた。
この様な状況下で、直義派の石塔、上杉、桃井はさまざまな讒言を企てて、将軍(尊氏)に付き従っている人々を失脚させたいと思った。
また一方では、将軍派の仁木、細川、土岐、佐々木もさまざまな謀を巡らして、錦小路殿(直義)に仕えて羽振りを利かせている者たちを失脚させたいと企てる。
天魔波旬(仏経用語の欲界第六天の魔王、心身を悩まし、乱し、煩わせ、惑わし、汚す心の作用をいう)はこうした状況を狙うものなのである。
いかなる天狗の仕業でによるものであったのか、夜になるとどこから馳せ集まるとも知れない兵達が、五百騎、三百騎と鹿の谷(京都市左京区)、北白河、阿弥陀峰(京都市東山区)、紫(京都市北区)あたりへ集まって、勢揃えすることが数度に及んだ。
これを聞いて将軍方の人は、「あわや、高倉殿(直義)から攻められるぞ」と肝を冷やし、一方、高倉殿方の人は、「きっと将軍から討手を向けられるぞ」と用心をする。
禍は利欲から起こって止むことがない。
ついに彼らは自分の国へ帰って、軍備を整え目的を達しようと思った。
仁木左京大夫頼章は病と称して有馬の湯に下り、その弟、右馬権助義長は伊勢に下る。
細川刑部大輔頼春は讃岐へ下り、佐々木佐渡判官入道道誉は近江へ下った。
赤松筑前守貞頼(赤松則祐の子)と甥の弥次郎師範、弟信濃五郎範直は播磨へ逃げ下る。
土岐刑部少輔頼康は憚る様子もなく白昼に都を発って三百余騎ひたすら合戦の用意をして美濃国へ下った。
赤松律師則祐は、初めから上洛しないで赤松にいたが、吉野朝廷から、故兵部卿親王(護良親王)の若宮を大将に申し受けて、西国を取り仕切って近国の軍勢を集めて吉野、十津川あたりの勢力、さらに和田、楠一族と申し合わせて、いよいよ都へ攻め上ろうとしていると噂された。
また天下は三つに分かれて、合戦が終わる時がないだろうと、世の人々は安心することがないのだった。
一旦仲直りした、尊氏、直義兄弟であったが、彼らを取り巻く諸武将たちの党争は止まなかった。
これにより、兄弟は再び対立するようになるのである。
40.2.義詮と直義の対立
足利直義は高師直を滅ぼした後に、足利義詮と共同で政務を行おうと考えていた。
しかし、足利義詮はそれに反発する。
足利義詮にとってみれば、自分の最大の支持者であった高師直を討った、足利直義と共同で政務を行おうとは思わなかった。
また、直義は、将軍後継者争いのライバルである足利直冬(尊氏の長男)を養子にしており、目障りな存在であったのである。
以前の政務は表向きは、足利義詮が行っていることになっていたが、実際は後ろ盾にいる直義が行っていた構造であった。
これに不満を持っていた義詮は、非公式な機関「御前沙汰」を立ち上げ、ここで政治を行うようになった。
足利義詮の御前沙汰により、直義の「引き付け方(幕府の裁判機関)」が廃止されるなど、直義の求心力は低下していった。
足利直義は裁判の判決をする場合は、時間をかけて両者の言い分を聞いて公平に扱っていた。
それに対し、足利義詮の御前沙汰は寺社勢力などを有利とした、時間をかけない判決を行うようになった。
このため、寺社勢力なども足利義詮を支持する様になっていった。
こうなると、足利直義は幕府内で居場所を失っていく事になる。
この頃には足利尊氏と直義の間で意思疎通もあまり取れておらず、隙間風が吹き荒れる様になったとも考えられている。
そしてついに、7月19日、直義は政務を辞した。
いよいよ、観応の擾乱の後半戦が始まろうとしていた。
<続く>