36.南北朝動乱・石見篇
36.4.3. 新田義氏
新田義氏は石見に残っている資料では、南北朝戦乱に南朝方として戦った武将である。
36.4.3.1.新田義氏と義貞
新田義氏は正慶2年/元弘3年(1333年)新田義貞にしたがって鎌倉攻めに参加している。
その後、里見時成らとともに各地で足利尊氏と戦った。
延元3年/建武5年(1338年)閏7月2日義貞が討死した。
義貞が討死してから兵勢は振るわず、時間とともに一族諸将達はそれぞれ散っていった。
義氏も同様に、石見に遁れていったようである。
しかし、義氏は義貞の後を追って自刃したという説もある。
そうすると、石見に現れた義氏は、新田義貞と一緒に戦った義氏とは全くの別人なのであろうか?
だが、そうだとは、どうしても思えない。
とすると、自刃したと思われている人物が別人であって、義氏は逃げ延びたのではないだろうかと思える。
或いは身を隠すため自刃したとの噂を広めたとも思える。
そこでこの物語は、敢えて「義氏は石見で再起を期すため落ち延びた」という前提で幾分かの想像と推定を交えて、これからの話を進めて行くことにする。
36.4.2. 新田義氏の家系
新田左馬助義氏は暦応2年/延元4年(1339年)に石見史に登場している。
この義氏は新田氏の家系ではなく、新田氏の庶流家の里見氏の家系である。
里見氏
里見氏の祖は里見義俊といった。
彼は新田氏の初代当主新田義重の庶長子だったが、妾腹のために家督を嫡出の異母弟の義兼に譲って分家し、上野国新田荘竹林(高林)郷に居を構える。
その後、北方の碓氷郡(群馬県高崎市辺り)の里見郷付近に山城を築き、居を構えた時に里見氏と称した。
36.4.3.3.義氏の経歴
「新田義貞公根本資料 新田義貞公篇」を見ると、建武3年(1336年)4月8日の条に新田左馬助義氏が官軍を率いて三河へ「乱入」した、ことが記述されている。
この記述の拠り所は「古文書集 三 越後州高田城主 榊原式部大輔家蔵」としている。
さらに、同年の4月20日、6月8日、6月28日、8月12日、9月13日の条にも義氏の戦についての記述があった。
<下図の赤枠部分、青点線枠内が古文書集に記載された内容>
<古文書集から (冒頭の部分)>
石見の義氏
義氏の石見での行動については
「新田義貞公根本資料 新田氏遺族篇」に、
暦応2年/延元4年(1339年)
七月五日 新田左馬助、石見市山城を攻め、ついで十二日、木村山に拠りて足利党の小笠原長氏と戦う。
とある。
続いて、
興国元年/延元5年(1340年)
八月十八日 是より先、足利党上野頼兼、石見官軍の豊田城を攻む。
是夜、新田左馬助義氏、日野邦光・三隅信性(兼連)・高津長幸等と共に豊田城の救援に来る。
翌十九日、両軍戦ひて、義氏等の救援軍退く。
同日、頼兼、高津城・稲積城を攻む。
また、
興国3年/暦応5年(1342年)
二月十七日 去年より石見諸方に官賊の抗戦続き、今年二月一日、官軍の福屋城陥る。
是日、賊党小石見城を攻む。
官軍総大将新田左馬助義氏等、出で降る。
爾後、猶、当国に於いて、官賊の抗戦続く。
とある。
新田義氏が、石見に来ると、石見は本格的に南北朝の戦乱に突入していった。
ところが義氏はこの興国3年/暦応5年(1342年)の戦いを最後に消息を絶っている。
この年以降、義氏に関する資料が見当たらないのである。
討ち死にした、という記録もなく、石見から煙のように消えてしまった。
余談ながら
福岡県企救郡(北九州市、行橋市の一部)誌の中の「貫家系図」に義氏の名が出ている。
これによると新田義氏の父の義基が
興国元年(1340年)に懐良親王(後醍醐天皇の八宮)に従いて大宰府に下向し菊池肥後守武光と議して豊前馬ヶ嶽城に拠る。
とあり、この義基の子が新田上野介義氏として記されている。
また義氏と義貞は従兄弟の関係であることも示している。
しかし、この新田上野介義氏は元徳二年(1330年)九月十日生まれとあり、石見に登場する義氏とは官位も違うし、年代も合わず全くの別人である。
36.4.4.日野邦光暦応2年/延元4年(1339年)
新田義氏が石見に来た、暦応2年/延元4年(1339年)にもうひとり南朝方の要人が石見に下向してきた。
日野邦光である。
日野邦光が南朝方の石見国国司として石見へ下向してきたのである。
阿新丸
日野邦光は日野資朝の子で、幼少名を「阿新丸(くもわかまる)」といった。
父の日野資朝は元亨元年(1321年)、後醍醐天皇が開催した「無礼講」と称する、鎌倉幕府打倒を企てる宴会に集っていた公卿である。
資朝は元弘の乱で、倒幕計画が露見し、佐渡ヶ島に流罪となり、処刑されている。
「太平記」によると
「日野資朝が佐渡ヶ島に流され処刑される」ことが京都に伝わった。
そのころ、13歳であった阿新丸は仁和寺あたりに隠れていたが、父が討たれると聞いて、
「今は何事にか命を惜むべき。父と共に斬れて冥途の旅の伴をもし、又最後の御有様をも見奉るべし」
と思って、母に暇乞いした。
母は引き留めたが、聞かなかった。
阿新丸は、ただ一人の中間男を付添として佐渡国へ下った。
都を出て十三日目に、越前の敦賀の港に着いた。ここから商人の船に乗ってまもなく佐渡国に着いた。
佐渡に着き、父との面会を求めたものの叶えられず、既に守護代・本間入道によって謀殺されたことを知った。
阿新丸は、敵討を決意する。
夜間嵐に乗じて父の仇本間を襲う。
入道を仕留められなかったが、父を斬ったという本間三郎(入道の甥)を刺し殺した。
その後、山伏に助けられて本間の追手をやり過ごし、商人船に乗って佐渡から脱出した。
<屋敷の堀を竹を掴んで逃げる阿新丸の図>
というように、日野邦光は幼少のときから、気丈で、行動力のある人物であった。
国司、日野邦光
石見に下った、日野邦光は国司として伊甘郷 (浜田市) の国府に居を構えた。
邦光は、宮方の中堅勢力をなす三隅信性兼連と志を通じて親しくするうち、兼連の子の井村兼雄の娘を妻に娶った。
その後、其の娘は後亀山天皇の中宮となり、皇子をもうけている。
この井村兼雄の娘に関する話が、次の書籍等に記述されている。
Ⅰ)「三隅町誌」(木村晩翠著 昭和15年(1940年)12月発行)によると、
(井村兼雄の娘)四位局は石見国司日野邦光の室となり、局の女(娘)阿佐殿は後亀山天皇の宮中に入って中宮となり其皇子を小倉宮・皇孫を萬寿寺宮と申し奉った。
Ⅱ)「石見誌」(編集者 天津亘、大正14年10月31日初版発行)「第六 人士伝」の章に「阿佐殿」の記述がある。
これによると、
阿佐殿 石見國司日野邦光の女、母は井村兼雄(三隅兼連三男)妻三浦氏の女。
三浦氏賢良にして女の教育に盡したるが効空しからず、邦光の室となり賢母にして令名あり。
阿佐女は後亀山天皇御世宮中に仕へて令聞あり阿佐殿と称す。
其宮中に入るに及て其母は四位局と称せられ、所領を賜はる。
其一は那賀郡雲城村大字七條字御局給の地、二は同郡岡見村字御局田の地全書。
古後宮に仕へて御膳の事を仕奉るを陪膳采女と云ひ、郡の少領以上の姉妹娘の容姿端正なる者を採用せらる。
阿佐殿は天授天和の頃この選に入りし者乎。
とだけあり、後亀山天皇の子を産んだとの記載はない。
Ⅲ)一方「Wikipedia」では、井村兼雄の娘(と思われる)が産んだのは、「小倉宮」ではなく「長徳寺宮」としている。
後亀山天皇の后妃は一切不詳。一次史料に確認できる皇子女は、次の1皇子のみである。
・生母不詳
・皇子:小倉宮恒敦(? - 1422年) - 親王宣下の有無は不詳
近世の南朝系図は以下の后妃・皇子女を挙げているが、長慶天皇との混同もあるため、そのままには信頼できない。
・中宮:源(北畠)信子 - 北畠顕信女
・第三皇子:良泰親王(小倉宮、1370年 - 1443年)
・典侍:藤原(日野)邦子(権典侍局) - 日野邦光女
・第二皇子:師泰親王(長徳寺宮、1362年 - 1423年)
このように、日野邦光の娘の記述は微妙に異なっている。
この時代の事は、伝聞によるものも多く、又記録に残っていても、それは後で書き留めたものが多かったであろう。
ことさら、不確かなものは、都合の良いように書き留めることは、現代においてもよくあることである。
真偽の程を確かめようがない。書き下ろされた歴史とはそういうものである。
だから、時として伝承というものにも何らかの真実が含まれていることもあり得る、と思うのである。
<三隅町誌>
邦光は兼連の孫娘を妻にしたことによって、 三隅 周布・井村・三浦・長安らの諸豪族による姻戚勢力に支えられたのである。
常に三隅兼連と気脈を合わせ、石見の宮方党の結集に東奔西走して、隣国の長門・周 防・出雲の宮方党とも通じ、勢力の拡充を図っていた。
新田義氏、日野邦光という、勤王の旗標を得たことで、南朝側は活気づき石見の戦乱は益々激しくなっていったのである。
<続く>